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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第三十四章 残された冬

 十二月二十一日。


 月曜日。


 午前六時半。


 蓮は目を覚ました。


 窓の外は、まだ薄暗い。


 雪が降っているのか、遠くの街並みはぼんやりと霞んでいた。


 いつもなら、もう少しだけ眠ろうと目を閉じる時間だった。


 けれど、今日はどうしても眠れなかった。


 昨日から、胸の奥に小さな不安が引っかかっている。


 理由は分からない。


 ただ、何かが起こるような気がしていた。


 まるで、自分の知らないところで何かが静かに動き始めているような。


 そんな、言葉にできない感覚だった。


「……何なんだよ、いったい」


 蓮は小さく呟き、布団を握りしめた。


 胸の奥が、妙に落ち着かなかった。


     *


 午前八時。


 病室のドアがノックされた。


「綾小路くん、入ってもいいかな?」


「……はい」


 入ってきたのは、担当の医師だった。


 いつもと変わらない白衣姿。


 けれど、その表情はどこか硬かった。


「少し、話をしてもいいかな」


「検査結果のことですか?」


 医師は静かに頷いた。


「そうだね」


 蓮は背筋を伸ばした。


 嫌な予感が、少しずつ現実味を帯びていく。


 医師はベッドのそばに椅子を置き、腰を下ろした。


「最近の検査結果について説明するね」


「……お願いします」


「残念だけど、病状は以前より進行している」


 その言葉を聞いた瞬間、蓮の指先がぴくりと動いた。


「……そうですか」


 できるだけ平静を装って答えた。


 驚かなかったわけではない。


 怖くなかったわけでもない。


 ただ、どこかで覚悟していたのかもしれなかった。


「治療は、これからも続けていく。症状を抑え、できる限り体への負担を減らすためにね」


「……はい」


「ただ、残念ながら、完全に元の状態に戻すことは難しい」


 蓮は、膝の上で両手を握りしめた。


 爪が手のひらに食い込む。


 それでも、痛みはほとんど感じなかった。


「……良くなる可能性は、ないんですか?」


 医師は、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、何よりも怖かった。


「症状が改善する可能性はある。ただ、病気そのものを完全に治せると約束することはできないんだ」


「……そうですか」


 蓮は窓の外へ目を向けた。


 雪が静かに降っていた。


 白い雪が、何も知らないまま街を覆っていく。


 いつもと変わらない冬の朝。


 それなのに、自分の世界だけが、少しずつ崩れていくような気がした。


「……先生」


「何かな?」


「俺は……あと、どれくらい生きられますか?」


 口にした瞬間、心臓が強く脈打った。


 本当は聞きたくなかった。


 聞いてしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


 自分に残された時間を知りたかった。


 美雪との約束を、守れるのか知りたかった。


 医師は、慎重に言葉を選びながら答えた。


「正確なことは、誰にも分からない」


「……」


「ただ、今の状態を考えると、残された時間は数か月単位になる可能性がある」


 蓮の呼吸が止まった。


「……数か月?」


「これは、あくまで現時点での見通しだよ。必ずそうなると決まったわけではない」


「……分かってます」


 分かっている。


 確実なことなど、何もない。


 医師にも分からない。


 自分にも分からない。


 それでも。


 数か月という言葉は、あまりにも重かった。


「……先生」


 蓮は、震える声で尋ねた。


「春まで……生きられますか?」


 医師は、蓮の目を見つめた。


 すぐに答えられない様子だった。


 その沈黙だけで、十分だった。


 それでも、しばらくしてから、医師は静かに口を開いた。


「春を迎えられる可能性はある。ただ、今の時点で約束することはできない」


「……そうですか」


 蓮は目を閉じた。


 春。


 桜が咲く季節。


 美雪と一緒に見たいと思っていた景色。


 来年も、その次の年も、当たり前のように訪れると思っていた季節。


 それが今は、手の届かない遠い未来のように感じられた。


「……分かりました」


 蓮は、かすかに頷いた。


 それ以上、何も聞けなかった。


     *


 医師が病室を出ていったあと。


 蓮は、ベッドの上でじっとしていた。


 何も考えられなかった。


 いや、違う。


 考えたくなかった。


 頭の中では、同じ言葉が何度も繰り返されていた。


 数か月。


 数か月。


 数か月。


「……短いな」


 思わず、笑いがこぼれた。


 自分でも驚くほど、乾いた笑いだった。


「……短すぎるだろ」


 声が震えた。


 目の奥が熱くなる。


 どうして。


 どうして自分なんだ。


 ようやく、これからも生きていたいと思えるようになったのに。


 ようやく、明日が来ることを楽しみにできるようになったのに。


 ようやく、帰りたい場所を見つけたいと思えるようになったのに。


 どうして今になって。


「……ふざけんなよ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 神様なのか。


 運命なのか。


 それとも、何もできない自分自身なのか。


 蓮は布団を頭まで引き上げた。


 声を聞かれたくなかった。


 誰にも知られたくなかった。


 これ以上、惨めな姿を見せたくなかった。


 けれど。


 どれだけ唇を噛みしめても、涙は止まらなかった。


「……死にたくない」


 小さな声が、布団の中に消えていく。


「……まだ、死にたくないよ」


 初めてだった。


 自分がいなくなることを、こんなにも怖いと思ったのは。


 そして。


 生きていたいと、心の底から願ったのは。


     *


 午前十時。


 病室のドアが開いた。


「おはよう、蓮」


「……おはよう」


 美雪だった。


 いつものように、制服姿で鞄を肩に掛けている。


 その姿を見た瞬間、蓮は慌てて目元を拭った。


 けれど、遅かった。


「……蓮?」


「何?」


「目、赤いよ」


「……そうか?」


「泣いたの?」


「いや……眠れなかっただけ」


 美雪は、何も言わずに蓮を見つめた。


「……嘘」


「……」


「蓮」


 彼女の声が、少しだけ優しくなった。


「何があったの?」


「何もないよ」


「先生と話した?」


 蓮の手が止まった。


 美雪は、それを見逃さなかった。


「……やっぱり、何かあったんだね」


「……治療の話をしただけだよ」


「それだけ?」


「うん」


 嘘ではなかった。


 確かに、治療の話をした。


 けれど、本当に伝えたかったことは、何一つ言えなかった。


 数か月しか残されていないかもしれないこと。


 春まで生きられる保証さえないこと。


 そして。


 美雪との約束を守れないかもしれないこと。


 そのすべてを、胸の奥に押し込めた。


 美雪はしばらく黙っていた。


 それから、蓮の隣に座り、そっと手を握った。


「……分かった」


「……うん」


「今は、話したくないんだよね?」


 蓮は小さく頷いた。


「……ごめん」


「謝らなくていいよ」


 美雪は、握った手に少しだけ力を込めた。


「話したくなったら、いつでも聞くから」


「……ああ」


「だから、無理しないでね」


 蓮は、彼女の手を見つめた。


 温かかった。


 その温もりが、今にも崩れそうな心を、かろうじて支えてくれていた。


     *


 昼。


 二人は、いつものようにおにぎりを食べていた。


 美雪は学校であった出来事を話してくれた。


「今日ね、先生が黒板に漢字を書き間違えたんだよ」


「え、先生が?」


「うん。しかも、全然違う漢字」


「何を書いたんだよ?」


「それがね……説明するより、実際に見たほうが面白いと思う」


「何それ。気になるだろ」


「ふふっ。今度、ノートに書いて見せてあげる」


「そんなに面白かったのか?」


「クラスのみんな、笑いをこらえられなかったんだから」


「先生、怒らなかった?」


「怒ったふりはしてたよ。でも、先生も笑いそうになってた」


「ははっ。見たかったな、それ」


 蓮は笑った。


 美雪も笑った。


 いつもと変わらない昼食。


 いつもと変わらない会話。


 何も特別なことはない。


 それなのに、蓮の胸は苦しかった。


 ――あと何回、こうして一緒に笑えるんだろう。


 考えたくもない言葉が、頭の中に浮かんでくる。


 明日も、こうして笑えるだろうか。


 クリスマスも。


 その先も。


 来年も。


 考え始めると、止まらなかった。


「……蓮?」


「……え?」


「どうしたの? 急に黙っちゃって」


「いや、何でもない」


「また、それ?」


 美雪は少しだけ頬を膨らませた。


「最近、何でもないって言いすぎ」


「……悪い」


「もう。謝ってほしいわけじゃないのに」


 美雪は困ったように笑った。


 蓮も、何とか笑顔を作った。


 今はまだ、話せない。


 怖くて、どうしても話せなかった。


 それでも。


 彼女の前で笑える時間を、失いたくなかった。


     *


 午後。


 美雪が、小さな箱を取り出した。


「はい、これ」


「……何?」


「クリスマスプレゼント」


「え? まだ早くないか?」


「いいの。早く渡したかったんだから」


「……開けていい?」


「もちろん」


 蓮は箱を受け取り、ゆっくりと蓋を開けた。


 中には、小さな手袋が入っていた。


 柔らかな生地で作られた、落ち着いた色の手袋だった。


「……手袋?」


「うん。病院って、朝とか夜は冷えるでしょ?」


「……ありがとう」


「それとね」


 美雪は、自分の鞄から同じ手袋を取り出した。


「私も持ってるんだ」


「……え?」


「ほら、お揃い」


 美雪は、少し照れくさそうに笑った。


「これを見つけたとき、蓮とお揃いにしたいなって思ったの」


 蓮は、手袋と美雪の顔を交互に見た。


「……本当に、お揃いなんだな」


「うん。嫌だった?」


「まさか」


 蓮は首を横に振った。


「……すごく嬉しい」


「よかった」


 美雪は、ほっとしたように微笑んだ。


 蓮は手袋をそっと握りしめた。


 柔らかな感触が、指先に伝わってくる。


 たった一つの贈り物。


 それなのに、どうしてこんなにも胸がいっぱいになるのだろう。


 自分のために選んでくれた。


 自分と同じものを持ちたいと思ってくれた。


 そして、これからも一緒にいたいと願ってくれている。


 その気持ちが、何よりも嬉しかった。


 同時に、怖かった。


 この手袋を、来年も使えるだろうか。


 来年の冬も、美雪と一緒にいられるだろうか。


 そんなことを考えてしまう自分が、嫌だった。


 蓮は俯き、手袋を胸元に抱えた。


「……大切にする」


「うん」


「ずっと」


 その言葉を聞いて、美雪は少しだけ目を細めた。


「……うん。ずっと使ってね」


 彼女の笑顔を見ながら、蓮は心の中で願った。


 どうか、この約束を守れますように。


     *


 夕方。


 美雪が帰る時間になった。


「じゃあ、また明日ね」


「……うん」


「明日も来るから」


「待ってる」


 美雪は、指を四本立ててみせた。


「クリスマスまで、あと四日!」


「……そうだな」


「一日ずつ、カウントダウンしようよ」


「カウントダウン?」


「うん。今日が終わったら、あと三日。次の日は二日。それから一日!」


「……子供みたいだな」


「いいの。楽しければ」


 美雪は笑った。


「それに、一日ずつ数えたほうが、クリスマスが近づいてるって実感できるでしょ?」


「……確かに」


「だから、明日も一緒に数えようね」


 蓮は、ゆっくりと頷いた。


「……ああ。約束」


「約束!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 美雪が帰ったあとも、蓮の耳には彼女の明るい声が残っていた。


 あと四日。


 たった四日。


 その短い時間が、今はどうしようもなく愛おしかった。


     *


 夜。


 蓮はノートを開いた。


 十二月二十一日。


 日付を書き、その下にペンを走らせる。


『今日、先生から残された時間について話をされた。』


 そこで、手が止まった。


 ペン先が紙に触れたまま、動かない。


 何を書けばいいのか分からなかった。


 数か月。


 その言葉を、もう一度書こうとした。


 けれど、指が震えて、うまく文字にならなかった。


 蓮は目を閉じた。


 そして、ゆっくりと書き始めた。


『残された時間は、数か月かもしれない。』


 書き終えた瞬間、涙が一滴、ノートに落ちた。


 インクが、わずかに滲む。


『怖い。』


『死にたくない。』


『もっと生きたい。』


 ペンを握る手に、力が入った。


『美雪と、もっと一緒にいたい。』


 そこまで書いたところで、蓮は顔を覆った。


 涙が止まらなかった。


 生きたい。


 もっと生きたい。


 美雪と一緒に、もっとたくさんの時間を過ごしたい。


 何でもないことで笑って。


 一緒にご飯を食べて。


 手を繋いで、帰り道を歩いて。


 いつか、今日のことを懐かしく思い出せるようになりたい。


 そんな未来が欲しかった。


 何も特別なことはいらない。


 ただ、もう少しだけ。


 もう少しだけ、生きていたい。


 蓮は涙を拭い、再びペンを握った。


 最後に、一行だけ書き加える。


『それでも、今日を生きる。』


 その文字を見つめながら、蓮は静かに息を吐いた。


 明日のことは分からない。


 春が来るかどうかも分からない。


 それでも、今日という一日だけは、まだ自分の手の中にある。


 だったら。


 せめて今日を、大切に生きよう。


 蓮はノートを閉じた。


     *


 十二月二十二日。


 火曜日。


 朝。


 美雪が病室にやって来た。


「おはよう、蓮!」


「おはよう」


「今日はね、蓮に見せたいものがあるんだ」


「……何?」


 美雪はスマートフォンを取り出した。


「昨日、写真を撮ってきたの」


「学校の?」


「うん!」


 画面には、見慣れた学校の景色が映っていた。


 教室。


 窓際の席。


 黒板。


 廊下。


 そして、雪に覆われた校庭。


「……懐かしいな」


 蓮は、画面をじっと見つめた。


 まだ、ほんの数週間しか経っていない。


 それなのに、ずいぶん遠い場所のように感じられた。


「これ、蓮の席だよ」


 美雪が一枚の写真を見せた。


 窓際の席。


 机の上には、誰も使っていない教科書が置かれていた。


「先生がね、机をそのままにしてくれてるの」


「……そうなんだ」


「うん。みんなも、蓮が戻ってくるのを待ってるよ」


 蓮は、しばらく何も言えなかった。


 自分の席が残っている。


 みんなが待ってくれている。


 それが嬉しかった。


 同時に、胸が苦しくなった。


 自分は、本当に戻れるのだろうか。


 あの教室に。


 あの席に。


 みんなのいる場所へ。


 それでも、今は信じたかった。


「……ありがとう、美雪」


「どういたしまして」


 美雪は次々と写真を見せてくれた。


 校門の前。


 雪の積もった通学路。


 誰もいない放課後の教室。


 最後に、蓮の指が止まった。


「……これ」


 画面には、雪の積もった校庭が映っていた。


 白い地面に、二人分の足跡が並んでいる。


「これ、誰の足跡?」


「昨日、友達と校庭を歩いたときに撮ったの」


「……二人分だな」


「うん」


 美雪は、少しだけ笑った。


「何だか、蓮と一緒に歩いたときのことを思い出して」


 蓮は画面を見つめた。


 雪の上に並ぶ足跡。


 その先には、誰もいない。


 けれど、二人で歩いた時間が、そこに残っているような気がした。


「……いい写真だな」


「でしょ?」


「送ってくれる?」


「もちろん!」


 蓮は、その写真を保存した。


 何度も見返せるように。


 忘れたくないから。


「……大切にするよ」


 美雪は、嬉しそうに頷いた。


     *


 午後。


 二人は、クリスマスの計画を立てていた。


「まずはケーキ!」


 美雪が指を一本立てた。


「うん」


「それから、映画!」


「うん」


「写真も撮る!」


「分かった」


「あと……」


 美雪は少し考え込んだ。


「手紙を書こうよ」


「……手紙?」


「うん。お互いに」


「何を書くんだ?」


「それは秘密」


「また秘密かよ」


「だって、先に内容を教えたら面白くないでしょ?」


「……まあ、そうだけど」


「だから、クリスマスまでに書いておくの」


 美雪は、楽しそうに笑った。


「当日になったら、お互いに交換しようね」


「……分かった」


 蓮は頷いた。


 手紙。


 美雪に何を書こう。


 ありがとう。


 会えてよかった。


 これからも一緒にいたい。


 伝えたい言葉は、いくつもあった。


 けれど、どれだけ考えても、すべてを伝えられる気がしなかった。


 それでも、書きたいと思った。


 今の自分にできる精いっぱいの言葉で。


 美雪に、自分の気持ちを残したかった。


     *


 その日の夕方。


 美雪は、帰り支度をする手を止めた。


「……蓮」


「ん?」


「私ね……怖いんだ」


 いつもとは違う声だった。


 蓮は顔を上げた。


 美雪は、俯いたまま続けた。


「蓮が、いなくなっちゃうんじゃないかって……怖い」


「……美雪」


「最近、ずっと考えちゃうの」


 彼女の声が震えた。


「蓮が苦しそうにしてるときとか、無理して笑ってるときとか……何か隠してるんじゃないかって」


「……」


「聞きたいのに、聞くのが怖いの」


 美雪の目に、涙が浮かんだ。


「もし、本当に怖いことを聞かされたら……どうしたらいいのか、分からなくなりそうで」


 蓮は、何も言えなかった。


 美雪も、怖かったのだ。


 自分と同じように。


 先の見えない未来に、不安を抱えていたのだ。


「……ごめん」


 蓮は、小さく呟いた。


「謝らないで」


「でも……」


「蓮が謝ることじゃないよ」


 美雪は、ゆっくりと顔を上げた。


 頬には、涙が伝っていた。


「だから、約束してほしいの」


「……何を?」


「苦しくなったら、ちゃんと私に言って」


「……」


「つらいときは、つらいって言って。怖いときは、怖いって言って」


 美雪は、蓮の手を握った。


「お願いだから、一人で我慢しないで」


 蓮は、握られた手を見つめた。


 自分が彼女を守りたいと思っていた。


 心配させたくない。


 悲しませたくない。


 だから、何も言わずにいた。


 けれど、それは本当に彼女のためだったのだろうか。


 もしかしたら、自分が怖かっただけなのかもしれない。


 自分の弱さを知られることが。


 彼女の前で泣いてしまうことが。


 そして、本当の気持ちを口にすることが。


 蓮は、ゆっくりと頷いた。


「……約束する」


「本当に?」


「ああ。もう、一人で抱え込まない」


 美雪は、涙を拭った。


「……うん」


 それから、もう一度だけ、蓮の手を強く握った。


     *


「……私ね」


 美雪が、静かに口を開いた。


「蓮が、あと数か月しか生きられないとしても……」


 蓮の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 彼女は、もう気づいているのかもしれない。


 医師から何を聞いたのか。


 自分に、どれだけの時間が残されているのか。


 すべてではなくても、何かを察しているのかもしれなかった。


「……その時間を、一緒に過ごしたい」


 美雪の目から、涙がこぼれた。


「一年じゃなくてもいい。十年じゃなくてもいい」


 彼女は、何度も涙を拭った。


 それでも、涙は止まらなかった。


「たとえ一日だけだったとしても……その一日を、蓮と一緒に過ごせるなら」


 美雪は、泣きながら微笑んだ。


「私は、その一日を大切にしたい」


 蓮は、彼女を見つめた。


 何か言わなければと思った。


 けれど、言葉が出てこなかった。


 胸の奥がいっぱいだった。


 苦しくて。


 嬉しくて。


 悲しくて。


 どうしようもなく、彼女を愛おしいと思った。


「……俺」


「うん?」


「美雪に会えて、本当によかった」


 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。


 美雪は、何度も頷いた。


「……私も」


 蓮の目から、涙がこぼれた。


 もう、隠そうとは思わなかった。


 美雪の前なら、泣いてもいい。


 怖いと言ってもいい。


 生きたいと願ってもいい。


 そう思えた。


 二人は、しばらく手を握り合っていた。


 どちらも、すぐには言葉を見つけられなかった。


 それでも、手を離すことだけはしなかった。


     *


 夜。


 美雪が帰ったあと。


 蓮は窓の外を眺めていた。


 雪が降っている。


 白く染まった街。


 静まり返った夜。


 数か月。


 その言葉は、まだ怖かった。


 考えるだけで、胸が締めつけられる。


 明日が来ることさえ、当たり前ではないのかもしれない。


 それでも。


 今の蓮は、ただ怯えているだけではなかった。


 今日、美雪と笑った。


 一緒にご飯を食べた。


 手を握り合った。


 自分の気持ちを、少しだけ伝えることができた。


 そして、美雪もまた、自分の気持ちを話してくれた。


 それらは、確かに今日という一日の中にあった。


 どんな未来が待っていたとしても。


 今日、美雪と過ごした時間が消えてしまうわけではない。


 だから。


 残された時間がどれだけ短くても。


 その中に、幸せを見つけることはできるのかもしれない。


「……明日も、会いたいな」


 蓮は小さく呟いた。


 明日も、美雪に会いたい。


 また笑いたい。


 また、くだらない話をしたい。


 その願いだけは、誰にも譲りたくなかった。


     *


 十二月二十三日。


 水曜日。


 朝。


 担当の医師が病室を訪れた。


「綾小路くん、少し話があるんだけど」


「……はい」


「体調がこのまま安定していれば、明日、短時間の外出許可を出せそうだ」


「……え?」


 蓮は、思わず顔を上げた。


「外出……できるんですか?」


「短時間だけだよ。体調に問題がないことが条件だし、無理はできない」


「……!」


「外に出るなら、必ず付き添いの人と一緒に行くこと。それから、少しでも具合が悪くなったら、すぐに戻ること。いいね?」


「はい!」


 蓮は、何度も頷いた。


 胸の奥に、久しぶりに明るいものが灯った。


 外に出られる。


 病院の外の空気を吸える。


 そして。


 クリスマスを、美雪と一緒に過ごせるかもしれない。


「……ありがとうございます」


 蓮は、心からそう言った。


 医師は少しだけ表情を和らげた。


「楽しみにするのはいいけれど、くれぐれも無理はしないようにね」


「はい。気をつけます」


 医師が病室を出ていったあとも、蓮はしばらく笑顔のままだった。


 ほんの少しの外出。


 それだけのことなのに。


 今の自分には、何よりも大きな贈り物に思えた。


     *


 その日の夕方。


 美雪が病室にやって来た。


「おはよう……じゃなくて、こんにちは!」


「何だよ、それ」


「ちょっと間違えただけ!」


 美雪は恥ずかしそうに笑った。


「それで、今日は何かいいことあった?」


「……実は」


 蓮は、少しだけもったいぶってから言った。


「明日、外に出られるかもしれない」


「……本当?」


「うん。体調が安定していれば、短時間だけ」


 美雪の表情が、一気に明るくなった。


「やった……!」


 思わず声を上げ、それから慌てて口元を押さえる。


「ご、ごめん。病院なのに」


「ははっ。別にいいよ」


「だって、嬉しくて……」


 美雪は、もう一度蓮を見た。


「……本当に、よかった」


 その声は、少し震えていた。


 蓮は、そんな美雪を見つめながら思った。


 この笑顔を、もっと見ていたい。


 何度でも、この笑顔を見たい。


「……それでさ」


 蓮が尋ねる。


「明日、どこに行く?」


「うーん……」


 美雪は、わざとらしく考え込んだ。


「どこがいいかな?」


「いや、俺に聞くのかよ」


「だって、蓮も行きたいところがあるかもしれないでしょ?」


「……そうだな」


 蓮は少し考えた。


「雪が見たい」


「雪?」


「うん。病室から見るんじゃなくて、外で」


 美雪は、優しく微笑んだ。


「……分かった」


「いいの?」


「もちろん。明日は、一緒に雪を見よう」


「……ああ」


 美雪は嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、明日までのお楽しみ!」


「……また秘密かよ」


「今度は、ちょっとだけ秘密」


「何だよ、それ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


     *


 夜。


 蓮は、小さなクリスマスツリーを眺めていた。


 小さなライト。


 てっぺんに飾られた星。


 美雪が持ってきてくれた、ささやかな幸せ。


 その光を見つめながら、蓮は胸の中で願った。


 ――明日も、生きていますように。


 そして。


 ――美雪と、また笑えますように。


 それだけでよかった。


 大きな夢なんて、もういらない。


 遠い未来のことを、すべて決めておきたいわけでもない。


 ただ、明日が欲しい。


 美雪と過ごすクリスマスが欲しい。


 もう一度、雪の降る街を歩きたい。


 そして、できることなら。


 春が欲しい。


 桜が咲く景色を見たい。


 その下で、美雪と笑っていたい。


 まだ、諦めたくなかった。


 窓の外では、雪が静かに降り続いていた。


 冬は、まだ終わらない。


 けれど、蓮にとって、その冬はもう、ただ寒くて寂しいだけの季節ではなかった。


 美雪と過ごす一日一日が、かけがえのない時間になっていたから。


 明日、また会える。


 明日、また笑える。


 その小さな希望を胸に抱きながら、蓮はゆっくりと目を閉じた。


 残された冬が、あとどれくらい続くのかは分からない。


 それでも。


 今だけは、明日が来ることを信じていたかった。

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