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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第三十三章 クリスマスの約束


 十二月十日。


 木曜日。


 朝。


 蓮は、ベッドの上から窓の外を眺めていた。


 雪は昨日から降り続いている。


 病院の庭も、歩道も、木々の枝も、すっかり白く染まっていた。


「……寒そうだな」


 窓ガラスの向こうに広がる景色を見ながら、蓮は小さく呟いた。


 学校では、今頃みんな授業を受けているのだろう。


 先生の話を聞いて、ノートを取り、休み時間になれば友達とくだらない話をする。


 美雪も、きっと同じように過ごしている。


 そう考えると、不思議と心が落ち着いた。


 自分だけが、いつもの日常から取り残されている。


 そんな寂しさを感じることもあった。


 それでも、外の世界がいつも通り動いていると思うと、少しだけ安心できた。


 いつか、自分もまた、あの場所に戻れる。


 そう信じていたかった。


     *


 午前十時。


 病室のドアが開いた。


「おはよう」


「……美雪」


「今日も来たよ」


「毎日だな」


「嫌?」


 美雪は、いたずらっぽく笑いながら首を傾げた。


 蓮は少しだけ視線を逸らす。


「……嬉しいよ」


「ふふっ。ならよかった」


 美雪は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見ると、蓮の胸の奥がほんの少し温かくなる。


 彼女が来てくれることが、いつの間にか当たり前のようになっていた。


 けれど、本当は分かっている。


 毎日学校へ通い、そのあとで病院まで来るのが、どれだけ大変なことなのか。


「……いつも、ありがとな」


「え?」


「いや、何でもない」


「何それ。気になるんだけど」


「気にするなって」


「もう。変なの」


 美雪は小さく笑うと、鞄から一枚の紙を取り出した。


「それでね、今日はこれを持ってきたの」


「何?」


「予定表」


「予定表?」


「うん」


 蓮が不思議そうに覗き込むと、紙にはいくつかの日付が書かれていた。


 十二月二十四日。


 十二月二十五日。


「……クリスマスか」


「そう。二十四日はクリスマスイブで、二十五日はクリスマス」


「それくらい知ってるよ」


「じゃあ、問題です。クリスマスイブは何の日でしょう?」


「いや、さっき自分で言っただろ」


「冗談だよ」


「……お前な」


 美雪は楽しそうに笑いながら、二十五日の日付を指差した。


「ここ」


「何?」


「一緒に過ごす日」


 蓮は思わず彼女を見た。


「……え?」


「クリスマス。私と蓮で、一緒に過ごすの」


「病院で?」


「うん」


「俺、まだ入院してるんだけど」


「知ってるよ」


「クリスマスなのに?」


 美雪は少しだけ首を傾げた。


 そして、まるでそれが一番自然な答えであるかのように言った。


「だから、一緒にいたいんだよ」


「……」


 蓮は言葉を失った。


 クリスマス。


 街がイルミネーションで彩られ、家族や友達、恋人たちが一緒に過ごす特別な日。


 そんな日に、自分は病室のベッドにいる。


 それが少し寂しくないと言えば、嘘になる。


 それでも。


 美雪が一緒にいてくれるのなら。


 ここだって、きっと特別な場所になる。


「……そっか」


 蓮は照れくさそうに笑った。


「じゃあ、楽しみにしてる」


「うん。約束ね」


     *


「それでさ」


 蓮は予定表を見ながら尋ねた。


「クリスマスって、何するんだ?」


「……考えてなかった」


「おい」


「だって、蓮と一緒に過ごしたかったんだもん」


「それは分かったけど……」


「蓮は何かしたいことある?」


「うーん……」


 蓮は腕を組み、少し考えた。


「ケーキを食べるとか?」


「いいね!」


「あと、写真を撮る」


「うん。いっぱい撮ろう」


「それから、映画でも見るか」


「何の映画?」


「何でもいいよ」


 美雪は、しばらく考え込んだ。


 そして、何かを思いついたように顔を上げる。


「じゃあ、恋愛映画!」


「……は?」


「恋愛映画」


「いや、何で?」


「面白そうだから」


「他にもあるだろ」


「嫌なの?」


「嫌っていうか……」


「恥ずかしい?」


「……うるさい」


 美雪は、こらえきれないように笑った。


「じゃあ、決まり!」


「おい、勝手に決めるな!」


「だって、蓮が恥ずかしがるところ、ちょっと見てみたいし」


「性格悪いぞ……」


「ふふっ。褒め言葉として受け取っておくね」


「褒めてないからな」


 二人の笑い声が、病室に響いた。


 こんなふうに笑い合える時間が、ずっと続けばいい。


 蓮は、ふとそんなことを思った。


 特別なことなんて、何もいらない。


 美雪と一緒にケーキを食べて、映画を見て、写真を撮る。


 たったそれだけでいい。


 それだけのことが、今の蓮には何よりも楽しみだった。


     *


 美雪は、予定表の一番下にペンを走らせた。


 書き終えると、蓮に紙を見せる。


「はい、完成!」


「何て書いたんだ?」


 蓮は文字を目で追った。


 そこには、こう書かれていた。


 ――十二月二十五日まで、一緒にいる。


「……これ」


「うん。目標!」


「目標って……」


「だって、大事でしょ?」


 美雪は笑った。


「二人でクリスマスを迎える。それが、今の私たちの目標」


 蓮は、その文字をじっと見つめた。


 たった一行。


 誰にでもできそうな、簡単な約束。


 それなのに、今の自分には、ひどく遠いものに思えた。


「……簡単そうで、意外と難しいな」


 思わず口からこぼれた言葉。


 美雪の笑顔が、一瞬だけ止まった。


「……蓮」


「いや、ごめん。変なこと言った」


「ううん」


 美雪は首を横に振った。


 それから、蓮の手をそっと握った。


「大丈夫だよ」


「……」


「一緒にクリスマスを迎えよう」


 彼女の手は温かかった。


 蓮は、その手を握り返した。


「……ああ」


「約束ね」


「うん。約束」


 小指を絡めるわけでもなく、派手な言葉を交わすわけでもない。


 ただ、二人で手を握り合った。


 それだけで、十分だった。


     *


 午後。


 蓮は検査のため、車椅子で病室を出た。


「自分で歩けますけど……」


「今日は車椅子を使いましょうね」


 看護師は穏やかな口調で言った。


「無理は禁物ですよ」


「……分かりました」


 蓮は渋々頷いた。


 正直、少し悔しかった。


 以前なら、何の問題もなく歩けていた。


 毎朝学校へ行き、階段を上り、放課後には寄り道をして、何時間も歩き回ることだってあった。


 それが今では、少し歩いただけでも息が苦しくなる。


 自分の体なのに、思うように動いてくれない。


 その事実が、どうしようもなくもどかしかった。


 何より、怖かった。


 今まで普通にできていたことが、一つずつできなくなっていく。


 この先、自分はどうなってしまうのだろう。


 そんな不安が、ふとした瞬間に胸を締めつける。


 それでも、蓮はその気持ちを誰にも話していなかった。


 特に、美雪には。


 彼女の前では、できるだけいつも通りでいたかった。


 心配させたくなかった。


 せっかく会いに来てくれるのだから、笑っていてほしかった。


 だから、今日も何でもない顔をして、検査室へと向かった。


     *


 検査が終わり、病室へ戻ると、美雪が待っていた。


「おかえり、蓮」


「……ただいま」


 その言葉に、蓮は少しだけ驚いた。


 ただ検査から戻ってきただけなのに。


 美雪が「おかえり」と言ってくれた。


 たったそれだけのことが、なぜか胸に残った。


「どうだった?」


「いつも通り」


「疲れた?」


「少しだけ」


「じゃあ、休む?」


「いや、まだ大丈夫」


 美雪は蓮の顔をじっと見つめた。


「……本当に?」


「本当だって」


「無理してない?」


「してないよ」


「ならいいけど……」


 美雪は少し心配そうな顔をしたものの、それ以上は何も聞かなかった。


 代わりに、鞄からノートを取り出す。


「じゃあ、勉強しようか」


「……え?」


「勉強」


「いや、今の流れで?」


「高校二年生でしょ?」


「そうだけど」


「このままだと、授業に置いていかれちゃうよ」


「それは困るな……」


「でしょ?」


 美雪は得意げに笑った。


「だから、今日も先生役をやってあげます」


「……またそれか」


「何か文句ある?」


「ありません、先生」


「よろしい」


 蓮は苦笑しながら、教科書を開いた。


 勉強を教わりながら、二人は時々くだらない話をした。


 問題が解ければ、美雪が褒めてくれる。


 間違えれば、すぐに指摘される。


 それでも、蓮は嫌ではなかった。


 むしろ、嬉しかった。


 こんなふうに過ごしていると、自分が病院にいることを忘れそうになる。


 いつもの学校のように。


 いつもの放課後のように。


 何でもない時間が流れていく。


 それが、今の蓮にとっては何よりの救いだった。


     *


 夕方。


 美雪は窓の外を眺めていた。


「……雪、積もってるね」


「うん」


「学校のほうも、きっと真っ白だよ」


「そうかな」


「うん。校庭とか、すごいことになってるかも」


「……見たいな」


 蓮がぽつりと呟いた。


 美雪は振り返った。


「外に出たい?」


「いや、そういうわけじゃないけど……学校の雪、見てみたいなって」


「そっか」


 美雪は少し考えたあと、笑顔で頷いた。


「じゃあ、明日、写真を撮ってくるね」


「……本当に?」


「うん。校庭も、校門の前も、通学路も」


「そんなに?」


「もちろん。蓮が見たいんでしょ?」


「……ああ」


「じゃあ、いっぱい撮ってくる」


 美雪は、まるで自分のことのように嬉しそうだった。


 蓮は窓の外へ視線を戻した。


 雪に覆われた街。


 遠くにある、いつもの学校。


 今は行けない場所なのに、美雪が写真を撮ってきてくれると思うだけで、少しだけ近くに感じられた。


「……楽しみにしてる」


「任せて!」


 美雪は胸を張った。


 その姿がおかしくて、蓮は小さく笑った。


     *


 その夜。


 美雪が帰ったあと、蓮はベッドに横になっていた。


 病室は静かだった。


 窓の外には、雪が降り続いている。


 蓮はゆっくりと息を吸った。


「……っ」


 胸の奥に、鈍い痛みが走った。


 思わず眉をひそめる。


 少し待ってから、もう一度、深く息を吸う。


 今度は、さっきよりも苦しかった。


「……何だよ、これ」


 小さく呟き、胸元に手を当てる。


 以前なら、気にも留めなかったような痛み。


 少し休めば、すぐに治まると思っていた。


 けれど、今は違う。


 痛みそのものよりも、その痛みが意味するものを考えてしまう。


 また、悪くなっているのだろうか。


 このまま、もっと動けなくなってしまうのだろうか。


 クリスマスまで、あと何日だろう。


 美雪との約束を、守れるのだろうか。


「……」


 蓮は枕元のスマートフォンを手に取った。


 美雪にメッセージを送ろうとする。


 今、少し胸が苦しいこと。


 いつもより、体が重いこと。


 本当は、少し怖いこと。


 伝えたいことは、いくつもあった。


 けれど、文字を打つことができなかった。


 心配させたくない。


 明日、彼女が来てくれたときには、いつも通り笑っていたい。


 蓮は入力しかけた文章を消した。


 代わりに、短いメッセージを送る。


『おやすみ』


 少しして、返事が届いた。


『おやすみ、蓮。また明日ね』


 その文字を見つめながら、蓮は目を閉じた。


「……また明日」


 自分に言い聞かせるように、そっと呟いた。


     *


 十二月十五日。


 火曜日。


 病室のドアが勢いよく開いた。


「蓮!」


「……どうした?」


 美雪が、大きな紙袋を抱えて立っていた。


「今日はね、特別なものを持ってきました!」


「また秘密のプレゼント?」


「今回は秘密じゃないよ」


「じゃあ、何?」


「開けてからのお楽しみ!」


「それ、秘密って言わないか?」


「細かいことは気にしないの」


 美雪は笑いながら、紙袋をベッドの上に置いた。


 蓮が中を覗き込むと、そこには小さなクリスマスツリーが入っていた。


「……ツリー?」


「そう!」


 美雪は嬉しそうに頷いた。


「病室に飾ろうと思って」


「え、いいの?」


「看護師さんに許可をもらってきたよ。小さいものなら大丈夫だって」


「……本当に持ってきたんだ」


「当たり前でしょ。クリスマスまであと十日しかないんだから」


「いや、そうだけど……」


「ほら、早く組み立てよう!」


 美雪は袋からツリーと飾りを取り出した。


 二人で説明書を見ながら、少しずつ組み立てていく。


「これ、どこに付けるの?」


「そこじゃない?」


「え、こっち?」


「……逆だよ、蓮」


「うそだろ」


「本当」


「説明書、分かりにくすぎるだろ……」


「蓮がちゃんと読んでないだけじゃない?」


「……はい」


 美雪はくすくすと笑いながら、飾りを一つずつ付けていった。


 小さな赤い玉。


 銀色のリボン。


 きらきらと光る星の飾り。


 最後に、ツリーのてっぺんへ小さな星を取り付ける。


「……完成!」


 美雪が両手を広げた。


 蓮は、出来上がったツリーをじっと見つめた。


 決して大きくはない。


 豪華でもない。


 けれど、そこには二人で飾り付けたものが、一つひとつ輝いていた。


 いつもは白い壁と白い天井ばかりの病室。


 そこに小さなツリーがあるだけで、景色が少し違って見えた。


 まるで、この部屋にもクリスマスがやって来たみたいだった。


「……いいな、これ」


「でしょ?」


「ありがとう、美雪」


「どういたしまして」


 美雪は、満足そうに微笑んだ。


 蓮もまた、ツリーを見ながら笑った。


 今年のクリスマスは、きっと忘れられないものになる。


 そんな予感がした。


     *


 夜。


 病室の明かりが落とされると、ツリーの小さなライトが静かに輝いていた。


 色とりどりの光が、壁に淡い影を落としている。


 蓮はベッドの上から、その光を眺めていた。


「……綺麗だな」


「うん」


 椅子に座っていた美雪が頷いた。


「持ってきてよかった」


「本当に」


 しばらく、二人は黙ってツリーを眺めていた。


 静かな時間だった。


 けれど、気まずさはなかった。


 何も話さなくても、隣にいてくれる。


 それだけで、心が落ち着いた。


「……ねえ、蓮」


「ん?」


「来年もさ」


 美雪は、少し照れくさそうに笑った。


「来年のクリスマスも、一緒に過ごそうね」


 蓮は思わず彼女を見た。


「……来年?」


「うん」


「まだ今年のクリスマスも来てないぞ」


「分かってるよ」


「気が早すぎないか?」


「いいじゃん。約束は早いほうがいいでしょ?」


 美雪は、少しだけ頬を膨らませた。


「……嫌?」


「いや」


 蓮は首を横に振った。


「嫌なわけないだろ」


「じゃあ?」


 蓮はツリーへ視線を戻した。


 小さな光が、ゆっくりと点滅している。


「……楽しみだよ」


 できるだけ自然に言ったつもりだった。


 けれど、胸の奥はひどく痛かった。


 来年。


 その言葉が、今の自分には遠く感じられた。


 来年のクリスマスまで、自分はここにいるのだろうか。


 また美雪と笑っていられるのだろうか。


 そんな保証は、どこにもなかった。


 それでも、彼女の前で不安を口にすることはできなかった。


 せっかく未来の話をしてくれているのに。


 せっかく、自分と一緒にいたいと言ってくれているのに。


 その気持ちを、不安で曇らせたくなかった。


「……じゃあ、約束ね」


 美雪は小指を差し出した。


 蓮は少しだけ笑い、その小指に自分の小指を絡めた。


「……ああ。約束」


「絶対だよ」


「うん」


 小指を絡めたまま、二人は少しの間、見つめ合った。


 その約束が、いつまでも続くことを願いながら。


     *


 十二月十八日。


 短い時間だけ、蓮は病院の屋上へ出る許可をもらった。


 医師からは、決して無理をしないようにと念を押されていた。


 それでも、久しぶりに外の空気を吸えることが嬉しかった。


 美雪と並んで、冬の空を見上げる。


「……寒いね」


「うん」


「病室に戻る?」


「……もう少しだけ」


 蓮が答えると、美雪は小さく頷いた。


「分かった。でも、寒くなったらすぐ戻ろうね」


「はいはい」


「もう。ちゃんと聞いてる?」


「聞いてるって」


 美雪は少しだけ頬を膨らませた。


 その姿を見て、蓮は笑った。


 そのとき。


 空から、白いものが一つ、ゆっくりと落ちてきた。


「あ……」


 美雪が手を差し出す。


 小さな雪の結晶が、彼女の手のひらに舞い降りた。


「雪だ」


「……うん」


 二人は、手のひらの上の雪を見つめた。


 ほんの一瞬。


 その白い結晶は、体温に触れると、ゆっくりと形を失っていった。


 やがて、小さな水滴だけが残る。


「……儚いね」


 蓮が呟くと、美雪は首を傾げた。


「何が?」


「雪」


 蓮は、手のひらに残った水滴を見つめた。


「こんなに綺麗なのに、すぐに消えちゃうんだなって」


 美雪はしばらく考え、それから空を見上げた。


「でも……消えるからこそ、綺麗なのかもしれないよ」


「……そうかな」


「うん。ずっと同じ形のままだったら、こんなに大切に見えないかもしれないでしょ?」


 蓮は、もう一度空を見上げた。


 静かに舞い落ちる雪。


 その一つひとつが、地面に触れるまでの短い時間を懸命に生きているように見えた。


「……そうかもな」


 蓮は小さく笑った。


 美雪も、優しく微笑んだ。


 二人はしばらく、その場に立っていた。


 冷たい風が頬を撫でる。


 それでも、蓮はもう少しだけ、この景色を見ていたかった。


 美雪と一緒に、同じ空を見上げていたかった。


     *


 病室に戻る頃には、蓮はすっかり疲れ切っていた。


 ベッドに腰を下ろし、ゆっくりと息を吐く。


「……大丈夫?」


 美雪が心配そうに顔を覗き込んだ。


「うん」


「顔色、悪いよ」


「ちょっと疲れただけだって」


「……本当に?」


「本当」


 蓮は笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


 美雪は何も言わず、じっと蓮を見つめていた。


 その目には、隠しきれない心配が浮かんでいる。


「……蓮」


「ん?」


「私に、何か隠してることない?」


 蓮の心臓が、小さく跳ねた。


「……え?」


「最近、時々苦しそうな顔をするから」


「……」


「無理して笑ってるように見えるときもあるし」


 美雪は、少しだけ視線を落とした。


「私、何もできないかもしれないけど……それでも、蓮がつらいときは教えてほしい」


 蓮は言葉を失った。


 彼女は、ちゃんと見ていたのだ。


 自分が隠そうとしていた不安も。


 無理に笑おうとしていたことも。


 きっと、全部ではないにしても、気づいていた。


 それでも、蓮は口を開けなかった。


 怖かった。


 本当のことを話してしまえば、今のこの時間まで壊れてしまうような気がした。


 美雪の笑顔が消えてしまうような気がした。


「……何もないよ」


 やっとのことで、そう答えた。


「本当に?」


「うん」


 美雪は、しばらく蓮を見つめていた。


 何か言いたそうだった。


 それでも、無理に問い詰めることはしなかった。


「……そっか」


 そう呟くと、彼女は蓮の手を握った。


「でも、つらくなったら、ちゃんと言ってね」


「……ああ」


「一人で抱え込まないで」


 蓮は、握られた手を見つめた。


「……分かった」


 そう答えながらも、心の中では思っていた。


 いつか、話さなければならない日が来るのかもしれない。


 自分の体のこと。


 この先のこと。


 美雪との約束を守れるかどうかさえ、分からないということ。


 けれど、今だけは。


 もう少しだけ、彼女の笑顔を見ていたかった。


     *


 その夜。


 美雪が帰ったあと、蓮はノートを開いた。


 新しいページに、ゆっくりと文字を書き込んでいく。


 ㊵ 美雪とクリスマスを過ごす。


 ㊶ 来年のクリスマスも一緒にいる。


 ㊷ 美雪と普通の生活をする。


 書き終えた蓮は、ペンを置いた。


 そして、一つひとつの言葉を、じっと見つめた。


 普通の生活。


 昔の自分にとって、それは特別なものではなかった。


 朝、目を覚ます。


 学校へ行く。


 授業を受ける。


 家に帰る。


 ご飯を食べる。


 誰かと話し、笑う。


 そんな毎日が、当たり前のように続いていく。


 特別な幸せだなんて、考えたこともなかった。


 けれど、今は違う。


 もう一度、そんな日々を過ごしたい。


 朝起きたとき、今日も一日が始まることを嬉しく思いたい。


 学校で美雪と顔を合わせて、くだらないことで笑いたい。


 帰り道を一緒に歩いて、何でもない話をしたい。


 そして、夜になったら、明日もまた会えることを楽しみに眠りたい。


 そんな普通の毎日が、今の蓮にとっては、何よりも欲しいものだった。


「……叶うといいな」


 ノートを見つめながら、蓮は小さく呟いた。


 誰に聞かせるわけでもない。


 ただ、自分の願いを確かめるように。


 その言葉を、胸の奥へと刻み込んだ。


     *


 十二月二十日。


 病院。


 診察室では、医師が蓮の検査結果を確認していた。


 机の上には、いくつもの検査資料が並んでいる。


 医師はその一つひとつに目を通し、難しい表情を浮かべていた。


 やがて、看護師が静かに声をかけた。


「先生」


「……はい」


「ご家族への連絡は、どうされますか?」


 医師はすぐには答えなかった。


 しばらく沈黙したあと、ゆっくりと口を開く。


「本人は、家族への連絡を望んでいません」


「そうですか……」


「ただ、今後のことを考えると、一度は本人の意思を確認する必要があります」


 医師は、もう一度検査結果に目を落とした。


 表情は、先ほどよりもさらに険しくなっていた。


「……状態が急変する可能性があります」


 看護師の顔から、笑みが消えた。


「そんなに……?」


「まだ断定はできません。ただ、楽観視できる状況ではありません」


「本人には、もう説明を?」


「詳しいことは、まだです」


 医師は椅子の背もたれに身を預け、深く息を吐いた。


 本人に伝えるべきことは、分かっている。


 しかし、それをどう伝えるべきなのか。


 まだ未来を信じている少年に、どんな言葉をかければいいのか。


 簡単に答えが出るものではなかった。


「……きちんと話さなければなりませんね」


 医師は静かに呟いた。


「彼には、自分の状態と、残された時間について、知る権利があります」


 看護師は何も言わず、ゆっくりと頷いた。


 診察室には、重い沈黙が流れていた。


     *


 その頃。


 病室では、蓮が小さなクリスマスツリーを眺めていた。


 色とりどりのライトが、ゆっくりと点滅している。


 その光を見つめながら、蓮は指で日付を数えた。


「……あと五日か」


 クリスマスまで、あと五日。


 美雪と約束した日まで、あと五日。


 蓮はツリーのてっぺんに飾られた小さな星を見つめた。


「……絶対、一緒に迎えような」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 美雪に向けたのか。


 自分自身に言い聞かせたのか。


 それとも、どうか願いを聞き届けてほしいと、どこか見えないものに祈ったのか。


 ただ、一つだけ確かなことがあった。


 蓮は、クリスマスを楽しみにしていた。


 美雪と一緒に笑えることを。


 二人で写真を撮れることを。


 ケーキを食べて、映画を見て、またくだらない話をできることを。


 そして、その先にある未来を。


 まだ、信じていた。


 来年も一緒にいられる。


 春になれば、桜を見られる。


 いつか退院して、また普通の生活に戻れる。


 そう信じていたかった。


 だからこそ、蓮は知らなかった。


 自分の知らないところで、何が話し合われていたのか。


 医師がどんな表情で検査結果を見つめていたのか。


 そして、翌朝。


 自分の未来を大きく変える言葉を聞くことになるということを。


 蓮は、ツリーの小さな光を見つめながら、そっと目を閉じた。


「……おやすみ」


 静かな病室に、呟きが溶けていく。


 明日も、美雪に会える。


 そう思いながら、蓮は眠りについた。


 クリスマスまで、あと五日。


 少年が信じている未来は、まだ目の前にある。


 けれど、そのすぐ向こう側には。


 彼がまだ知らない、残酷な現実が待っていた。

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