第二十九章 残された時間
十一月二十七日。
金曜日。
午前六時二十分。
蓮は目を覚ました。
枕元の時計に目を向ける。
窓の外は、まだ薄暗かった。
今日は、追加検査の日だ。
布団からゆっくりと起き上がり、窓を開ける。
冷たい空気が、頬を撫でた。
「……寒いな」
吐いた息が、白く染まる。
冬が、すぐそこまで近づいていた。
蓮は窓辺に立ったまま、しばらく空を見上げていた。
まだ太陽は昇りきっていない。
薄暗い空の向こうに、これから訪れる一日が待っている。
「……春」
小さく呟いた。
春になったら、桜を見たい。
美雪と一緒に。
あの日、二人で交わした約束。
あの約束だけは、どうしても守りたかった。
だから。
今日も、生きる。
明日も、その先も。
まだ見ぬ春にたどり着くために。
*
スマートフォンを手に取ると、美雪からメッセージが届いていた。
『おはよう』
蓮は、すぐに返信した。
『おはよう』
すると、間を置かずに次のメッセージが届いた。
『今日、病院だよね?』
『うん』
『私も一緒に行く』
蓮は画面を見つめた。
少し考えてから、返信する。
『大丈夫。一人で行けるよ』
すぐに返事が来た。
『大丈夫じゃないでしょ』
『一人で行けるって』
『でも……』
『美雪は学校があるだろ』
『休む』
『駄目』
『どうして?』
蓮は、しばらく画面を見つめていた。
そして、ゆっくりと文字を打った。
『美雪は卒業するんだろ』
送信してから、少しだけ胸が痛んだ。
自分が何を言っているのか、本当は分かっていた。
美雪には、学校へ行ってほしかった。
友達と笑って、授業を受けて、卒業に向けて毎日を過ごしてほしい。
自分のことで、これ以上、大切な時間を奪いたくなかった。
しばらく、返信はなかった。
やがて、スマートフォンが震えた。
『……分かった』
その下に、もう一通。
『でも、帰ってきたら絶対に連絡してね』
蓮は、少しだけ笑った。
『約束する』
『絶対だよ』
『絶対』
送信したあとも、蓮はしばらく画面を見つめていた。
たった数行のやり取り。
それだけなのに、不思議と心が落ち着いた。
自分を心配してくれる人がいる。
帰りを待ってくれる人がいる。
それだけで、病院へ向かう足が、ほんの少し軽くなった気がした。
*
病院。
待合室。
蓮は一人で椅子に座っていた。
周囲には、診察を待つ人々の姿があった。
母親と手をつないでいる小さな子供。
父親と何かを話している学生。
隣り合って座り、静かに言葉を交わす夫婦。
誰もが、それぞれの大切な人と一緒にいた。
蓮は、そんな光景からそっと目を逸らした。
自分の隣には、誰もいない。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
別に、一人で病院に来ることなんて珍しくない。
今までも、そうしてきた。
だから、今日だって大丈夫なはずだった。
なのに。
今日は、いつもより心細かった。
検査の結果がどうなるのか。
これから自分に何が起こるのか。
考えないようにしても、頭の中から不安が消えてくれない。
蓮は、膝の上で両手を組んだ。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美雪からだった。
『今、学校に着いたよ』
続けて、もう一通。
『頑張ってね』
蓮は、しばらくその文字を見つめた。
そして、返信した。
『美雪も頑張れよ』
少しして、返事が届く。
『うん。蓮もね』
蓮の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「……なんだ」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
「俺、一人じゃないか」
スマートフォンを、そっと握りしめた。
*
「綾小路蓮さん」
看護師の声が、待合室に響いた。
「はい」
蓮は立ち上がった。
案内されるまま、検査室へと向かう。
長い廊下。
白い壁。
天井から降り注ぐ、冷たい照明。
自分の足音だけが、静かな廊下に響いていた。
歩くたびに、胸の鼓動が少しずつ速くなる。
大丈夫。
きっと、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、心のどこかでは分かっていた。
今日の検査が、自分にとって大切なものになることを。
蓮は、ゆっくりと深呼吸した。
「……大丈夫」
もう一度、呟いた。
今度は、少しだけ強く。
*
検査は、思っていた以上に長かった。
機械が作動する音。
医師や看護師の指示。
何度も繰り返される確認。
蓮は、言われるままに身体を動かしながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
目を閉じると、自然と美雪の顔が浮かんでくる。
楽しそうに笑う顔。
怒ったときに少し膨らむ頬。
眠そうに目をこする仕草。
そして、時折見せる、誰にも見せないような寂しげな表情。
思い出は、次から次へと浮かんでは消えていった。
一緒に食べたオムライス。
雪の日の帰り道。
展望台から見た夕焼け。
肩に寄りかかってきた、美雪の温もり。
どれも、特別な出来事というわけではない。
ただ、二人で過ごした何気ない時間だった。
でも、今の蓮にとっては、その一つひとつが何よりも大切だった。
もっと、話したい。
もっと、一緒に笑いたい。
もっと、いろんな景色を見たい。
まだ知らない美雪の表情を、もっと見ていたい。
そして、いつか。
二人で話した未来を、本当に生きてみたい。
「……もっと」
声にならない声で、心の中に呟いた。
「もっと、一緒にいたい」
その願いだけは、何があっても消えなかった。
*
検査が終わった。
蓮は診察室の椅子に座り、医師と向かい合っていた。
医師はパソコンの画面を確認している。
キーボードを操作する音だけが、静かな診察室に響いていた。
なかなか、話が始まらない。
蓮は膝の上で、ぎゅっと手を握った。
「……先生」
医師が顔を上げる。
「はい」
「検査結果、悪かったんですか?」
医師は、すぐには答えなかった。
画面をもう一度確認してから、ゆっくりと息を吐いた。
「検査結果について、説明しますね」
「……はい」
医師は、慎重に言葉を選ぶように話し始めた。
「前回の検査と比較すると、病状が進行しています」
蓮は、何も言わなかった。
「身体への負担も、以前より大きくなっています」
「……」
「発作の頻度も増えています。今後は、これまで以上に慎重な管理が必要です」
蓮は膝の上で、さらに強く手を握った。
指先が白くなる。
「……治療すれば、よくなるんですよね?」
自分でも、情けないほど弱い声だと思った。
それでも、聞かずにはいられなかった。
医師は、真剣な表情で頷いた。
「治療は続けます。できる限り、症状を抑えられるように努めます」
「じゃあ……」
蓮は、少しだけ顔を上げた。
けれど、医師は続けた。
「ただ、今後はこれまでと同じような生活を続けることが難しくなる可能性があります」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「……入院、ですか?」
「できれば、早めに入院していただきたいと考えています」
「いつからですか?」
「なるべく早く」
「……学校は?」
医師は、わずかに表情を曇らせた。
「しばらくは、休む必要があるでしょう」
蓮は俯いた。
学校を休む。
友達と会えなくなる。
いつもの教室で授業を受けることも、昼休みに美雪と弁当を食べることも、放課後に一緒に帰ることも。
これまで当たり前だと思っていた時間が、一つずつ遠ざかっていくような気がした。
「……どれくらいですか?」
「今の段階では、はっきりとは言えません。入院後の状態を見ながら判断することになります」
「一週間……とか?」
「分かりません」
「一か月くらいですか?」
「……それも、今は何とも言えません」
蓮は、唇を噛んだ。
聞きたいことは、ほかにもあった。
けれど、本当に知りたいことほど、口にするのが怖かった。
それでも。
どうしても、聞かなければならなかった。
「……春まで、入院していることになるんですか?」
医師の動きが止まった。
短い沈黙。
それだけで、蓮の胸が締めつけられた。
「先生……」
声が震える。
「俺、春を見られますか?」
医師は、しばらく蓮を見つめていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……今は、誰にも約束できません」
その瞬間。
蓮の中で、何かが音もなく崩れた。
覚悟していなかったわけではない。
いつか、こんな日が来るかもしれないと、心のどこかでは分かっていた。
それでも。
実際に言葉にされると、こんなにも苦しいものなのか。
春を迎えられるかどうかさえ、分からない。
美雪と約束した桜を見ることができるかどうかさえ、誰にも分からない。
「……そう、ですか」
蓮は、かすれた声で答えた。
それ以上、何も聞けなかった。
*
病院を出ると、空はどんよりと曇っていた。
冷たい風が吹き抜ける。
街には、いつもと変わらない日常が広がっていた。
買い物袋を提げて歩く人。
小さな子供の手を引く親。
友達と笑いながら歩く学生たち。
信号が変われば、人々は一斉に歩き出す。
車は走り、店は営業を続け、駅からは電車が出ていく。
世界は、何も変わっていなかった。
誰も、自分が今日、何を告げられたのか知らない。
誰も、自分がどれほど怖い思いをしているのか知らない。
当たり前のように明日を迎え、来月を迎え、来年を迎える人たち。
その姿を見ていると、ひどく不思議な気持ちになった。
自分だけが、別の世界に取り残されてしまったようだった。
「……春」
蓮は、曇った空を見上げた。
灰色の雲が、どこまでも広がっている。
「……見たいな」
たった、それだけだった。
特別なことなんて望んでいない。
ただ、春になってほしい。
桜が咲いてほしい。
美雪と一緒に、その景色を見たい。
それだけなのに。
どうして、こんなにも遠い願いになってしまったのだろう。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美雪からだった。
『検査、終わった?』
蓮は返信しようとした。
けれど、指が止まった。
何と伝えればいいのだろう。
病状が進んでいた。
入院が必要になった。
春を迎えられるかどうかも、分からない。
そんなことを伝えたら、美雪はどんな顔をするだろう。
きっと、悲しむ。
もしかしたら、泣いてしまうかもしれない。
美雪が泣くところなんて、見たくなかった。
でも、本当は。
自分だって、泣きたかった。
怖いと叫びたかった。
誰かに、大丈夫だと言ってほしかった。
けれど、どうしても言葉にできなかった。
蓮は、しばらく画面を見つめたあと、短く返信した。
『終わった』
すぐに返事が届く。
『どうだった?』
蓮は、目を閉じた。
指先が震える。
何も考えずに、本当のことを全部伝えてしまいたかった。
でも、今はまだ無理だった。
『疲れた』
それだけ送った。
少しして、返信が届いた。
『そっか』
そして、もう一通。
『帰ってきたら話そうね』
最後に。
『待ってる』
蓮は、その言葉をじっと見つめた。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「……帰ろう」
小さく呟く。
帰れば、美雪が待っている。
そう思えただけで、もう少しだけ歩ける気がした。
*
夕方。
駅に着くと、美雪が改札の近くに立っていた。
「蓮!」
蓮の姿を見つけるなり、美雪が駆け寄ってきた。
「おかえり」
その言葉を聞いた瞬間、蓮は少しだけ驚いた。
「……学校は?」
「終わったから」
「待っててくれたのか?」
「うん」
「寒かっただろ」
「少しね」
美雪はそう答えたあと、蓮の顔をじっと見つめた。
その表情から、笑顔が少しずつ消えていく。
「……どうだった?」
蓮は、答えられなかった。
「蓮?」
「……」
「検査、悪かったの?」
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
美雪の表情が変わった。
唇が、かすかに震えている。
「……どれくらい?」
「分からない」
「入院するの?」
「……たぶん」
「いつから?」
「近いうちに」
美雪は、何かを言おうとした。
けれど、声が出なかった。
その目に、少しずつ涙が溜まっていく。
「……美雪?」
蓮が呼びかけると、美雪は俯いた。
「……春は?」
その声は、かすかに震えていた。
蓮は答えられなかった。
春を迎えられるかどうか。
美雪と桜を見ることができるかどうか。
医師にさえ、約束できないと言われた。
何も知らないふりをして、大丈夫だと言うこともできなかった。
蓮が黙っていると、美雪の頬を涙が伝った。
「……そっか」
美雪は、小さく呟いた。
それ以上、何も聞かなかった。
聞かなくても、分かってしまったのだろう。
蓮が、どれほどの不安を抱えているのか。
どれほど怖い思いをしているのか。
そして、自分が一番聞きたかった答えを、蓮自身も知らないということを。
「美雪……」
「……ごめん」
「何で謝るんだよ」
「分からない……」
美雪は、震える手で涙を拭った。
「ただ……」
言葉が途切れる。
何度か息を吸ってから、ようやく続けた。
「……怖い」
その一言には、たくさんの気持ちが詰まっていた。
蓮を失うかもしれない恐怖。
一緒に過ごせる時間が、いつまで続くのか分からない不安。
何をすればいいのかも分からない、どうしようもない無力感。
蓮は、俯いた。
「……俺も」
初めて、正直に言えた気がした。
「俺も、怖いよ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が、少しだけ溢れそうになった。
ずっと、大丈夫なふりをしていた。
美雪を心配させないように。
悲しませないように。
自分がしっかりしなければいけないと思っていた。
でも、本当は。
自分だって、怖くて仕方がなかった。
*
二人は、駅前のベンチに並んで座った。
行き交う人々の足音。
電車の到着を知らせるアナウンス。
改札を通り抜けていく人たちの話し声。
いつもと変わらない駅前の風景。
それなのに、二人の周りだけ、時間が止まってしまったようだった。
美雪は俯いたまま、膝の上で手を握っていた。
蓮も、何も言えなかった。
どんな言葉をかければいいのか、分からなかった。
大丈夫だと伝えたい。
きっと春を迎えられると、笑って言いたい。
でも、根拠のない希望を口にすることが、今はできなかった。
しばらくして、美雪が顔を上げた。
「……蓮」
「うん」
「まだ……春じゃないよ」
蓮は、美雪を見つめた。
「……うん」
「だから」
美雪は、震える声を必死に抑えながら続けた。
「まだ、時間はあるよ」
その目には、まだ涙が残っていた。
それでも、美雪は蓮から目を逸らさなかった。
「今日だって、まだ終わってない」
「……」
「明日もある」
「うん」
「明後日も、その次の日もある」
美雪は、そっと蓮の手を取った。
冷たくなった指先を、自分の両手で包み込む。
「だから……一日ずつ、一緒に過ごそう」
蓮は、その手を見つめた。
「……美雪」
「うん?」
「俺、春を迎えたい」
美雪の目から、また涙がこぼれた。
「……うん」
「桜を見たい」
「うん」
「美雪と、一緒に」
美雪は、強く頷いた。
「……一緒に見よう」
その声は震えていた。
それでも、はっきりとした声だった。
「絶対に、一緒に見よう」
蓮は、美雪の手を握り返した。
「……うん」
約束できる未来ではないのかもしれない。
誰にも保証できない時間なのかもしれない。
それでも。
二人は、まだ諦めたくなかった。
*
その夜。
蓮は、自分の部屋でノートを開いた。
いつものノート。
これまで、たくさんの願いや目標を書き留めてきたノートだった。
新しいページの上部に、日付を書く。
十一月二十七日。
その下に、ゆっくりと文字を綴った。
『医師から、春を迎えられるとは約束できないと言われた。』
ペンが止まる。
その一文を、何度も見つめた。
たった一行。
それなのに、どうしてこんなにも重いのだろう。
目の奥が熱くなった。
ぽたり。
一滴の涙が、紙の上に落ちた。
文字が、わずかに滲む。
「……くそ」
蓮は、慌てて袖で目元を拭った。
泣きたくなんてなかった。
でも、涙は止まらなかった。
怖かった。
春を迎えられないかもしれないことが。
美雪との約束を守れないかもしれないことが。
これから先、どれだけの時間が残されているのか分からないことが。
それでも。
蓮は、もう一度ペンを握った。
震える手で、続きを書き始める。
『でも、僕は諦めない。』
『まだ十一月だから。』
『これから冬が来る。』
『十二月もある。』
『一月も、二月もある。』
『そして、三月が来る。』
そこで、少しだけ手が止まった。
本当に、三月までたどり着けるのだろうか。
その先の春を、自分の目で見ることができるのだろうか。
答えは分からない。
それでも、蓮はペンを動かした。
『だから、春を諦めたくない。』
そして、最後に。
『美雪と桜を見る。』
そう書いた。
書き終えた文字を、しばらく見つめる。
その一文だけは、涙で滲ませたくなかった。
蓮は、ノートをそっと閉じた。
*
その夜、美雪から一枚の写真が届いた。
今日の夕方、二人で座っていた駅前のベンチ。
誰も座っていない、静かなベンチだった。
夕暮れの光が、ベンチの端を淡く照らしている。
写真には、短いメッセージが添えられていた。
『今日も一緒にいてくれてありがとう』
蓮は、画面を見つめた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
今日も一緒にいてくれて、ありがとう。
本当は、自分の方こそ伝えたかった言葉だった。
怖いときに、そばにいてくれてありがとう。
泣きそうなときに、手を握ってくれてありがとう。
未来を諦めそうになったとき、一緒に生きようと言ってくれてありがとう。
たくさんの言葉が浮かんだ。
けれど、どれも上手く文章にできなかった。
結局、蓮は短く返信した。
『こちらこそ』
それから、しばらくして。
もう一通、メッセージが届いた。
『明日も会おうね』
蓮は、何度もその文字を読み返した。
明日も会おう。
たったそれだけの約束。
でも、今の蓮にとっては、何よりも大切な言葉だった。
蓮は、ゆっくりと返信した。
『うん』
たった二文字。
それでも、その中には、今まで以上の願いが込められていた。
――明日も生きる。
――明日も美雪に会う。
――もう一度、一緒に笑う。
――まだ、終わらせない。
スマートフォンを胸元に抱き寄せ、蓮は目を閉じた。
明日が来ることを、こんなにも強く願ったのは初めてだった。
*
深夜。
蓮は、なかなか眠れずにいた。
窓の外では、冷たい風が吹いている。
街灯の明かりが、静かな道路を照らしていた。
いつもと変わらない夜。
それなのに、目を閉じると、医師の言葉が何度も頭の中で繰り返された。
――今は、誰にも約束できません。
「……」
蓮は布団から起き上がった。
机の引き出しを開ける。
中には、美雪に宛てて書いた手紙が入っていた。
そのほかにも、二人で撮った写真や、小さな箱がしまわれている。
蓮は、一つずつ手に取った。
写真を見つめる。
美雪の笑顔。
二人で過ごした時間。
そこに写っている自分は、今より少しだけ幸せそうに見えた。
いや。
きっと、今も幸せなのだ。
ただ、その幸せを失うことが怖いだけで。
蓮は、手紙を取り出した。
何度も書き直した、長い手紙だった。
美雪に伝えたいこと。
謝りたいこと。
感謝していること。
そして、自分がいなくなったあとも、彼女には幸せでいてほしいという願い。
いつか、自分では直接伝えられなくなるかもしれない。
そう思って、書いた手紙だった。
蓮は、しばらくその手紙を見つめていた。
そして。
突然、封筒を破った。
びりっ、と乾いた音が部屋に響く。
「……まだ、いらない」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
便箋を取り出す。
一枚ずつ、書かれた言葉を見つめた。
そして、その紙を破っていった。
謝罪の言葉。
感謝の言葉。
別れを想像して書いた言葉。
それらを、一枚ずつ。
もう、こんな手紙を書きたくなかった。
自分がいなくなったあとの美雪を想像することも。
美雪に、自分のいない未来を生きてほしいと願うことも。
今は、まだ。
考えたくなかった。
けれど、最後の一枚だけは、どうしても破れなかった。
そこには、一行だけ書かれていた。
『幸せになって。』
蓮は、その文字を見つめた。
胸が、痛かった。
美雪には、幸せになってほしい。
心から、そう思っている。
自分がどんな未来を迎えたとしても、美雪には笑っていてほしい。
好きな写真を撮って。
好きな場所へ行って。
たくさんの人と出会って。
いつか、自分が知らない景色を見つけてほしい。
そして、幸せになってほしい。
それは、嘘偽りのない願いだった。
でも。
今は、まだ。
その言葉を、手紙に託したくなかった。
蓮は、紙を丁寧に折り畳んだ。
そして、捨てる代わりに、ノートの最後のページへそっと挟んだ。
「……俺が直接、言う」
小さく呟いた。
いつか。
美雪の目を見て。
自分の声で。
笑いながら。
「幸せになって」
そう伝えたい。
けれど、その前に。
まだ、一緒にいたい。
まだ、伝えたいことがある。
まだ、一緒に見たい景色がある。
春の桜も。
夏の青空も。
秋の夕焼けも。
そして、何気ない日常の一瞬一瞬も。
だから。
まだ、終われない。
蓮は、ノートを閉じた。
その手には、ほんの少しだけ力が戻っていた。
*
窓の外では、冷たい風が吹き続けていた。
街は眠り、夜は静かに深まっていく。
蓮の未来は、まだ見えない。
明日、何が起こるのかさえ分からない。
それでも。
彼の中には、確かに残っているものがあった。
美雪と過ごした時間。
交わした約束。
そして、春を迎えたいという願い。
誰にも約束できない未来だとしても。
誰にも保証できない時間だとしても。
蓮は、もう一度、その未来を信じてみたかった。
遠い春のどこかで。
桜はまだ、静かに眠っている。
誰にも知られないまま。
その花を咲かせる日を、じっと待ちながら。




