第三十七章 春まで
十二月二十五日。
午後八時十五分。
病院の廊下は、冷たい静けさに包まれていた。
美雪は、処置室の前に立ち尽くしていた。
目の前には、固く閉ざされた扉。
その向こうに、蓮がいる。
つい数時間前まで、笑っていた彼が。
自分の手を握り返してくれた彼が。
今は、どんな状態なのかさえ分からない。
美雪は何度も、壁に掛けられた時計を見上げた。
午後八時十五分。
八時十六分。
八時十七分。
秒針が進むたびに、胸の奥が締めつけられる。
「……蓮」
震える声で、彼の名前を呼んだ。
返事があるはずもない。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
「お願い……」
美雪は、両手を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
けれど、痛みなど感じなかった。
処置室の向こうから、医師や看護師たちの声が聞こえてくる。
「血圧は?」
「もう一度、確認してください!」
「酸素をお願いします!」
そのたびに、美雪の肩がびくりと震えた。
何が起きているのか、分からない。
何も見えない。
何もできない。
ただ、ここで待つことしかできなかった。
「……お願いだから」
美雪は、閉ざされた扉を見つめた。
「蓮を……連れていかないで……」
声に出した瞬間、涙が頬を伝った。
クリスマスの夜。
ほんの少し前まで、二人は笑い合っていた。
明日も会おうと約束した。
春になったら、一緒に桜を見ると約束した。
それなのに。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
*
午後八時二十三分。
処置室の扉が開いた。
美雪は、弾かれたように顔を上げた。
中から出てきた医師の姿を見た瞬間、駆け寄る。
「先生……! 蓮は……蓮はどうなったんですか?」
声が震えた。
医師は、疲れた表情で美雪を見つめた。
「美雪さんですね」
「はい!」
「今、ようやく状態が少し落ち着きました」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間、美雪の膝から力が抜けそうになった。
思わず、壁に手をつく。
「よかった……」
安堵の言葉が、涙と一緒にこぼれた。
「本当に……よかった……」
けれど、医師の表情は、まだ厳しいままだった。
「ただ、まだ安心できる状態ではありません」
「……え?」
「意識が戻るかどうかも、今の段階では分かりません」
美雪の顔から、再び笑顔が消えた。
「……会えませんか?」
「今はまだ難しいですが、少し落ち着いたらご案内します」
「お願いします……」
美雪は深く頭を下げた。
「ほんの少しでいいんです。顔を見るだけでも……声をかけるだけでもいいから……」
最後のほうは、うまく声にならなかった。
医師は、静かに頷いた。
「分かりました。可能になり次第、お知らせします」
「……ありがとうございます」
美雪はもう一度、処置室の扉を見つめた。
どうか。
どうか、目を覚まして。
また、あの優しい声で名前を呼んでほしい。
*
日付が変わり、十二月二十六日。
午前零時を少し過ぎた頃。
ようやく、美雪は蓮の病室に入ることを許された。
ドアを開けた瞬間、足が止まった。
「……蓮」
ベッドの上に、蓮が横たわっていた。
顔色は、いつもよりずっと白い。
鼻には酸素チューブがつながれ、腕には点滴の針が刺さっている。
ベッドのそばでは、モニターが規則正しい電子音を響かせていた。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
その音だけが、静かな病室に響いている。
美雪は、ゆっくりとベッドに近づいた。
今にも泣き出しそうになるのを、必死にこらえながら。
「……蓮」
もう一度、名前を呼ぶ。
返事はない。
美雪はベッド脇の椅子に腰を下ろし、そっと蓮の手を握った。
冷たかった。
いつも握り返してくれる、その手が。
今は、何の反応も返してくれない。
「……私、来たよ」
優しく声をかける。
「聞こえてる?」
返事はない。
美雪は俯き、唇を噛みしめた。
泣きたくなかった。
泣いてしまったら、もう二度と笑えなくなりそうだったから。
でも。
目の前で眠り続ける蓮を見ていると、どうしても涙が溢れてしまう。
「……クリスマスなのに」
震える声が、静かな病室に落ちた。
「こんなの……嫌だよ……」
握った手に、少しだけ力を込める。
「一緒にケーキ食べたじゃん……」
涙が、一粒こぼれた。
「映画だって見たし……プレゼントも渡したし……」
美雪は、無理に笑おうとした。
「手紙も……ちゃんと読んでくれたでしょ……?」
けれど、笑顔はすぐに崩れてしまった。
「……約束したじゃん」
声が、かすれる。
「来年も一緒にクリスマスを過ごすって……」
蓮の手を、両手で包み込む。
「春になったら、一緒に桜を見るって……」
頬を伝う涙が、止まらなかった。
「だから……お願い……」
美雪は、蓮の手に額を寄せた。
「ちゃんと起きてよ……」
「……」
「また、私の名前を呼んでよ……」
返事はない。
ただ、モニターの電子音だけが、淡々と鳴り続けていた。
そのときだった。
握っていた蓮の指が、ほんのわずかに動いた。
「……え?」
美雪は、はっと顔を上げた。
「蓮……?」
見間違いかもしれない。
そう思った瞬間、もう一度。
蓮の指が、かすかに動いた。
「蓮……! ねえ、蓮!」
美雪は身を乗り出した。
すると。
閉じられていた蓮のまぶたが、ゆっくりと震えた。
「……っ」
やがて、ほんの少しだけ目が開く。
「蓮……!」
嬉しさと驚きで、声が裏返った。
「分かる? 私だよ! 美雪だよ!」
蓮は、ぼんやりと天井を見つめていた。
まだ意識がはっきりしていないのだろう。
しばらくして、ゆっくりと視線が動いた。
そして。
「……み……ゆき……」
かすれた声が、聞こえた。
「……っ!」
美雪の目から、涙が一気に溢れた。
「うん! そうだよ! 私だよ……!」
何度も頷く。
「ここ……」
蓮が、かすかに口を動かした。
「病院だよ。大丈夫、ここにいるから」
「……そっか」
蓮は、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、美雪の胸がいっぱいになった。
「……来てくれたんだ」
「当たり前でしょ……!」
美雪は泣きながら笑った。
「ずっと待ってたんだから……!」
「……ごめん」
「謝らないで……お願いだから、そんなこと言わないで……」
蓮は、彼女の顔をぼんやりと見つめた。
涙で濡れた頬。
赤くなった目。
震える唇。
自分のために、泣いてくれている。
そのことが、胸に痛いほど伝わってきた。
「……怖かった?」
蓮が尋ねた。
美雪は、一瞬だけ言葉に詰まった。
でも、嘘はつきたくなかった。
「……怖かった」
正直に答える。
「すごく……怖かったよ……」
声が震えた。
「電話が来たとき、何が起きたのか分からなくて……蓮がいなくなっちゃうんじゃないかって……」
言葉が途切れる。
「……もう、会えなくなるんじゃないかって……」
蓮は、何も言わなかった。
ただ、彼女の手を握り返そうとした。
まだ力はほとんど入らなかった。
それでも、美雪には伝わった。
彼が、ここにいる。
自分の手を握ろうとしてくれている。
「……俺も」
蓮の声は、ひどくかすれていた。
「……怖かった」
美雪は、顔を上げた。
「……蓮?」
「死ぬのが……怖かった」
その言葉に、美雪の胸が締めつけられた。
蓮が、自分の口からそんなことを言うなんて。
いつも一人で大丈夫なふりをして。
苦しくても、寂しくても、笑ってごまかしてきた彼が。
今、初めて、自分の恐怖を打ち明けてくれた。
美雪は、彼の手を強く握った。
「……大丈夫」
涙を拭いながら、何度も頷く。
「今は、ここにいるよ……」
「……うん」
「だから……」
美雪は、蓮をまっすぐに見つめた。
「お願いだから、まだ死なないで……」
声が震えた。
「まだ一緒にいたいよ……」
「……」
「まだ、蓮としたいことがいっぱいあるんだから……」
蓮は、ゆっくりと彼女を見つめ返した。
そして、かすかに笑った。
「……頑張る」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
それでも。
美雪は、何度も頷いた。
「……うん」
涙を流しながら、笑った。
「一緒に頑張ろうね……」
*
しばらくの間、二人は何も話さなかった。
言葉にできない想いが、胸の中にたくさんあった。
怖かった。
寂しかった。
会いたかった。
失いたくなかった。
けれど、今は。
ただ、手を握っていられることが嬉しかった。
蓮は、ゆっくりと口を開いた。
「……美雪」
「うん?」
「……春」
「……うん」
「桜……」
美雪は、涙を拭った。
「うん。一緒に見ようね」
「……約束」
「うん。約束」
蓮は、安心したように目を閉じかけた。
けれど、美雪の手を握る指に、ほんの少し力がこもった。
「……絶対、な」
美雪は、彼の手を両手で包んだ。
「絶対だよ」
「……」
「絶対に、一緒に見るんだから」
蓮は、かすかに頷いた。
「……分かった」
それから、ゆっくりと目を閉じた。
美雪は、彼の呼吸が落ち着いていくのを確かめながら、ずっと手を握っていた。
今度こそ。
もう一度、目を覚ますまで。
彼がここにいてくれることを、確かめていたかった。
*
午前一時。
蓮は再び眠りについた。
美雪は、ベッド脇の椅子に座ったままだった。
握った手を、離すことができなかった。
もし手を離したら。
もし目を離したら。
また、彼が遠くへ行ってしまうような気がした。
「……おやすみ、蓮」
小さく呟く。
「……また明日ね」
眠っている彼に、そっと微笑みかけた。
窓の外では、雪が降り続いていた。
やがて、夜が明ける。
それでも、美雪は手を離さなかった。
*
十二月二十六日。
朝。
病室のカーテンの隙間から、冬の淡い光が差し込んでいた。
美雪は椅子に座ったまま、うとうとしていた。
ほとんど眠れていなかった。
それでも、蓮の手を握ったままだった。
ドアが開く音に気づき、顔を上げる。
医師が病室に入ってきた。
「美雪さん」
「……はい」
慌てて姿勢を正す。
「昨夜は、ありがとうございました」
「いえ……」
美雪は、蓮を見つめた。
「……蓮は、大丈夫なんですか?」
医師は、ベッドの上の蓮を確認してから、静かに答えた。
「今は、状態が落ち着いています」
「……よかった」
美雪の肩から、少しだけ力が抜けた。
しかし、医師は続けた。
「ですが、今回の発作は、これまでよりも重いものでした」
「……」
「身体への負担も、かなり大きかったと考えられます」
美雪は、唇を噛みしめた。
「今後も、同じような発作が起きる可能性があります」
「……そう、ですか」
頭では理解しようとしていた。
けれど、心が追いつかなかった。
医師は、少し言葉を選ぶように間を置いた。
美雪は、その沈黙が怖かった。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「……先生」
「はい」
「蓮は……」
喉が詰まる。
それでも、美雪は勇気を出して尋ねた。
「春まで……生きられますか?」
病室が、静まり返った。
医師は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
「……可能性はあります」
やがて、医師が静かに口を開いた。
美雪は、息を呑んだ。
「ただ、何か月後まで大丈夫だと、確実にお伝えすることはできません」
「……」
「今後の経過を見ながら、慎重に対応していく必要があります」
美雪は俯いた。
目の奥が熱くなる。
けれど、ここで泣いてはいけないと思った。
蓮が目を覚ましたとき、笑顔で迎えたかったから。
「……分かりました」
小さく頷く。
「ありがとうございます……」
医師が病室を出ていったあとも、美雪はしばらく顔を上げられなかった。
春まで。
あと三か月ほど。
たったそれだけの時間が、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。
「……蓮」
美雪は、彼の手を握り直した。
「一緒に、春まで行こうね……」
*
昼。
蓮が、ゆっくりと目を覚ました。
「……ん」
「……蓮?」
美雪は、すぐに顔を上げた。
「おはよう」
蓮は、ぼんやりと彼女を見つめた。
「……美雪?」
「うん。おはよう」
「……ずっと、いたの?」
「うん」
「……学校は?」
美雪は、一瞬きょとんとした。
それから、小さく笑った。
「冬休みだよ」
「あ……」
蓮は、少し照れくさそうに笑った。
「……忘れてた」
「もう。こんなときまで学校の心配?」
「いや……別に」
「ふふっ」
美雪は笑った。
けれど、その目元には、涙の跡がまだ残っていた。
蓮は、それに気づいた。
「……美雪」
「ん?」
「……泣いたの?」
美雪は、すぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、それから小さく頷いた。
「……うん」
「……そっか」
「……昨日」
美雪が、ぽつりと呟いた。
「すごく怖かった」
蓮は、黙って彼女の言葉を聞いていた。
「電話が来て、病院に来てって言われて……頭の中が真っ白になったの」
「……」
「何が起きてるのか分からなくて……蓮がどうなってるのかも分からなくて……」
美雪の声が、少しずつ震え始めた。
「もう、会えなくなるんじゃないかって……」
そこで、言葉が止まった。
唇を噛みしめる。
あのときの恐怖を思い出すだけで、また涙が溢れそうだった。
「……いなくなるかと思った」
蓮は、何も言えなかった。
彼女がどれほど怖かったのか。
どれほど必死に祈ってくれたのか。
そのすべてを、今になって思い知らされた。
「……ごめん」
蓮が小さく呟くと、美雪は首を横に振った。
「謝らないで」
「……」
「蓮が悪いわけじゃないんだから」
美雪は、彼の手を握った。
そして、しばらく迷ったあと、静かに口を開いた。
「……お願いがあるの」
「……何?」
「一人で、死ぬ準備をしないで」
蓮の目が、わずかに揺れた。
「……」
「手紙を書いたり……もしものことを考えたりするなら……」
美雪は、必死に言葉を続けた。
「私にも、話してほしい」
「……美雪」
「怖いことも、悲しいことも……一人で抱え込まないでほしいの」
涙が、頬を伝った。
「私、蓮の全部を知りたいよ」
「……」
「元気なときだけじゃなくて……苦しいときも、怖いときも……」
美雪は、蓮の手をぎゅっと握った。
「一緒にいたいの」
その言葉が、蓮の胸に深く刺さった。
これまで、自分は彼女を守るつもりでいた。
心配をかけたくなかった。
悲しませたくなかった。
だから、苦しいことも、怖いことも、できるだけ一人で抱え込もうとしていた。
けれど。
それは、本当に彼女のためだったのだろうか。
もしかしたら、自分が傷つく姿を見せるのが怖かっただけなのかもしれない。
弱い自分を知られるのが、怖かっただけなのかもしれない。
蓮は、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
美雪が顔を上げる。
「……本当に?」
「ああ」
蓮は、彼女を見つめた。
「これからは、ちゃんと話す」
「……約束?」
「約束」
美雪は、ようやく少しだけ笑った。
「……絶対だからね」
「ああ。絶対」
*
午後。
病室に、穏やかな時間が戻っていた。
美雪は、ベッド脇の椅子に座っていた。
蓮は、枕元に置かれた腕時計を手に取った。
「……これ」
「ん?」
「昨日、落としたやつ」
美雪は、時計を覗き込んだ。
「うん。壊れてない?」
「大丈夫みたい」
蓮は、文字盤をじっと見つめた。
秒針が、静かに進んでいる。
一秒。
二秒。
三秒。
「……止まってないな」
「当たり前でしょ」
美雪は、少しだけ笑った。
「時計なんだから」
「……まあ、そうだけど」
蓮も、かすかに笑った。
それから、しばらく時計を見つめていた。
「……時間って、止まらないんだな」
美雪は、彼の横顔を見た。
「……うん」
「どんなに怖くても、どんなに苦しくても……勝手に進んでいく」
「……」
「昨日は、あんなに幸せだったのに」
蓮は、ゆっくりと時計を握りしめた。
「気づいたら、何もできなくなってた」
その声には、悔しさが滲んでいた。
「……怖かった」
美雪は、何も言わずに彼の話を聞いていた。
「本当に……死ぬかもしれないって思った」
「……うん」
「もっと生きたいって思ったのに……身体が、全然動かなかった」
蓮は俯いた。
「……悔しかった」
美雪は、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「……うん」
「でも……」
蓮は、もう一度時計を見た。
「時間が止まらないからこそ……大切にしなきゃいけないんだろうな」
美雪は、静かに頷いた。
「……そうだね」
「明日も、明後日も……当たり前に来るわけじゃないんだよな」
「……うん」
「だから、今日を大切にしたい」
蓮は、彼女を見つめた。
「美雪と過ごす時間を……一秒でも多く」
美雪の瞳が潤んだ。
そして、優しく微笑んだ。
「……私も」
二人は、そっと手を握り合った。
窓から差し込む冬の日差しが、二人の手を淡く照らしていた。
*
夕方。
窓の外では、再び雪が降り始めていた。
美雪は、ガラス越しに舞い落ちる雪を眺めていた。
「……雪だね」
「うん」
蓮も、ゆっくりと窓の外に目を向けた。
白い雪が、街を少しずつ覆っていく。
静かで、冷たくて。
まるで、冬そのものが時間をかけて世界を包み込んでいくようだった。
「……春まで、あと三か月くらいか」
蓮が呟いた。
美雪は振り返る。
「……うん」
「長いかな」
「……分からない」
「短いかな」
「……それも、分からないね」
二人は、少しだけ笑った。
けれど、すぐに沈黙が訪れた。
春まで三か月。
普通なら、長いようで短い時間だ。
学校の冬休みが終わり、新しい年を迎え、寒さが少しずつ和らいでいく。
そうしているうちに、春はやってくる。
けれど、今の蓮にとって、その三か月は途方もなく長く感じられた。
明日が来ることさえ、当たり前ではない。
それでも。
「……でもさ」
蓮は、美雪を見た。
「三か月全部を、一度に頑張ろうとしなくてもいいんだよな」
「……え?」
「今日を一日、ちゃんと生きる」
蓮は、自分の言葉を確かめるように続けた。
「明日になったら、また一日頑張る」
「……」
「そうやって、一日ずつ進んでいけば……いつか春になるかもしれない」
美雪は、目を見開いた。
蓮の顔には、まだ疲れが残っていた。
身体も、思うようには動かない。
それでも、その瞳には、昨日までとは違う光が宿っていた。
「……うん」
美雪は、涙を浮かべながら笑った。
「そうしよう」
蓮も、少しだけ笑った。
「……一緒に、な」
「うん。一緒に」
美雪は、そっと彼の手を握った。
「今日を一日」
「うん」
「明日を一日」
「うん」
「その次の日も、一日ずつ」
美雪は、蓮の目を見つめた。
「そうやって、春まで行こう」
蓮は、強く頷いた。
「……春まで」
二人の手が、しっかりと重なった。
春まで。
ただ、それだけの約束。
けれど、今の二人にとっては、何よりも大切な約束だった。
*
その夜。
蓮は、枕元に置いてあったノートを開いた。
十二月二十六日。
新しいページ。
白い紙を前にして、しばらくペンが動かなかった。
何を書けばいいのだろう。
今日あったこと。
美雪と話したこと。
これからのこと。
考えたいことは、たくさんあった。
けれど、今の自分の気持ちを表す言葉は、なかなか見つからなかった。
蓮は、ゆっくりと息を吸った。
そして、ようやくペンを動かした。
『春まで生きる。』
その下に、一行。
『美雪と桜を見る。』
さらに、その下に。
『今日より、明日を大切にする。』
そこで、蓮は一度ペンを止めた。
何かが足りない気がした。
しばらく考えたあと、もう一行を書き加えた。
『まだ、死にたくない。』
書き終えた瞬間、蓮の手が止まった。
その文字を、じっと見つめる。
まだ、死にたくない。
以前の自分なら、こんな言葉を書くことはなかっただろう。
家を追い出されてから、ずっと一人だった。
誰にも頼れず、誰にも本音を話せず。
何があっても、自分一人で何とかするしかなかった。
誰かに必要とされているとも思えなかった。
帰りたいと思える場所もなかった。
明日が来ても、何も変わらない。
そんなふうに考えていた。
だから、いつか死ぬことになっても。
それは仕方のないことだと思っていた。
怖くないわけではなかった。
ただ、生きていたいと思える理由が、見つからなかったのだ。
けれど、今は違う。
美雪がいる。
自分を待ってくれる人がいる。
帰りたいと思える場所がある。
また会いたいと思える人がいる。
そして。
いつか一緒に桜を見たいと、心から願っている。
「……俺」
蓮は、ノートを見つめたまま呟いた。
「……生きたい」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
涙が、静かに頬を伝う。
怖い。
明日が来るかどうかも分からない。
また、あの痛みが襲ってくるかもしれない。
それでも。
「……まだ、終わりたくない」
蓮は、ノートをそっと閉じた。
そして、枕元に置かれた腕時計を見つめた。
秒針が、静かに動いている。
その音は聞こえない。
それでも、確かに時間は進んでいた。
蓮は目を閉じた。
胸の奥には、まだ恐怖が残っていた。
けれど、その隣に。
小さな希望が生まれていた。
*
同じ頃。
美雪は、自宅のベッドに腰掛けていた。
部屋の明かりはつけたまま。
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
眠ろうとしても、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、処置室の前で待ち続けた時間が蘇る。
閉ざされた扉。
医師の厳しい表情。
そして、意識を取り戻した蓮の顔。
「……」
美雪は、膝の上に置いたスマートフォンを見つめた。
そのとき、画面が明るくなった。
蓮からのメッセージだった。
『今日はありがとう』
短い一文。
それだけだった。
けれど、美雪は何度もその言葉を読み返した。
蓮が、今も自分のことを考えてくれている。
自分に言葉を届けてくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。
美雪は、すぐに返信した。
『こちらこそ。今日はゆっくり休んでね』
送信してから、少し考えた。
まだ、伝えたいことがあった。
文字を打つ指が、わずかに止まる。
そして。
『春まで、一緒に頑張ろうね』
送信。
しばらくして、返信が届いた。
『うん』
その一文字を見て、美雪は微笑んだ。
さらに、もう一通。
『絶対』
美雪は、思わずスマートフォンを胸に抱きしめた。
「……うん」
目を閉じる。
「……絶対だよ」
声が、かすかに震えた。
春まで。
一緒に桜を見るまで。
まだ、伝えたいことがたくさんある。
まだ、一緒にしたいことがたくさんある。
だから、諦めない。
どんなに怖くても。
どんなに不安でも。
蓮が一日ずつ前へ進むのなら、自分も隣で歩いていきたい。
たとえ、手をつないで歩けない日があったとしても。
せめて、心だけは離さずにいたい。
美雪は、スマートフォンを枕元に置いた。
窓の外では、雪が降り続いている。
冬は、まだ終わらない。
春は、まだ遠い。
それでも。
二人は、今日という一日を生きた。
そして、明日を迎えようとしていた。
一日ずつ。
一秒ずつ。
まだ見ぬ春へと、少しずつ近づいていく。
桜を見るために。
もう一度、二人で笑い合うために。
そして、いつか。
今日のことを、懐かしい思い出として語り合える日が来ることを願って。
*
蓮は、まだ知らなかった。
これから訪れる冬が、自分の人生で最も短く感じられる冬になることを。
そして同時に。
これまでの人生で、最も大切な時間になることを。
春まで。
あと、三か月。
その先に何が待っているのか。
まだ、誰にも分からない。
それでも。
二人は、約束した。
春になったら、一緒に桜を見ると。
その約束だけを胸に抱いて。
二人の冬は、静かに続いていった。




