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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第三十二章 ここにいてくれる

 十二月二日。


 水曜日。


 蓮が目を覚ますと、窓の外は一面の白に染まっていた。


 雪だった。


 音もなく、ひらひらと舞い落ちる雪が、街をゆっくりと覆っていく。


「……雪、か」


 蓮はベッドから上半身を起こし、窓の外を眺めた。


 ガラス越しに見える街並みは、いつもと違っていた。


 見慣れた景色なのに、どこか遠い世界のように感じる。


 昨日、美雪と話をした。


 そして今日から、しばらく学校には行けない。


 ベッドのそばに置かれた椅子には、制服の代わりに病院の服が掛かっている。


 机の上には教科書もノートもない。


 あるのは、薬と点滴、それから病院の静けさだけだった。


「……なんか、変な感じだな」


 蓮は小さく笑った。


 学校に行くことが当たり前だった毎日。


 教室で友達の声を聞き、授業を受け、昼休みにくだらない話をする。


 そんな何気ない日常が、今はひどく遠いものに思えた。


 当たり前だったはずの毎日が、こんなにも恋しくなるなんて。


 少し前の自分なら、想像もしなかっただろう。


     *


 午前九時。


 病室のドアが、控えめにノックされた。


「どうぞ」


「……蓮?」


 聞き慣れた声に、蓮は顔を上げた。


 ドアの向こうに立っていたのは、美雪だった。


 いつもの制服姿。


 肩には学校の鞄を掛けている。


 その姿を見た瞬間、蓮の胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……美雪?」


「おはよう」


「おはよう。……どうしたの?」


「来た」


「いや、それは見れば分かるけど……学校は?」


「午前の授業が終わってから来たの」


「わざわざ、ここまで?」


「うん。会いたかったから」


「……っ」


 あまりにも自然に言われて、蓮は返す言葉を失った。


 美雪はそんな蓮を見て、くすっと笑った。


「何、その顔」


「いや……別に」


「ふふ。じゃあ、ここに座るね」


 美雪は椅子を引き、ベッドのそばに腰を下ろした。


 それから、鞄の中をごそごそと探り始める。


「はい、これ」


「……何?」


「今日のノート」


「学校の?」


「うん」


「俺、今日はいないんだけど……」


「だから、私が代わりに授業を受けてきたの」


「いや、代わりにはなってないだろ」


「じゃあ、今から私が先生をやる」


「それだけは勘弁してくれ」


「どうして?」


「絶対に厳しいから」


「失礼ね。優しい先生かもしれないでしょ?」


「その笑顔が一番怖いんだけど」


「もう。ちゃんと勉強させるからね」


「やめてくれ……」


 二人は顔を見合わせ、笑った。


 病室に、明るい声が響く。


 ほんの些細なやり取り。


 いつもなら、わざわざ覚えておこうとも思わないような時間。


 それなのに、蓮は思った。


 ――ああ、こういうのが好きなんだ。


 誰かと笑うこと。


 くだらないことで言い合うこと。


 何も特別なことがなくても、一緒にいられること。


 病室に来る前と何も変わらない美雪の笑顔が、今の蓮には何よりも嬉しかった。


     *


 昼。


 美雪は持ってきたコンビニの袋を開けた。


「はい、お昼ご飯」


「……お弁当?」


「おにぎりだけどね」


「病院食じゃなくていいの?」


「今日は特別」


「おにぎりが?」


「何か文句ある?」


「いえ、ありません」


「よろしい」


 美雪は満足そうに頷いた。


 二人はベッドの横に置かれた小さなテーブルを挟んで、向かい合った。


「いただきます」


「いただきます」


 蓮はおにぎりを手に取り、一口かじった。


 海苔の香りと、ほんのりとした塩気。


 どこにでもある、普通のおにぎりだった。


 それなのに。


「……美味しい」


「本当?」


「うん」


「よかった」


 美雪はほっとしたように笑った。


 その笑顔を見ながら、蓮はもう一口食べた。


 食べ慣れた味でもない。


 特別に高級な食べ物でもない。


 ただのおにぎり。


 でも、今の自分には、それがどうしようもなく美味しく感じられた。


「学校で食べるのと、同じだね」


 蓮がぽつりと言うと、美雪は首を傾げた。


「何が?」


「こうやって昼飯を食べるの」


「ああ……」


「なんか、学校にいるみたいだ」


 美雪は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、優しく微笑んだ。


「じゃあ、明日も持ってくるね」


「……え?」


「おにぎり。明日も、その次の日も」


「毎日?」


「うん。嫌?」


「いや、そういうわけじゃないけど……大変だろ」


「大丈夫だよ」


 美雪は、まるで当たり前のことを言うように答えた。


「蓮が喜んでくれるなら、それでいいから」


「……」


 蓮は何も言えなかった。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 嬉しい。


 ただ、嬉しかった。


 誰かが自分のために時間を使ってくれること。


 明日のことを考えてくれること。


 自分がここにいることを、当たり前のように受け入れてくれること。


 そんなことが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。


 蓮は俯き、少しだけ口元を緩めた。


「……ありがとな、美雪」


「どういたしまして」


 美雪は照れたように笑った。


     *


 午後。


 食事を終えた美雪は、鞄からノートを取り出した。


「さて」


「……何?」


「先生から伝言」


「嫌な予感しかしないんだけど」


「宿題です」


「……は?」


「数学」


「嫌だ」


「病人でも宿題はあります」


「鬼か、お前は」


「はいはい。文句を言わない」


「ひどすぎる……」


 蓮は渋々ノートを受け取り、問題を解き始めた。


 美雪はその隣で、頬杖をつきながら手元を覗き込む。


「……そこ、違うよ」


「え?」


「計算、間違ってる」


「……あ、本当だ」


「もう。ちゃんと見て」


「はいはい」


「はいは一回」


「……はい」


「よろしい」


 得意げに笑う美雪を見て、蓮は思わず吹き出した。


「何よ?」


「いや……美雪って、意外と先生に向いてるかもな」


「意外とは余計です」


「ははっ」


「笑わないの。ほら、次の問題」


「はいはい」


 また、二人で笑った。


 窓の外では、雪が静かに降り続いていた。


 けれど、病室の中は不思議なくらい温かかった。


 勉強を教えてもらうことも。


 間違いを指摘されることも。


 くだらないことで笑い合うことも。


 そのどれもが、学校で過ごしていた時間と何も変わらない。


 蓮はノートに目を落としながら、そっと思った。


 ――早く、また一緒に学校へ行きたい。


 そして、こんなふうに何でもないことで笑いたい。


 いつか、今日のことを懐かしく思い出せるように。


     *


 夕方。


 窓の外が少しずつ暗くなり始めた頃、美雪は帰り支度を始めた。


「じゃあ、そろそろ帰るね」


「……うん」


 蓮は頷いた。


 分かっていたことなのに、胸の奥が少しだけ重くなる。


 美雪が鞄を肩に掛ける。


 その姿を見ているうちに、蓮の口から思わず言葉がこぼれた。


「……明日も来る?」


 美雪が振り返る。


「うん。来るよ」


「本当に?」


「本当に」


「……絶対?」


 自分でも、子供みたいなことを聞いていると思った。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


 明日も会える。


 明日も、この笑顔を見られる。


 その約束が欲しかった。


 美雪は蓮の気持ちを察したのか、何もからかわなかった。


 ただ、そっと近づいて、蓮の手を握った。


「絶対だよ」


「……そっか」


「うん。だから、そんな顔しないで」


「どんな顔だよ」


「寂しそうな顔」


「……してない」


「してるよ」


「……うるさい」


 蓮が顔を背けると、美雪は小さく笑った。


 そして、もう一度だけ、握った手に力を込めた。


「また明日ね、蓮」


「……また明日」


 ドアが閉まる。


 足音が遠ざかっていく。


 やがて、病室には再び静けさが戻った。


 蓮は、さっきまで美雪が座っていた椅子を見つめた。


 つい数分前まで、そこには確かに彼女がいた。


 笑って。


 怒って。


 自分の手を握ってくれていた。


「……また明日、か」


 蓮は、その言葉を小さく繰り返した。


 たった四文字の、何でもない約束。


 それなのに、今の自分には、それが何よりも心強かった。


     *


 その夜。


 蓮はなかなか眠れなかった。


 白い天井。


 壁に掛けられた時計。


 規則正しく続く点滴の音。


 廊下を行き交う看護師の足音。


 どれも静かで、どこか現実感がなかった。


 蓮は枕元のスマートフォンを手に取った。


 画面には、美雪とのメッセージが残っている。


『今日はありがとう』


『こちらこそ』


『楽しかった』


『俺も』


 少しして、また通知が届いた。


『明日も行くね』


 蓮は、その短い文章をじっと見つめた。


 そして、ゆっくりと文字を打ち込む。


『待ってる』


 送信してから、スマートフォンを胸元に置いた。


 天井を見上げる。


「……明日」


 今までは、明日が来ることを疑ったことなどなかった。


 目が覚めれば朝が来る。


 学校へ行けば、いつもの一日が始まる。


 明日も、その次の日も、きっと同じように過ぎていく。


 そう思っていた。


 けれど今は、その当たり前がどれほど大切なものだったのか、痛いほど分かる。


 明日が来ること。


 誰かに会えること。


 また笑えること。


 そして、自分を待ってくれる人がいること。


 蓮は目を閉じた。


 胸の奥に、小さな温もりが残っていた。


     *


 十二月三日。


 木曜日。


 約束通り、美雪は病室にやって来た。


「おはよう、蓮」


「……おはよう」


「今日は昨日より元気そうだね」


「そう見える?」


「うん。少なくとも、昨日よりは」


「そっか」


「何? もっと褒めてほしいの?」


「いや、別に」


「ふふっ」


 美雪は椅子に座ると、いつものように学校の話を始めた。


 授業中に先生が言い間違えたこと。


 クラスメイトが休み時間に騒いでいたこと。


 昼休みに誰が何を食べていたこと。


 放課後、友達がどんな話をしていたこと。


 本当に、どうでもいいような話ばかりだった。


 けれど、蓮は一つひとつに耳を傾けた。


 美雪の話を聞いていると、学校の景色が頭の中に浮かんでくる。


 教室のざわめき。


 窓から差し込む光。


 廊下を走る足音。


 今はもう、手を伸ばしても届かない場所。


 それでも、美雪が話してくれることで、そこにまだ自分の居場所が残っているような気がした。


「……そういえば」


 美雪がふと思い出したように言った。


「何?」


「蓮って、家族の話をあまりしないよね」


 その瞬間。


 蓮の手が止まった。


「……」


「あ、ごめん」


 美雪は慌てて言葉を付け足した。


「無理に聞きたいわけじゃないの。ただ、少し気になって……」


「いや、大丈夫」


 蓮は窓の外へ目を向けた。


 雪は降っていなかった。


 けれど、空は重たく曇っていた。


「……話してもいいよ」


「本当に?」


「うん」


 蓮は小さく息を吸った。


 何から話せばいいのか、すぐには分からなかった。


 思い出したくないことは、いくつもある。


 忘れたつもりでいたことも。


 もう平気だと思っていたことも。


 それでも、今はなぜか、話してみたいと思った。


 美雪になら、聞いてほしいと思った。


「……俺の父親は」


 蓮は、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「俺のことが嫌いだったんだ」


 美雪は何も言わなかった。


 ただ、静かに蓮を見つめていた。


「母親も……最初から、そうだったわけじゃない」


「……うん」


「昔は、普通に話してくれてたんだ。飯を食べたり、学校の話をしたり……本当に、普通だった」


 蓮はかすかに笑った。


 懐かしい記憶を思い出したというより、遠い昔の誰かの話をしているようだった。


「でも、いつからか……家に帰っても、誰も俺に話しかけなくなった」


 声が、少しずつ小さくなる。


「俺が何か話しかけても、返事がない。何をしても、気に留めてもらえない」


 蓮は指先を見つめた。


「最初は、俺が悪いんだと思った」


「……」


「勉強を頑張れば、褒めてもらえるかもしれない。家のことを手伝えば、少しは認めてもらえるかもしれない。そう思ってた」


 唇を噛む。


「でも、何をしても変わらなかった」


 胸の奥に押し込めていた記憶が、少しずつ形を取り戻していく。


「いつの間にか、家にいるだけで邪魔者みたいに扱われるようになった」


 美雪の表情が曇った。


 それでも彼女は、途中で口を挟むことなく、蓮の話を聞き続けた。


「高校に入る頃には、もう家にいるのが嫌だった。学校が終わっても、帰りたくなかった」


「……蓮」


「でも、帰らないわけにもいかないだろ?」


 蓮は自嘲気味に笑った。


「だから、できるだけ家にいる時間を減らしてた」


 そして。


 しばらくの沈黙のあと、蓮は静かに続けた。


「……ある日、父親に言われたんだ」


 その言葉を、今でもはっきりと覚えている。


 忘れたくても、忘れられなかった。


「出ていけ、って」


 美雪の目が揺れた。


「……そんな」


「荷物をまとめて、家を出たよ」


「一人で……?」


「うん」


「お金は、どうしたの?」


「ほとんどなかった。だから、最初は駅の近くで時間を潰してた」


 蓮は淡々と話していた。


 まるで、何でもない出来事だったかのように。


 けれど、指先は小さく震えていた。


「それから、何とか安く泊まれるところを探したんだ。大変だったけど……まあ、何とかなるもんだな」


 最後に笑おうとした。


 いつものように、軽い冗談で終わらせようとした。


 でも、うまく笑えなかった。


 美雪は、そんな蓮を見つめていた。


 何かを言おうとして、言葉を飲み込む。


 きっと、簡単には分からないのだろう。


 帰る場所があること。


 そこに自分を待っている人がいること。


 それが、どれほど幸せなことなのか。


 そして、それを持たない人が、どれほど寂しい思いをしているのか。


 美雪には、今すぐすべてを理解することはできない。


 それでも。


 彼女は、蓮の手をそっと握った。


 蓮は、その手に目を落とした。


「……だからさ」


 しばらくして、蓮は口を開いた。


「俺、家に帰るっていう感覚が、よく分からないんだ」


「……」


「家って、本当は……帰りたいと思える場所のことなんだろ?」


 窓の外を見つめたまま、蓮は続けた。


「帰ったら誰かがいて、おかえりって言ってくれて。今日何があったのか聞いてくれて……そういう場所なんだろ?」


 声が、かすかに震えた。


「俺には、そういうのがなかった」


 最後の言葉を口にした瞬間、蓮の視界が滲んだ。


 泣くつもりなんてなかった。


 もう昔のことだ。


 今さら、思い出したところで何も変わらない。


 ずっと、そう思ってきた。


 それなのに。


「……蓮」


 美雪の声が、優しく響いた。


 頬を、温かいものが伝った。


 涙だった。


 蓮は慌てて顔を背けた。


「……悪い。こんな話、聞かせるつもりじゃなかった」


「謝らないで」


「でも……」


「謝らなくていいよ」


 美雪は、蓮の手を両手で包み込んだ。


 その手は温かかった。


 まるで、凍りついていた心を少しずつ溶かしてくれるように。


「……じゃあ」


 美雪は、涙を拭いながら言った。


「これから、一緒に作ればいいよ」


「……え?」


「蓮が帰りたいと思える場所」


 彼女は、まっすぐに蓮を見つめた。


「今まで、どんなにつらかったとしても……これから先まで、同じじゃなくていいんだよ」


「……」


「すぐには見つからないかもしれない。何をしたらいいのか、私にも分からないかもしれない」


 美雪は少しだけ困ったように笑った。


「でも、一緒に探すことならできるから」


 蓮は、彼女を見つめた。


「……美雪」


「うん」


「どうして、そこまで……」


 言葉が続かなかった。


 どうして自分なんかのために、そこまでしてくれるのか。


 どうして、こんな自分の手を握ってくれるのか。


 どうして、明日も会いに来ると言ってくれるのか。


 聞きたいことは、たくさんあった。


 でも、どれも言葉にならなかった。


 美雪は、握った手を離さなかった。


「だって……蓮には、幸せになってほしいから」


 その一言が。


 蓮の心の奥に、深く染み込んでいった。


 誰かに幸せを願ってもらったのは、いつ以来だろう。


 自分がここにいてもいいのだと。


 誰かに大切にされてもいいのだと。


 そんなふうに思えたのは、いつ以来だろう。


 蓮の目から、また涙がこぼれた。


 今度は、隠さなかった。


「……うん」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。


 美雪は何も言わず、ただ彼の手を握り続けていた。


     *


 その日。


 美雪が帰ったあと。


 蓮は、机の上に置かれたノートを開いた。


 新しいページ。


 ペンを手に取り、ゆっくりと文字を書き込む。


 ㊴ 帰りたい場所を作る。


 その下に、少し考えてから、もう一度ペンを走らせた。


 ――美雪と一緒に。


 書き終えた文字を、蓮はしばらく見つめていた。


 これまで、「生きる」という言葉は、蓮にとって苦しいものだった。


 朝が来れば、また一日を耐えなければならない。


 明日が来れば、また同じ孤独を味わうことになる。


 だから、ただ生きていた。


 死なないために。


 今日を何とか乗り越えるために。


 その先に何があるのかなんて、考えたこともなかった。


 でも、今は違う。


 帰りたいと思える場所を作りたい。


 また会いたいと思える人がいる。


 一緒に笑って、同じ時間を過ごして、いつか振り返ったときに「あの頃は楽しかったな」と言えるような未来が欲しい。


 そして、その未来を美雪と一緒に見てみたい。


 蓮はノートをそっと閉じた。


「……生きたいな」


 誰に聞かせるわけでもなく、呟いた。


 その言葉は、驚くほど自然に口からこぼれた。


 初めてだった。


 生きなければならないと思ったのではない。


 生きていたいと、自分から思えたのだ。


     *


 十二月四日。


 金曜日。


 朝。


 病室のドアが開いた。


「おはよう、蓮」


「……美雪?」


「今日はいつもより早く終わったの」


 美雪は、手に小さな紙袋を持っていた。


「それ、何?」


「プレゼント」


「……俺に?」


「うん。他に誰がいるの?」


「いや、そうだけど……」


 美雪は楽しそうに笑いながら、紙袋を差し出した。


「はい。開けてみて」


 蓮は少し戸惑いながら、袋を受け取った。


 中に入っていたのは、小さなキーホルダーだった。


 雪の結晶をかたどった、銀色のキーホルダー。


 光を受けて、きらりと輝いている。


「……綺麗だな」


「でしょ?」


 美雪は嬉しそうに頷いた。


「見つけたとき、蓮に似合いそうだなって思ったの」


「俺に?」


「うん」


 蓮は、もう一度キーホルダーを見つめた。


 どうしてこれを選んでくれたのか。


 どうして自分にプレゼントをくれるのか。


 そんなことを考えていると、美雪が少し照れくさそうに口を開いた。


「今は病院だから、どこにも付けられないかもしれないけど……」


「うん」


「退院したら、自分の家の鍵に付けてね」


 蓮の手が止まった。


「……自分の家の、鍵?」


「そう」


 美雪は、優しく微笑んだ。


「これから、蓮が帰っていく場所。その鍵に付けてほしいなって」


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 たった一つの、小さなキーホルダー。


 それなのに、その言葉には、蓮がずっと欲しかったものが詰まっていた。


 帰る場所。


 自分の居場所。


 明日を迎える理由。


 そして、自分がこれから先も生きていくことを、信じてくれる人。


「……ありがとう」


 蓮は、キーホルダーを壊さないように、そっと両手で包み込んだ。


「大切にする」


「うん。約束ね」


「……約束する」


 美雪は、満足そうに笑った。


 その笑顔を見ていると、蓮も自然と笑顔になった。


     *


 その夜。


 蓮は、キーホルダーを机の上に置いた。


 雪の結晶をかたどった、小さな贈り物。


 指先でそっと触れると、ひんやりとした金属の感触が伝わってきた。


 それは、まだ手に入れていない家の鍵に付けるためのものだった。


 帰る場所も。


 そこで待っていてくれる人も。


 まだ、すべてが揃っているわけじゃない。


 それでも。


 蓮には、もう一つだけ、確かなものがあった。


 いつか、自分の帰る場所を作りたい。


 そして、そこに帰っていきたい。


 そう願ってもいいのだと、教えてくれた人がいる。


 窓の外では、再び雪が降り始めていた。


 白い雪が、静かに街を覆っていく。


 蓮はその景色を眺めながら、小さく笑った。


「……退院したら」


 また美雪と一緒に学校へ行こう。


 またくだらない話をして、笑い合おう。


 昼休みには、隣でご飯を食べよう。


 帰り道には、今日あったことを話そう。


 そして、春になったら。


 二人で桜を見に行こう。


 満開の桜の下で、何でもない一日を過ごそう。


 そんな未来を想像すると、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 まだ、何もかもがうまくいくと決まったわけじゃない。


 不安だってある。


 怖いことだって、きっとこれからもある。


 それでも。


 もう、諦めたくなかった。


 いや。


 諦めない。


 蓮は胸の奥で、静かに誓った。


 ――生きよう。


 誰かに言われたからではない。


 生きなければならないからでもない。


 自分自身が、そうしたいと思ったから。


 美雪と、もう少し一緒にいたい。


 もっとたくさん話したい。


 もっとたくさん笑いたい。


 そして、いつか。


 心の底から、帰りたいと思える場所を見つけたい。


 その場所で、今日という日を懐かしく思い出したい。


 ――だから、もう少しだけ。


 この世界にいたい。


 蓮は、雪の結晶のキーホルダーをそっと握りしめた。


 冷たいはずのそれが、不思議と温かく感じられた。


 窓の外では、雪が降り続いている。


 白い世界の向こうに、まだ見ぬ春が待っている。


 蓮は静かに目を閉じた。


 明日になれば、また美雪に会える。


 そう思うだけで、少しだけ眠れそうな気がした。


 雪の降る夜。


 病室の小さな灯りの下で。


 蓮は初めて、明日が来ることを心から願いながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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