第三十六章 君と迎えたクリスマス
十二月二十五日。
金曜日。
クリスマスの朝。
蓮はゆっくりと目を覚ました。
ぼんやりとした視界に、最初に映ったのは小さなクリスマスツリーだった。
昨日、美雪と一緒に買ったケーキ。
二人で撮った写真。
そして、机の上に置かれた白い封筒。
美雪からの手紙だった。
「……」
蓮はしばらく、その封筒を見つめていた。
手を伸ばせば、すぐに届く距離にある。
それなのに、どうしても手が動かなかった。
中に何が書かれているのか。
それを読むのが、少し怖かった。
きっと、嬉しい言葉が書かれている。
美雪らしい、優しい言葉が。
それでも。
もし、この時間がいつか終わってしまうことを思い知らされるような言葉があったら。
もし、自分が思っている以上に、彼女が自分を大切にしてくれていたら。
そんなことを考えると、胸の奥が締め付けられた。
「……あとで、読もう」
蓮はそう呟き、封筒から目をそらした。
窓の外には、冬の澄んだ空が広がっていた。
今日はクリスマス。
美雪と一緒に過ごせる、大切な一日だった。
*
午前九時。
病室のドアが、控えめにノックされた。
「どうぞ」
返事をすると、ゆっくりとドアが開いた。
「メリークリスマス!」
聞き慣れた、優しい声。
美雪だった。
「……メリークリスマス」
蓮は思わず笑顔になった。
美雪は昨日と同じコートを着ていた。
その手には、小さな紙袋が握られている。
「……また何か持ってきたの?」
「うん」
「何?」
「秘密」
「……昨日もそれ、聞いたんだけど」
「だから、今日も秘密」
美雪はいたずらっぽく笑った。
「そんな顔しないの」
「どんな顔だよ」
「プレゼントが気になって仕方ない、って顔」
「別に、そんなこと……」
「ふふっ。分かりやすいんだから」
「……うるさい」
二人の間に、穏やかな笑い声が広がった。
美雪はベッドのそばまで歩いてくると、紙袋から小さな箱を取り出した。
「はい。これ、蓮に」
「……開けていい?」
「もちろん」
蓮は丁寧に箱を開けた。
中に入っていたのは、小さな腕時計だった。
シンプルなデザインで、文字盤は落ち着いた色をしている。
「……時計?」
「うん。気に入ってくれるといいんだけど」
蓮は、しばらく時計を見つめていた。
「……でも、これ」
「高いものじゃないよ?」
「そういうことじゃなくて……」
言葉がうまく出てこなかった。
プレゼントをもらうことが、嬉しくないわけがない。
けれど、それ以上に。
美雪が自分のために、この時計を選んでくれたことが嬉しかった。
どんな顔をして選んだのだろう。
自分がこれを身につけている姿を、想像してくれたのだろうか。
そんなことを考えるだけで、胸がいっぱいになった。
美雪は少し恥ずかしそうに笑った。
「時間を見るたびに、私のことを思い出してほしいなって」
「……」
「離れているときでも、少しだけ私がそばにいるような気がするでしょ?」
蓮は時計を両手で包み込んだ。
そして、照れくさそうに笑った。
「……もう、十分思い出してるよ」
「えっ?」
「美雪のこと」
蓮は彼女を見つめた。
「時計なんかなくても、毎日思い出してる」
「……っ」
今度は、美雪が言葉を失う番だった。
頬が、ほんのりと赤く染まる。
「……そういうこと、急に言わないでよ」
「そっちが先に言ったんだろ」
「それは……そうだけど」
美雪は視線をそらした。
けれど、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
蓮は時計を手首につけた。
少しだけ大きかったけれど、そんなことは気にならなかった。
「ありがとう、美雪」
「……うん」
「大切にする」
その言葉に、美雪は小さく頷いた。
「うん。ずっと大切にしてね」
その一言が、なぜだか蓮の胸に深く残った。
*
午前中。
二人は病室で映画を見ることにした。
昨日、二人で約束した恋愛映画だった。
ベッドの上で並んで画面を見つめる。
時折、肩が触れ合う。
それだけのことなのに、蓮は妙に落ち着かなかった。
「……どうしたの?」
美雪が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「いや……別に」
「さっきから、全然集中してないでしょ」
「してる」
「本当に?」
「……してるって」
美雪は画面を見て、それから蓮を見た。
「もしかして、こういう映画、恥ずかしいの?」
「……悪いかよ」
「えっ、本当に?」
「こういうの、慣れてないんだよ」
蓮は少しだけ顔をそむけた。
恋愛映画の中では、主人公たちが当たり前のように手をつなぎ、好きだと伝え合っている。
つい昨日までなら、ただの物語として見ていたはずだった。
けれど今は違う。
隣に美雪がいる。
自分も、彼女と同じように誰かを好きになった。
だからこそ、画面の中の何気ない仕草ひとつに、胸が落ち着かなくなる。
「恋人なのに?」
美雪が、からかうように笑った。
「……恋人だから恥ずかしいんだよ」
口にしてから、蓮は自分の言葉に気づいた。
「……あ」
美雪も一瞬、目を丸くした。
それから。
「……ふふっ」
頬を赤くしながら、嬉しそうに笑った。
「何だよ……」
「ううん。何でもない」
「絶対、何かあるだろ」
「だって、嬉しかったんだもん」
「……っ」
今度こそ、蓮は何も言い返せなかった。
美雪はそんな彼を見て、楽しそうに笑った。
「蓮って、本当に可愛いね」
「それ、男に言う言葉じゃないだろ……」
「私の彼氏だからいいの」
「……もう好きにしてくれ」
「うん。そうする」
美雪は満足そうに頷いた。
映画は、やがてクライマックスを迎えた。
物語の最後。
二人の主人公は、長いすれ違いの末に、ようやくお互いの気持ちを確かめ合った。
画面が暗くなり、エンドロールが流れ始める。
「……いい映画だったね」
美雪が静かに言った。
「うん」
「泣いた?」
「泣いてない」
「……目、赤いよ?」
「映画のせい」
「ふふっ。そっか」
美雪はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、そっと蓮の手に自分の手を重ねた。
蓮も、何も言わずにその手を握り返した。
言葉にしなくても、伝わる気持ちがある。
そんなことを、初めて知った気がした。
*
昼。
昨日買った小さなケーキを、二人で食べた。
テーブルの上には、二つのフォーク。
そして、真ん中にはクリームと苺がたっぷりとのったケーキ。
「メリークリスマス」
美雪が笑顔で言った。
「メリークリスマス」
二人はフォークを手に取り、それぞれ一口食べた。
「……美味しい」
「うん。美味しいね」
「昨日より美味しい気がする」
「同じケーキだよ?」
「そうなんだけどさ」
蓮は、もう一口食べてから笑った。
「今日が特別だからかな」
美雪の手が、ぴたりと止まった。
「……そっか」
彼女は小さく呟き、目を伏せた。
その横顔は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「私も……そう思う」
美雪は顔を上げた。
「来年も、再来年も。こうして一緒にケーキを食べられたらいいな」
蓮は彼女を見つめた。
一瞬、胸の奥に小さな痛みが走った。
来年。
再来年。
当たり前のように口にできる未来が、自分には少し遠く感じられたからだ。
それでも。
美雪の笑顔を曇らせたくなかった。
蓮は、できるだけ自然に笑った。
「……そうだな」
「約束だよ?」
「うん。約束」
美雪は嬉しそうに頷いた。
蓮も笑った。
けれど、テーブルの下で握りしめた手には、少しだけ力が入っていた。
*
午後。
窓から差し込む冬の日差しが、少しずつ弱くなり始めた頃。
美雪は鞄の中から、一通の白い封筒を取り出した。
「……蓮」
「ん?」
「これ、覚えてる?」
蓮は封筒を見て、少しだけ目を見開いた。
「……昨日の手紙?」
「うん」
「読んでもいいの?」
美雪は、ゆっくりと頷いた。
「……今、読んでほしい」
蓮は封筒を受け取った。
朝からずっと、気になっていた手紙。
指先が、ほんの少し震えた。
封を開けると、中には一枚の便箋が入っていた。
そこに書かれた文字は、いつもの美雪の字だった。
けれど、ところどころ、わずかに揺れている。
何度も書き直したのだろうか。
それとも。
書きながら、泣いていたのだろうか。
蓮は息を整え、ゆっくりと読み始めた。
『蓮へ』
『メリークリスマス。』
『こうして手紙を書くのは、少し恥ずかしいです。直接伝えればいいのに、と思うかもしれません。』
『でも、あなたの前に立つと、言いたいことがたくさんあるのに、うまく言葉にできなくなってしまいます。』
『だから今日は、手紙にしました。』
蓮は、静かに便箋を見つめた。
美雪の声が、聞こえてくるようだった。
『初めて会ったとき、あなたがこんなにも大切な人になるなんて、思ってもいませんでした。』
『最初は、少し不器用で、何を考えているのか分からない人だと思っていました。』
『でも、一緒に過ごす時間が増えるたびに、あなたのことをもっと知りたいと思うようになりました。』
『あなたは、いつも一人で大丈夫なふりをします。』
『本当は苦しいときも。』
『寂しいときも。』
『誰かに助けてほしいときでさえ、平気な顔をして笑います。』
『私は、その笑顔が好きです。』
『でも、ときどき、悲しくなります。』
『あなたが無理をしていることに気づいても、何もできない自分が悔しくなるから。』
『だから、お願いです。』
『私の前では、無理に笑わなくてもいいんだよ。』
『苦しいときは、苦しいって言ってください。』
『寂しいときは、寂しいって言ってください。』
『泣きたいときは、泣いてもいいんです。』
『私は、どんなあなたでも大好きだから。』
「……っ」
蓮の視界が、少しずつ滲んでいった。
文字がぼやける。
それでも、続きを読もうとした。
けれど、喉の奥が詰まって、うまく息ができなかった。
「……蓮?」
美雪が心配そうに声をかけた。
「……大丈夫」
そう答えた声は、自分でも驚くほど震えていた。
蓮は目元を拭い、もう一度、便箋に視線を落とした。
『あなたに出会ってから、私の毎日は少しずつ変わっていきました。』
『朝、学校へ行くのが楽しみになりました。』
『教室であなたを見つけると、つい嬉しくなってしまいます。』
『くだらない話をすることも。』
『一緒にご飯を食べることも。』
『帰り道を並んで歩くことも。』
『あなたが何気なく笑ってくれることも。』
『その一つ一つが、私にとって大切な宝物です。』
『今まで、当たり前だと思っていた毎日が、こんなにも幸せなものだったなんて、知りませんでした。』
『あなたといると、明日が来ることが楽しみになります。』
『明日は何を話そう。』
『明日はどんな顔を見せてくれるんだろう。』
『そんなことを考えるだけで、自然と笑顔になれるんです。』
『だから、これからも一緒にいてください。』
『嬉しい日も。』
『悲しい日も。』
『何もしたくない日も。』
『特別なことが何もない日だって。』
『あなたと一緒に過ごせたら、それだけで幸せです。』
蓮の頬を、一筋の涙が伝った。
拭っても、また溢れてくる。
今まで、誰かにこんなふうに想ってもらったことがあっただろうか。
自分の弱さも。
不器用なところも。
隠してきた寂しさも。
全部ひっくるめて、大切だと言ってくれる人が。
ここにいる。
目の前にいる美雪が。
蓮は、震える指で便箋の続きを追った。
そして、最後の一文にたどり着いた。
『だから、春になったら、一緒に桜を見ようね。』
『満開の桜を見ながら、今年のクリスマスのことを笑って話せたらいいな。』
『そのときも、隣にいてね。』
『大好きだよ。』
『美雪より』
「……っ、う……」
とうとう、声を抑えられなくなった。
蓮は手紙を胸に抱きしめた。
まるで、そこに美雪の想いが詰まっていることを、確かめるように。
「……約束、だからな」
涙で濡れた声で、蓮は言った。
美雪は、静かに頷いた。
「……うん」
「絶対に……」
蓮は顔を上げた。
涙で赤くなった目で、まっすぐに彼女を見つめる。
「春になったら、一緒に桜を見る」
美雪の瞳にも、涙が浮かんでいた。
「うん。一緒に見ようね」
「絶対だぞ」
「……うん。絶対」
美雪はそっと手を伸ばし、蓮の頬に触れた。
「だから……それまで、ちゃんと私のそばにいてね」
「……美雪」
「約束、だよ?」
蓮は、彼女の手を握った。
「ああ。約束する」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に、温かなものが広がった。
怖くないと言えば、嘘になる。
明日がどうなるのか。
春を迎えられるのか。
本当は、ずっと怖かった。
けれど。
美雪と一緒に桜を見る。
その約束だけは、何があっても守りたかった。
蓮は、手紙を大切に折りたたんだ。
そして、枕元ではなく、机の上のクリスマスツリーの隣に置いた。
いつでも目に入る場所に。
何度でも読み返せる場所に。
*
夕方。
窓の外が、ゆっくりと暗くなっていった。
街の明かりが一つ、また一つと灯り始める。
美雪は窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。
「……日が落ちるの、早いね」
「冬だからな」
「うん……」
美雪は、しばらく黙っていた。
それから、振り返って蓮を見た。
「……もう少ししたら、帰らなきゃ」
「……そっか」
分かっていたことなのに、蓮の胸は少しだけ寂しくなった。
朝からずっと一緒にいた。
映画を見て。
ケーキを食べて。
手紙を読んで。
何気ない話をして。
それだけで、こんなにも幸せだった。
だからこそ、別れの時間が近づくのが嫌だった。
「……もう帰るの?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
美雪は少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、優しく微笑んだ。
「……もう少し、ここにいてもいい?」
「いいの?」
「うん。今日はクリスマスだから」
「……そっか」
蓮は嬉しそうに笑った。
美雪も笑った。
それから二人は、ベッドのそばに並んで座り、何も話さずに窓の外を眺めていた。
ときどき、手が触れ合う。
そのたびに、どちらからともなく指を絡めた。
何か話さなければ、と思う必要はなかった。
沈黙さえも、心地よかった。
同じ景色を見て。
同じ時間を過ごして。
ただ、隣にいる。
それだけでよかった。
*
午後七時。
美雪は名残惜しそうに立ち上がった。
「……そろそろ帰るね」
「……うん」
蓮は頷いた。
本当は、もう少しだけ一緒にいたかった。
あと五分。
あと十分。
できることなら、明日の朝まで。
けれど、そんなわがままを口にすることはできなかった。
美雪にも、帰らなければならない理由がある。
だから、蓮は笑顔を作った。
「気をつけて帰れよ」
「うん」
美雪は鞄を手に取った。
そして、ドアへ向かう前に振り返った。
「……明日も来るからね」
蓮の表情が、少しだけ明るくなった。
「……本当に?」
「うん。約束」
「……待ってる」
「うん。絶対来るから」
美雪は微笑んだ。
けれど、ドアの前まで歩いていったところで、ふと足を止めた。
「……蓮」
「ん?」
美雪は一度、唇を結んだ。
何かをためらうように視線を落とし、それから、もう一度蓮を見つめた。
「……大好き」
あまりにもまっすぐな言葉だった。
蓮は、一瞬、息をするのを忘れた。
心臓が大きく跳ねる。
何度聞いても、慣れることのない言葉。
何度聞いても、胸がいっぱいになる言葉。
蓮は少しだけ俯き、照れくさそうに笑った。
「……俺も」
それだけでは、足りなかった。
ちゃんと伝えたかった。
彼女が自分にくれた言葉と、同じくらいの想いを。
蓮は顔を上げた。
「……俺も、美雪が大好きだよ」
美雪の瞳が、嬉しそうに揺れた。
「……うん」
彼女は笑った。
泣きそうなくらい、幸せそうな笑顔だった。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ。また明日」
美雪は最後にもう一度、蓮を見つめた。
そして、静かにドアを閉めた。
カチャリ。
小さな音が、病室に響いた。
蓮は、しばらくそのドアを見つめていた。
ついさっきまで、美雪が立っていた場所。
彼女の笑顔が、まだそこに残っているような気がした。
「……また明日、か」
蓮は小さく呟いた。
そして、手首にはめた腕時計に目を落とした。
*
午後七時二十分。
秒針が、静かに時を刻んでいた。
一秒。
二秒。
三秒。
美雪からもらった、小さな腕時計。
その針は、止まることなく進み続けている。
蓮は手首を持ち上げ、時計をじっと見つめた。
「……明日も、来てくれるんだよな」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
返事はない。
それでも、蓮の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
明日も、美雪に会える。
また話ができる。
また笑い合える。
そして、いつか。
二人で桜を見る。
「……楽しみだな」
そう呟いて、蓮はゆっくりとベッドに横になった。
そのときだった。
「……っ」
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「……また、か」
蓮は眉を寄せ、胸元を押さえた。
これまでも、何度か経験した痛みだった。
だから、今回も少し休めば治まる。
そう思った。
ゆっくりと息を吸う。
そして、吐く。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた。
もう一度、深呼吸をする。
けれど。
痛みは治まらなかった。
むしろ、時間が経つにつれて、どんどん強くなっていく。
「……っ、は……」
呼吸が乱れた。
胸を押さえる手に、自然と力が入る。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
まるで、胸の中を何かに締めつけられているようだった。
「……なん、で……」
額に冷たい汗が浮かぶ。
視界が揺れた。
身体を起こそうとしたが、力が入らない。
「……看護師、さん……」
かすれた声で呼ぶ。
返事はなかった。
蓮は必死に腕を伸ばした。
ベッド脇にあるナースコール。
あと少し。
もう少し手を伸ばせば、届く。
指先が、わずかに震えた。
「……っ」
しかし。
指は、ボタンに届かなかった。
腕から力が抜ける。
身体が、ベッドに沈み込んだ。
「……うそ、だろ……」
息が苦しい。
怖い。
どうして、こんなときに。
今日という日が、あんなにも幸せだったのに。
美雪と約束したばかりなのに。
春になったら、一緒に桜を見ると。
「……美雪……」
その名前を口にした瞬間、蓮の目から涙がこぼれた。
まだ、伝えたいことがたくさんある。
もっと一緒に笑いたい。
もっと話したい。
もっと、そばにいたい。
こんなところで終わりたくない。
「……ごめん……」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
ただ、彼女との約束を守れなくなるかもしれないことが、怖かった。
そのとき。
ベッド脇に置いてあった時計が、蓮の手から滑り落ちた。
カラン。
乾いた小さな音が、病室に響いた。
床に落ちた時計。
文字盤は、まだ動いていた。
秒針が、何事もなかったかのように進んでいる。
一秒。
二秒。
三秒。
「……美雪……」
蓮は、かすかに唇を動かした。
「……ごめん……な……」
その声は、ほとんど音にならなかった。
*
ナースステーション。
突然、警報音が鳴り響いた。
「患者さんの容態が急変しました!」
看護師たちが、一斉に動き出す。
「急いで!」
「酸素の準備を!」
「先生を呼んでください!」
廊下を駆ける足音。
緊迫した声。
そして、病室のドアが勢いよく開かれた。
蓮の身体に、何人もの医療スタッフが駆け寄る。
けれど、蓮の意識は少しずつ遠のいていた。
声が聞こえる。
誰かが、自分の名前を呼んでいる。
身体に触れられている感覚もある。
それなのに、何もかもが遠く感じられた。
まるで、深い水の底へ沈んでいくように。
視界が白く霞んでいく。
音が、遠ざかっていく。
もう、何も考えられない。
その中で。
蓮の脳裏に、今日の出来事が浮かんだ。
美雪の笑顔。
小さな腕時計。
二人で食べたケーキ。
映画を見ながら、そっと重ねられた手。
そして。
涙で濡れた、美雪からの手紙。
『春になったら、一緒に桜を見ようね』
「……はる……」
蓮の唇が、かすかに動いた。
「……さくら……」
どうか。
どうか、もう一度だけ。
あの笑顔を見たい。
もう一度だけ、名前を呼びたい。
そして、ちゃんと伝えたい。
ありがとう、と。
大好きだ、と。
だから。
お願いだから。
まだ、終わらないでほしい。
*
同じ頃。
美雪は駅へ向かう道を歩いていた。
冷たい冬の風が、頬を撫でる。
街はクリスマスのイルミネーションに彩られ、楽しそうな笑い声があちこちから聞こえていた。
すれ違う恋人たち。
手をつないで歩く家族。
プレゼントを抱えて走る子供たち。
誰もが、幸せそうだった。
美雪もまた、幸せだった。
今日は、蓮と一緒に過ごせた。
プレゼントも渡せた。
手紙も読んでもらえた。
そして、最後には、ずっと伝えたかった言葉を口にできた。
大好き。
その言葉に、蓮も答えてくれた。
思い出すだけで、頬が緩んでしまう。
「……ふふっ」
美雪は小さく笑った。
「……明日も、会えるね」
手袋をした手で、鞄の持ち手を握り直す。
明日も、蓮に会いに行こう。
今日の映画の話をして。
また、くだらないことで笑って。
そして、春になったら。
二人で桜を見よう。
満開の桜の下で、今日のことを思い出して笑えたらいい。
そんな未来を思い描いていた、そのときだった。
ポケットの中で、スマートフォンが突然震えた。
「……ん?」
画面に表示された名前を見て、美雪は首を傾げた。
病院からだった。
「……どうしたんだろう?」
嫌な予感が、胸の奥をかすめた。
美雪はすぐに電話に出た。
「もしもし?」
『美雪さんでしょうか』
「はい、そうです」
『病院の者です』
その声を聞いた瞬間。
美雪の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
どうして。
どうして、こんな時間に病院から電話がかかってくるのだろう。
「……あの、蓮に何かあったんですか?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
電話の向こうで、一瞬の沈黙が流れた。
その短い沈黙が、何よりも怖かった。
『……すぐに病院へ来ていただけますか』
「……え?」
『できるだけ早く、お願いします』
美雪の顔から、血の気が引いた。
指先が冷たくなる。
頭の中が、真っ白になった。
「……蓮は?」
返事を待つ数秒が、ひどく長く感じられた。
「蓮は、今どうしてるんですか?」
電話の向こうから、詳しい説明を聞く余裕はなかった。
美雪は、震える声で答えた。
「……分かりました。すぐに行きます」
電話を切る。
その瞬間、足が動いた。
駅へ向かっていた道を引き返し、病院へ向かって走り出す。
ちょうど、そのときだった。
空から、白い雪が舞い落ちてきた。
「……蓮」
美雪は、何度も彼の名前を呼んだ。
「蓮……!」
息が苦しい。
足がもつれそうになる。
それでも、止まることはできなかった。
「お願い……」
頬を涙が伝っていく。
寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか。
もう、自分でも分からなかった。
「お願いだから……待ってて……」
頭の中に浮かぶのは、蓮の笑顔ばかりだった。
プレゼントを受け取ったときの、照れくさそうな顔。
手紙を読んでいたときの、涙に濡れた瞳。
そして、別れ際に伝えてくれた言葉。
『俺も、美雪が大好きだよ』
「……っ」
美雪は唇を噛みしめた。
こんなことになるなんて、思っていなかった。
ついさっきまで、明日の話をしていたのに。
また明日会えると、信じていたのに。
「……春になったら……」
涙が止まらなかった。
「一緒に桜を見るんでしょ……?」
声が震える。
「約束したじゃん……!」
雪が、静かに降り続いていた。
街のイルミネーションが、涙で滲んでいく。
それでも、美雪は走り続けた。
ただ一つの願いを胸に抱いて。
どうか、間に合って。
どうか、蓮が無事でいてくれますように。
*
病院。
処置室の前。
時計の針は、午後八時を指していた。
美雪は、息を切らしながら廊下へ駆け込んだ。
「……蓮!」
声が、白い廊下に響く。
けれど、返事はなかった。
目の前には、固く閉ざされた処置室の扉。
その向こうから、医師や看護師たちの切迫した声が聞こえてくる。
「血圧が低下しています!」
「もう一度、確認して!」
「急いで!」
美雪は、その場に立ち尽くした。
「……うそ……」
足が震えた。
呼吸がうまくできない。
どうして。
どうして、こんなことになったのだろう。
ほんの少し前まで、蓮は笑っていた。
明日も来ると約束したとき、嬉しそうに笑ってくれた。
手紙を胸に抱きしめて、春になったら桜を見ると約束してくれた。
あの笑顔が。
あの声が。
もう一度、見たい。
もう一度、聞きたい。
「……大丈夫」
美雪は、小さく呟いた。
「……大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。
「絶対、大丈夫……」
けれど、声は震えていた。
目の奥が熱くなる。
涙が、次々と溢れてくる。
「だって……」
美雪は、胸元をぎゅっと握りしめた。
「……約束したんだもん……」
春になったら、一緒に桜を見る。
来年も、その先も。
何度でも、こうして一緒にクリスマスを迎える。
その未来を、二人で約束した。
だから。
だから、お願い。
「……蓮……」
美雪は、閉ざされた扉を見つめた。
「お願いだから……帰ってきて……」
声にならない声が、唇からこぼれた。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
クリスマスの夜。
街は、色とりどりのイルミネーションに包まれている。
恋人たちは笑い合い、家族は食卓を囲み、子供たちはプレゼントを抱きしめて眠る。
誰もが、明日も当たり前のようにやってくると信じている。
けれど。
白い病院の廊下で。
一人の少女は、ただ祈ることしかできなかった。
大切な人が、無事に戻ってきてくれるように。
もう一度、その手を握れるように。
もう一度、その声を聞けるように。
そして、いつか。
二人で、満開の桜を見上げられるように。
美雪は、震える手を胸元に押し当てた。
「……神様……お願い……」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
それでも、彼女は祈り続けた。
処置室の扉が開く、その瞬間を信じて。
蓮が、もう一度、自分の名前を呼んでくれることを信じて。
――春は、まだ遠い。
そして。
廊下の壁に掛けられた時計だけが。
二人の約束など知らないかのように。
無情にも、時を刻み続けていた。




