↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/42

第二十四章 初雪

 十一月十四日。


 土曜日。


 朝。


 蓮は目を覚ますと、ゆっくりと窓を開けた。


「……」


 冷たい風が、部屋の中へ入り込んでくる。


 そして――


 白いものが、空から静かに舞い落ちていた。


 雪。


 今年、初めての雪だった。


「……本当に降った」


 昨日、美雪と交わした約束を思い出す。


 蓮はスマートフォンを手に取った。


 そして、美雪にメッセージを送る。


『雪』


 数秒後。


『見た!』


『約束』


『覚えてる』


『どこで見る?』


『学校の近くの公園』


『分かった』


『一時間後』


『うん』


 蓮は思わず笑った。


 昨日までなら、こんな朝を楽しみにすることなんてなかった。


 けれど今日は違う。


 少しだけ、胸が弾んでいた。


 蓮は急いで着替え、上着を羽織った。


     *


 公園。


 雪はまだ少ない。


 地面には、白い粒が少しずつ積もり始めている。


「綾小路くん!」


 遠くから声が聞こえた。


 振り向くと、美雪が走ってくる。


「早い」


「楽しみだったから」


「俺も」


 二人は並んで空を見上げた。


 雪が、ゆっくりと降ってくる。


 空から舞い落ちる白い結晶が、二人の間を静かに通り過ぎていく。


「綺麗……」


「うん」


 美雪はそっと手を伸ばした。


 白い雪が、一つ。


 彼女の手のひらに落ちる。


「冷たい」


「当たり前だろ」


「触ってみて」


「俺?」


「うん」


 蓮も手を伸ばした。


 すぐに、一片の雪が手のひらに落ちる。


「……冷たい」


「でしょ?」


 二人で顔を見合わせる。


 そして、同時に笑った。


 たったそれだけのことなのに。


 蓮には、それがとても幸せな時間に思えた。


     *


「じゃあ」


 美雪が言った。


「今日の第二の目的」


「何?」


「ご飯」


「あ……」


「忘れてた?」


「……少し」


「ひどい」


「ごめん」


 美雪は頬を膨らませる。


 けれど、その表情はすぐに笑顔へ変わった。


「今日は私の家」


 蓮の足が止まった。


「……え?」


「家で作る」


「……いいの?」


「うん」


「でも……」


「大丈夫」


 美雪は安心させるように笑った。


「今日は母もいないから」


「……」


「一人で食べるの、ちょっと寂しいし」


 蓮は少し迷った。


 けれど――


「じゃあ……」


「決まり」


 美雪は嬉しそうに笑った。


     *


 美雪の家。


 蓮は玄関に立ったまま、少し緊張していた。


「どうしたの?」


「いや……」


「緊張してる?」


「……少し」


「大丈夫だよ」


 美雪が笑う。


「ほら、上がって」


「……お邪魔します」


 玄関を上がった瞬間。


 暖かい空気に包まれた。


 部屋には、家の匂いがする。


 誰かが暮らしている匂い。


 それは蓮にとって、少し懐かしくて――同時に、胸が痛くなるような匂いだった。


 自分の部屋とは、何もかもが違う。


「座ってて」


「うん」


 美雪はキッチンへ向かう。


「何作るの?」


「秘密」


「まだ?」


「秘密」


「……教えてくれないんだ」


「完成してからのお楽しみ」


 蓮はソファに腰を下ろした。


 キッチンから、包丁の音が聞こえてくる。


 水の音。


 フライパンの音。


 時々、美雪が小さく鼻歌を歌う声。


 ただそれだけなのに。


 なぜか胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 こんな時間があるなんて。


 蓮は、少し不思議な気持ちでその音を聞いていた。


     *


 しばらくして。


「できた!」


 美雪が料理を運んできた。


 テーブルの上に置かれたのは――


 オムライス。


「……」


 蓮は目を丸くした。


「すごい」


「普通だよ」


「俺には作れない」


「じゃあ、覚えて」


「うん」


「じゃあ――」


 美雪はスプーンを蓮に渡した。


「食べてみて」


「いただきます」


 蓮はスプーンを入れ、一口食べる。


「……」


「どう?」


「美味しい」


「本当?」


「うん」


「無理してない?」


「してないって」


「よかった……」


 美雪は心から嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、蓮も自然と笑った。


 そして二人で食事を続けた。


「これ……」


 蓮が口を開く。


「うん?」


「家族みたい」


 美雪の手が止まった。


「……そう?」


「うん」


 蓮は少し恥ずかしそうに視線を落とす。


「こういうの……」


「うん」


「初めてだから」


 美雪は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ微笑んだ。


「じゃあ……」


「……」


「また作る」


「……ありがとう」


 その言葉は小さかった。


 けれど。


 蓮にとっては、心の底からの「ありがとう」だった。


     *


 食事が終わる。


 二人で食器を洗う。


「私がやる」


「俺も」


「病人は座ってて」


「病人扱いするな」


「じゃあ――」


 美雪は蓮に皿を一枚渡した。


「これ洗って」


「はい」


 二人で笑う。


 何でもない時間。


 特別なことなんて何もない。


 それなのに。


 蓮にとっては、今まで知らなかった時間だった。


 誰かと一緒に食事をして。


 一緒に笑って。


 一緒に片付ける。


 そんな当たり前の時間が――


 今の蓮には、何よりも大切だった。


     *


 午後。


 二人は窓際に並んで座っていた。


 外では、雪が少しずつ強くなっている。


「ねえ」


「ん?」


「雪の日って……」


「うん」


「静かだね」


「確かに」


 雪が、街の音を優しく包み込んでいるようだった。


 美雪が、そっと蓮の肩に寄りかかる。


「……」


 蓮は動かなかった。


 心臓の音が、少しだけ大きく聞こえる。


「嫌?」


「……いや」


「じゃあ……」


 美雪はそのまま、蓮の肩に頭を預けた。


 蓮は窓の外を見つめる。


 けれど、意識は隣にいる美雪へ向いていた。


「綾小路くん」


「うん」


「来年も……」


「……」


「雪、一緒に見ようね」


 蓮は少しだけ目を閉じた。


 来年。


 その言葉が、胸の奥に静かに響いた。


 今までの蓮にとって、「来年」という言葉は遠い未来だった。


 けれど今は。


 来年にも、楽しみにできることがある。


「うん」


 今度は、迷わず答えた。


「約束」


     *


 夕方。


 蓮は帰ることにした。


「今日はありがとう」


「こちらこそ」


「ご飯、美味しかった」


「また作る」


「楽しみにしてる」


 玄関。


 蓮は靴を履く。


 そして、外へ出る。


 雪はまだ降り続いていた。


「寒い……」


 美雪が笑う。


「風邪引かないでね」


「美雪も」


「うん」


「じゃあ……」


「また明日」


「また明日」


 二人は手を振った。


     *


 帰り道。


 蓮は一人で雪の上を歩いていた。


 吐く息が白い。


 街は静かだった。


 雪に覆われた道を、一歩ずつ歩いていく。


 そのとき――


「……っ」


 突然、胸に鋭い痛みが走った。


 蓮の足が止まる。


「……っ、はぁ……」


 息が苦しい。


 胸を押さえる。


 昨日までとは、明らかに違う。


 痛みが強い。


 呼吸をするたびに、胸の奥が締めつけられる。


 蓮は近くの壁に手をついた。


「薬……」


 ポケットを探す。


 指が震えて、なかなか薬を取り出せない。


「……くそっ」


 ようやく薬を取り出し、震える手で飲み込む。


 けれど――


 痛みは、すぐには消えなかった。


「……っ」


 視界がぼやける。


 膝から力が抜け、蓮はその場にしゃがみ込んだ。


 雪が制服の肩に落ちる。


 冷たい。


 けれど、それすら感じなくなるほど苦しかった。


「……まだ」


 必死に息を吸う。


「まだ……帰らないと」


 そのとき。


 スマートフォンが鳴った。


 美雪からだった。


『家着いた?』


 蓮は画面を見る。


 返信しなければ。


 心配させたくない。


 震える指で文字を打つ。


『もう少し』


 送信。


 すぐに返事が来る。


『気をつけてね』


『うん』


 たった二文字。


 それだけを送ると、蓮はスマートフォンを胸に抱えた。


「……美雪」


 名前を呟く。


 その声は、雪に吸い込まれるように消えていった。


 蓮は痛みが少し落ち着くまで――


 雪の中で、一人。


 ただじっと耐え続けた。


     *


 夜。


 部屋に戻った蓮は、濡れた上着を脱いだ。


 疲れ切った身体をベッドに預けることもなく、机へ向かう。


 机の上には、今日撮った写真があった。


 雪。


 オムライス。


 そして――


 美雪の笑顔。


 蓮は、その写真をしばらく眺めた。


 胸の痛みは、まだ少し残っている。


 それでも。


 今日の思い出を思い返すと、自然と笑顔になった。


 蓮はノートを開く。


㉔ 雪が降った日に、美雪と一緒に見る。


 その横に、


「達成」


 と書いた。


 そして――


㉕ 美雪の手料理を食べる。


 その横にも、


「達成」


 と書く。


 蓮は小さく笑った。


「……二つ」


 また。


 願いが叶った。


 残りのページを見る。


 まだ、たくさんある。


 蓮はページをめくっていく。


 そして、最後のページで手を止めた。


 そこには何も書かれていない。


 まだ、未来を決めていないページ。


「ここにも……」


 蓮はペンを握る。


「もっと書ける」


 やりたいことも。


 叶えたいことも。


 まだ増やせる。


 そう思った。


     *


 翌朝。


 病院。


 蓮は一人、診察室にいた。


 医師が検査結果を確認している。


「……」


「先生」


 蓮が静かに尋ねる。


「悪くなってますか?」


 医師は、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、蓮には何となく分かった。


「昨日の発作についてですが……」


「はい」


「今までより、かなり強かったはずです」


「……はい」


「次に同じような発作が起きた場合――」


 医師は慎重に言葉を選んだ。


「救急搬送が必要になる可能性があります」


「……」


「できるだけ、一人にならないようにしてください」


 蓮は黙ったまま、膝の上で手を握った。


「それと……」


 医師が続ける。


「入院について」


「……」


「もう一度、真剣に考えてください」


 蓮は答えなかった。


 ただ、窓の外を見る。


 昨日降った雪が、まだ少しだけ残っている。


 白い景色を見ながら、蓮はしばらく黙っていた。


「……先生」


「うん」


「俺……」


「はい」


「もう少しだけ……」


 蓮はゆっくりと言葉を続ける。


「普通に学校へ行きたいです」


 医師は何も言わなかった。


「友達と笑って……」


「……」


「桜も見たい」


「……」


「卒業式にも行きたい」


 そして。


 少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「好きな人に……」


「……」


「ちゃんと『好き』って言いたいです」


 医師は蓮をしばらく見つめた。


 そして、静かに頷いた。


「そのために――」


「はい」


「一緒に治療を考えよう」


「……はい」


 蓮も小さく頷いた。


 その声には、ほんの少しだけ希望が混じっていた。


     *


 病院を出る。


 蓮は冬の空を見上げた。


 昨日の雪。


 そして――


 まだ遠くにある春。


「……まだ」


 蓮は小さく呟いた。


「まだ終わらせない」


 ポケットの中には、美雪からもらった手紙。


 そしてスマートフォンには、昨日届いたメッセージ。


『また一緒にご飯食べようね』


 蓮はその画面を見つめる。


 そして、笑った。


 けれど。


 その笑顔の奥で。


 自分の身体が、少しずつ限界へ近づいていることを――


 蓮はまだ、美雪には話さなかった。


 話せなかった。


 せっかく見つけた「帰る場所」を。


 これ以上、心配させたくなかった。


 だから。


 今だけは――


 何も言わずにいようと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。