第二十五章 明日も、ここにいる
十一月十七日。
火曜日。
朝。
目覚まし時計が鳴った。
蓮は布団の中から手を伸ばし、眠たい目をこすりながらアラームを止める。
「……眠い」
重たい身体を起こし、カーテンを開ける。
窓の外を見ると、先日の雪はもうほとんど消えていた。
それでも、道の端には小さな白い跡が残っている。
蓮はしばらく、その跡を眺めていた。
「……また降るかな」
ふと、スマートフォンを見る。
美雪からメッセージが届いていた。
『おはよう』
蓮はすぐに返信する。
『おはよう』
『今日はちゃんと朝ご飯食べた?』
『食べた』
『何?』
『パン』
『それ、朝ご飯って言わない』
『朝ご飯だよ』
『駄目』
『じゃあ、何ならいい?』
『今度作ってあげる』
蓮は思わず笑った。
『楽しみにしてる』
*
学校。
教室。
「おはよう」
美雪が笑顔で声をかけてくる。
「おはよう」
「ちゃんと食べた?」
「食べた」
「本当に?」
「本当」
「パン?」
「……」
美雪は呆れたようにため息をついた。
「やっぱり」
「……バレた」
「もう」
美雪は少し頬を膨らませる。
「ちゃんと身体を大切にして」
「努力します」
「努力じゃなくて、実行」
「はい」
二人で笑う。
そんな何気ない会話が――
蓮には、とても大切だった。
昨日と同じ朝。
昨日と同じ教室。
昨日と同じ笑顔。
それなのに。
今の蓮には、その「いつも通り」が何よりも愛おしかった。
*
午前の授業。
蓮はノートを取っていた。
黒板に書かれる文字。
先生の声。
周りの生徒たち。
窓から見える空。
何もかも、普通だった。
けれど。
その「普通」が――
今の蓮には、何より大切だった。
ふと、隣を見る。
美雪が真剣な表情で授業を聞いている。
窓から入ってきた風で、長い髪が少しだけ揺れた。
蓮は、何となく笑った。
「……?」
美雪がこちらを見る。
「何?」
「何でもない」
「今、笑ったでしょ」
「笑ってない」
「笑った」
「気のせい」
美雪は少し頬を膨らませる。
「変なの」
蓮は、また小さく笑った。
*
昼休み。
美雪が弁当を持って蓮のところへやって来た。
「今日は何?」
「秘密」
美雪が弁当箱の蓋を開ける。
「……」
蓮は目を丸くした。
「これ……」
小さな卵焼き。
野菜。
肉。
そして――
小さなオムライス。
「この前と同じ?」
「ちょっと違う」
「どこが?」
「食べてから言って」
蓮は一口食べる。
「……美味しい」
「本当?」
「うん」
「よかった」
美雪は嬉しそうに笑った。
「じゃあ――」
「ん?」
「今日も一緒に食べてくれて、ありがとう」
「それ、俺が言うことじゃない?」
「どっちでもいいよ」
二人で笑う。
そんな昼休みが、ずっと続けばいい。
蓮は、ふとそんなことを思った。
*
放課後。
蓮は一人で教室に残っていた。
美雪は委員会。
窓の外には、夕焼けが広がっている。
オレンジ色の光が、静かな教室を染めていた。
蓮はスマートフォンを取り出す。
カメラを起動する。
そして、夕焼けを一枚撮った。
写真を保存する。
少し考えてから、新しいアルバムを作った。
『美雪と見た景色』
そこには――
海。
文化祭。
雪。
そして、今日の夕焼け。
いくつもの写真が並んでいる。
蓮は一枚ずつ、ゆっくりと見ていった。
そして、小さく笑う。
「……増えたな」
そのとき。
「何してるの?」
背後から声がした。
「……!」
振り返る。
美雪だった。
「写真」
「見せて」
「嫌」
「どうして?」
「……恥ずかしいから」
「何が?」
「……」
美雪がスマートフォンを覗き込もうとする。
「ちょっと」
「見せて」
「駄目」
「じゃあ……」
美雪は少しだけ笑った。
「私が撮った写真も見せない」
「それは困る」
「じゃあ交換」
「……分かった」
二人は、それぞれの写真を見せ合った。
美雪の写真には――
蓮がいた。
海を眺めている蓮。
笑っている蓮。
眠そうな顔をしている蓮。
文化祭でたこ焼きを食べている蓮。
そして、雪を見上げている蓮。
「……」
蓮は黙った。
「何?」
「こんなに撮ってたんだ」
「うん」
「俺ばっかり」
「だって……」
美雪は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「残しておきたいから」
その言葉を聞いた瞬間。
蓮の胸が、少しだけ痛くなった。
病気のせいではない。
もっと別の――
言葉にできない痛みだった。
「……そっか」
それだけ言うのが精一杯だった。
*
帰り道。
二人で並んで歩く。
「ねえ」
「うん?」
「卒業したら……」
美雪が言った。
「うん」
「どうする?」
「俺?」
「そう」
「分からない」
「進学は?」
「考えてる」
「どこ?」
「まだ決めてない」
「そっか」
少しの沈黙。
冷たい風が二人の間を通り抜ける。
「私は……」
美雪が続けた。
「東京の大学も考えてる」
「東京?」
「うん」
「遠いな」
「だから……」
美雪は蓮の顔を見る。
「会いに来てよ」
蓮は一瞬、言葉を失った。
東京。
遠い場所。
今までなら、自分には関係のない未来だった。
でも――
「……行く」
「本当に?」
「うん」
「約束?」
「約束」
美雪は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、東京案内する」
「東京、行ったことない」
「じゃあ、私が案内する」
「……楽しみ」
*
駅。
二人は電車を待っていた。
しばらくして。
美雪が、突然口を開いた。
「蓮」
「……」
蓮は振り返った。
今――
名前で呼ばれた。
「今……」
「何?」
「名前」
「……嫌だった?」
「いや」
蓮は少し笑った。
「もう一回」
「嫌」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「一回だけ」
「……」
美雪は顔を少し赤くしながら、俯いた。
そして。
小さな声で――
「蓮」
「……うん」
たったそれだけだった。
それなのに。
蓮の胸はいっぱいになった。
名前を呼ばれただけ。
たった、それだけなのに。
どうしてこんなに嬉しいのだろう。
「ありがとう」
「何が?」
「……何でもない」
*
その夜。
蓮はノートを開いた。
今日のページ。
㉚ 美雪に名前で呼んでもらう。
その横に、
「達成」
と書く。
そして、少し迷ってから――
㉛ 美雪の卒業式を見る。
さらに。
㉜ 東京にいる美雪に会いに行く。
と書いた。
蓮は、その文字をじっと見つめる。
東京。
春。
卒業。
未来。
どれも、まだ先の話だ。
だから。
きっと大丈夫。
そう思いたかった。
いや。
そう信じたかった。
*
その夜。
蓮は薬を飲んだ。
水を一口飲み、ベッドに横になる。
スマートフォンを見る。
美雪からメッセージが届いていた。
『おやすみ』
蓮は返信する。
『おやすみ、美雪』
少し考えてから、もう一通送った。
『今日、名前で呼ばれたの嬉しかった』
すぐに返信が来る。
『……忘れて』
『無理』
『忘れて!』
『おやすみ』
『ずるい』
蓮は声を出して笑った。
久しぶりに、心から笑った気がした。
そして、スマートフォンを胸元に置く。
「明日も……」
小さく呟く。
「学校行こう」
*
翌朝。
蓮は目を覚ました。
けれど――
身体が重い。
まるで身体全体に、鉛を詰め込まれたようだった。
起き上がろうとする。
「……」
動けない。
胸に、強い圧迫感がある。
息が浅くなる。
「……っ」
手を伸ばす。
薬。
机の上。
あと少し。
指先が届かない。
「……」
蓮はベッドから落ちそうになりながら、必死に手を伸ばした。
そして、なんとか薬を掴む。
震える手で薬を飲む。
数分。
ただ、じっと待つ。
やがて。
少しずつ呼吸が戻っていく。
「……学校」
時計を見る。
もう遅刻する時間だった。
蓮はスマートフォンを手に取る。
美雪からメッセージが届いていた。
『おはよう』
返信しようとする。
けれど。
指が止まった。
――心配させたくない。
そう思って。
『おはよう』
それだけを送った。
そして、制服に着替えた。
*
学校。
教室。
美雪が蓮を見る。
「遅かったね」
「寝坊」
「顔色、悪いよ」
「寒いから」
「……」
美雪は何も言わなかった。
ただ、蓮の手をそっと握る。
「冷たい」
「そう?」
「うん」
美雪は、蓮の手を両手で包んだ。
「温かくなるまで」
「……」
「こうしてる」
蓮は何も言えなかった。
ただ。
この温かさを忘れたくなかった。
いつまでも。
ずっと。
この手の温もりを感じていたかった。
*
放課後。
夕暮れ。
二人で校門を出る。
「明日も来る?」
美雪が聞いた。
「もちろん」
「約束?」
「約束」
「じゃあ――」
美雪が笑う。
「また明日」
「また明日」
いつもの挨拶。
いつもの約束。
けれど。
蓮にとっては、その一言が少しずつ特別なものになっていた。
また明日。
その言葉を口にできること。
明日が来ると信じられること。
誰かが自分を待っていてくれること。
それは、蓮にとって小さな奇跡だった。
だから。
蓮はまだ知らなかった。
数日後。
自分の人生を大きく変えることになる――
一通の電話が。
病院から届くことを。
そして、その電話が。
蓮の「明日」を大きく変えてしまうことを。




