第三十五章 最後のクリスマスイブ
十二月二十四日。
木曜日。
クリスマスイブ。
朝、蓮はゆっくりと目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む冬の光が、いつもより明るく感じられた。
窓の外には、薄く雪の積もった街並みが広がっている。
「……今日だ」
思わず、そう呟いた。
昨日から、何度も頭の中で繰り返していた言葉だった。
今日、美雪と外へ出られる。
病院の外へ。
学校でも、病室でもない場所へ。
たった数時間。
それだけのことなのに、蓮にとっては、ずっと夢見ていたことがようやく叶うような気がした。
もう一度、自由に街を歩きたい。
冷たい風を感じたい。
何気ない景色を眺めながら、誰かと笑い合いたい。
そんな当たり前の願いが、今では何よりも大切なものになっていた。
「……楽しみだな」
口にしてみると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
今日という一日を、忘れたくない。
そう思った。
*
午前十時。
病室のドアが開いた。
「メリークリスマスイブ!」
「……朝から元気だな」
「いいじゃん。今日は特別な日なんだから」
美雪は、いたずらっぽく笑った。
今日は制服姿ではなかった。
白いコートに、柔らかな青色のマフラー。
長い髪には、小さな雪の結晶をかたどった髪飾りが揺れている。
いつもと少し違う彼女の姿に、蓮は思わず見入ってしまった。
「……似合ってる」
「え?」
「いや、何でもない」
「今、似合ってるって言ったよね?」
「言ったけど」
「えっ?」
「……聞こえてたなら、わざわざ聞き返すなよ」
美雪は一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうに笑った。
「もう一回言って?」
「絶対に嫌だ」
「えー、どうして?」
「恥ずかしいから」
「ふふっ。蓮もそんなこと言うんだね」
「悪いかよ」
「ううん。可愛いなって思っただけ」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん」
美雪は楽しそうに笑いながら、今度は蓮の顔を覗き込んだ。
「蓮も、今日はいつもより格好いいよ」
「病院の服だけど」
「そんなの関係ないよ」
「……そうか」
「うん。私には、ちゃんと格好よく見えてる」
何気ない言葉だった。
けれど、蓮はすぐに返事ができなかった。
誰かにそんなふうに言ってもらえることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
「……ありがとう」
照れくさそうに視線を逸らす蓮を見て、美雪はまた小さく笑った。
*
出発前、担当医から何度も注意を受けた。
「くれぐれも無理はしないでくださいね」
「はい」
「少しでも疲れたら、すぐに戻ってきてください」
「分かりました」
「それから、息苦しさや胸の痛みなど、いつもと違う症状があれば、すぐに連絡を」
「はい。気をつけます」
隣で聞いていた美雪も、真剣な顔で頷いた。
「私も、ちゃんと気をつけて見ています」
「お願いしますね」
医師は二人を見比べ、穏やかに微笑んだ。
「では、楽しんできてください」
「ありがとうございます」
病室を出る直前、美雪がそっと蓮の手を握った。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
「本当だよ」
「無理しちゃ駄目だからね」
「分かってるって」
「絶対だからね」
「……分かった。約束する」
美雪はようやく安心したように笑った。
その笑顔を見て、蓮も小さく頷いた。
*
二人は病院を出た。
頬を撫でる冷たい風。
吐く息は白く、空気には冬特有の澄んだ匂いがあった。
蓮は足を止め、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……寒いな」
「だから言ったじゃん。ちゃんとマフラー巻いておきなって」
「巻いてるだろ」
「もっと上まで」
美雪は蓮のマフラーを直すと、満足そうに頷いた。
「よし。これで大丈夫」
「子供扱いするなよ」
「だって、放っておくと何でも我慢するんだもん」
「……そんなことない」
「本当に?」
「……たぶん」
「ほら、やっぱり」
美雪が笑う。
蓮も、つられて笑った。
そして、もう一度、病院の外の景色を見渡した。
「でも……外って、いいな」
何気なく口にした言葉だった。
美雪の表情が、ほんの一瞬だけ曇った。
「……うん」
「どうした?」
「何でもないよ」
「またそれか」
「蓮だって、よく言うじゃん」
「……否定できないな」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
冷たい風が吹いていた。
それでも、繋いだ手だけは温かかった。
*
「最初に行きたい場所があるんだ」
歩きながら、蓮が言った。
「え? どこ?」
「学校」
「学校? 今日は休みだよ?」
「知ってる」
「わざわざ学校に行くの?」
「……駄目か?」
「ううん。全然」
美雪は少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、行こう」
二人はゆっくりと学校へ向かった。
冬休み前の校舎には、いつもの賑やかさはなかった。
校庭には薄く雪が積もり、誰もいない教室の窓が冬の光を静かに反射している。
いつもなら聞こえてくる生徒たちの声も、今日はない。
まるで時間だけが、そっと止まってしまったようだった。
「誰もいないね」
「ああ」
「なんだか、不思議」
「うん」
美雪は校庭へ足を踏み入れ、ゆっくりと辺りを見回した。
「ここ、覚えてる?」
「もちろん」
蓮は頷いた。
ここは、二人が初めてまともに言葉を交わした場所だった。
まだ少し肌寒かった春の日。
偶然のような出会い。
あのときの自分は、誰かとこんなふうに手を繋いで歩く日が来るなんて、想像もしていなかった。
ましてや、その相手が美雪になるなんて。
「懐かしいな」
蓮が呟くと、美雪も頷いた。
「まだ一年も経ってないのにね」
「いろいろあったからな」
「……うん。本当に、いろいろあったね」
美雪の声が、少しだけ柔らかくなった。
楽しかったこと。
喧嘩したこと。
すれ違ったこと。
お互いの知らなかった一面を知り、少しずつ距離を縮めてきたこと。
すべてが、今の二人に繋がっている。
蓮は、雪の上へ一歩踏み出した。
その隣に、美雪も並ぶ。
白い地面に、二人分の足跡が残っていく。
「美雪」
「うん?」
「写真、撮らないか?」
「えっ、蓮から言ってくれるなんて珍しい」
「……嫌ならいいけど」
「嫌なわけないじゃん!」
美雪は慌ててスマートフォンを取り出した。
「ほら、並んで!」
「そんなに急がなくても」
「今のうちに撮らないと、蓮が気まぐれだったってことにしちゃうよ?」
「おい」
「はい、笑って!」
「無理」
「じゃあ、私が笑わせる」
「どうやって?」
「こう!」
美雪は突然、思い切り変な顔をした。
「……っ、何だよ、それ!」
「ちょっと! 笑ったね?」
「いや、だって……!」
「はい、撮るよ!」
シャッター音が響いた。
一枚の写真。
そこには、笑っている蓮と、隣で楽しそうに笑う美雪が写っていた。
「見せて」
「ほら!」
「……変な顔」
「誰のせいだと思ってるの?」
「美雪」
「もう!」
二人で笑い合う。
蓮は、その写真を自分のスマートフォンにも保存した。
画面の中の自分は、思っていたよりも自然に笑っていた。
こんな顔で笑えたのは、いつ以来だろう。
そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
*
次に二人が向かったのは、街の中心部だった。
クリスマスイブの街は、大勢の人で賑わっていた。
通りを彩るイルミネーション。
店から流れるクリスマスソング。
華やかなクリスマスツリー。
プレゼントを抱えた子供たちの笑い声。
手を繋いで歩く恋人たち。
家族で買い物を楽しむ人々。
誰もが、それぞれの大切な時間を過ごしていた。
蓮は、その光景を静かに眺めていた。
みんな、明日も今日と同じように過ごせると信じている。
来年も、その先も。
当たり前のように、未来が続いていくと思っている。
そのことが、少しだけ羨ましかった。
「……どうしたの?」
美雪が隣から顔を覗き込んだ。
「いや……」
蓮は、街を見渡した。
「普通って、いいなと思って」
「普通?」
「ああ」
少し迷ってから、蓮は言葉を続けた。
「家族と買い物したり、誰かとクリスマスを過ごしたり。明日も明後日も、当たり前みたいにやってくると思ってたりさ」
自嘲するように笑う。
「昔は、そんなこと考えもしなかったけど」
美雪は何も言わず、蓮の話を聞いていた。
「……俺、ずっとそういう普通の生活が欲しかったんだと思う」
家に帰れば、誰かがいる。
今日あったことを話せる。
くだらないことで笑い合える。
特別なことなんて何もなくても、そこにいていいと思える。
蓮がずっと欲しかったのは、そんな場所だった。
美雪は、そっと彼の手を握った。
「ねえ、蓮」
「……何?」
「今は?」
「え?」
「今の私たちは、普通じゃないの?」
蓮は驚いて、美雪を見た。
彼女は少し不安そうにしながらも、まっすぐに蓮を見つめていた。
「一緒に歩いて、こうしておしゃべりして。美味しいものを食べて、写真を撮って……」
美雪は、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「私にとっては、これも普通の日だよ」
「……美雪」
「だから、今日は私たちの普通のクリスマス」
そう言って、美雪は笑った。
「特別だけど、特別じゃない日。大好きな人と一緒にいられる、普通の一日」
蓮は、すぐには何も言えなかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
普通の生活。
それは、遠くにあるものだと思っていた。
自分には手に入らないものだと、どこかで諦めていた。
けれど、今は違う。
隣には美雪がいる。
自分の手を握り、同じ景色を見て、同じ時間を過ごしてくれる人がいる。
「……そうだな」
蓮は、ゆっくりと微笑んだ。
「今日は、俺たちのクリスマスだ」
「うん!」
美雪は嬉しそうに頷いた。
*
二人は、通りの片隅にある小さなケーキ屋に入った。
店内には甘い香りが漂い、ショーケースには色とりどりのケーキが並んでいた。
「どれにする?」
美雪がショーケースを覗き込む。
「これ」
蓮が指差したのは、大きなホールケーキだった。
「……大きすぎない?」
「二人なら食べられるだろ」
「絶対に無理だよ」
「じゃあ、こっちは?」
今度は、苺が二つ乗った小さなケーキを指差す。
美雪はそれを見て、ふっと笑った。
「うん。これがいい」
「決まりだな」
「二人で一つ、ね」
「ああ」
店員からケーキを受け取り、二人は店を出た。
小さな箱を抱えた美雪が、どこか誇らしげに笑っている。
その姿を見て、蓮も自然と笑顔になった。
たった一つのケーキ。
けれど、今の蓮にとっては、どんな豪華な食事よりも楽しみなものだった。
*
その後、二人は近くの小さな公園へ向かった。
雪の積もったベンチに薄く残る白い跡を払い、並んで腰を下ろす。
美雪はケーキの箱を膝の上に置き、そっと蓋を開けた。
「じゃあ……」
少し照れくさそうに笑う。
「メリークリスマス」
「まだ昼だけど」
「クリスマスイブだからいいの!」
「そういうものか?」
「そういうものです」
「……はいはい」
二人は顔を見合わせて笑った。
小さなフォークを手に取り、ケーキを一口食べる。
「……美味しい」
「ね!」
美雪は嬉しそうに頷いた。
「ここのケーキ、前から気になってたんだ」
「そうなのか?」
「うん。いつか食べたいなって思ってたの」
「じゃあ、今日食べられてよかったな」
「うん。蓮と一緒に食べられてよかった」
さらりと言われた言葉に、蓮の手が止まった。
美雪は気づいていないのか、ケーキを見つめている。
やがて、彼女は自分の皿に乗った苺を一つ、蓮のほうへ差し出した。
「はい」
「……何?」
「苺」
「いや、見れば分かるけど」
「蓮にあげる」
「いいのか?」
「うん。私、もう一つ食べたから」
「……ありがとう」
蓮は、そっと苺を口に運んだ。
甘かった。
驚くほど、甘かった。
けれど、その甘さに触れた瞬間、なぜか胸の奥が締めつけられた。
こんなにも穏やかな時間がある。
こんなにも幸せだと思える瞬間がある。
それなのに。
この時間が永遠には続かないかもしれないと、心のどこかで分かっていた。
「……蓮?」
美雪が、心配そうに顔を覗き込む。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「本当に?」
「……寒いだけだよ」
美雪は、しばらく蓮の顔を見つめていた。
それから、何も言わずに彼の肩へそっと寄り添った。
「……そっか」
それ以上、理由を聞こうとはしなかった。
ただ、隣にいてくれた。
蓮は、目を伏せた。
泣きそうになっている自分を、彼女に見せたくなかった。
でも、本当は。
こんなにも優しくされることが、嬉しくてたまらなかった。
*
夕方。
街のイルミネーションが、少しずつ輝きを増していった。
建物の輪郭を縁取る光。
通りに並ぶ木々を彩る小さな灯り。
夜が深まるにつれて、街全体が幻想的な景色へと変わっていく。
「……綺麗」
美雪が、空を見上げながら呟いた。
「ああ」
「雪、降るかな?」
「どうだろうな」
「降ったらいいね」
「ホワイトクリスマスか」
「うん。きっと、もっと綺麗だよ」
美雪は、嬉しそうに笑った。
蓮も空を見上げた。
雲に覆われた冬の空。
冷たい風が、二人の頬を撫でていく。
この景色を忘れたくない。
蓮は、心の中で何度も繰り返した。
街を照らす光も。
美雪の声も。
隣で笑う彼女の横顔も。
繋いだ手から伝わる温もりも。
何一つ、忘れたくなかった。
できることなら、すべてを胸の奥に閉じ込めて、ずっと持っていたい。
いつか、目を閉じたときにも思い出せるように。
いつか、この景色を見られなくなったとしても、心の中で何度でも戻ってこられるように。
「……蓮?」
「ん?」
「手、貸して」
美雪が、手を差し出した。
蓮は、何も言わずにその手を握った。
「冷たいね」
「美雪も冷たいだろ」
「じゃあ……」
美雪は、蓮の手を両手で包み込んだ。
「これなら、少しは温かいでしょ?」
「……ああ」
彼女の手は、確かに温かかった。
蓮は、その温もりを逃がさないように、そっと握り返した。
*
そのとき、蓮はコートのポケットに入れていた小さな封筒を思い出した。
「……美雪」
「うん?」
「これ、渡したいものがあるんだ」
ポケットから封筒を取り出し、差し出す。
美雪は不思議そうに、それを見つめた。
「……手紙?」
「ああ」
「私に?」
「うん」
「今、読んでもいい?」
「……今日は、駄目だ」
「え?」
美雪の笑顔が、わずかに揺れた。
「どうして?」
「後で読んでほしいんだ」
「後でって、いつ?」
蓮は、答えられなかった。
冷たい風が二人の間を通り抜ける。
しばらく迷ったあと、蓮は小さな声で言った。
「……俺が、いなくなったときに」
その瞬間、美雪の表情が変わった。
「……嫌」
「美雪……」
「そういうこと、言わないで」
彼女の声は震えていた。
「お願いだから……そんなこと、簡単に言わないでよ」
「……ごめん」
「聞きたくない」
美雪は、封筒を見つめたまま俯いた。
握りしめた手が、小さく震えている。
「私、そんな手紙なんていらない……」
「……」
「未来の蓮からの手紙なんて、いらないよ」
美雪の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「私が欲しいのは、今の蓮なの」
声が、かすれる。
「一緒に笑ってくれる蓮がいい。くだらないことで喧嘩して、私のことをからかって……それでも、最後には隣にいてくれる蓮がいいの」
彼女は顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、まっすぐに蓮を見つめていた。
「だから……」
美雪は、震える手で蓮の手を握った。
「お願い。私の前から、いなくならないで」
蓮の胸が、強く締めつけられた。
何かを言わなければと思った。
大丈夫だと。
ずっと一緒にいると。
来年も、その先も、隣にいると。
けれど、簡単にそんな約束をすることはできなかった。
自分の未来が、どれほど不確かなものなのか。
蓮自身が、誰よりもよく分かっていたから。
「……美雪」
「……何?」
「俺も……君と、もっと一緒にいたい」
声が、かすかに震えた。
「まだ、行きたい場所もある。やりたいこともある。君と一緒に見たい景色だって、たくさんあるんだ」
蓮は、彼女の手を握り返した。
「だから……俺だって、諦めたくない」
美雪の目から、また涙がこぼれた。
「……だったら」
「うん」
「ちゃんと、ここにいて」
蓮は、彼女を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……うん。できる限り、頑張る」
「約束して」
「……約束する」
それは、未来を保証する約束ではなかった。
それでも、今の蓮にできる精いっぱいの答えだった。
美雪は、封筒をそっと受け取った。
けれど、開こうとはしなかった。
ただ、大切なものをしまうように、胸元に抱きしめた。
*
夜。
二人は病院へ戻った。
病室には、小さなクリスマスツリーが飾られていた。
緑色の枝に吊るされた小さな飾り。
てっぺんで輝く星。
静かに点滅するライト。
昨日と同じ景色のはずなのに、今日はどこか違って見えた。
「……楽しかったね」
美雪が言った。
「ああ」
「今日、一番楽しかった」
「俺も」
蓮は微笑んだ。
心から、そう思っていた。
美雪と学校へ行ったこと。
一緒に写真を撮ったこと。
小さなケーキを分け合ったこと。
イルミネーションを見ながら、手を繋いだこと。
どれも、特別なことではないのかもしれない。
けれど、蓮にとっては、何よりも大切な思い出になった。
「ねえ、蓮」
「ん?」
美雪が、少し照れくさそうに笑った。
「来年も、また来ようね」
蓮は、一瞬だけ言葉を失った。
来年。
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
来年のクリスマス。
自分は、どこにいるのだろう。
また美雪と一緒に、この街を歩けるのだろうか。
その答えは、誰にも分からない。
それでも。
蓮は、笑顔を浮かべた。
「……うん。また来よう」
「絶対だよ?」
「ああ。絶対」
美雪は、嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見ていると、蓮も本当に来年が来るような気がした。
来年も、その次の年も。
当たり前のように、二人で笑える未来が待っているような気がした。
だから、今だけは。
その未来を信じていたかった。
*
美雪が帰ったあと。
病室には、静けさが戻ってきた。
窓の外には、街のイルミネーションが遠くに見えている。
蓮はベッドの上で、今日撮った写真を一枚ずつ眺めた。
学校で撮った写真。
街のクリスマスツリー。
ケーキを前に笑う美雪。
そして、最後の一枚。
二人並んで、笑っている写真。
「……幸せだな」
小さく呟いた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
同時に、どうしようもないほど切なくなった。
幸せだと思うほど、失いたくないと思ってしまう。
失いたくないと思うほど、未来が怖くなる。
それでも、今日という一日を過ごせたことを、後悔したくはなかった。
蓮はスマートフォンを置き、机の上にある封筒を見つめた。
美雪に渡したものと同じ手紙。
実は、もう一通、自分のためにも書いていた。
いつか、自分自身がこの気持ちを忘れそうになったときのために。
そこには、こんな言葉が綴られていた。
――もし、明日が来なかったとしても。
――今日、君と笑えたことを。
――君と手を繋いで歩けたことを。
――君が隣にいてくれたことを。
――僕は、絶対に後悔しない。
読み返すたびに、胸が苦しくなった。
けれど、書き直そうとは思わなかった。
それが、今の自分の本当の気持ちだったから。
蓮は、そっとペンを置いた。
そして、窓の外へ目を向けた。
そのとき。
白いものが、ひとひら、窓の向こうを横切った。
「……雪?」
もう一つ。
また一つ。
静かに降り始めた雪が、夜の街を少しずつ白く染めていく。
蓮は、思わず微笑んだ。
「……ホワイトクリスマスか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
それから、目を閉じた。
「……明日も、来ますように」
小さな声だった。
「明日も、美雪と笑えますように」
それ以上、大きな願いはなかった。
遠い未来なんて、今は考えられない。
何年先まで生きたいかなんて、贅沢なことも言えない。
ただ、明日が欲しかった。
もう一度、美雪に会いたかった。
もう一度、あの笑顔を見たかった。
そして、できることなら。
春になったら、二人で桜を見たかった。
満開の桜の下で、来年も再来年も一緒にいたいと、何の迷いもなく言える日が来てほしかった。
その願いが叶うかどうかは、分からない。
それでも、蓮は願わずにはいられなかった。
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
白い雪は、街の灯りを包み込むように、ゆっくりと積もっていった。
クリスマスイブの夜。
蓮は、胸の中に小さな希望を抱いたまま、静かに目を閉じた。
明日も、美雪に会えますように。
明日も、笑えますように。
そして、いつか。
この願いを、ただの願いではなく、当たり前の未来として語れる日が来ますように。
――どうか、明日も。
この世界に、いさせてほしい。
そう願いながら、蓮は静かな夜の中で眠りについた。




