第三十一章 君に伝えたかった
十二月一日。
火曜日。
朝。
蓮は制服に袖を通し、鏡の前に立っていた。
今日は、伝える。
絶対に。
昨日の夜から、何度もそう決めていた。
何度も頭の中で言葉を繰り返し、何度も自分に言い聞かせた。
それでも、いざ今日という日を迎えると、胸の奥が落ち着かなかった。
鏡に映る自分の顔を見つめる。
「……大丈夫」
小さく呟いた。
「今日こそ、言うんだ」
制服のポケットに手を入れる。
指先に、小さな紙が触れた。
何度も書き直し、何度も折り畳んだ紙。
そこに書かれているのは、たった一言。
『好き』
たった二文字なのに。
その言葉を口にすることが、こんなにも怖い。
けれど、もう逃げたくなかった。
いつか伝えよう。
明日こそ伝えよう。
そうやって先延ばしにするたびに、後悔してきた。
だから、今日こそ。
自分の気持ちに、正直になろう。
*
学校。
教室。
「おはよう、蓮」
席に着こうとした蓮に、美雪が笑顔で声をかけた。
「おはよう」
「今日は早いね」
「まあな」
「何かいいことでもあった?」
「……あるかも」
「えっ、何それ?」
美雪が不思議そうに首を傾げる。
「教えてよ」
「それは……秘密」
「また秘密?」
「今日だけ」
「何それ。余計に気になるんだけど」
美雪は頬を膨らませたあと、楽しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間。
蓮の決意が、ぐらりと揺らいだ。
――こんな顔を、悲しませたくない。
もし、気持ちを伝えて、彼女を困らせてしまったら。
もし、今までのように笑い合えなくなったら。
そんな未来を想像するだけで、胸が苦しくなる。
でも。
だからこそ、伝えたい。
美雪のことが、どれほど大切なのか。
彼女と過ごす時間が、どれほど自分を変えてくれたのか。
そして。
これからも、ずっと隣にいたいということを。
蓮は、ポケットの中の紙をそっと握りしめた。
――逃げるな。
自分にそう言い聞かせた。
*
午前の授業。
先生の声が教室に響く。
黒板に書かれる文字。
ノートをめくる音。
窓から差し込む冬の光。
いつもと変わらない光景なのに、蓮の頭には何一つ入ってこなかった。
気づけば、また時計を見ている。
あと何時間。
あと何分。
放課後まで、どれくらいあるのだろう。
早く時間が過ぎてほしい。
でも、放課後になってほしくない。
そんな矛盾した気持ちが、胸の中で何度もぶつかり合っていた。
ふと、隣から視線を感じた。
「……蓮?」
「ん?」
美雪が、少し不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたの? さっきから、ずっとそわそわしてるけど」
「何でもないよ」
「本当に?」
「ああ」
「今日、なんだか変だよ」
「そうか?」
「うん」
美雪は少し考えたあと、いたずらっぽく笑った。
「もしかして、何か企んでる?」
「……秘密」
「また秘密!」
美雪は小さく笑った。
「怪しいなあ」
「気のせいだよ」
「絶対、何かあるでしょ」
二人で笑う。
何でもない、いつものやり取り。
その何気ない時間が、蓮にはたまらなく愛おしかった。
この笑顔を、もっと見ていたい。
明日も。
明後日も。
できることなら、ずっと。
けれど、そんな願いを口にする勇気は、まだなかった。
*
昼休み。
二人は、いつもの場所で向かい合っていた。
美雪が弁当箱を開く。
「今日はね……」
少しもったいぶってから、蓋を持ち上げた。
「オムライス!」
「……」
蓮は、思わず目を見開いた。
「どうしたの?」
「いや……」
美雪が不思議そうに顔を覗き込む。
蓮は、彼女の作ったオムライスを見つめた。
ケチャップで描かれた、小さなハート。
それを見た瞬間、考えるより先に言葉が口をついて出た。
「……好き」
「えっ?」
美雪の手が止まった。
蓮も固まった。
「今……好きって言った?」
「いや、その……」
「えっ、何? もう一回言って?」
「食べ物の話だよ!」
「……紛らわしいなあ、もう」
美雪は頬を赤くして、視線を逸らした。
その耳まで赤くなっているのを見て、蓮も慌てて顔を背けた。
心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
ほんの一瞬だった。
たった一言、口にしただけ。
それなのに、こんなにも動揺してしまう。
蓮は小さく息を吐いた。
――今日。
今日こそ、ちゃんと伝えるんだ。
今度は、誤魔化さずに。
*
放課後。
教室から、少しずつ生徒たちがいなくなっていく。
鞄を肩にかけた美雪が、蓮の机の前で足を止めた。
「蓮、帰らないの?」
「もう少しだけ」
「何か用事?」
「ああ」
「どこか行くの?」
「うん」
蓮は一度息を吸った。
「……前に行った場所」
「前に?」
「橋だよ」
美雪は、すぐに思い出したように頷いた。
「ああ、あの橋ね」
「……うん」
「分かった。一緒に行こう」
彼女は、何も疑わずに笑った。
その笑顔を見て、蓮の胸がじんわりと温かくなった。
今日、この場所で。
自分の気持ちを伝える。
二人は並んで教室を出た。
*
川沿いの道。
十二月の風は冷たく、吐く息がわずかに白くなっていた。
やがて、あの日と同じ小さな橋が見えてきた。
「……ここだね」
美雪が橋の前で足を止めた。
「ああ」
「初めて来たときのこと、覚えてる?」
「もちろん」
「そっか。私、蓮は忘れてると思ってた」
「忘れるわけないだろ」
蓮は苦笑した。
「あの日のことは、ちゃんと覚えてるよ」
美雪は嬉しそうに微笑んだ。
二人は橋の上へ歩いていった。
川面には、夕焼けの光が静かに揺れている。
「……綺麗だね」
「ああ」
美雪は手すりにそっと触れながら、空を見上げた。
蓮は、その横顔を見つめていた。
初めてここに来た日。
自分は、彼女に過去のことを話した。
何も持っていなかったこと。
誰にも頼れなかったこと。
明日さえ、どうなるか分からなかったこと。
あの頃は、ただ一日を生き延びるだけで精いっぱいだった。
未来なんて、考えたこともなかった。
けれど、今は違う。
隣にいてほしい人がいる。
一緒に見たい景色がある。
叶えたい約束がある。
そして。
そのすべてが、美雪につながっていた。
「……美雪」
「何?」
美雪が振り返る。
蓮は、ゆっくりと息を吸った。
「話があるんだ」
美雪の表情が、少しだけ真剣になった。
「……うん」
蓮はポケットから、小さな紙を取り出した。
何度も見つめてきた、あの紙。
そこに書かれた二文字を目にした途端、喉の奥が詰まった。
言わなければ。
今、言うんだ。
「……蓮?」
美雪の声が、優しく響いた。
「大丈夫?」
「ああ……大丈夫」
そう答えたものの、声が少し震えていた。
蓮は紙を握りしめた。
「俺、美雪と出会って……」
「うん」
「最初は、こんなふうになるなんて思ってなかった」
「こんなふう?」
「誰かと一緒にいたいって……こんなに強く思うなんて、考えたこともなかったんだ」
美雪は何も言わず、静かに耳を傾けていた。
「学校も、家も……未来のことも、全部どうでもいいと思ってた」
蓮は少しだけ笑った。
「明日なんて、来なくてもいいって思ってたこともあった」
「……蓮」
「でも、美雪と出会ってから、変わったんだ」
夕焼けの向こうへ、一度だけ視線を向ける。
「明日が来るのが、楽しみになった」
美雪の瞳が揺れた。
「朝、学校に行けば美雪に会える。昼休みには、一緒に弁当を食べられる。帰り道には、くだらない話をしながら笑える」
蓮は、少しずつ言葉を紡いだ。
「そんな毎日が、俺にはすごく大切になったんだ」
声が震える。
それでも、もう目を逸らさなかった。
「美雪と過ごす時間が増えるたびに、もっと一緒にいたいって思うようになった」
美雪の目に、涙が浮かび始めた。
「明日も会いたい。明後日も、その先も……ずっと」
蓮は唇を噛んだ。
怖かった。
今でも、怖い。
けれど、彼女の目を見ていると、もう誤魔化したくなかった。
「だから、俺は……」
小さく息を吸う。
そして。
「美雪が好きだ」
静かに、その言葉を口にした。
風が吹き抜けた。
川面が揺れた。
遠くから、車の走る音が聞こえた。
けれど、蓮には何も聞こえなかった。
美雪の返事を待つ、その数秒間。
それは、永遠のように長く感じられた。
「……」
美雪は何も言わなかった。
ただ、蓮を見つめていた。
やがて。
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。
「……ばか」
「え……?」
思いもよらない言葉に、蓮は目を見開いた。
美雪は涙を拭おうとした。
けれど、次から次へと溢れてくる。
「遅いよ……」
声が震えていた。
「……本当に、遅い」
「美雪……」
「私だって……ずっと、言いたかったのに……」
美雪は俯き、涙をこぼしながら笑った。
「私も……蓮が好き」
その瞬間。
蓮の目が大きく見開かれた。
「……本当に?」
「うん」
「俺のこと……?」
「そうだよ」
美雪は涙を拭き、もう一度、蓮を見つめた。
「ずっと好きだった」
蓮は言葉を失った。
何度も想像した。
何度も願った。
けれど、実際にその言葉を聞くと、胸がいっぱいになって何も言えなくなった。
「……嘘じゃ、ないよな?」
「こんなときに嘘なんてつかないよ」
美雪は泣きながら笑った。
「だから……もっと早く言ってよ」
「……ごめん」
「もう。謝らないでってば」
二人は顔を見合わせた。
泣きながら。
笑いながら。
今まで胸の奥にしまい込んでいた気持ちが、ようやく届いた。
蓮は、ずっと握りしめていた紙を見つめた。
そこには、たった一言。
『好き』
何度も練習した言葉。
何度も伝えられなかった言葉。
それが今、ようやく彼女に届いた。
蓮は紙をポケットにしまった。
もう、必要なかった。
その言葉は、ちゃんと自分の声で伝えられたのだから。
*
美雪が、そっと蓮の手を握った。
「ねえ……蓮」
「うん?」
「これからは……」
美雪は少し照れたように視線を落とした。
「私たち、恋人同士ってことだよね?」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
改めてそう言われると、急に恥ずかしくなってくる。
「ああ……うん」
「……ふふっ」
「何だよ」
「ううん。嬉しいなって思って」
美雪は、握った手にそっと力を込めた。
「好きな人と、こうして手をつなげるんだなって」
蓮は顔を逸らした。
「……俺も、嬉しいよ」
「本当?」
「本当」
「そっか」
美雪は、幸せそうに笑った。
その笑顔を見ているだけで、蓮の胸は温かくなった。
ずっと、こんな時間を夢見ていた。
隣にいることが当たり前になって。
好きだと伝えることができて。
その気持ちを、同じ言葉で返してもらえること。
自分には、そんな未来が訪れるはずがないと思っていた。
それなのに、今。
美雪が隣にいる。
自分の手を握ってくれている。
蓮は、彼女の手をそっと握り返した。
「……美雪」
「何?」
「ありがとう」
「え?」
「俺のこと、好きになってくれて」
美雪は驚いたように目を見開いた。
そして、少し困ったように笑った。
「……もう。そんなこと言われたら、また泣いちゃうでしょ」
「悪い」
「だから、謝らないの」
二人は、もう一度笑った。
そのとき、美雪がふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、蓮」
「うん?」
「約束してほしいことがあるの」
「何?」
美雪は、真剣な表情で蓮を見つめた。
「一緒に、春を迎えよう」
蓮の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
春。
その言葉が、胸の奥に静かに響いた。
どれだけ先のことだろう。
自分は、その日まで彼女の隣にいられるのだろうか。
答えは分からない。
それでも。
今、この瞬間だけは。
彼女の願いを、否定したくなかった。
蓮は美雪の手を、しっかりと握った。
「……ああ」
「絶対だよ?」
「絶対」
「一緒に桜を見るの」
「うん」
「約束だからね」
蓮は、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「絶対に、一緒に見よう」
美雪は安心したように微笑んだ。
その笑顔を、蓮は忘れないように心に刻んだ。
この約束だけは。
何があっても、守りたいと思った。
*
その瞬間だった。
突然、蓮の視界がぐらりと揺れた。
「……あれ?」
足元がふらつく。
美雪の顔が、ぼやけて見えた。
「……蓮?」
握っていた手から、力が抜けていく。
「蓮、どうしたの?」
「……っ」
胸の奥が、強く締めつけられた。
息が吸えない。
苦しい。
さっきまで、あんなに温かかったはずの身体が、急に冷たくなっていくようだった。
「蓮!?」
美雪が慌てて身体を支えた。
「大丈夫!? ねえ、蓮!」
返事をしようとした。
けれど、声が出ない。
「……薬……」
「薬!?」
「ポケット……」
「分かった、待って!」
美雪は震える手で蓮のポケットを探った。
「あった……! これ?」
「……うん」
蓮は薬を受け取り、どうにか服用した。
けれど、今回はなかなか痛みが治まらなかった。
「蓮、お願い……!」
美雪の声が震えた。
「救急車を呼ぶから!」
「……待って……」
「駄目!」
美雪はスマートフォンを取り出した。
「もう待てないよ……!」
涙が、頬を伝っていた。
蓮は、どうにか彼女の手を握った。
「……ごめん」
「何で謝るの!?」
「せっかく……気持ち、伝えられたのに……」
途切れ途切れの声で、蓮は言った。
「もっと……一緒に……」
「そんなこと言わないで!」
美雪は、首を横に振った。
「お願いだから……そんなこと言わないでよ……!」
握った手に、ぎゅっと力がこもる。
「今は、何も考えなくていいから……!」
美雪の声が、涙で震えていた。
「お願い……今は、生きることだけ考えて……!」
蓮は、ぼんやりと彼女を見つめた。
泣かせたくなかった。
笑っていてほしかった。
これから先も、ずっと。
それなのに。
また、こんな顔をさせてしまっている。
「……美雪」
「何? ここにいるよ!」
「……好きだ」
美雪の目から、また涙が溢れた。
「……うん」
「本当に……好きなんだ……」
「分かってる……! 分かってるから……!」
美雪は、彼の手を両手で包み込んだ。
「だから……お願い……!」
声が、かすれた。
「私の隣にいてよ……!」
蓮は、苦しい呼吸の合間に、かすかに頷いた。
まだ、伝えたいことがある。
まだ、一緒にしたいことがある。
まだ、彼女の隣で笑っていたい。
――だから。
どうか。
もう少しだけ。
*
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
その音は、次第に大きくなっていく。
赤い光が、夕暮れの街を照らした。
救急隊員たちが駆け寄り、蓮の状態を確認する。
美雪は、震える足でその場に立っていた。
「大丈夫ですか?」
「……はい。でも、蓮が……!」
「こちらで対応します。落ち着いてください」
蓮は担架に乗せられ、救急車へと運ばれていった。
美雪も、すぐに後を追った。
車内で、彼女はずっと蓮の手を握っていた。
「蓮……」
返事はない。
「大丈夫だからね……」
何度も、そう繰り返した。
自分に言い聞かせるように。
「一緒に春を見るんでしょ……?」
涙が止まらなかった。
「桜、見るんでしょ……?」
蓮の指先に、そっと触れる。
「約束したじゃん……」
声が震えた。
「だから……お願い……」
美雪は、彼の手をぎゅっと握った。
「絶対に、私を一人にしないで……」
サイレンが響く中、蓮の手の温もりだけを確かめるように。
美雪は、ずっと彼のそばにいた。
*
病院。
救急処置室。
蓮が運び込まれると、医療スタッフが慌ただしく動き始めた。
「ご家族の方ですか?」
看護師に声をかけられ、美雪は首を横に振った。
「……いえ。私は……」
言葉が詰まる。
ついさっきまで、恋人同士になれたばかりだった。
好きだと伝えて。
好きだと返してもらって。
これから一緒に春を迎えようと、約束したばかりだった。
なのに。
たった数分で、こんなことになるなんて。
「……恋人です」
美雪は、小さな声で答えた。
看護師は一瞬だけ表情を和らげた。
「分かりました。こちらでお待ちください」
処置室の扉が閉まった。
美雪は廊下の椅子に腰を下ろした。
急に、身体から力が抜けた。
膝の上には、蓮のスマートフォンがあった。
救急車に乗るとき、落としそうになった彼のスマートフォンを、無意識に握りしめていたのだ。
震える指で、画面を見つめる。
ロック画面には、二人で撮った写真が映っていた。
夕焼けの橋。
隣り合って笑う二人。
あの日、蓮が連れてきてくれた場所で撮った写真だった。
「……蓮」
美雪は画面に指先を添えた。
写真の中の彼は、笑っていた。
いつもより少し照れくさそうに。
それでも、確かに笑っていた。
美雪の視界が滲んだ。
「……お願い」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「お願いだから……」
唇を噛みしめる。
「この人を、連れていかないで……」
声を押し殺しても、涙は止まらなかった。
「まだ……何もしてないのに……」
一緒に行きたい場所がある。
一緒に食べたいものがある。
一緒に見たい景色がある。
もっと話したい。
もっと笑いたい。
もっと、蓮の隣にいたい。
今日、ようやく恋人になれたばかりなのに。
これからだったのに。
「……蓮……」
美雪は、スマートフォンを胸に抱きしめた。
廊下の時計だけが、何事もなかったかのように静かに時を刻んでいた。
*
どれくらい時間が経ったのだろう。
美雪には、もう分からなかった。
ただ、何度も時計を見つめては、処置室の扉を見た。
そして、ようやく。
扉が開いた。
「美雪さん」
医師が、こちらへ歩いてくる。
美雪は慌てて立ち上がった。
「……蓮は?」
声が震えた。
「今は、落ち着いています」
「……本当ですか?」
「はい。必要な処置を行い、現在は状態を慎重に確認しています」
その言葉を聞いた瞬間、美雪の膝から力が抜けそうになった。
「……よかった……」
胸に溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出す。
けれど、医師の表情はまだ厳しかった。
「ただ……」
美雪は、顔を上げた。
「今後については、慎重に考える必要があります」
「……今後?」
「これまでの経過も踏まえると、今の状態で学校生活を続けることは、かなり難しくなる可能性があります」
美雪は、唇を噛んだ。
頭の中に、蓮の言葉が蘇る。
――学校に通える間は、できるだけ学校に行きたい。
あの言葉を口にしたときの、彼の真剣な表情。
「……でも」
美雪は、震える声で尋ねた。
「本人が……それでも学校に行きたいって言ったら、どうなるんですか?」
医師は、少し考えてから答えた。
「本人の希望は大切です。ただし、病状によっては、治療や安静を優先しなければならないこともあります」
「……そう、ですよね」
「今後のことは、ご本人やご家族と相談しながら決めていくことになります」
美雪は、小さく頷いた。
「分かりました……」
それ以上、何も聞けなかった。
ただ、心の中で願っていた。
どうか。
もう一度、笑顔を見せてほしい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
そして。
いつか、本当に一緒に春を迎えられますように。
*
病室。
白い天井が、ぼんやりと視界に映った。
「……ん……」
蓮は、ゆっくりと目を開けた。
身体が重い。
腕には点滴がつながれていた。
消毒液の匂い。
静かな機械音。
ここが病院だと気づくまで、少し時間がかかった。
「……そっか」
小さく呟く。
橋の上での出来事が、少しずつ頭の中に蘇ってきた。
美雪に告白したこと。
彼女が、自分のことを好きだと言ってくれたこと。
そして、その直後に倒れてしまったこと。
「……美雪は?」
視線を動かす。
ベッドのすぐ横に置かれた椅子。
そこに、美雪が座っていた。
俯いたまま、眠っている。
手は、蓮の手を握ったままだった。
頬には、涙の跡が残っていた。
きっと、ずっとここにいてくれたのだろう。
蓮は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「……ごめん」
声にならないほど小さく呟く。
すると、美雪がわずかに身じろぎした。
「……ん……」
ゆっくりと顔を上げる。
そして、蓮と目が合った。
「……蓮?」
「……うん」
一瞬、美雪は何も言えなかった。
まるで、目の前の光景が信じられないかのように、じっと彼を見つめていた。
「……蓮!」
美雪は勢いよく立ち上がった。
「目、覚めたの!?」
「ああ……」
「大丈夫!? 苦しくない? 痛いところは? 先生は……!」
「美雪、落ち着いて……」
「だって……!」
美雪の目に、また涙が浮かんだ。
「だって、私……本当に、怖かったんだから……」
声が震えた。
「もう、目を覚ましてくれないんじゃないかって……」
「……美雪」
「何度呼んでも返事してくれないし……手だって、ずっと冷たくて……」
美雪は、蓮の手を握り直した。
「……本当に、怖かった……」
蓮は何も言えなかった。
ただ、握られた手を、そっと握り返した。
「……ごめん」
美雪は首を横に振った。
「謝らないで……」
そして、涙を拭いながら微笑んだ。
「……起きてくれて、ありがとう」
その言葉に、蓮の目の奥が熱くなった。
「……うん」
それしか言えなかった。
美雪がここにいる。
自分の手を握ってくれている。
それだけで、今は十分だった。
*
しばらくして。
美雪は、ベッドの横の椅子に座り直した。
二人の間には、静かな時間が流れていた。
やがて、蓮が口を開いた。
「……美雪」
「うん?」
「さっき、橋で言ったこと……」
美雪は、顔を上げた。
「……うん」
「本気だから」
蓮は、彼女の目を見つめた。
「好きだって言ったこと。全部、本当だから」
美雪の瞳が、再び潤んだ。
「……知ってる」
小さく笑いながら、彼女は答えた。
「ちゃんと、伝わったよ」
「……そっか」
「うん」
美雪は、蓮の手を両手で包み込んだ。
「私も、好きだよ」
蓮は、静かに目を閉じた。
嬉しかった。
夢みたいだった。
けれど、夢ではない。
彼女の手の温もりが、それを教えてくれていた。
「……ありがとう」
「もう、またそれ?」
「だって……」
「お礼なんていらないよ」
美雪は、少しだけ身を乗り出した。
「私は、蓮のことが好き。それだけだから」
蓮は、彼女を見つめた。
胸がいっぱいになった。
今まで、こんなふうに誰かに必要とされたことがあっただろうか。
誰かに、自分が生きていてほしいと願われたことがあっただろうか。
きっと、なかった。
だからこそ。
この手を離したくなかった。
この温もりを、失いたくなかった。
「……美雪」
「何?」
「これからも……隣にいてくれる?」
美雪は、一瞬驚いたような顔をした。
そして、すぐに笑った。
「当たり前でしょ」
「……そっか」
「うん。だから、蓮も約束して」
「何を?」
「一人で無理しないこと。苦しいときは、ちゃんと助けを求めること」
美雪は、真剣な目で彼を見つめた。
「私にも、ちゃんと話してね」
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
「約束だよ?」
「ああ。約束する」
美雪は、ようやく安心したように笑った。
*
窓の外には、十二月の夜が広がっていた。
街の明かりが、遠くで小さく瞬いている。
春は、まだ遠い。
桜が咲くまでには、長い時間がある。
その頃、自分はどうなっているのだろう。
学校に通えているだろうか。
美雪の隣で、笑っていられるだろうか。
不安が消えたわけではない。
未来が明るくなったわけでもない。
それでも。
今、隣には美雪がいる。
自分の手を握り、同じ未来を願ってくれる人がいる。
蓮は、彼女の手をそっと握り返した。
「……美雪」
「うん?」
「春になったら……桜、見に行こう」
美雪は、目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん」
「一緒に」
「うん。一緒に行こう」
その声は、優しかった。
蓮は、窓の外を見つめた。
まだ、春は遠い。
けれど。
今の自分には、待ちたい未来がある。
もう一度、見たい景色がある。
そして。
一緒に春を迎えたい人がいる。
蓮は、美雪の手を握りしめた。
その温もりを、忘れないように。
――春になったら。
二人で、桜を見よう。
それは、二人が初めて交わした、未来への約束だった。




