第三十四章 残された冬
十二月二十一日。
月曜日。
午前六時半。
蓮は目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
雪が降っているのか、遠くの街並みはぼんやりと霞んでいた。
いつもなら、もう少しだけ眠ろうと目を閉じる時間だった。
けれど、今日はどうしても眠れなかった。
昨日から、胸の奥に小さな不安が引っかかっている。
理由は分からない。
ただ、何かが起こるような気がしていた。
まるで、自分の知らないところで何かが静かに動き始めているような。
そんな、言葉にできない感覚だった。
「……何なんだよ、いったい」
蓮は小さく呟き、布団を握りしめた。
胸の奥が、妙に落ち着かなかった。
*
午前八時。
病室のドアがノックされた。
「綾小路くん、入ってもいいかな?」
「……はい」
入ってきたのは、担当の医師だった。
いつもと変わらない白衣姿。
けれど、その表情はどこか硬かった。
「少し、話をしてもいいかな」
「検査結果のことですか?」
医師は静かに頷いた。
「そうだね」
蓮は背筋を伸ばした。
嫌な予感が、少しずつ現実味を帯びていく。
医師はベッドのそばに椅子を置き、腰を下ろした。
「最近の検査結果について説明するね」
「……お願いします」
「残念だけど、病状は以前より進行している」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の指先がぴくりと動いた。
「……そうですか」
できるだけ平静を装って答えた。
驚かなかったわけではない。
怖くなかったわけでもない。
ただ、どこかで覚悟していたのかもしれなかった。
「治療は、これからも続けていく。症状を抑え、できる限り体への負担を減らすためにね」
「……はい」
「ただ、残念ながら、完全に元の状態に戻すことは難しい」
蓮は、膝の上で両手を握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
それでも、痛みはほとんど感じなかった。
「……良くなる可能性は、ないんですか?」
医師は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも怖かった。
「症状が改善する可能性はある。ただ、病気そのものを完全に治せると約束することはできないんだ」
「……そうですか」
蓮は窓の外へ目を向けた。
雪が静かに降っていた。
白い雪が、何も知らないまま街を覆っていく。
いつもと変わらない冬の朝。
それなのに、自分の世界だけが、少しずつ崩れていくような気がした。
「……先生」
「何かな?」
「俺は……あと、どれくらい生きられますか?」
口にした瞬間、心臓が強く脈打った。
本当は聞きたくなかった。
聞いてしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
自分に残された時間を知りたかった。
美雪との約束を、守れるのか知りたかった。
医師は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「正確なことは、誰にも分からない」
「……」
「ただ、今の状態を考えると、残された時間は数か月単位になる可能性がある」
蓮の呼吸が止まった。
「……数か月?」
「これは、あくまで現時点での見通しだよ。必ずそうなると決まったわけではない」
「……分かってます」
分かっている。
確実なことなど、何もない。
医師にも分からない。
自分にも分からない。
それでも。
数か月という言葉は、あまりにも重かった。
「……先生」
蓮は、震える声で尋ねた。
「春まで……生きられますか?」
医師は、蓮の目を見つめた。
すぐに答えられない様子だった。
その沈黙だけで、十分だった。
それでも、しばらくしてから、医師は静かに口を開いた。
「春を迎えられる可能性はある。ただ、今の時点で約束することはできない」
「……そうですか」
蓮は目を閉じた。
春。
桜が咲く季節。
美雪と一緒に見たいと思っていた景色。
来年も、その次の年も、当たり前のように訪れると思っていた季節。
それが今は、手の届かない遠い未来のように感じられた。
「……分かりました」
蓮は、かすかに頷いた。
それ以上、何も聞けなかった。
*
医師が病室を出ていったあと。
蓮は、ベッドの上でじっとしていた。
何も考えられなかった。
いや、違う。
考えたくなかった。
頭の中では、同じ言葉が何度も繰り返されていた。
数か月。
数か月。
数か月。
「……短いな」
思わず、笑いがこぼれた。
自分でも驚くほど、乾いた笑いだった。
「……短すぎるだろ」
声が震えた。
目の奥が熱くなる。
どうして。
どうして自分なんだ。
ようやく、これからも生きていたいと思えるようになったのに。
ようやく、明日が来ることを楽しみにできるようになったのに。
ようやく、帰りたい場所を見つけたいと思えるようになったのに。
どうして今になって。
「……ふざけんなよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
神様なのか。
運命なのか。
それとも、何もできない自分自身なのか。
蓮は布団を頭まで引き上げた。
声を聞かれたくなかった。
誰にも知られたくなかった。
これ以上、惨めな姿を見せたくなかった。
けれど。
どれだけ唇を噛みしめても、涙は止まらなかった。
「……死にたくない」
小さな声が、布団の中に消えていく。
「……まだ、死にたくないよ」
初めてだった。
自分がいなくなることを、こんなにも怖いと思ったのは。
そして。
生きていたいと、心の底から願ったのは。
*
午前十時。
病室のドアが開いた。
「おはよう、蓮」
「……おはよう」
美雪だった。
いつものように、制服姿で鞄を肩に掛けている。
その姿を見た瞬間、蓮は慌てて目元を拭った。
けれど、遅かった。
「……蓮?」
「何?」
「目、赤いよ」
「……そうか?」
「泣いたの?」
「いや……眠れなかっただけ」
美雪は、何も言わずに蓮を見つめた。
「……嘘」
「……」
「蓮」
彼女の声が、少しだけ優しくなった。
「何があったの?」
「何もないよ」
「先生と話した?」
蓮の手が止まった。
美雪は、それを見逃さなかった。
「……やっぱり、何かあったんだね」
「……治療の話をしただけだよ」
「それだけ?」
「うん」
嘘ではなかった。
確かに、治療の話をした。
けれど、本当に伝えたかったことは、何一つ言えなかった。
数か月しか残されていないかもしれないこと。
春まで生きられる保証さえないこと。
そして。
美雪との約束を守れないかもしれないこと。
そのすべてを、胸の奥に押し込めた。
美雪はしばらく黙っていた。
それから、蓮の隣に座り、そっと手を握った。
「……分かった」
「……うん」
「今は、話したくないんだよね?」
蓮は小さく頷いた。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
美雪は、握った手に少しだけ力を込めた。
「話したくなったら、いつでも聞くから」
「……ああ」
「だから、無理しないでね」
蓮は、彼女の手を見つめた。
温かかった。
その温もりが、今にも崩れそうな心を、かろうじて支えてくれていた。
*
昼。
二人は、いつものようにおにぎりを食べていた。
美雪は学校であった出来事を話してくれた。
「今日ね、先生が黒板に漢字を書き間違えたんだよ」
「え、先生が?」
「うん。しかも、全然違う漢字」
「何を書いたんだよ?」
「それがね……説明するより、実際に見たほうが面白いと思う」
「何それ。気になるだろ」
「ふふっ。今度、ノートに書いて見せてあげる」
「そんなに面白かったのか?」
「クラスのみんな、笑いをこらえられなかったんだから」
「先生、怒らなかった?」
「怒ったふりはしてたよ。でも、先生も笑いそうになってた」
「ははっ。見たかったな、それ」
蓮は笑った。
美雪も笑った。
いつもと変わらない昼食。
いつもと変わらない会話。
何も特別なことはない。
それなのに、蓮の胸は苦しかった。
――あと何回、こうして一緒に笑えるんだろう。
考えたくもない言葉が、頭の中に浮かんでくる。
明日も、こうして笑えるだろうか。
クリスマスも。
その先も。
来年も。
考え始めると、止まらなかった。
「……蓮?」
「……え?」
「どうしたの? 急に黙っちゃって」
「いや、何でもない」
「また、それ?」
美雪は少しだけ頬を膨らませた。
「最近、何でもないって言いすぎ」
「……悪い」
「もう。謝ってほしいわけじゃないのに」
美雪は困ったように笑った。
蓮も、何とか笑顔を作った。
今はまだ、話せない。
怖くて、どうしても話せなかった。
それでも。
彼女の前で笑える時間を、失いたくなかった。
*
午後。
美雪が、小さな箱を取り出した。
「はい、これ」
「……何?」
「クリスマスプレゼント」
「え? まだ早くないか?」
「いいの。早く渡したかったんだから」
「……開けていい?」
「もちろん」
蓮は箱を受け取り、ゆっくりと蓋を開けた。
中には、小さな手袋が入っていた。
柔らかな生地で作られた、落ち着いた色の手袋だった。
「……手袋?」
「うん。病院って、朝とか夜は冷えるでしょ?」
「……ありがとう」
「それとね」
美雪は、自分の鞄から同じ手袋を取り出した。
「私も持ってるんだ」
「……え?」
「ほら、お揃い」
美雪は、少し照れくさそうに笑った。
「これを見つけたとき、蓮とお揃いにしたいなって思ったの」
蓮は、手袋と美雪の顔を交互に見た。
「……本当に、お揃いなんだな」
「うん。嫌だった?」
「まさか」
蓮は首を横に振った。
「……すごく嬉しい」
「よかった」
美雪は、ほっとしたように微笑んだ。
蓮は手袋をそっと握りしめた。
柔らかな感触が、指先に伝わってくる。
たった一つの贈り物。
それなのに、どうしてこんなにも胸がいっぱいになるのだろう。
自分のために選んでくれた。
自分と同じものを持ちたいと思ってくれた。
そして、これからも一緒にいたいと願ってくれている。
その気持ちが、何よりも嬉しかった。
同時に、怖かった。
この手袋を、来年も使えるだろうか。
来年の冬も、美雪と一緒にいられるだろうか。
そんなことを考えてしまう自分が、嫌だった。
蓮は俯き、手袋を胸元に抱えた。
「……大切にする」
「うん」
「ずっと」
その言葉を聞いて、美雪は少しだけ目を細めた。
「……うん。ずっと使ってね」
彼女の笑顔を見ながら、蓮は心の中で願った。
どうか、この約束を守れますように。
*
夕方。
美雪が帰る時間になった。
「じゃあ、また明日ね」
「……うん」
「明日も来るから」
「待ってる」
美雪は、指を四本立ててみせた。
「クリスマスまで、あと四日!」
「……そうだな」
「一日ずつ、カウントダウンしようよ」
「カウントダウン?」
「うん。今日が終わったら、あと三日。次の日は二日。それから一日!」
「……子供みたいだな」
「いいの。楽しければ」
美雪は笑った。
「それに、一日ずつ数えたほうが、クリスマスが近づいてるって実感できるでしょ?」
「……確かに」
「だから、明日も一緒に数えようね」
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。約束」
「約束!」
二人は顔を見合わせて笑った。
美雪が帰ったあとも、蓮の耳には彼女の明るい声が残っていた。
あと四日。
たった四日。
その短い時間が、今はどうしようもなく愛おしかった。
*
夜。
蓮はノートを開いた。
十二月二十一日。
日付を書き、その下にペンを走らせる。
『今日、先生から残された時間について話をされた。』
そこで、手が止まった。
ペン先が紙に触れたまま、動かない。
何を書けばいいのか分からなかった。
数か月。
その言葉を、もう一度書こうとした。
けれど、指が震えて、うまく文字にならなかった。
蓮は目を閉じた。
そして、ゆっくりと書き始めた。
『残された時間は、数か月かもしれない。』
書き終えた瞬間、涙が一滴、ノートに落ちた。
インクが、わずかに滲む。
『怖い。』
『死にたくない。』
『もっと生きたい。』
ペンを握る手に、力が入った。
『美雪と、もっと一緒にいたい。』
そこまで書いたところで、蓮は顔を覆った。
涙が止まらなかった。
生きたい。
もっと生きたい。
美雪と一緒に、もっとたくさんの時間を過ごしたい。
何でもないことで笑って。
一緒にご飯を食べて。
手を繋いで、帰り道を歩いて。
いつか、今日のことを懐かしく思い出せるようになりたい。
そんな未来が欲しかった。
何も特別なことはいらない。
ただ、もう少しだけ。
もう少しだけ、生きていたい。
蓮は涙を拭い、再びペンを握った。
最後に、一行だけ書き加える。
『それでも、今日を生きる。』
その文字を見つめながら、蓮は静かに息を吐いた。
明日のことは分からない。
春が来るかどうかも分からない。
それでも、今日という一日だけは、まだ自分の手の中にある。
だったら。
せめて今日を、大切に生きよう。
蓮はノートを閉じた。
*
十二月二十二日。
火曜日。
朝。
美雪が病室にやって来た。
「おはよう、蓮!」
「おはよう」
「今日はね、蓮に見せたいものがあるんだ」
「……何?」
美雪はスマートフォンを取り出した。
「昨日、写真を撮ってきたの」
「学校の?」
「うん!」
画面には、見慣れた学校の景色が映っていた。
教室。
窓際の席。
黒板。
廊下。
そして、雪に覆われた校庭。
「……懐かしいな」
蓮は、画面をじっと見つめた。
まだ、ほんの数週間しか経っていない。
それなのに、ずいぶん遠い場所のように感じられた。
「これ、蓮の席だよ」
美雪が一枚の写真を見せた。
窓際の席。
机の上には、誰も使っていない教科書が置かれていた。
「先生がね、机をそのままにしてくれてるの」
「……そうなんだ」
「うん。みんなも、蓮が戻ってくるのを待ってるよ」
蓮は、しばらく何も言えなかった。
自分の席が残っている。
みんなが待ってくれている。
それが嬉しかった。
同時に、胸が苦しくなった。
自分は、本当に戻れるのだろうか。
あの教室に。
あの席に。
みんなのいる場所へ。
それでも、今は信じたかった。
「……ありがとう、美雪」
「どういたしまして」
美雪は次々と写真を見せてくれた。
校門の前。
雪の積もった通学路。
誰もいない放課後の教室。
最後に、蓮の指が止まった。
「……これ」
画面には、雪の積もった校庭が映っていた。
白い地面に、二人分の足跡が並んでいる。
「これ、誰の足跡?」
「昨日、友達と校庭を歩いたときに撮ったの」
「……二人分だな」
「うん」
美雪は、少しだけ笑った。
「何だか、蓮と一緒に歩いたときのことを思い出して」
蓮は画面を見つめた。
雪の上に並ぶ足跡。
その先には、誰もいない。
けれど、二人で歩いた時間が、そこに残っているような気がした。
「……いい写真だな」
「でしょ?」
「送ってくれる?」
「もちろん!」
蓮は、その写真を保存した。
何度も見返せるように。
忘れたくないから。
「……大切にするよ」
美雪は、嬉しそうに頷いた。
*
午後。
二人は、クリスマスの計画を立てていた。
「まずはケーキ!」
美雪が指を一本立てた。
「うん」
「それから、映画!」
「うん」
「写真も撮る!」
「分かった」
「あと……」
美雪は少し考え込んだ。
「手紙を書こうよ」
「……手紙?」
「うん。お互いに」
「何を書くんだ?」
「それは秘密」
「また秘密かよ」
「だって、先に内容を教えたら面白くないでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
「だから、クリスマスまでに書いておくの」
美雪は、楽しそうに笑った。
「当日になったら、お互いに交換しようね」
「……分かった」
蓮は頷いた。
手紙。
美雪に何を書こう。
ありがとう。
会えてよかった。
これからも一緒にいたい。
伝えたい言葉は、いくつもあった。
けれど、どれだけ考えても、すべてを伝えられる気がしなかった。
それでも、書きたいと思った。
今の自分にできる精いっぱいの言葉で。
美雪に、自分の気持ちを残したかった。
*
その日の夕方。
美雪は、帰り支度をする手を止めた。
「……蓮」
「ん?」
「私ね……怖いんだ」
いつもとは違う声だった。
蓮は顔を上げた。
美雪は、俯いたまま続けた。
「蓮が、いなくなっちゃうんじゃないかって……怖い」
「……美雪」
「最近、ずっと考えちゃうの」
彼女の声が震えた。
「蓮が苦しそうにしてるときとか、無理して笑ってるときとか……何か隠してるんじゃないかって」
「……」
「聞きたいのに、聞くのが怖いの」
美雪の目に、涙が浮かんだ。
「もし、本当に怖いことを聞かされたら……どうしたらいいのか、分からなくなりそうで」
蓮は、何も言えなかった。
美雪も、怖かったのだ。
自分と同じように。
先の見えない未来に、不安を抱えていたのだ。
「……ごめん」
蓮は、小さく呟いた。
「謝らないで」
「でも……」
「蓮が謝ることじゃないよ」
美雪は、ゆっくりと顔を上げた。
頬には、涙が伝っていた。
「だから、約束してほしいの」
「……何を?」
「苦しくなったら、ちゃんと私に言って」
「……」
「つらいときは、つらいって言って。怖いときは、怖いって言って」
美雪は、蓮の手を握った。
「お願いだから、一人で我慢しないで」
蓮は、握られた手を見つめた。
自分が彼女を守りたいと思っていた。
心配させたくない。
悲しませたくない。
だから、何も言わずにいた。
けれど、それは本当に彼女のためだったのだろうか。
もしかしたら、自分が怖かっただけなのかもしれない。
自分の弱さを知られることが。
彼女の前で泣いてしまうことが。
そして、本当の気持ちを口にすることが。
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「……約束する」
「本当に?」
「ああ。もう、一人で抱え込まない」
美雪は、涙を拭った。
「……うん」
それから、もう一度だけ、蓮の手を強く握った。
*
「……私ね」
美雪が、静かに口を開いた。
「蓮が、あと数か月しか生きられないとしても……」
蓮の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
彼女は、もう気づいているのかもしれない。
医師から何を聞いたのか。
自分に、どれだけの時間が残されているのか。
すべてではなくても、何かを察しているのかもしれなかった。
「……その時間を、一緒に過ごしたい」
美雪の目から、涙がこぼれた。
「一年じゃなくてもいい。十年じゃなくてもいい」
彼女は、何度も涙を拭った。
それでも、涙は止まらなかった。
「たとえ一日だけだったとしても……その一日を、蓮と一緒に過ごせるなら」
美雪は、泣きながら微笑んだ。
「私は、その一日を大切にしたい」
蓮は、彼女を見つめた。
何か言わなければと思った。
けれど、言葉が出てこなかった。
胸の奥がいっぱいだった。
苦しくて。
嬉しくて。
悲しくて。
どうしようもなく、彼女を愛おしいと思った。
「……俺」
「うん?」
「美雪に会えて、本当によかった」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
美雪は、何度も頷いた。
「……私も」
蓮の目から、涙がこぼれた。
もう、隠そうとは思わなかった。
美雪の前なら、泣いてもいい。
怖いと言ってもいい。
生きたいと願ってもいい。
そう思えた。
二人は、しばらく手を握り合っていた。
どちらも、すぐには言葉を見つけられなかった。
それでも、手を離すことだけはしなかった。
*
夜。
美雪が帰ったあと。
蓮は窓の外を眺めていた。
雪が降っている。
白く染まった街。
静まり返った夜。
数か月。
その言葉は、まだ怖かった。
考えるだけで、胸が締めつけられる。
明日が来ることさえ、当たり前ではないのかもしれない。
それでも。
今の蓮は、ただ怯えているだけではなかった。
今日、美雪と笑った。
一緒にご飯を食べた。
手を握り合った。
自分の気持ちを、少しだけ伝えることができた。
そして、美雪もまた、自分の気持ちを話してくれた。
それらは、確かに今日という一日の中にあった。
どんな未来が待っていたとしても。
今日、美雪と過ごした時間が消えてしまうわけではない。
だから。
残された時間がどれだけ短くても。
その中に、幸せを見つけることはできるのかもしれない。
「……明日も、会いたいな」
蓮は小さく呟いた。
明日も、美雪に会いたい。
また笑いたい。
また、くだらない話をしたい。
その願いだけは、誰にも譲りたくなかった。
*
十二月二十三日。
水曜日。
朝。
担当の医師が病室を訪れた。
「綾小路くん、少し話があるんだけど」
「……はい」
「体調がこのまま安定していれば、明日、短時間の外出許可を出せそうだ」
「……え?」
蓮は、思わず顔を上げた。
「外出……できるんですか?」
「短時間だけだよ。体調に問題がないことが条件だし、無理はできない」
「……!」
「外に出るなら、必ず付き添いの人と一緒に行くこと。それから、少しでも具合が悪くなったら、すぐに戻ること。いいね?」
「はい!」
蓮は、何度も頷いた。
胸の奥に、久しぶりに明るいものが灯った。
外に出られる。
病院の外の空気を吸える。
そして。
クリスマスを、美雪と一緒に過ごせるかもしれない。
「……ありがとうございます」
蓮は、心からそう言った。
医師は少しだけ表情を和らげた。
「楽しみにするのはいいけれど、くれぐれも無理はしないようにね」
「はい。気をつけます」
医師が病室を出ていったあとも、蓮はしばらく笑顔のままだった。
ほんの少しの外出。
それだけのことなのに。
今の自分には、何よりも大きな贈り物に思えた。
*
その日の夕方。
美雪が病室にやって来た。
「おはよう……じゃなくて、こんにちは!」
「何だよ、それ」
「ちょっと間違えただけ!」
美雪は恥ずかしそうに笑った。
「それで、今日は何かいいことあった?」
「……実は」
蓮は、少しだけもったいぶってから言った。
「明日、外に出られるかもしれない」
「……本当?」
「うん。体調が安定していれば、短時間だけ」
美雪の表情が、一気に明るくなった。
「やった……!」
思わず声を上げ、それから慌てて口元を押さえる。
「ご、ごめん。病院なのに」
「ははっ。別にいいよ」
「だって、嬉しくて……」
美雪は、もう一度蓮を見た。
「……本当に、よかった」
その声は、少し震えていた。
蓮は、そんな美雪を見つめながら思った。
この笑顔を、もっと見ていたい。
何度でも、この笑顔を見たい。
「……それでさ」
蓮が尋ねる。
「明日、どこに行く?」
「うーん……」
美雪は、わざとらしく考え込んだ。
「どこがいいかな?」
「いや、俺に聞くのかよ」
「だって、蓮も行きたいところがあるかもしれないでしょ?」
「……そうだな」
蓮は少し考えた。
「雪が見たい」
「雪?」
「うん。病室から見るんじゃなくて、外で」
美雪は、優しく微笑んだ。
「……分かった」
「いいの?」
「もちろん。明日は、一緒に雪を見よう」
「……ああ」
美雪は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、明日までのお楽しみ!」
「……また秘密かよ」
「今度は、ちょっとだけ秘密」
「何だよ、それ」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
夜。
蓮は、小さなクリスマスツリーを眺めていた。
小さなライト。
てっぺんに飾られた星。
美雪が持ってきてくれた、ささやかな幸せ。
その光を見つめながら、蓮は胸の中で願った。
――明日も、生きていますように。
そして。
――美雪と、また笑えますように。
それだけでよかった。
大きな夢なんて、もういらない。
遠い未来のことを、すべて決めておきたいわけでもない。
ただ、明日が欲しい。
美雪と過ごすクリスマスが欲しい。
もう一度、雪の降る街を歩きたい。
そして、できることなら。
春が欲しい。
桜が咲く景色を見たい。
その下で、美雪と笑っていたい。
まだ、諦めたくなかった。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
冬は、まだ終わらない。
けれど、蓮にとって、その冬はもう、ただ寒くて寂しいだけの季節ではなかった。
美雪と過ごす一日一日が、かけがえのない時間になっていたから。
明日、また会える。
明日、また笑える。
その小さな希望を胸に抱きながら、蓮はゆっくりと目を閉じた。
残された冬が、あとどれくらい続くのかは分からない。
それでも。
今だけは、明日が来ることを信じていたかった。




