第二十六章 生きていて
十一月二十日。
金曜日。
午前十時。
授業中。
蓮のスマートフォンが、ポケットの中で震えた。
学校では、スマートフォンを使ってはいけない。
だから、すぐに確認することはできなかった。
けれど。
振動は、一度では終わらなかった。
二度。
三度。
何度も続く。
胸の奥に、嫌な予感が広がった。
*
昼休み。
蓮は教室を出ると、廊下の端まで歩いた。
周囲に誰もいないことを確認してから、スマートフォンを取り出す。
画面に表示されていたのは、病院からの着信だった。
留守番電話には、短いメッセージが残っている。
『本日の診察について、確認したいことがあります』
その下には。
『できれば本日中にご連絡ください』
と書かれていた。
蓮は、しばらく画面を見つめていた。
「……何だよ」
嫌な予感は、消えなかった。
意を決して、電話をかける。
『はい、○○病院です』
「綾小路です」
『お待ちください』
少しして。
担当医が電話に出た。
『綾小路くん』
「はい」
『先日の検査についてですが……』
「……」
『追加で検査が必要になりました』
「いつですか?」
『来週です』
「学校は……」
『一日だけなら、調整できると思います』
「……」
『ただ』
医師の声が、少しだけ重くなった。
『その検査結果によっては、入院を強く勧めることになります』
蓮は、目を閉じた。
「……どれくらい?」
『状態によります』
「……分かりました」
『それから』
「はい」
『最近、強い発作が増えていませんか?』
「……」
『正直に答えてください』
「……少し」
『一人でいる時間は?』
「ほとんど一人です」
『それは危険です』
「……はい」
『何かあったとき、すぐに助けを呼べる人はいますか?』
蓮は、少しだけ考えた。
「……います」
美雪。
その名前を、口にすることはできなかった。
『ご家族は?』
「……」
『綾小路くん』
「……連絡してません」
『そうですか』
「……すみません」
『謝ることではありません。ただ、あなたの状態を考えると――』
蓮は、その言葉を最後まで聞くことができなかった。
静かに電話を切る。
*
「……入院」
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
病院に入れば。
学校へ行けなくなる。
美雪と会えなくなる。
放課後に一緒に歩くことも。
昼休みに弁当を食べることも。
冬の空を見上げることも。
そして。
春に咲く桜を見ることも。
全部。
できなくなるかもしれない。
蓮は、廊下の窓から外を見た。
校庭では、生徒たちが笑っている。
誰かが友達を呼び。
誰かが走り。
誰かがくだらないことで笑っている。
そんな、何でもない昼休み。
普通の高校生の日常。
その中に。
自分もいる。
ただ、それだけのことなのに。
蓮には、それがたまらなく幸せだった。
*
「蓮?」
後ろから声がした。
振り返る。
美雪だった。
「何してるの?」
「……何でもない」
「また?」
「何が?」
「その顔」
美雪は、蓮の前に立った。
そして、じっと彼の顔を見る。
「病院?」
「……うん」
「何て言われたの?」
「検査がある」
「……それだけ?」
「それだけ」
美雪は何も言わず、蓮を見つめた。
そして。
「……嘘」
「……」
「最近」
美雪の声が、ほんの少し震えた。
「ずっと、何か隠してる」
「隠してない」
「隠してる」
「……」
「私には分かるよ」
蓮は、視線を逸らした。
「……ごめん」
「謝らないで」
「でも……」
「教えて」
優しい声だった。
だからこそ。
蓮は、逃げることができなかった。
しばらく黙ったあと。
「……入院するかもしれない」
美雪の表情から、すっと笑顔が消えた。
「……いつ?」
「まだ分からない」
「どれくらい?」
「分からない」
「……そっか」
美雪は、唇を噛んだ。
何かを堪えるように、俯く。
「怖い?」
蓮は、少しだけ迷ってから。
正直に答えた。
「……怖い」
「……」
「でも」
「うん」
「学校にいたい」
「……どうして?」
美雪の声が震えた。
「君といたいから」
「……」
「文化祭も」
「……」
「冬も」
「……」
「桜も」
「……」
「まだ、全部見てない」
美雪の目に、涙が浮かんだ。
それでも、彼女は涙をこぼさないように何度も瞬きをした。
そして。
小さく息を吸う。
「じゃあ……」
「うん?」
「ちゃんと治療して」
「……」
「お願い」
「でも――」
「学校に来られなくなってもいい」
美雪の声が震えた。
「私が会いに行く」
「……」
「毎日でも行く」
「美雪……」
「だから」
一粒の涙が、頬を伝った。
「生きていて」
蓮は、言葉を失った。
「お願い……」
美雪は泣きながら、それでも笑おうとした。
「私のためじゃなくてもいい」
「……」
「自分のために」
「……」
「生きて」
蓮の目からも、涙が落ちた。
「……うん」
震える声で答える。
「生きる」
「約束?」
「約束」
「絶対?」
蓮は、涙を拭いながら頷いた。
「絶対」
*
その日の放課後。
二人は、学校の屋上へ向かった。
風が強かった。
冷たい風が、制服の隙間から入り込んでくる。
空は、夕焼けに染まっていた。
「寒い……」
美雪が小さく呟く。
「帰る?」
「……もう少し」
二人は、フェンスの前に並んで立った。
しばらく、何も言わなかった。
ただ、夕焼けを眺めていた。
「ねえ」
「うん?」
「もし……」
美雪が、ぽつりと言った。
「入院したら」
「うん」
「私、毎日写真送る」
「何の?」
「学校の写真」
「それ見たら、余計に学校に行きたくなる」
「じゃあ……」
美雪が、少しだけ笑った。
「面白い写真だけ送る」
「例えば?」
「先生が寝てるところ」
「それは駄目だろ」
「じゃあ、廊下で転んだ人とか」
「それも駄目」
「じゃあ、蓮のいない教室」
「……それ、面白くないだろ」
「私には面白い」
「なんで?」
「蓮がいないから」
「意味分かんない」
二人は、思わず笑った。
ほんの少しだけ。
さっきまでの重苦しい空気が、軽くなった気がした。
けれど。
笑い声が消えると。
また静寂が戻ってきた。
「蓮」
「うん」
「一つ、お願いがある」
「何?」
「約束を増やしたい」
「いいよ」
美雪は、蓮を見る。
「何があっても」
「……」
「春まで諦めないこと」
「……」
「桜を見るまで」
蓮は、ゆっくり頷いた。
「うん」
「それから……」
美雪は、一度だけ目を伏せた。
「生きること」
蓮は、もう一度頷いた。
「約束」
*
帰り道。
二人は駅へ向かって歩いていた。
しばらくして。
美雪が突然、口を開いた。
「手」
「ん?」
「出して」
蓮が手を差し出す。
美雪は、その手をぎゅっと握った。
「冷たい」
「美雪も」
「じゃあ……」
美雪は、二人の手を両手で包み込んだ。
「これでいい」
蓮は、繋がれた手を見つめた。
「……ありがとう」
「何回言うの?」
「何回でも」
「じゃあ……」
美雪が、小さく笑った。
「私も」
「うん?」
「ありがとう」
「何が?」
「生きようとしてくれて」
蓮は、何も言えなかった。
ただ。
握られた手に、少しだけ力を込めた。
*
夜。
蓮は部屋に戻ると、机の前に座った。
ノートを開く。
新しいページ。
㉝ 桜を見るまで、生きる。
その下に。
㉞ 美雪に「好き」と伝える。
そして。
㉟ 美雪の未来を見届ける。
蓮は、その三つをじっと見つめた。
今まで。
やりたいことを、ただ書いていた。
いつか叶えたいこと。
いつか見てみたいもの。
いつか、やってみたいこと。
けれど。
今日は違った。
この三つだけは。
絶対に失いたくない。
絶対に諦めたくない。
それはもう。
ただの「やりたいこと」ではなかった。
自分が生きる理由だった。
*
夜十一時。
蓮は、眠る前にスマートフォンを確認した。
美雪から写真が届いていた。
今日の夕焼け。
二人で見た、あの空だった。
その下には、短いメッセージ。
『明日も会おうね』
蓮は、すぐに返信した。
『うん』
送信してから。
少しだけ考える。
そして、もう一文を打った。
『明日も生きてる』
送信。
数秒後。
返信が届いた。
『当たり前』
そして。
『でも、約束してくれて嬉しい』
蓮は、画面を見ながら小さく笑った。
「……明日も」
ベッドに横になる。
「明日も学校へ行こう」
目を閉じる。
けれど。
胸の奥には、病院で聞いた言葉が残っていた。
――入院を強く勧めることになります。
不安は消えない。
怖さも、消えない。
それでも。
蓮は、明日を信じた。
明日があると。
信じたかった。
*
その頃。
病院では。
蓮の検査記録を、担当医が一人で確認していた。
モニターに表示された、最新の検査結果。
医師は、しばらく画面を見つめていた。
やがて。
小さく呟く。
「……思ったより早い」
机の上に置かれていた資料を、静かに閉じる。
来週の追加検査。
その結果によっては。
これまでの治療計画を、大きく変更しなければならない。
それを知るのは。
もう少し先のことだった。
蓮も。
美雪も。
まだ知らない。
春までの時間が。
二人が思っているよりも。
ずっと短いかもしれないことを。




