第二十七章 君に残したいもの
十一月二十三日。
月曜日。
朝。
蓮は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
冬の朝。
布団の中で、しばらく天井を見つめる。
「……今日も」
小さく呟く。
「生きてる」
昨日までなら。
そんなことを確認する必要なんてなかった。
目を覚ますことは、当たり前だった。
朝が来ることも。
学校へ行くことも。
美雪に会うことも。
全部、当たり前だと思っていた。
でも。
今は違う。
一日が始まるたびに。
ほんの少しだけ、嬉しい。
そして。
ほんの少しだけ、怖い。
今日という一日が、いつまで続くのか。
それを考えると、胸の奥が締めつけられた。
*
学校。
校門の前。
「蓮!」
美雪が手を振っていた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日も来たね」
「約束したから」
「うん」
美雪は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日も一日」
「生きる?」
「そう」
二人で笑った。
たったそれだけの会話。
なのに。
蓮には、それがとても大切なものに思えた。
*
昼休み。
屋上。
二人で並んで弁当を食べていた。
「これ」
美雪が、小さな紙袋を取り出した。
「何?」
「クッキー」
「作ったの?」
「うん」
「また?」
「嫌?」
「……嬉しい」
蓮が一つ手に取る。
口に入れる。
「……美味しい」
「本当?」
「うん」
「よかった」
美雪が、ほっとしたように笑う。
「じゃあ、また作る」
「楽しみにしてる」
「約束ね」
「うん」
蓮は、もう一つクッキーを口に入れた。
甘い。
少しだけ、優しい味がした。
その瞬間。
ふと、あることを思った。
――この味を、忘れたくない。
クッキーの甘さ。
冷たい冬の空気。
隣にいる美雪。
そして。
美雪の笑顔。
全部。
全部、覚えておきたい。
できることなら。
ずっと。
*
放課後。
二人は駅へ向かって歩いていた。
「ねえ」
「ん?」
「写真」
「写真?」
「最近、撮ってない」
「……撮ろうか」
「うん」
二人は、駅前のイルミネーションの前で立ち止まった。
美雪がスマートフォンを構える。
「笑って」
「笑ってる」
「もっと」
「無理」
「じゃあ、私が笑わせる」
「どうやって?」
「秘密」
美雪が、突然変な顔をする。
「……」
一瞬、蓮は固まった。
そして。
「……ぷっ」
思わず吹き出した。
「ほら!」
「ずるい」
「ちゃんと笑ったでしょ?」
「これは反則」
シャッター音が響く。
一枚。
二枚。
三枚。
写真の中で。
二人は笑っていた。
何の不安もないように。
何も失うものなんてないように。
ただ、普通の高校生みたいに。
*
その夜。
蓮は部屋で写真を整理していた。
海。
文化祭。
雪。
弁当。
夕焼け。
そして。
今日の写真。
指を止める。
二人で笑っている写真。
蓮は、その一枚を選んだ。
少しだけ大きく印刷する。
コンビニのコピー機から、写真が出てくる。
それを手に取った。
「……」
部屋へ戻る。
机の上に写真を置く。
蓮は、しばらく何も言わずに見つめていた。
写真の中の美雪は、笑っている。
いつもと同じ。
少しだけ照れたような。
でも、嬉しそうな笑顔。
「これなら……」
蓮は、写真に指を添える。
「俺がいなくなっても……美雪に渡せる」
そう思った。
けれど。
次の瞬間。
その考えを、強く振り払う。
「……まだ早い」
自分に言い聞かせるように呟く。
「俺は、まだ死ぬって決めたわけじゃない」
写真を引き出しの奥へしまう。
そして。
静かに引き出しを閉じた。
*
その翌日。
美雪が、蓮の机の横までやって来た。
「昨日の写真」
「うん?」
「送って」
「どれ?」
「全部」
「多いよ」
「いいの」
蓮は、スマートフォンを取り出す。
写真を一枚ずつ送っていく。
美雪は、その写真を順番に見ていった。
「これ好き」
海の写真。
「これも」
文化祭。
「これも」
雪。
「これも」
昨日の写真。
「……全部?」
「うん」
美雪は笑った。
「全部好き」
その言葉を聞いて。
蓮は、ほんの少しだけ目を伏せた。
胸の奥が、温かくなる。
同時に。
少しだけ痛んだ。
――全部。
その言葉が。
なぜか、心に残った。
*
放課後。
図書室。
静かな空間の中で。
蓮は、一人でノートを書いていた。
美雪には見せないノート。
最初のページには。
やりたいこと。
約束。
思い出。
そして。
今日。
蓮は新しいページを開いた。
そこに。
『美雪へ』
と書く。
その下に、しばらく何も書けなかった。
やがて。
ゆっくりとペンを動かす。
『もし、この手紙を読んでいるなら、僕は君の隣にいないのかもしれない。』
ペンが止まる。
胸が痛い。
「……」
蓮は、その一文を見つめた。
そして。
ゆっくりと消しゴムを動かす。
書き直す。
『この手紙を読むとき、君が笑っていますように。』
今度は、少しだけ筆が進んだ。
『君には、これからたくさんの未来がある。』
『大学に行って。』
『友達を作って。』
『好きな場所へ行って。』
『好きなものを食べて。』
『たくさん笑って。』
『誰かを好きになって。』
そして。
最後に。
『幸せになって。』
蓮は、そこでペンを置いた。
目の奥が熱くなる。
視界が少しだけ滲んだ。
「……何書いてるんだよ」
自分で、自分に苦笑する。
「まだ……生きるって決めたばっかりだろ」
そう呟いた。
それなのに。
こんな手紙を書いている自分が、少しだけ嫌だった。
でも。
怖かった。
もしものとき。
美雪に何も残せなかったら。
そう思うと。
何かを残しておきたかった。
言葉でも。
写真でも。
思い出でも。
何でもいい。
自分が確かにここにいた証を。
蓮は手紙を閉じる。
封筒に入れる。
そして。
机の奥へ、そっとしまった。
*
そのとき。
「蓮?」
「……!」
声がした。
振り返る。
美雪だった。
「何してるの?」
「……勉強」
「嘘」
「……」
「今、何か隠した?」
「何も」
美雪が、じっと蓮を見る。
「本当に?」
「本当」
しばらく見つめ合う。
けれど。
美雪は、それ以上聞かなかった。
「……じゃあ、帰ろう」
「うん」
二人で図書室を出る。
その背中を見送りながら。
蓮は、机の奥にしまった手紙のことを考えていた。
*
帰り道。
しばらく歩いたあと。
美雪が言った。
「最近」
「うん?」
「少し変だよ」
「そう?」
「うん」
「どう変?」
「前より優しい」
「前は?」
「普通」
「ひどい」
美雪が笑う。
蓮も笑った。
けれど。
その笑顔の奥には。
美雪にも隠しきれない不安があった。
「蓮」
「うん」
「何かあったら……」
「……」
「ちゃんと言ってね」
「うん」
「一人で抱えないで」
蓮は、一瞬だけ黙った。
そして。
「……分かった」
「約束?」
「約束」
*
夜。
蓮は、机の引き出しを開けた。
そこには。
一枚の写真。
美雪への手紙。
そして。
小さな箱。
箱を開ける。
中には。
美雪が以前、落としていったヘアピンが入っていた。
蓮は、それをそっと手に取る。
「これも……」
少しだけ笑う。
「返さないとな」
いつか。
直接。
美雪に返す。
そのときは。
きっと笑いながら。
「こんなところに落としてたぞ」
そう言える。
そんな未来を。
蓮は、まだ諦めたくなかった。
*
翌日。
病院から、また電話が来た。
「綾小路くん」
「はい」
「追加検査の日程が決まりました」
「いつですか?」
「十一月二十七日です」
「……四日後」
「はい」
「分かりました」
「それと」
医師が続ける。
「当日は、ご家族か、信頼できる方に付き添ってもらってください」
蓮は、黙った。
「……信頼できる人」
「はい」
その言葉を聞いた瞬間。
蓮の頭に、美雪の顔が浮かんだ。
笑った顔。
泣いた顔。
怒った顔。
そして。
昨日の「生きて」という言葉。
けれど。
「……一人で行きます」
そう答えた。
『綾小路くん』
「大丈夫です」
『……分かりました』
電話が切れる。
静かな部屋に。
スマートフォンを置く音だけが響いた。
蓮は、窓の外を見る。
「……ごめん」
誰に謝ったのか。
自分でも分からなかった。
美雪に。
医師に。
それとも。
自分自身に。
*
その日の夕方。
美雪と別れたあと。
蓮は、一人で歩いていた。
ポケットの中には。
美雪の写真。
机の引き出しには。
美雪への手紙。
そして。
胸の中には。
誰にも言えない不安。
冷たい風が吹く。
蓮は、制服のポケットに手を入れた。
「……まだ」
足を止めずに呟く。
「まだ、死にたくない」
その言葉は。
以前よりも、ずっと強かった。
生きたい。
もっと。
もっと生きたい。
美雪の隣にいたい。
くだらないことで笑いたい。
一緒に弁当を食べたい。
季節が変わるところを見たい。
雪を見たい。
春になったら。
一緒に桜を見たい。
そして。
いつか。
あの手紙を。
ただの「念のための手紙」にしたい。
何年も経ったあと。
笑いながら。
「こんなの書いたんだ」
そう言える日が来てほしい。
その未来を。
蓮は、強く願った。
*
夜。
美雪からメッセージが届いた。
『明日、放課後空いてる?』
『空いてる』
『じゃあ、行きたい場所がある』
『どこ?』
『秘密』
『また?』
『うん』
『分かった』
少しして。
もう一通。
『楽しみにしてて』
蓮は、スマートフォンを見ながら笑った。
「……何だろう」
まだ。
未来は続いている。
少なくとも。
明日までは。
そう思った。
いや。
違う。
明日だけじゃない。
明後日も。
その先も。
できるなら。
ずっと。
そう信じたかった。
蓮は、スマートフォンを胸元に置く。
目を閉じる。
「おやすみ、美雪」
誰にも届かない小さな声。
けれど。
その声には。
明日への願いが。
確かに込められていた。




