第二十八章 未来を想像した日
十一月二十五日。
水曜日。
放課後。
校門を出ると、美雪が待っていた。
「行こう」
「どこに?」
「秘密」
「またそれ?」
「うん」
美雪はいたずらっぽく笑った。
「今日は絶対に聞かないでね」
「分かった」
「本当に?」
「本当だって」
「よし」
美雪は満足そうに頷くと、駅とは反対の方向へ歩き始めた。
蓮もその隣に並ぶ。
何気ない帰り道。
けれど、最近の蓮は、そんな何気ない時間さえ愛おしく感じるようになっていた。
朝、学校へ行く。
授業を受ける。
昼休みには、美雪と一緒に弁当を食べる。
放課後になれば、こうして一緒に帰る。
ただ、それだけ。
特別なことなんて、何もない。
それなのに。
美雪と出会ってから、蓮の世界は少しずつ変わり始めていた。
今までなら、何も感じなかった景色が、少しだけ綺麗に見える。
何でもない会話が、いつまでも心に残る。
そして、明日という日が来ることを、以前よりも楽しみにしている自分がいた。
そんな自分に、蓮はまだ少し戸惑っていた。
*
「まだ?」
「もう少し」
「結構歩いたぞ」
「運動不足解消だよ」
「病人に言うことか、それ」
「……ごめん」
「冗談だよ」
蓮が笑うと、美雪もほっとしたように笑った。
そんなやり取りをしながら、二人は歩き続けた。
住宅街を抜け、小さな坂道を上っていく。
やがて、街の景色が少しずつ変わり始めた。
「着いた」
美雪が足を止めた。
目の前にあったのは、少し古びた展望台だった。
「……ここ?」
「うん」
蓮は、その先に広がる景色を見て、思わず息を呑んだ。
街全体が、一望できた。
通い慣れた学校。
毎日のように利用する駅。
夕日に照らされたビルの数々。
そして、その向こうには、どこまでも広がる海があった。
いつも暮らしている街なのに、ここから見ると、まるで知らない場所のように感じられた。
「綺麗……」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
「でしょ?」
美雪は、少し誇らしげに笑った。
「初めて来た」
「私も、久しぶりに来たんだ」
「どうして、ここに?」
美雪は展望台のフェンスにそっと手を置き、遠くの景色を見つめた。
「昔、ここに来たことがあるの」
「一人で?」
「うん」
「何かあったのか?」
「高校に入ったばかりの頃ね」
美雪は少しだけ目を細めた。
「色々あったんだ」
「……そっか」
蓮は、それ以上聞かなかった。
美雪が話したくなったら、きっと話してくれる。
今は、それでいいと思った。
「ここから街を見るとね」
美雪が静かに口を開いた。
「悩んでることが、少しだけ小さく見えるの」
蓮も、もう一度街を見渡した。
自分たちが歩いてきた道も、毎日通っている学校も、ここから見れば小さな景色の一部にすぎない。
「……確かに」
「でしょ?」
美雪は微笑んだ。
「だから、蓮にも見せたかったんだ」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
自分にも、こんな景色を見せたいと思ってくれる人がいる。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとう、美雪」
蓮がそう言うと、美雪は少し照れたように笑った。
「どういたしまして」
*
二人は展望台のベンチに並んで座った。
十一月の風は冷たく、頬を撫でるたびに、冬が近づいていることを感じさせた。
「もうすぐ十二月だね」
「うん」
「早いなあ」
「今年も終わりか」
「うん。そして……」
美雪は、遠くの海に視線を向けた。
「来年、私は卒業するんだよね」
その言葉を聞いて、蓮は少しだけ黙った。
「……そっか」
「寂しい?」
「……少し」
正直に答えると、美雪は意外そうに目を丸くした。
「私も、寂しいよ」
「でも、大学に行くんだろ?」
「うん」
「東京とか?」
「まだ決めてない」
「そうなんだ」
美雪は膝の上で両手を重ね、少し考えるように俯いた。
「どこに行くのかも、まだ分からないんだ」
「やりたいことはあるのか?」
「あるよ」
「何?」
「写真」
「写真?」
「うん。写真を撮るのが好きなの」
美雪はスマートフォンを取り出した。
画面には、これまで撮りためてきた景色の写真が並んでいた。
夕焼けに染まる空。
雨上がりの街並み。
木々の隙間から差し込む光。
どれも、何気ない日常の一瞬を切り取ったものだった。
「景色を撮るのが好きなんだ」
「知ってる」
「えっ、どうして?」
「俺の写真、いっぱい撮ってるだろ」
「……あ」
美雪の頬が、ほんのり赤くなった。
「そうだった」
「自覚なかったのかよ」
「あるもん!」
「本当か?」
「……たぶん」
美雪が視線を逸らす。
その反応がおかしくて、蓮は思わず笑った。
美雪もつられるように笑い出した。
こんな時間が、ずっと続けばいい。
ふと、そんなことを思った。
*
「蓮は?」
「何が?」
「将来のこと」
「……」
蓮は空を見上げた。
将来。
そんな言葉を、自分に向けられたのは、いつ以来だろう。
「今まで、あんまり考えたことなかった」
「今は?」
「今は……」
言葉が途切れた。
以前の自分なら、きっと何も答えられなかった。
未来なんて、考えるだけ無駄だと思っていたから。
けれど、今は違う。
少なくとも、少しだけなら。
「大学に行きたい」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が出てきた。
「……本当に?」
美雪が嬉しそうに顔を向ける。
「うん」
「何を勉強したいの?」
「それは、まだ分からないけど」
「そっか」
美雪は、まるで自分のことのように嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これから探せばいいよ」
「……簡単に言うなあ」
「簡単じゃないよ。でも、探さなきゃ見つからないでしょ?」
「まあ、それはそうだけど」
「時間はあるんだから」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の胸が小さく痛んだ。
「……時間、か」
「うん」
美雪は何も知らない。
蓮があとどれくらいの時間を持っているのか。
どれだけ先の未来を思い描いていいのか。
そして、自分自身でさえ、その答えを知らないことも。
美雪の言葉は、何の疑いもなく未来を信じている人の言葉だった。
だからこそ、眩しかった。
そして、少しだけ怖かった。
*
「ねえ、蓮」
「ん?」
「もし、何でもできるとしたら……将来、何がしたい?」
「何でも?」
「うん。お金とか、成績とか、そういうのは全部関係なし。何でも自由にできるとしたら?」
蓮はしばらく考えた。
遠くで、海の波が静かに光っている。
冷たい風が吹き抜ける。
その中で、蓮はゆっくりと口を開いた。
「……普通に暮らしたい」
「普通に?」
「うん」
蓮は、ひとつずつ言葉を重ねていった。
「朝、起きて」
「うん」
「学校に行って」
「うん」
「大学に行って」
「うん」
「卒業したら、仕事をして」
「うん」
「疲れて帰ってきて……」
そこで、少しだけ笑った。
「誰かと一緒にご飯を食べる」
言葉にしてみると、本当に何でもない未来だった。
特別な成功も、誰もが羨むような人生もいらない。
ただ、明日が来ることを当たり前に思いながら暮らしたい。
疲れた日には、疲れたと言いたい。
嬉しいことがあったら、誰かに話したい。
帰る場所があって、そこに待っていてくれる人がいる。
そんな日々を、当たり前のように過ごしてみたい。
「……それだけ」
蓮は小さく笑った。
けれど、その笑顔の奥には、言葉にできない願いがあった。
美雪は、しばらく蓮を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「いいね」
「……そうか?」
「うん。すごくいいと思う」
美雪は少しだけ蓮の方へ身体を向けた。
「じゃあ、一緒に目指そうよ」
「……え?」
「普通の未来」
あまりにも自然に言われたものだから、蓮はすぐには返事ができなかった。
胸の奥が、熱くなる。
普通の未来。
今まで、一度も本気で考えたことがなかった。
自分には関係のないものだと思っていた。
遠い誰かの話で、自分が手を伸ばしていいものではないと思っていた。
それなのに。
美雪は、まるで当たり前のように言ってくれた。
一緒に目指そう、と。
その言葉が、どれほど嬉しかったのか。
蓮自身にも、うまく説明できなかった。
「……ああ」
ようやく、それだけ答えた。
今はまだ、何も約束できない。
明日さえ、確実に来るとは限らない。
それでも。
ほんの少しだけ、未来を信じてみたくなった。
*
夕方。
空がゆっくりと赤く染まり始めていた。
海の向こうに沈んでいく夕日が、街全体を柔らかな光で包んでいる。
「写真、撮ろう」
美雪がスマートフォンを取り出した。
「また?」
「また!」
「何枚撮るんだよ」
「いいじゃん。思い出は多い方がいいでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
二人は並んで立った。
美雪がスマートフォンを構える。
「もっと近くに来て」
「近いだろ」
「まだ近くない」
「これ以上?」
「うん」
美雪は、当たり前のように蓮の肩へ身を寄せた。
ふわりと、柔らかな香りがした。
蓮の心臓が、一瞬だけ大きく跳ねる。
「……近すぎないか?」
「写真なんだから、これくらい普通だよ」
「そういうもんか?」
「そういうものです」
美雪は得意げに言うと、画面を確認した。
「はい、撮るよ!」
シャッター音が響く。
一枚。
二枚。
三枚。
「見せて」
「嫌」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「私も写ってるんだけど?」
「だからだよ」
「……意味分からない」
美雪は呆れたように言ったが、その頬は少し赤かった。
二人で笑う。
そのあと、美雪はスマートフォンを持ち直し、今度は一人で空にカメラを向けた。
夕焼けに染まる雲。
赤から紫へと変わっていく空。
そして、その下に広がる街。
シャッター音が、小さく響いた。
「何で、空だけ撮ったんだ?」
蓮が尋ねると、美雪は画面を見つめたまま答えた。
「残しておきたいから」
「何を?」
美雪は少しだけ微笑んだ。
「今日を」
「……今日?」
「うん。今日の空」
美雪は、もう一度写真を見つめた。
「同じ空は、二度と見られないから」
その言葉に、蓮は何も返せなかった。
当たり前のことなのに。
当たり前すぎて、今まで考えもしなかったことだった。
今日の空は、今日しか見られない。
今この瞬間も、二度と戻ってこない。
だからこそ。
こうして美雪と一緒に見ている景色が、ひどく大切なものに思えた。
*
帰り道。
二人は駅へ向かって、ゆっくりと歩いていた。
夕方の街には、家路を急ぐ人々の姿があった。
買い物袋を持った人。
自転車を押す学生。
小さな子供の手を引く親。
誰もが、それぞれの日常を生きている。
その光景を眺めながら、蓮は思った。
いつか自分も、あんなふうに何気ない毎日を過ごせるのだろうか。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「うん」
「本当?」
「本当だよ」
「よかった」
美雪は安心したように笑った。
「連れてきてよかった」
「ありがとう」
「どういたしまして」
蓮は少し迷ってから、口を開いた。
「……俺も、美雪に見せたい場所があるんだ」
「えっ?」
美雪が驚いたように顔を向ける。
「本当に?」
「うん」
「どこ?」
「まだ秘密」
「ええっ! 蓮まで秘密にするの?」
「今日は絶対に聞くなって言ったの、美雪だろ?」
「それとこれとは別!」
「何が違うんだよ」
「違うものは違うの!」
美雪が頬を膨らませる。
その表情がおかしくて、蓮は声を出して笑った。
美雪も、すぐに笑い出した。
こんなふうに、何でもないことで笑い合える。
それだけで、今日という一日が特別なものになっていく。
蓮は、まだその場所を教えるつもりはなかった。
いつか。
自分の足で、もう一度そこへ行けたら。
そして、美雪と一緒に、その景色を見られたら。
そのときに伝えようと思った。
*
駅に着いた。
二人はホームに並んで立ち、電車を待っていた。
冷たい風が吹き抜ける。
美雪は少し寒そうに肩を縮めたあと、そっと蓮の肩に頭を預けた。
「……疲れた?」
蓮が小さく尋ねる。
「少しだけ」
「そっか」
「……このままでいい?」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
蓮は一瞬、息を止めた。
けれど、すぐに肩の力を抜いた。
「……うん」
それだけ答えて、動かずにいた。
美雪の頭の重みが、肩越しに伝わってくる。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
やがて、遠くから電車の走行音が聞こえてきた。
それでも、二人は何も話さなかった。
話す必要がなかった。
ただ、隣にいる。
同じ風を感じて、同じ時間を過ごしている。
それだけで、十分だった。
少なくとも、今は。
*
夜。
蓮は自分の部屋に戻ると、机の前に座った。
いつものノートを開く。
そこには、これまで自分がやりたいと思ったことや、叶えたいと願ったことが書かれていた。
蓮はペンを手に取り、新しい項目を書き加えた。
㊱ 美雪に自分の秘密の場所を見せる。
書き終えたあと、しばらくその文字を眺めた。
そして、少し考えてから、もうひとつ書き加えた。
㊲ 大学に行く。
「……大学」
小さく呟く。
自分が大学へ行く。
そんな未来を、初めて具体的な目標としてノートに書いた。
今までは、未来について考えること自体を避けていた。
期待すれば、失ったときに苦しくなる。
夢を見れば、叶わなかったときに傷つく。
だから、最初から何も望まなければいい。
ずっと、そう思っていた。
けれど。
今は、違う。
大学へ行ってみたい。
知らないことを学んでみたい。
新しい景色を見てみたい。
そして、いつか。
今日みたいな一日を、何度でも繰り返したい。
「……本当に行けたらいいな」
そう呟くと、自然と口元が緩んだ。
少し前まで、自分がこんなことを考えるなんて想像もしていなかった。
それなのに今は、叶うかどうか分からない未来を思い浮かべている。
怖くないわけじゃない。
むしろ、怖い。
期待してしまう自分がいるからこそ、怖かった。
それでも。
何も望まずに過ごすより、ずっといいと思えた。
蓮は、ノートをそっと閉じた。
*
その夜。
午後十一時四十七分。
静かな部屋に、スマートフォンの着信音が響いた。
「……ん?」
画面を見る。
病院。
その文字を見た瞬間、蓮の胸が嫌な音を立てた気がした。
こんな時間に、どうして。
指先が、わずかに冷たくなる。
それでも、電話に出た。
「……もしもし」
『綾小路くんでしょうか』
「はい」
『夜分遅くに申し訳ありません。病院の者です』
「……何かあったんですか?」
自分でも驚くほど、声が硬くなっていた。
『検査について、お伝えしたいことがありまして』
「検査……?」
『以前お話ししていた追加検査ですが、予定を少し早めることになりました』
蓮は息を止めた。
「……いつですか?」
『明後日です』
「……明後日?」
思わず、聞き返していた。
明後日。
たった二日後。
あまりにも突然の知らせに、頭の中が真っ白になる。
「何か、問題があったんですか?」
電話の向こうで、医師がわずかに沈黙した。
その短い沈黙が、ひどく長く感じられた。
『検査を早める必要があると判断しました』
「……」
『詳しいことについては、直接お会いして説明します』
「……分かりました」
何とか、それだけ答えた。
『それと、できれば当日は、どなたかに付き添っていただけると助かります』
蓮は言葉を失った。
誰かに。
付き添ってもらう。
そんなことを頼める相手が、自分にいるだろうか。
頭に浮かんだのは、家族の顔だった。
そして。
美雪の笑顔だった。
今日、一緒に未来の話をしたばかりなのに。
大学へ行こうと、初めて自分の未来を思い描いたばかりなのに。
「……分かりました」
かすれそうになる声を抑え、蓮はそう答えた。
『それでは、詳しいことは明後日、病院でお話しします』
「はい……」
通話が終わった。
*
部屋が、急に静かになった。
時計の針が進む音。
冷蔵庫の低い駆動音。
窓の向こうを走り抜ける車の音。
いつもと何も変わらない夜だった。
なのに。
蓮には、世界が突然、遠くなってしまったように感じられた。
スマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
「……明後日」
小さく呟く。
たった二日後に、自分の未来を左右するかもしれない検査が待っている。
その事実が、遅れて胸に重くのしかかってきた。
蓮は、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
今日、美雪と何を話しただろう。
大学。
仕事。
普通の生活。
誰かと一緒に食べる夕食。
疲れて帰ってきて、何でもない話をして笑う夜。
そんな未来を、二人で目指そうと話した。
ついさっきまで、少しだけ信じられたのに。
自分にも、そんな日々が訪れるかもしれないと。
初めて、心から願えたのに。
「……怖い」
声が震えた。
目の奥が熱くなる。
けれど、涙はこぼれなかった。
怖かった。
明後日の検査結果が。
これから自分に何が起こるのか分からないことが。
そして何より。
ようやく見つけた未来を、失ってしまうかもしれないことが。
美雪と過ごす時間が、いつか終わってしまうかもしれないことが。
それが、何よりも怖かった。
蓮は胸元をぎゅっと握りしめた。
「……どうして」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
どうして、今なんだ。
どうして、やっと未来を望めるようになったのに。
どうして、自分だけが。
そんな言葉が、次々と心の中に浮かんでは消えていった。
けれど、答えてくれる人はいなかった。
静かな部屋に、蓮の呼吸だけが響いていた。
*
どれくらい、そうしていただろう。
蓮は、ゆっくりと顔を上げた。
ふと、美雪の言葉を思い出した。
――生きていて。
――春まで諦めないで。
あのとき、美雪はどんな顔をしていただろう。
泣きそうなのに、必死に笑おうとしていた。
自分に生きていてほしいと、まっすぐに伝えてくれた。
あの言葉が、今も胸の奥に残っている。
蓮は、震える手を膝の上で握りしめた。
「……うん」
誰もいない部屋で、小さく頷く。
「俺は……」
言葉が喉につかえた。
それでも、もう一度、息を吸う。
「俺は、まだ生きる」
声は小さかった。
不安が消えたわけでもない。
恐怖がなくなったわけでもない。
明後日、何を告げられるのかも分からない。
それでも。
生きたいと思った。
美雪と、もう一度笑いたい。
また一緒に帰りたい。
違う季節の景色も見てみたい。
そして、いつか。
二人で話した未来を、本当に生きてみたい。
蓮は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
まだ終わりたくない。
今は、ただそれだけを願っていた。
*
翌朝。
目を覚ました蓮のスマートフォンには、美雪からのメッセージが届いていた。
『おはよう!』
その短い言葉を見た瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ、美雪からのメッセージ。
たったそれだけのことが、今はどうしようもなく嬉しかった。
蓮は返信を打つ。
『おはよう』
すぐに、次のメッセージが届いた。
『昨日、楽しかったね!』
『うん』
『また行こうね』
蓮は画面を見つめた。
また。
その二文字が、胸に深く染み込んだ。
また、一緒に行く。
また、同じ景色を見る。
また、二人で笑う。
そんな約束を、これからも重ねていきたい。
蓮は、少しだけ指を止めてから返信した。
『うん。何度でも』
送信ボタンを押す。
そして、その言葉をもう一度、心の中で繰り返した。
何度でも。
何度でも。
美雪と、同じ景色を見たい。
同じ道を歩きたい。
同じ時間を過ごしたい。
春を迎えたい。
夏の暑さに文句を言いたい。
秋の夕焼けを一緒に眺めたい。
そして。
もう一度、冬を迎えたい。
何年先でもいい。
何気ない毎日の中で、隣に美雪がいてくれたら。
それだけでいい。
蓮は、スマートフォンを胸元にそっと引き寄せた。
まだ、何も分からない。
明後日の検査がどうなるのかも。
自分に、どれほどの時間が残されているのかも。
それでも、今は。
未来を諦めたくなかった。
美雪と一緒に、その先を見てみたかった。
けれど。
明後日の検査が、二人の未来を大きく左右することを。
蓮は、まだ知らなかった。




