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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第三十章 言えなかった言葉

十一月三十日。


 月曜日。


 朝。


 蓮は制服のボタンを一つずつ留めた。


 鏡の中に映る自分の顔を見つめる。


 少し痩せた頬。


 目の下には、薄い隈が浮かんでいた。


 以前よりも、ずっと疲れた顔をしている。


 それでも。


 今日だけは、笑っていたかった。


 美雪を不安にさせたくなかったから。


 いつもどおりの自分で、彼女に会いたかったから。


「……よし」


 小さく呟き、蓮は顔を上げた。


「行こう」


 学校へ。


 美雪のいる場所へ。


     *


 教室に入ると、美雪がいつものように笑顔で迎えてくれた。


「おはよう、蓮」


「おはよう」


 美雪は蓮の顔をじっと見つめた。


「今日は、少し顔色がいいね」


「そうか?」


「うん。昨日より元気そう」


「昨日はちゃんと寝たからな」


「本当に?」


「ああ、本当」


「そっか……よかった」


 美雪は、ほっと胸を撫で下ろすように微笑んだ。


 その笑顔を見た瞬間、蓮の胸がかすかに痛んだ。


 病気の痛みとは違う。


 もっと温かくて、苦しくて。


 どうしようもなく、愛おしい気持ちだった。


 ――好きだ。


 ずっと前から。


 気づいたときには、もうどうしようもないくらい好きになっていた。


 彼女の笑顔を見るだけで嬉しくなる。


 彼女が悲しそうにしていると、自分まで苦しくなる。


 何気ない言葉一つで、一日中幸せになれる。


 そんな自分の気持ちに、もう気づかないふりはできなかった。


 それなのに。


 たった一言が、どうしても言えない。


 伝えたい。


 伝えなければ、きっと後悔する。


 それでも、もし伝えたことで今の関係が変わってしまったら。


 もし、彼女を困らせてしまったら。


 そう考えると、どうしても勇気が出なかった。


     *


 昼休み。


 二人は、いつもの場所で向かい合って弁当を食べていた。


「今日の卵焼きさ」


「うん?」


「ちょっと焦げてる」


「……っ」


 美雪の手が止まった。


「蓮……」


「ん?」


「それ、言わなくてもよくない?」


「いや、だって……」


「失敗したの!」


 美雪は少しだけ頬を膨らませた。


 その表情がおかしくて、蓮は思わず笑ってしまった。


「でも、美味しいよ」


「……本当に?」


「ああ。本当」


「無理してない?」


「してないって」


 蓮は、もう一口食べてみせた。


「ほら、美味しい」


 美雪はしばらく蓮の顔を見つめていたが、やがて安心したように笑った。


「……じゃあ、次はもっと上手に作るね」


「楽しみにしてる」


「もう。何回言うの?」


「何回でも言うよ」


「ふふっ。じゃあ、期待してて」


 二人の笑い声が、静かな場所に響いた。


 何でもない会話。


 いつもと変わらない昼休み。


 けれど、蓮にとっては、その一瞬一瞬がかけがえのないものだった。


 いつまで、こうしていられるのだろう。


 そんな考えが、ふと頭をよぎる。


 すぐに打ち消そうとした。


 今は、考えたくなかった。


 ただ、この時間を大切にしたかった。


 美雪と笑い合える、この何気ない時間を。


 できることなら。


 この時間が、永遠に続いてほしかった。


     *


 放課後。


 帰り支度を終えた美雪が、蓮の顔を覗き込んだ。


「ねえ、今日はどこに行く?」


「……実は、行きたいところがあるんだ」


「行きたいところ?」


「ああ」


「どこ?」


 蓮は、少しだけ迷ってから答えた。


「俺の秘密の場所」


「あっ、この前言ってたところ?」


「うん」


「やっと連れていってくれるんだ?」


「……やっとな」


 美雪は嬉しそうに笑った。


「楽しみ!」


 その笑顔を見て、蓮も自然と笑みを浮かべた。


 二人は並んで教室を出た。


 いつもの帰り道とは反対の方向へ。


     *


 駅とは反対側の道を歩き、川沿いの道をさらに進む。


 やがて、古びた商店街が見えてきた。


 人通りは少なく、夕方の風が静かに吹き抜けている。


 商店街を抜けた先に、小さな橋があった。


「ここだよ」


 蓮が足を止める。


 美雪は周囲を見回した。


「……ここ?」


「ああ」


「普通の橋だけど……」


「まあな」


「ここが秘密の場所なの?」


「そう」


 美雪は不思議そうに首を傾げた。


「どうして、ここなの?」


 蓮は橋の手すりにそっと手を置いた。


 冷たい金属の感触が、指先に伝わってくる。


「昔……ここから夕焼けを眺めてたんだ」


「一人で?」


「ああ」


「いつ頃?」


 蓮は、少しだけ視線を落とした。


「家を出たあと」


 その言葉を聞いて、美雪の表情が変わった。


 何も聞かず、ただ蓮を見つめている。


「何も持ってなかったんだ。お金も、行く場所も……頼れる人も」


 蓮は苦笑した。


「今思えば、よく生きてこられたなって思うよ」


「蓮……」


「でもさ」


 蓮は顔を上げ、川の向こうに目を向けた。


「ここに座って、夕焼けを見てると……不思議と少しだけ安心できたんだ」


「……」


「明日がどうなるかなんて、全然分からなかった。でも、空があんなに綺麗なら……もう少しだけ頑張ってみようって思えた」


 風が吹いた。


 川面が揺れ、夕日の光が細かく砕けていく。


「だから、ここは俺にとって特別な場所なんだ」


 美雪は、ゆっくりと蓮の隣に立った。


「……今は?」


「え?」


「今も、ここに来ると安心する?」


 蓮は美雪を見つめた。


 そして、静かに首を横に振った。


「今は……」


 少しだけ、声が詰まった。


「今は、一人じゃないから」


 美雪の瞳が、かすかに揺れた。


「……うん」


 彼女は小さく笑い、蓮の隣で川を見つめた。


 それ以上、何も言わなかった。


 けれど、そっと近づいてくれた彼女の肩が、蓮の腕に触れた。


 その温もりだけで、十分だった。


     *


 夕焼けが、空をゆっくりと赤く染めていく。


 橋の上に並んで立つ二人の影が、長く伸びていた。


「綺麗だね……」


「ああ」


「ねえ、写真撮ろうよ」


「また?」


「また!」


 美雪は楽しそうにスマートフォンを取り出した。


「だって、今日の夕焼け、すごく綺麗だもん」


「分かったよ」


 蓮が隣に並ぶと、美雪はスマートフォンを構えた。


 けれど、シャッターを押す直前。


「……美雪」


「ん?」


「俺……」


 蓮の声が、かすかに震えた。


 美雪はスマートフォンを下ろし、彼の顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」


「話したいことがあるんだ」


「……うん」


 美雪は真剣な表情になった。


「何?」


 蓮は制服のポケットに手を入れた。


 指先が、小さな紙に触れる。


 何度も開いては、閉じてきた紙。


 そこに書かれているのは、たった一言だった。


『好き』


 それだけ。


 たった二文字。


 なのに、その二文字を書くまでに、どれだけ悩んだだろう。


 何度もノートに書いた。


 鏡の前で、声に出す練習もした。


 眠れない夜には、頭の中で何度も繰り返した。


 ――美雪、好きだ。


 簡単な言葉のはずだった。


 誰もが、当たり前のように口にする言葉。


 なのに、蓮にとっては、どんな言葉よりも難しかった。


 もし、拒絶されたら。


 もし、今までのように笑い合えなくなったら。


 もし、彼女の隣にいられなくなったら。


 考えるだけで、胸が締めつけられた。


 それでも。


 伝えたかった。


 今まで言えなかった気持ちを。


 これから先、何が起きたとしても、絶対に嘘ではない気持ちを。


「俺……」


「うん」


「美雪のこと……」


 その瞬間だった。


「……っ!」


 突然、胸の奥に鋭い痛みが走った。


「……あっ」


 息が詰まる。


 視界がぐらりと揺れた。


「蓮?」


 美雪の声が遠く聞こえる。


 呼吸がうまくできない。


 胸を押さえようとしても、指先に力が入らなかった。


「蓮! どうしたの!?」


「……だい、じょうぶ……」


「大丈夫じゃないよ!」


 蓮は、必死に橋の手すりをつかんだ。


 足元がふらつく。


 身体が、言うことを聞かない。


「薬……」


「薬?」


「ポケット……」


「分かった、待って!」


 美雪は震える手で、蓮の制服のポケットを探った。


「これ? これでいいの!?」


「……ああ」


 蓮は薬を受け取り、震える手で口に運んだ。


 けれど。


 痛みは、すぐには引かなかった。


「蓮……!」


 美雪の声が震える。


「お願い、しっかりして……!」


「……美雪……」


「救急車を呼ぶから!」


「待っ……」


「待てないよ!」


 美雪の目に、涙が浮かんでいた。


「お願いだから……もう、無理しないで……!」


 その声を聞いた瞬間、蓮の胸が別の痛みで締めつけられた。


 自分が苦しいことよりも。


 彼女をこんな顔にさせてしまったことが、何よりもつらかった。


 美雪は蓮の背中をさすりながら、何度も声をかけた。


「大丈夫……大丈夫だから……」


 まるで、自分自身にも言い聞かせるように。


「私がいるから……一人じゃないから……」


 その言葉を聞きながら、蓮は必死に息を吸おうとした。


 吸って。


 吐いて。


 何度も繰り返す。


 それでも、呼吸は乱れたままだった。


 怖い。


 ただ、怖かった。


 まだ伝えていない。


 まだ、何も伝えられていない。


 こんなところで終わりたくない。


 美雪に、言いたいことがあるのに。


 ――お願いだ。


 ――もう少しだけ。


 心の中で何度も願いながら、蓮は彼女の声に耳を傾け続けた。


     *


 しばらくして。


 胸の痛みが、少しずつ和らいでいった。


 乱れていた呼吸も、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。


「……はぁ……」


 蓮は、長く息を吐いた。


「蓮……?」


 美雪が不安そうに顔を覗き込む。


「……ごめん」


「謝らないで」


「また……怖い思いをさせた」


「そんなこと、どうでもいいよ……!」


 美雪の声が震えた。


「そんなことより……」


 彼女は蓮の手を、ぎゅっと握った。


「生きててくれれば、それでいい……」


「……美雪」


「お願いだから……私を置いていかないで……」


 最後の言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。


 蓮は何も言えなかった。


 美雪の手が震えている。


 泣かないように必死にこらえているのが、伝わってきた。


 自分は、何をしているのだろう。


 彼女を笑顔にしたいと思っていた。


 幸せにしたいと思っていた。


 それなのに、気づけばいつも心配ばかりかけている。


 蓮は、握られた手にそっと力を込めた。


「……ごめん」


 もう一度、そう呟いた。


 美雪は首を横に振った。


「だから……謝らないでってば……」


 その声を聞きながら、蓮は俯いた。


 制服のポケットの中で、小さな紙が指先に触れた。


『好き』


 たった二文字。


 伝えるはずだった言葉。


 けれど、今日も言えなかった。


     *


 帰り道。


 二人は、いつもよりゆっくりと歩いていた。


 美雪は何度も蓮の顔を確かめる。


 少しでも苦しそうな様子を見せれば、すぐに足を止めた。


「……美雪」


「なに?」


「もう大丈夫だから」


「本当に?」


「ああ」


「無理してない?」


「してないよ」


 美雪は、納得できないというように唇を結んだ。


 そして、少し間を置いてから口を開いた。


「明日、病院に行こう」


「……ああ」


「ちゃんと先生に相談して」


「分かった」


「一人で勝手に決めないでね」


「……うん」


「何かあったら、ちゃんと話して」


「分かったよ」


 美雪は立ち止まり、蓮の目を見つめた。


「約束して」


 その瞳には、まだ消えない不安が残っていた。


 蓮は、ゆっくりと頷いた。


「約束する」


 美雪はようやく、少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、蓮は胸の奥で誓った。


 もう、彼女に隠し事ばかりするのはやめよう。


 自分のことも。


 自分の気持ちも。


 ちゃんと伝えよう。


 たとえ、それが怖くても。


     *


 駅に着くと、二人はホームで電車を待った。


 夕方の風が吹き抜ける。


 電車の到着を知らせるアナウンスが、遠くから聞こえてきた。


「ねえ、蓮」


「ん?」


「さっきのことなんだけど……」


 蓮の心臓が、どくんと跳ねた。


「……うん」


「何を言おうとしてたの?」


 蓮は思わず視線を逸らした。


「……別に」


「嘘」


「……」


「何か言いかけたでしょ?」


「……よく分かったな」


「ずっと一緒にいるんだから、それくらい分かるよ」


 美雪は、少しだけ頬を膨らませた。


「私には言えないこと?」


「そういうわけじゃ……」


「じゃあ、教えて?」


 蓮は唇を噛んだ。


 言ってしまおうか。


 今なら。


 今なら、言えるかもしれない。


 けれど、喉の奥で言葉がつかえてしまう。


「……秘密」


 結局、口から出たのは、その一言だった。


「えー、また秘密?」


 美雪は少し不満そうに頬を膨らませた。


 けれど、すぐに表情を和らげた。


「……まあ、いいけど」


「悪いな」


「その代わり」


「ん?」


「いつか、ちゃんと聞かせてね」


 蓮は美雪を見つめた。


 彼女は、急かすこともなく、ただ静かに微笑んでいた。


 その優しさが、胸に染みた。


「……ああ」


「約束?」


「約束」


 美雪は嬉しそうに笑った。


 蓮も笑い返した。


 けれど、胸の奥では、後悔が静かに広がっていた。


 ――いつかじゃない。


 明日、伝えよう。


 明日こそ。


     *


 その夜。


 蓮は自分の部屋で机に向かっていた。


 窓の外は暗く、部屋の中には時計の秒針の音だけが響いている。


 制服のポケットから、小さな紙を取り出した。


 何度も折り目をつけた、少しくたびれた紙。


 そこには、たった一言が書かれていた。


『好き』


「……言えなかったな」


 蓮は苦笑した。


 何度も練習したのに。


 何度も、今日こそは伝えようと決めたのに。


 いざ目の前にすると、怖くなってしまう。


 失いたくない。


 今の関係も。


 隣で笑ってくれる彼女も。


 何もかも。


 けれど。


 伝えなければ、きっと後悔する。


 どんな未来が待っていたとしても、この気持ちだけは嘘じゃないから。


 蓮は小さな紙を丁寧に畳み、ノートの間に挟んだ。


 そして、新しいページを開く。


 ペンを握り、しばらく考えてから文字を書いた。


 ㊳ 美雪に「好き」と伝える。


 その下に、もう一度書き足す。


 ――絶対に。


 今度こそ。


 逃げない。


     *


 机の上に置いていたスマートフォンが震えた。


『家に着いた?』


 美雪からだった。


『うん。今、部屋にいる』


 すぐに返信が来た。


『よかった』


 少し間が空いて。


『今日は怖かった』


 蓮は画面を見つめた。


 何と返せばいいのか分からなかった。


 しばらく迷ってから、短く打ち込む。


『ごめん』


 すぐに返信が届いた。


『謝らないで』


『……うん』


 それから、しばらくメッセージは途切れた。


 もう寝たのだろうか。


 そう思い始めた頃、再びスマートフォンが震えた。


『蓮』


『何?』


 少しの沈黙。


 そして。


『私、あなたに死んでほしくない』


 蓮の指が止まった。


 画面に映るその言葉を、何度も読み返す。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


『……うん』


 それしか返せなかった。


 すると、またメッセージが届いた。


『絶対に』


 続けて、もう一通。


『春まで、一緒にいよう』


 蓮は目を伏せた。


 涙が、静かに頬を伝った。


 春。


 あと何か月あるのだろう。


 自分は、その日まで彼女の隣にいられるのだろうか。


 答えなんて、分からない。


 それでも。


 彼女は、一緒にいたいと言ってくれた。


 自分と同じ未来を願ってくれた。


 それが、たまらなく嬉しかった。


 蓮は涙を拭い、震える指で返信した。


『約束する』


 すぐに返事が来る。


『約束だよ』


 蓮は、スマートフォンを胸に抱きしめた。


 ――絶対に。


 もう少しだけでもいい。


 彼女の隣にいたい。


 春を、一緒に迎えたい。


     *


 翌朝。


 病院。


 診察室で、蓮は医師と向き合っていた。


「昨日の発作についてですが……」


「はい」


「やはり、一度入院して詳しく状態を確認することをお勧めします」


 蓮は黙って話を聞いていた。


「今後のことも含めて、治療方針を考える必要があります」


「……そうですか」


「学校についても、少し考えたほうがいいでしょう」


 医師は、慎重に言葉を選びながら続けた。


「場合によっては、休学するという選択肢もあります」


「休学……」


 その言葉を、蓮は小さく繰り返した。


 頭の中に、教室の風景が浮かんだ。


 美雪の笑顔。


 昼休みに一緒に食べる弁当。


 放課後の何気ない会話。


 いつもの帰り道。


 どれも、失いたくないものばかりだった。


「少し……考えさせてください」


「もちろんです。ご家族とも相談しながら、無理のない選択をしてください」


「……はい」


 蓮は窓の外を見つめた。


 青い空が広がっている。


 いつもと変わらない、穏やかな朝だった。


 それなのに。


 自分の未来だけが、少しずつ遠ざかっていくような気がした。


 それでも、蓮は顔を上げた。


「でも……」


「はい?」


「学校に通える間は、できるだけ学校に行きたいです」


 医師は静かに頷いた。


「分かりました。ただし、体調に異変があれば、無理をせず、すぐに周囲の人に伝えてください」


「……はい」


 蓮は、しっかりと頷いた。


 残された時間がどれくらいあるのかは分からない。


 だからこそ。


 今、できることを大切にしたかった。


     *


 病院を出た蓮は、すぐに美雪へ電話をかけた。


「もしもし」


『蓮? どうだった?』


「……入院することになるかもしれない」


 電話の向こうが、静かになった。


 聞こえるのは、かすかな呼吸音だけ。


『……そっか』


「ああ。でも、まだ決まったわけじゃない」


『うん……』


「これから、先生と相談して決めることになった」


『そっか……分かった』


 美雪の声は、いつもより小さかった。


 きっと、何かを言いたいのだろう。


 けれど、何を言えばいいのか分からないのかもしれない。


 蓮も同じだった。


 何と言えば、彼女を安心させられるのだろう。


 どうすれば、この不安を少しでも分け合えるのだろう。


「……美雪」


『なに?』


「それまで……」


 蓮は、言葉を探した。


「それまで、できるだけ一緒にいたい」


 しばらく返事がなかった。


 やがて。


『……私も』


 かすかに震えた声が、耳に届いた。


『私も、蓮と一緒にいたい』


 その一言だけで、蓮は救われた気がした。


 たとえ未来が見えなくても。


 たとえ明日が怖くても。


 今は、彼女と同じ気持ちでいられる。


 それだけで、もう少し頑張れる気がした。


     *


 その夜。


 蓮はノートの最後のページを開いた。


 そこには、まだ何も書かれていなかった。


 真っ白なページ。


 これまで書き続けてきた目標の、その先にあるもの。


 蓮はペンを握り、ゆっくりと文字を書いた。


『美雪に、好きだと伝える』


 書き終えてから、その一行をじっと見つめた。


 明日。


 明日こそ、言おう。


 どんなに怖くても。


 どんな未来が待っていたとしても。


 自分の気持ちだけは、きちんと伝えたい。


 後悔したくないから。


 そして何より。


 彼女に、知ってほしいから。


 どれほど大切に思っているのか。


 どれほど、一緒にいたいと願っているのか。


 どれほど――。


 好きなのか。


 蓮はペンを置き、机の上にある写真立てを手に取った。


 そこには、美雪と一緒に写った二人の写真が飾られていた。


 写真の中の自分は、今より少しだけ自然に笑っている。


 隣では、美雪が幸せそうな顔をしていた。


「……美雪」


 小さく名前を呼ぶ。


 返事はない。


 それでも、蓮は写真を見つめながら、そっと微笑んだ。


「好きだよ」


 誰もいない部屋で。


 初めて、その言葉を声に出した。


 ずっと心の中に閉じ込めてきた気持ち。


 何度も伝えようとして、何度も飲み込んできた言葉。


 それが今、ようやく声になった。


「……本当に、好きなんだ」


 声が、かすかに震えた。


 目の奥が熱くなる。


 こんなにも簡単な言葉なのに。


 どうして、本人を前にすると言えなくなってしまうのだろう。


 蓮は写真立てを胸に抱きしめ、静かに目を閉じた。


 けれど。


 その言葉を聞いたのは、自分だけだった。


     *


 そして、翌日。


 蓮は制服に袖を通した。


 鏡の前に立ち、深く息を吸う。


 まだ怖い。


 昨日の発作も。


 医師から告げられた言葉も。


 これから先の未来も。


 何一つ、答えは出ていない。


 それでも。


 今日は、逃げたくなかった。


 伝えたい言葉がある。


 ずっと胸の奥にしまい込んできた、大切な気持ちがある。


 蓮は制服のポケットに手を入れた。


 そこには、あの小さな紙が入っていた。


『好き』


 何度も見つめてきた、たった一言。


 今度こそ。


 自分の声で、彼女に伝えよう。


 たとえ、どんな返事が返ってきたとしても。


 この気持ちだけは、嘘にしたくない。


「……よし」


 蓮は顔を上げた。


 そして、玄関のドアを開けた。


 朝の光が、目の前に広がっていた。


 美雪に会うために。


 人生で一番大切な言葉を伝えるために。


 蓮は、学校へと歩き出した。


 ――明日ではない。


 今日こそ、伝えるんだ。


 胸の奥に、確かな決意を抱きながら。

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