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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第三十一章 君に伝えたかった

十二月一日。


 火曜日。


 朝。


 蓮は制服に袖を通し、鏡の前に立っていた。


 今日は、伝える。


 絶対に。


 昨日の夜から、何度もそう決めていた。


 何度も頭の中で言葉を繰り返し、何度も自分に言い聞かせた。


 それでも、いざ今日という日を迎えると、胸の奥が落ち着かなかった。


 鏡に映る自分の顔を見つめる。


「……大丈夫」


 小さく呟いた。


「今日こそ、言うんだ」


 制服のポケットに手を入れる。


 指先に、小さな紙が触れた。


 何度も書き直し、何度も折り畳んだ紙。


 そこに書かれているのは、たった一言。


『好き』


 たった二文字なのに。


 その言葉を口にすることが、こんなにも怖い。


 けれど、もう逃げたくなかった。


 いつか伝えよう。


 明日こそ伝えよう。


 そうやって先延ばしにするたびに、後悔してきた。


 だから、今日こそ。


 自分の気持ちに、正直になろう。


     *


 学校。


 教室。


「おはよう、蓮」


 席に着こうとした蓮に、美雪が笑顔で声をかけた。


「おはよう」


「今日は早いね」


「まあな」


「何かいいことでもあった?」


「……あるかも」


「えっ、何それ?」


 美雪が不思議そうに首を傾げる。


「教えてよ」


「それは……秘密」


「また秘密?」


「今日だけ」


「何それ。余計に気になるんだけど」


 美雪は頬を膨らませたあと、楽しそうに笑った。


 その笑顔を見た瞬間。


 蓮の決意が、ぐらりと揺らいだ。


 ――こんな顔を、悲しませたくない。


 もし、気持ちを伝えて、彼女を困らせてしまったら。


 もし、今までのように笑い合えなくなったら。


 そんな未来を想像するだけで、胸が苦しくなる。


 でも。


 だからこそ、伝えたい。


 美雪のことが、どれほど大切なのか。


 彼女と過ごす時間が、どれほど自分を変えてくれたのか。


 そして。


 これからも、ずっと隣にいたいということを。


 蓮は、ポケットの中の紙をそっと握りしめた。


 ――逃げるな。


 自分にそう言い聞かせた。


     *


 午前の授業。


 先生の声が教室に響く。


 黒板に書かれる文字。


 ノートをめくる音。


 窓から差し込む冬の光。


 いつもと変わらない光景なのに、蓮の頭には何一つ入ってこなかった。


 気づけば、また時計を見ている。


 あと何時間。


 あと何分。


 放課後まで、どれくらいあるのだろう。


 早く時間が過ぎてほしい。


 でも、放課後になってほしくない。


 そんな矛盾した気持ちが、胸の中で何度もぶつかり合っていた。


 ふと、隣から視線を感じた。


「……蓮?」


「ん?」


 美雪が、少し不思議そうにこちらを見ていた。


「どうしたの? さっきから、ずっとそわそわしてるけど」


「何でもないよ」


「本当に?」


「ああ」


「今日、なんだか変だよ」


「そうか?」


「うん」


 美雪は少し考えたあと、いたずらっぽく笑った。


「もしかして、何か企んでる?」


「……秘密」


「また秘密!」


 美雪は小さく笑った。


「怪しいなあ」


「気のせいだよ」


「絶対、何かあるでしょ」


 二人で笑う。


 何でもない、いつものやり取り。


 その何気ない時間が、蓮にはたまらなく愛おしかった。


 この笑顔を、もっと見ていたい。


 明日も。


 明後日も。


 できることなら、ずっと。


 けれど、そんな願いを口にする勇気は、まだなかった。


     *


 昼休み。


 二人は、いつもの場所で向かい合っていた。


 美雪が弁当箱を開く。


「今日はね……」


 少しもったいぶってから、蓋を持ち上げた。


「オムライス!」


「……」


 蓮は、思わず目を見開いた。


「どうしたの?」


「いや……」


 美雪が不思議そうに顔を覗き込む。


 蓮は、彼女の作ったオムライスを見つめた。


 ケチャップで描かれた、小さなハート。


 それを見た瞬間、考えるより先に言葉が口をついて出た。


「……好き」


「えっ?」


 美雪の手が止まった。


 蓮も固まった。


「今……好きって言った?」


「いや、その……」


「えっ、何? もう一回言って?」


「食べ物の話だよ!」


「……紛らわしいなあ、もう」


 美雪は頬を赤くして、視線を逸らした。


 その耳まで赤くなっているのを見て、蓮も慌てて顔を背けた。


 心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。


 ほんの一瞬だった。


 たった一言、口にしただけ。


 それなのに、こんなにも動揺してしまう。


 蓮は小さく息を吐いた。


 ――今日。


 今日こそ、ちゃんと伝えるんだ。


 今度は、誤魔化さずに。


     *


 放課後。


 教室から、少しずつ生徒たちがいなくなっていく。


 鞄を肩にかけた美雪が、蓮の机の前で足を止めた。


「蓮、帰らないの?」


「もう少しだけ」


「何か用事?」


「ああ」


「どこか行くの?」


「うん」


 蓮は一度息を吸った。


「……前に行った場所」


「前に?」


「橋だよ」


 美雪は、すぐに思い出したように頷いた。


「ああ、あの橋ね」


「……うん」


「分かった。一緒に行こう」


 彼女は、何も疑わずに笑った。


 その笑顔を見て、蓮の胸がじんわりと温かくなった。


 今日、この場所で。


 自分の気持ちを伝える。


 二人は並んで教室を出た。


     *


 川沿いの道。


 十二月の風は冷たく、吐く息がわずかに白くなっていた。


 やがて、あの日と同じ小さな橋が見えてきた。


「……ここだね」


 美雪が橋の前で足を止めた。


「ああ」


「初めて来たときのこと、覚えてる?」


「もちろん」


「そっか。私、蓮は忘れてると思ってた」


「忘れるわけないだろ」


 蓮は苦笑した。


「あの日のことは、ちゃんと覚えてるよ」


 美雪は嬉しそうに微笑んだ。


 二人は橋の上へ歩いていった。


 川面には、夕焼けの光が静かに揺れている。


「……綺麗だね」


「ああ」


 美雪は手すりにそっと触れながら、空を見上げた。


 蓮は、その横顔を見つめていた。


 初めてここに来た日。


 自分は、彼女に過去のことを話した。


 何も持っていなかったこと。


 誰にも頼れなかったこと。


 明日さえ、どうなるか分からなかったこと。


 あの頃は、ただ一日を生き延びるだけで精いっぱいだった。


 未来なんて、考えたこともなかった。


 けれど、今は違う。


 隣にいてほしい人がいる。


 一緒に見たい景色がある。


 叶えたい約束がある。


 そして。


 そのすべてが、美雪につながっていた。


「……美雪」


「何?」


 美雪が振り返る。


 蓮は、ゆっくりと息を吸った。


「話があるんだ」


 美雪の表情が、少しだけ真剣になった。


「……うん」


 蓮はポケットから、小さな紙を取り出した。


 何度も見つめてきた、あの紙。


 そこに書かれた二文字を目にした途端、喉の奥が詰まった。


 言わなければ。


 今、言うんだ。


「……蓮?」


 美雪の声が、優しく響いた。


「大丈夫?」


「ああ……大丈夫」


 そう答えたものの、声が少し震えていた。


 蓮は紙を握りしめた。


「俺、美雪と出会って……」


「うん」


「最初は、こんなふうになるなんて思ってなかった」


「こんなふう?」


「誰かと一緒にいたいって……こんなに強く思うなんて、考えたこともなかったんだ」


 美雪は何も言わず、静かに耳を傾けていた。


「学校も、家も……未来のことも、全部どうでもいいと思ってた」


 蓮は少しだけ笑った。


「明日なんて、来なくてもいいって思ってたこともあった」


「……蓮」


「でも、美雪と出会ってから、変わったんだ」


 夕焼けの向こうへ、一度だけ視線を向ける。


「明日が来るのが、楽しみになった」


 美雪の瞳が揺れた。


「朝、学校に行けば美雪に会える。昼休みには、一緒に弁当を食べられる。帰り道には、くだらない話をしながら笑える」


 蓮は、少しずつ言葉を紡いだ。


「そんな毎日が、俺にはすごく大切になったんだ」


 声が震える。


 それでも、もう目を逸らさなかった。


「美雪と過ごす時間が増えるたびに、もっと一緒にいたいって思うようになった」


 美雪の目に、涙が浮かび始めた。


「明日も会いたい。明後日も、その先も……ずっと」


 蓮は唇を噛んだ。


 怖かった。


 今でも、怖い。


 けれど、彼女の目を見ていると、もう誤魔化したくなかった。


「だから、俺は……」


 小さく息を吸う。


 そして。


「美雪が好きだ」


 静かに、その言葉を口にした。


 風が吹き抜けた。


 川面が揺れた。


 遠くから、車の走る音が聞こえた。


 けれど、蓮には何も聞こえなかった。


 美雪の返事を待つ、その数秒間。


 それは、永遠のように長く感じられた。


「……」


 美雪は何も言わなかった。


 ただ、蓮を見つめていた。


 やがて。


 彼女の頬を、一筋の涙が伝った。


「……ばか」


「え……?」


 思いもよらない言葉に、蓮は目を見開いた。


 美雪は涙を拭おうとした。


 けれど、次から次へと溢れてくる。


「遅いよ……」


 声が震えていた。


「……本当に、遅い」


「美雪……」


「私だって……ずっと、言いたかったのに……」


 美雪は俯き、涙をこぼしながら笑った。


「私も……蓮が好き」


 その瞬間。


 蓮の目が大きく見開かれた。


「……本当に?」


「うん」


「俺のこと……?」


「そうだよ」


 美雪は涙を拭き、もう一度、蓮を見つめた。


「ずっと好きだった」


 蓮は言葉を失った。


 何度も想像した。


 何度も願った。


 けれど、実際にその言葉を聞くと、胸がいっぱいになって何も言えなくなった。


「……嘘じゃ、ないよな?」


「こんなときに嘘なんてつかないよ」


 美雪は泣きながら笑った。


「だから……もっと早く言ってよ」


「……ごめん」


「もう。謝らないでってば」


 二人は顔を見合わせた。


 泣きながら。


 笑いながら。


 今まで胸の奥にしまい込んでいた気持ちが、ようやく届いた。


 蓮は、ずっと握りしめていた紙を見つめた。


 そこには、たった一言。


『好き』


 何度も練習した言葉。


 何度も伝えられなかった言葉。


 それが今、ようやく彼女に届いた。


 蓮は紙をポケットにしまった。


 もう、必要なかった。


 その言葉は、ちゃんと自分の声で伝えられたのだから。


     *


 美雪が、そっと蓮の手を握った。


「ねえ……蓮」


「うん?」


「これからは……」


 美雪は少し照れたように視線を落とした。


「私たち、恋人同士ってことだよね?」


 蓮は一瞬、言葉に詰まった。


 改めてそう言われると、急に恥ずかしくなってくる。


「ああ……うん」


「……ふふっ」


「何だよ」


「ううん。嬉しいなって思って」


 美雪は、握った手にそっと力を込めた。


「好きな人と、こうして手をつなげるんだなって」


 蓮は顔を逸らした。


「……俺も、嬉しいよ」


「本当?」


「本当」


「そっか」


 美雪は、幸せそうに笑った。


 その笑顔を見ているだけで、蓮の胸は温かくなった。


 ずっと、こんな時間を夢見ていた。


 隣にいることが当たり前になって。


 好きだと伝えることができて。


 その気持ちを、同じ言葉で返してもらえること。


 自分には、そんな未来が訪れるはずがないと思っていた。


 それなのに、今。


 美雪が隣にいる。


 自分の手を握ってくれている。


 蓮は、彼女の手をそっと握り返した。


「……美雪」


「何?」


「ありがとう」


「え?」


「俺のこと、好きになってくれて」


 美雪は驚いたように目を見開いた。


 そして、少し困ったように笑った。


「……もう。そんなこと言われたら、また泣いちゃうでしょ」


「悪い」


「だから、謝らないの」


 二人は、もう一度笑った。


 そのとき、美雪がふと思い出したように口を開いた。


「ねえ、蓮」


「うん?」


「約束してほしいことがあるの」


「何?」


 美雪は、真剣な表情で蓮を見つめた。


「一緒に、春を迎えよう」


 蓮の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。


 春。


 その言葉が、胸の奥に静かに響いた。


 どれだけ先のことだろう。


 自分は、その日まで彼女の隣にいられるのだろうか。


 答えは分からない。


 それでも。


 今、この瞬間だけは。


 彼女の願いを、否定したくなかった。


 蓮は美雪の手を、しっかりと握った。


「……ああ」


「絶対だよ?」


「絶対」


「一緒に桜を見るの」


「うん」


「約束だからね」


 蓮は、彼女の目をまっすぐに見つめた。


「絶対に、一緒に見よう」


 美雪は安心したように微笑んだ。


 その笑顔を、蓮は忘れないように心に刻んだ。


 この約束だけは。


 何があっても、守りたいと思った。


     *


 その瞬間だった。


 突然、蓮の視界がぐらりと揺れた。


「……あれ?」


 足元がふらつく。


 美雪の顔が、ぼやけて見えた。


「……蓮?」


 握っていた手から、力が抜けていく。


「蓮、どうしたの?」


「……っ」


 胸の奥が、強く締めつけられた。


 息が吸えない。


 苦しい。


 さっきまで、あんなに温かかったはずの身体が、急に冷たくなっていくようだった。


「蓮!?」


 美雪が慌てて身体を支えた。


「大丈夫!? ねえ、蓮!」


 返事をしようとした。


 けれど、声が出ない。


「……薬……」


「薬!?」


「ポケット……」


「分かった、待って!」


 美雪は震える手で蓮のポケットを探った。


「あった……! これ?」


「……うん」


 蓮は薬を受け取り、どうにか服用した。


 けれど、今回はなかなか痛みが治まらなかった。


「蓮、お願い……!」


 美雪の声が震えた。


「救急車を呼ぶから!」


「……待って……」


「駄目!」


 美雪はスマートフォンを取り出した。


「もう待てないよ……!」


 涙が、頬を伝っていた。


 蓮は、どうにか彼女の手を握った。


「……ごめん」


「何で謝るの!?」


「せっかく……気持ち、伝えられたのに……」


 途切れ途切れの声で、蓮は言った。


「もっと……一緒に……」


「そんなこと言わないで!」


 美雪は、首を横に振った。


「お願いだから……そんなこと言わないでよ……!」


 握った手に、ぎゅっと力がこもる。


「今は、何も考えなくていいから……!」


 美雪の声が、涙で震えていた。


「お願い……今は、生きることだけ考えて……!」


 蓮は、ぼんやりと彼女を見つめた。


 泣かせたくなかった。


 笑っていてほしかった。


 これから先も、ずっと。


 それなのに。


 また、こんな顔をさせてしまっている。


「……美雪」


「何? ここにいるよ!」


「……好きだ」


 美雪の目から、また涙が溢れた。


「……うん」


「本当に……好きなんだ……」


「分かってる……! 分かってるから……!」


 美雪は、彼の手を両手で包み込んだ。


「だから……お願い……!」


 声が、かすれた。


「私の隣にいてよ……!」


 蓮は、苦しい呼吸の合間に、かすかに頷いた。


 まだ、伝えたいことがある。


 まだ、一緒にしたいことがある。


 まだ、彼女の隣で笑っていたい。


 ――だから。


 どうか。


 もう少しだけ。


     *


 遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。


 その音は、次第に大きくなっていく。


 赤い光が、夕暮れの街を照らした。


 救急隊員たちが駆け寄り、蓮の状態を確認する。


 美雪は、震える足でその場に立っていた。


「大丈夫ですか?」


「……はい。でも、蓮が……!」


「こちらで対応します。落ち着いてください」


 蓮は担架に乗せられ、救急車へと運ばれていった。


 美雪も、すぐに後を追った。


 車内で、彼女はずっと蓮の手を握っていた。


「蓮……」


 返事はない。


「大丈夫だからね……」


 何度も、そう繰り返した。


 自分に言い聞かせるように。


「一緒に春を見るんでしょ……?」


 涙が止まらなかった。


「桜、見るんでしょ……?」


 蓮の指先に、そっと触れる。


「約束したじゃん……」


 声が震えた。


「だから……お願い……」


 美雪は、彼の手をぎゅっと握った。


「絶対に、私を一人にしないで……」


 サイレンが響く中、蓮の手の温もりだけを確かめるように。


 美雪は、ずっと彼のそばにいた。


     *


 病院。


 救急処置室。


 蓮が運び込まれると、医療スタッフが慌ただしく動き始めた。


「ご家族の方ですか?」


 看護師に声をかけられ、美雪は首を横に振った。


「……いえ。私は……」


 言葉が詰まる。


 ついさっきまで、恋人同士になれたばかりだった。


 好きだと伝えて。


 好きだと返してもらって。


 これから一緒に春を迎えようと、約束したばかりだった。


 なのに。


 たった数分で、こんなことになるなんて。


「……恋人です」


 美雪は、小さな声で答えた。


 看護師は一瞬だけ表情を和らげた。


「分かりました。こちらでお待ちください」


 処置室の扉が閉まった。


 美雪は廊下の椅子に腰を下ろした。


 急に、身体から力が抜けた。


 膝の上には、蓮のスマートフォンがあった。


 救急車に乗るとき、落としそうになった彼のスマートフォンを、無意識に握りしめていたのだ。


 震える指で、画面を見つめる。


 ロック画面には、二人で撮った写真が映っていた。


 夕焼けの橋。


 隣り合って笑う二人。


 あの日、蓮が連れてきてくれた場所で撮った写真だった。


「……蓮」


 美雪は画面に指先を添えた。


 写真の中の彼は、笑っていた。


 いつもより少し照れくさそうに。


 それでも、確かに笑っていた。


 美雪の視界が滲んだ。


「……お願い」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


「お願いだから……」


 唇を噛みしめる。


「この人を、連れていかないで……」


 声を押し殺しても、涙は止まらなかった。


「まだ……何もしてないのに……」


 一緒に行きたい場所がある。


 一緒に食べたいものがある。


 一緒に見たい景色がある。


 もっと話したい。


 もっと笑いたい。


 もっと、蓮の隣にいたい。


 今日、ようやく恋人になれたばかりなのに。


 これからだったのに。


「……蓮……」


 美雪は、スマートフォンを胸に抱きしめた。


 廊下の時計だけが、何事もなかったかのように静かに時を刻んでいた。


     *


 どれくらい時間が経ったのだろう。


 美雪には、もう分からなかった。


 ただ、何度も時計を見つめては、処置室の扉を見た。


 そして、ようやく。


 扉が開いた。


「美雪さん」


 医師が、こちらへ歩いてくる。


 美雪は慌てて立ち上がった。


「……蓮は?」


 声が震えた。


「今は、落ち着いています」


「……本当ですか?」


「はい。必要な処置を行い、現在は状態を慎重に確認しています」


 その言葉を聞いた瞬間、美雪の膝から力が抜けそうになった。


「……よかった……」


 胸に溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出す。


 けれど、医師の表情はまだ厳しかった。


「ただ……」


 美雪は、顔を上げた。


「今後については、慎重に考える必要があります」


「……今後?」


「これまでの経過も踏まえると、今の状態で学校生活を続けることは、かなり難しくなる可能性があります」


 美雪は、唇を噛んだ。


 頭の中に、蓮の言葉が蘇る。


 ――学校に通える間は、できるだけ学校に行きたい。


 あの言葉を口にしたときの、彼の真剣な表情。


「……でも」


 美雪は、震える声で尋ねた。


「本人が……それでも学校に行きたいって言ったら、どうなるんですか?」


 医師は、少し考えてから答えた。


「本人の希望は大切です。ただし、病状によっては、治療や安静を優先しなければならないこともあります」


「……そう、ですよね」


「今後のことは、ご本人やご家族と相談しながら決めていくことになります」


 美雪は、小さく頷いた。


「分かりました……」


 それ以上、何も聞けなかった。


 ただ、心の中で願っていた。


 どうか。


 もう一度、笑顔を見せてほしい。


 もう一度、名前を呼んでほしい。


 そして。


 いつか、本当に一緒に春を迎えられますように。


     *


 病室。


 白い天井が、ぼんやりと視界に映った。


「……ん……」


 蓮は、ゆっくりと目を開けた。


 身体が重い。


 腕には点滴がつながれていた。


 消毒液の匂い。


 静かな機械音。


 ここが病院だと気づくまで、少し時間がかかった。


「……そっか」


 小さく呟く。


 橋の上での出来事が、少しずつ頭の中に蘇ってきた。


 美雪に告白したこと。


 彼女が、自分のことを好きだと言ってくれたこと。


 そして、その直後に倒れてしまったこと。


「……美雪は?」


 視線を動かす。


 ベッドのすぐ横に置かれた椅子。


 そこに、美雪が座っていた。


 俯いたまま、眠っている。


 手は、蓮の手を握ったままだった。


 頬には、涙の跡が残っていた。


 きっと、ずっとここにいてくれたのだろう。


 蓮は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。


「……ごめん」


 声にならないほど小さく呟く。


 すると、美雪がわずかに身じろぎした。


「……ん……」


 ゆっくりと顔を上げる。


 そして、蓮と目が合った。


「……蓮?」


「……うん」


 一瞬、美雪は何も言えなかった。


 まるで、目の前の光景が信じられないかのように、じっと彼を見つめていた。


「……蓮!」


 美雪は勢いよく立ち上がった。


「目、覚めたの!?」


「ああ……」


「大丈夫!? 苦しくない? 痛いところは? 先生は……!」


「美雪、落ち着いて……」


「だって……!」


 美雪の目に、また涙が浮かんだ。


「だって、私……本当に、怖かったんだから……」


 声が震えた。


「もう、目を覚ましてくれないんじゃないかって……」


「……美雪」


「何度呼んでも返事してくれないし……手だって、ずっと冷たくて……」


 美雪は、蓮の手を握り直した。


「……本当に、怖かった……」


 蓮は何も言えなかった。


 ただ、握られた手を、そっと握り返した。


「……ごめん」


 美雪は首を横に振った。


「謝らないで……」


 そして、涙を拭いながら微笑んだ。


「……起きてくれて、ありがとう」


 その言葉に、蓮の目の奥が熱くなった。


「……うん」


 それしか言えなかった。


 美雪がここにいる。


 自分の手を握ってくれている。


 それだけで、今は十分だった。


     *


 しばらくして。


 美雪は、ベッドの横の椅子に座り直した。


 二人の間には、静かな時間が流れていた。


 やがて、蓮が口を開いた。


「……美雪」


「うん?」


「さっき、橋で言ったこと……」


 美雪は、顔を上げた。


「……うん」


「本気だから」


 蓮は、彼女の目を見つめた。


「好きだって言ったこと。全部、本当だから」


 美雪の瞳が、再び潤んだ。


「……知ってる」


 小さく笑いながら、彼女は答えた。


「ちゃんと、伝わったよ」


「……そっか」


「うん」


 美雪は、蓮の手を両手で包み込んだ。


「私も、好きだよ」


 蓮は、静かに目を閉じた。


 嬉しかった。


 夢みたいだった。


 けれど、夢ではない。


 彼女の手の温もりが、それを教えてくれていた。


「……ありがとう」


「もう、またそれ?」


「だって……」


「お礼なんていらないよ」


 美雪は、少しだけ身を乗り出した。


「私は、蓮のことが好き。それだけだから」


 蓮は、彼女を見つめた。


 胸がいっぱいになった。


 今まで、こんなふうに誰かに必要とされたことがあっただろうか。


 誰かに、自分が生きていてほしいと願われたことがあっただろうか。


 きっと、なかった。


 だからこそ。


 この手を離したくなかった。


 この温もりを、失いたくなかった。


「……美雪」


「何?」


「これからも……隣にいてくれる?」


 美雪は、一瞬驚いたような顔をした。


 そして、すぐに笑った。


「当たり前でしょ」


「……そっか」


「うん。だから、蓮も約束して」


「何を?」


「一人で無理しないこと。苦しいときは、ちゃんと助けを求めること」


 美雪は、真剣な目で彼を見つめた。


「私にも、ちゃんと話してね」


 蓮は、ゆっくりと頷いた。


「……分かった」


「約束だよ?」


「ああ。約束する」


 美雪は、ようやく安心したように笑った。


     *


 窓の外には、十二月の夜が広がっていた。


 街の明かりが、遠くで小さく瞬いている。


 春は、まだ遠い。


 桜が咲くまでには、長い時間がある。


 その頃、自分はどうなっているのだろう。


 学校に通えているだろうか。


 美雪の隣で、笑っていられるだろうか。


 不安が消えたわけではない。


 未来が明るくなったわけでもない。


 それでも。


 今、隣には美雪がいる。


 自分の手を握り、同じ未来を願ってくれる人がいる。


 蓮は、彼女の手をそっと握り返した。


「……美雪」


「うん?」


「春になったら……桜、見に行こう」


 美雪は、目を見開いた。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……うん」


「一緒に」


「うん。一緒に行こう」


 その声は、優しかった。


 蓮は、窓の外を見つめた。


 まだ、春は遠い。


 けれど。


 今の自分には、待ちたい未来がある。


 もう一度、見たい景色がある。


 そして。


 一緒に春を迎えたい人がいる。


 蓮は、美雪の手を握りしめた。


 その温もりを、忘れないように。


 ――春になったら。


 二人で、桜を見よう。


 それは、二人が初めて交わした、未来への約束だった。

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