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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第三十八章 春を待つ時間

一月一日。


木曜日。


新しい年の始まり。


朝。


蓮はゆっくりと目を覚ました。


カーテンの隙間から、冬の淡い光が差し込んでいる。


窓の外には、白く静かな空が広がっていた。


「……新年か」


蓮は小さく呟いた。


去年の今頃、こんな未来が待っているなんて、想像もしていなかった。


誰かと一緒に新しい年を迎えること。


誰かが自分のことを心配し、会いに来てくれること。


そして、誰かと一緒に春を待つこと。


そんな幸せは、自分には一生縁のないものだと思っていた。


誰にも必要とされていない。


自分がいなくなっても、きっと誰も困らない。


以前の蓮は、そんなふうに思っていた。


けれど、今は違う。


机の上には、美雪と撮った写真が置かれていた。


クリスマスの日、二人で笑いながら撮った写真。


蓮はそっと手を伸ばし、それを手に取った。


写真の中の美雪は、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。


その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥が温かくなった。


「……今年も」


蓮は写真の中の美雪を見つめた。


「一緒にいられたらいいな」


その言葉は、誰に聞かせるわけでもない、小さな願いだった。


そのとき、枕元のスマートフォンが震えた。


美雪からのメッセージだった。


『あけましておめでとう!』


蓮の口元に、自然と笑みが浮かんだ。


『あけましておめでとう』


そう返信すると、すぐに次のメッセージが届いた。


『今年の目標は?』


蓮は画面を見つめながら、しばらく考えた。


今年の目標。


今までなら、そんなことを考えようともしなかっただろう。


けれど、今は違う。


蓮はゆっくりと文字を打った。


『春まで頑張ること』


送信。


数秒後、すぐに返信が来た。


『違うよ』


『え?』


『春までじゃなくて、春からも!』


蓮は、その言葉を何度も読み返した。


春からも。


その先も。


当たり前のように、未来が続いていくことを信じてくれている。


自分がその未来にいることを、疑っていない。


蓮はスマートフォンを握りしめた。


『……そうだな』


『約束だよ』


『うん』


『絶対だからね』


蓮は窓の外に目を向けた。


冷たい風が、冬の空を静かに流れていく。


それでも、胸の奥には小さな温もりが残っていた。


『絶対』


今度は、迷わずに送信した。


まだ、未来がどうなるのかは分からない。


それでも。


今年も美雪と一緒に笑いたい。


来年も、その先も。


そんな願いを抱けるようになった自分が、蓮には少しだけ不思議だった。


     *


一月五日。


月曜日。


午前九時。


病室のドアが勢いよく開いた。


「蓮!」


聞き慣れた声が、静かな病室に響いた。


「……おはよう」


「おはよう!」


美雪は笑顔で病室に入ってくると、手に持っていた袋を机の上に置いた。


「はい、これ!」


「何?」


「お正月のプレゼント!」


蓮は袋を見つめ、それから美雪の顔を見た。


「もうお正月も終わりかけだけど」


「細かいことは気にしない!」


美雪は頬を膨らませた。


その様子がおかしくて、蓮は思わず笑った。


「はいはい」


「何、その反応!」


「いや、別に」


「絶対、何か思ってるでしょ!」


「さあな」


「もう!」


美雪は少し不満そうにしながらも、袋を蓮のほうへ押し出した。


蓮が中を覗くと、小さな赤いだるまが入っていた。


その隣には、一枚の紙が添えられている。


『願いごとが叶いますように』


蓮は、その文字をじっと見つめた。


「願いごと……?」


「うん!」


美雪は嬉しそうに頷いた。


「蓮も、ちゃんとお願いしてね」


「何をお願いすればいいんだ?」


「それは自分で考えるの!」


「何だよ、それ」


「私が決めたら意味ないでしょ?」


美雪の言葉に、蓮は小さく笑った。


けれど、だるまを見つめているうちに、ふと心に浮かんだ願いがあった。


蓮は窓の外へ目を向けた。


冬の空は、今日も遠くまで広がっている。


「……春」


「え?」


美雪が首を傾げた。


蓮は、ゆっくりと彼女を見た。


「春になったら、一緒に桜を見たい」


その言葉を聞いた瞬間、美雪の目がわずかに見開かれた。


それから、彼女はゆっくりと笑った。


「うん。一緒に見よう」


「約束したからな」


「うん」


「忘れるなよ」


「忘れるわけないでしょ」


美雪はだるまを机の上に置いた。


「じゃあ、この子にもお願いしておこう!」


「この子?」


「だるま!」


「……名前をつけるのか?」


「もちろん!」


蓮は呆れたように笑った。


「何て名前にするんだよ」


美雪は真剣な顔で考え始めた。


しばらくして、ぱっと顔を上げる。


「……さくら!」


「そのままじゃん」


「いいの!」


美雪は得意そうに胸を張った。


「桜を見るっていう約束を忘れないように、さくらにしたの!」


「はいはい」


「もう、ちゃんと聞いてる?」


「聞いてるよ」


蓮は笑いながら答えた。


二人の笑い声が、静かな病室に響いた。


その瞬間、蓮は心の底から思った。


こんな時間が、ずっと続けばいい。


何でもない話をして。


くだらないことで笑って。


明日は何を話そうかと考えて。


そんな普通の毎日を、美雪と一緒に過ごしていたい。


特別なことなんて、何もいらない。


ただ、もう少しだけ。


こんな時間が続いてほしかった。


     *


一月中旬。


冬は、まだ終わる気配を見せなかった。


窓の外では冷たい風が吹き、日によっては雪が舞った。


蓮の体調には波があった。


調子よく過ごせる日もあれば、身体が重く、思うように動けない日もある。


昨日はできたことが、今日はできない。


そんな日も少なくなかった。


それでも、美雪は変わらず病院へ通ってきた。


学校であったこと。


友達との出来事。


授業中の失敗。


帰り道で見つけた小さなお店。


どんなに些細なことでも、美雪は一生懸命に話してくれた。


「今日ね、先生が間違えたんだよ!」


「先生が?」


「うん。黒板に書いた答えが違ってたの!」


「それで?」


「みんな気づかなかったんだけど、私が気づいたの!」


「すごいな」


「でしょ?」


美雪は得意そうに胸を張った。


蓮は小さく笑った。


「美雪らしいな」


「それ、どういう意味?」


「そのままの意味」


「絶対、からかってるでしょ!」


「さあな」


「もう!」


美雪は頬を膨らませた。


その顔がおかしくて、蓮はまた笑った。


美雪もつられて笑った。


何でもない会話。


何でもない時間。


けれど、蓮にとっては、その一つひとつが大切だった。


以前の自分なら、こんな時間を幸せだと思うことさえなかったかもしれない。


誰かと話すこと。


誰かの笑顔を見ること。


誰かが明日も来てくれると信じられること。


今では、そのすべてがかけがえのないものになっていた。


しばらくして、美雪はいつものように蓮の隣に座った。


そして、彼の顔をじっと見つめた。


「……蓮」


「うん?」


「今日、少し顔色が悪いよ」


蓮は一瞬、言葉に詰まった。


けれど、すぐにいつもの表情を作った。


「大丈夫」


そう答えたものの、美雪は笑わなかった。


「……本当に?」


「うん」


「無理しないでね」


「……分かってる」


美雪は少しだけ俯いた。


「蓮って、いつもそう言うよね」


「え?」


「大丈夫って」


彼女の声は、いつもより静かだった。


「でも、本当はつらいときもあるんでしょ?」


蓮は何も答えられなかった。


美雪は、そんな彼を責めることなく、そっと続けた。


「元気なふりをしなくてもいいんだよ」


蓮は顔を上げた。


美雪の瞳は、まっすぐに彼を見つめていた。


「私の前では、無理に笑わなくてもいいから」


その言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいった。


今まで、ずっとそうしてきた。


大丈夫なふり。


平気なふり。


寂しくないふり。


誰にも心配をかけないように。


誰にも迷惑をかけないように。


自分の気持ちを隠して、何でもないように振る舞ってきた。


本当は苦しくても。


本当は不安でも。


それを誰かに伝えることが、怖かった。


けれど、美雪は違った。


彼女は、蓮が隠している気持ちに気づいてくれた。


そして、それを無理に聞き出そうとするのではなく、ただ隣にいてくれた。


「……ありがとう」


蓮は、ようやくそれだけを口にした。


美雪は優しく笑った。


「どういたしまして」


その笑顔を見ながら、蓮は思った。


この人の前では、少しくらい弱くなってもいいのかもしれない。


そう思えたことが、何よりも嬉しかった。


     *


一月二十日。


午後。


医師の診察が終わったあと、蓮はベッドの上で天井を見つめていた。


これからのこと。


春のこと。


そして、自分の身体のこと。


考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。


医師から聞かされる言葉には、いつも不確かな部分が残っていた。


これから先、どうなるのか。


どこまで回復できるのか。


春を迎えたとき、自分はどんな状態でいるのか。


誰にも、はっきりとは分からない。


それが、怖かった。


考えないようにしても、ふとした瞬間に不安が押し寄せてくる。


そんなとき、蓮の目に入ったのは、机の上に置かれた一冊のノートだった。


美雪が持ってきたものだ。


表紙には、大きな文字でこう書かれていた。


『春までにやりたいこと』


蓮はゆっくりと手を伸ばし、ノートを開いた。


一ページ目。


『一緒に桜を見る』


二ページ目。


『病院の外を散歩する』


三ページ目。


『一緒にアイスを食べる』


四ページ目。


『写真をたくさん撮る』


どれも、特別なことではなかった。


けれど、どのページにも、美雪と一緒に過ごす時間が描かれていた。


そして、最後のページ。


そこには、少し大きな文字で書かれていた。


『春からも、ずっと一緒にいる』


蓮は、その文字を長い間見つめていた。


「……ずっと、か」


たった二文字。


けれど、今の自分には、とても遠くて、大きな言葉に思えた。


ずっと一緒にいる。


来月も。


来年も。


その先も。


そんな未来を、当たり前のように思い描けたら、どんなにいいだろう。


蓮は、ノートの端をそっと指でなぞった。


約束したい。


全部叶えたい。


美雪と一緒に、もっとたくさんの時間を過ごしたい。


まだ知らない景色を、一緒に見たい。


まだ話していないことを、たくさん話したい。


そして、これからも彼女の隣で笑っていたい。


けれど、未来はまだ見えなかった。


どれだけ願っても、自分の力だけではどうにもならないことがある。


それが分かっているからこそ、苦しかった。


蓮はノートを閉じた。


そして、静かに呟いた。


「……諦めない」


誰に聞かせるわけでもない。


ただ、自分自身に言い聞かせるように。


「まだ、終わらせない」


その声は小さかった。


けれど、そこには確かな意志があった。


窓の外には、冬の空が広がっている。


春は、まだ遠い。


それでも、待っている人がいる。


一緒に見たい景色がある。


帰りたい場所がある。


だからこそ、蓮は思った。


今日という一日を、大切に生きよう。


明日が来ることを、当たり前だと思わずに。


目の前にある小さな幸せを、一つずつ大切にしながら。


     *


二月三日。


火曜日。


節分。


「鬼は外!」


美雪の元気な声が、病室に響いた。


「……何してるんだ?」


蓮は目を丸くした。


美雪は、小さな袋を手に持っていた。


「豆まき!」


「病室で?」


「小さくならいいかなって」


「先生に怒られない?」


「ちゃんと聞いたよ!」


美雪は得意そうに笑った。


「だから大丈夫!」


蓮は呆れたように笑った。


「本当に行動力あるな」


「褒めてる?」


「半分」


「残り半分は?」


「呆れてる」


「ひどい!」


美雪は笑いながら、袋から豆を取り出した。


「じゃあ、蓮も!」


「俺も?」


「うん!」


美雪が一つ、蓮の手のひらに豆を置いた。


二人は顔を見合わせた。


こんなところで豆まきをすることになるなんて、蓮は思ってもいなかった。


けれど、目の前で楽しそうに笑う美雪を見ていると、それも悪くないと思えた。


美雪が窓のほうを向いた。


「鬼は外!」


蓮も、少し遅れて声を出した。


「……鬼は外」


「福は内!」


「福は内」


二人は顔を見合わせた。


そして、同時に笑った。


しばらくして、美雪が尋ねた。


「ねえ、蓮は何をお願いしたの?」


蓮は少し考えた。


それから、美雪を見つめた。


「……来年も、こうして笑えること」


美雪の笑顔が、ほんの少しだけ揺れた。


けれど、すぐに彼女は強く頷いた。


「うん。きっと叶うよ」


蓮は何も言わず、彼女を見つめていた。


「来年も、その次も」


美雪は、蓮の手をそっと握った。


「一緒に豆まきしようね」


蓮は、彼女の手を握り返した。


「……うん」


その返事は小さかった。


まだ不安が消えたわけではない。


それでも、彼女の手の温かさを感じながら、蓮は少しだけ未来を信じてみたいと思った。


     *


二月中旬。


外の空気は、まだ冷たかった。


けれど、日差しには少しずつ変化が現れ始めていた。


冬の厳しさの中に、ほんのわずかな春の気配が混じり始めていた。


午後。


美雪が病室へ入ってきた。


「蓮、見て!」


彼女の手には、小さな写真があった。


「何?」


「学校の近くで撮ったの!」


蓮は写真を受け取った。


そこには、一本の冬枯れた木が写っていた。


枝には葉もなく、花も咲いていない。


「……何もないじゃん」


蓮がそう言うと、美雪は少しだけ頬を膨らませた。


「もう、ちゃんと見てよ!」


「見てるけど」


「もっとよく!」


蓮は苦笑しながら、写真を近づけた。


枝の先。


そこには、小さな芽がいくつもついていた。


「……これ?」


「そう!」


美雪は嬉しそうに頷いた。


「もうすぐ春だよ」


蓮は、もう一度写真を見つめた。


まだ花は咲いていない。


鮮やかな緑もない。


それでも、そこには確かに春の始まりがあった。


寒い冬を越えて、目には見えないところで、季節は少しずつ動き始めている。


「……本当だ」


蓮が呟くと、美雪は満足そうに笑った。


「でしょ?」


彼女は写真を机の上に置いた。


「だから、もう少しだね」


「うん」


「あと少し」


「……うん」


蓮は窓の外へ目を向けた。


いつか、あの枝にも花が咲く。


薄いピンク色の花びらが、春の風に揺れる。


その景色を、美雪と一緒に見る。


それが、今の蓮にとって何よりも大切な願いだった。


「……楽しみだな」


思わず口にすると、美雪が嬉しそうに顔を上げた。


「うん! 私も!」


その明るい声を聞いて、蓮は小さく笑った。


春は、まだ来ていない。


それでも、確実に近づいている。


そう思えるだけで、明日が少し楽しみになった。


     *


二月二十八日。


土曜日。


夜。


美雪が帰ったあと、蓮はスマートフォンを手に取った。


今日も、美雪はよく笑っていた。


いつもと同じように学校の話をして、くだらないことで笑って。


帰る時間になっても、なかなか立ち上がろうとしなかった。


「また明日」


最後には、いつものように笑顔を見せてくれた。


その笑顔を思い出すと、蓮の胸が少し温かくなった。


蓮はメッセージ画面を開いた。


『今日はありがとう』


送信。


しばらくして、返信が来た。


『こちらこそ!』


続けて、もう一通。


『あと少しだね』


蓮は、その言葉を見つめた。


『うん』


そう返信する。


少し考えてから、もう一度文字を打った。


『桜、楽しみだな』


今度は、返事が来るまで少し時間がかかった。


やがて、美雪からメッセージが届いた。


『私も』


その下には、もう一文。


『蓮と見る桜が、一番楽しみ』


蓮は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。


嬉しかった。


胸がいっぱいになるほど、嬉しかった。


けれど、その温かさの奥には、小さな不安も残っていた。


春は、本当に来るのだろうか。


自分は、そこまでたどり着けるのだろうか。


約束した景色を、美雪と一緒に見ることができるのだろうか。


答えは、まだ分からない。


どれだけ考えても、確かな答えは見つからなかった。


それでも、蓮はスマートフォンをそっと置き、顔を上げた。


机の上には、美雪との写真。


小さな赤いだるま。


そして、二人の願いが書かれたノート。


蓮はノートを手に取った。


最後のページを開く。


『春からも、ずっと一緒にいる』


その文字を、ゆっくりと指でなぞった。


「……美雪」


静かな病室。


もちろん、返事はない。


それでも、蓮は小さく続けた。


「俺、ちゃんと行くから」


桜の咲く場所へ。


二人で約束した場所へ。


「一緒に見よう」


その言葉を口にすると、不思議と胸の奥に力が湧いてくる気がした。


蓮はノートを閉じ、枕元に置いた。


そして、もう一度だけ、最後のページを思い出した。


春からも、ずっと一緒にいる。


その願いが、いつか本当になることを信じたかった。


     *


三月。


冬の終わり。


朝の光が、少しずつ明るくなってきた。


病院の窓から見える木々にも、小さな変化が現れていた。


枝の先に、膨らみ始めた芽。


まだ花は咲いていない。


それでも、季節は確実に進んでいた。


蓮は毎朝、目を覚ますと窓の外を見るようになった。


「……今日は、どうかな」


昨日より、ほんの少しだけ膨らんだ芽。


昨日より、ほんの少しだけ暖かい日差し。


そんな小さな変化が、嬉しかった。


昨日と今日。


今日と明日。


その違いに気づけることが、今の蓮には大切だった。


けれど、春が近づくにつれて、胸の奥の不安も大きくなっていった。


時間が進む。


春が近づく。


美雪との約束の日が、少しずつ迫ってくる。


そのことが、蓮に希望を与えてくれた。


同時に、もし約束を守れなかったらという不安も、心の奥に残っていた。


それでも、以前のように一人ですべてを抱え込もうとは思わなかった。


美雪がいる。


自分を待ってくれる人がいる。


一緒に春を迎えたい人がいる。


それだけで、もう少し頑張ってみようと思えた。


蓮は今日も、窓の外を見つめた。


「……もうすぐだな」


小さく笑った。


その声には、期待と不安、そして確かな希望が混じっていた。


     *


三月二十六日。


木曜日。


夕方。


美雪は、いつもより早く病院へやって来た。


「蓮!」


「どうした?」


「明日!」


美雪は少し息を切らしながら言った。


「明日、三月二十七日だよ!」


蓮は思わず笑った。


「知ってるよ」


「本当に?」


「カレンダーにも書いてある」


「……そっか」


美雪は少し照れたように笑った。


その手には、小さな花束があった。


蓮はそれに気づき、首を傾げた。


「それ、何?」


美雪は花束を背中に隠した。


「これ?」


「うん」


「明日、持ってくるつもりだったんだけど……」


「だったら、何で今日持ってきたんだよ」


「……今日は、まだ秘密!」


「見えてるのに?」


「中身は秘密なの!」


蓮は声を出して笑った。


「変なの」


「蓮に言われたくない!」


二人は顔を見合わせ、しばらく笑っていた。


その笑い声を聞きながら、蓮は思った。


明日も、こんなふうに笑えたらいい。


明日も、美雪に会えたらいい。


たった一日先のことなのに、それが今の自分には何よりも大切だった。


やがて、美雪はベッドのそばに座った。


「……明日」


「うん?」


「桜の蕾、もっと大きくなってるかな」


蓮は窓の外を見た。


夕方の空が、少しずつ夜の色へと変わっていく。


遠くの木の枝には、小さな蕾が見えた。


「なってると思う」


「そっか」


美雪は小さく頷いた。


そして、蓮の手をそっと握った。


「明日も来るね」


「うん」


「朝から」


「待ってる」


その言葉を聞いて、美雪は一瞬だけ何かを言いかけた。


けれど、結局、その言葉を口にすることはなかった。


代わりに、いつもの笑顔を浮かべた。


「じゃあ、また明日」


「また明日」


美雪が病室を出ていく。


ドアが静かに閉まった。


病室には、再び静けさが戻ってきた。


蓮は机の上のノートを開いた。


最後のページ。


『春からも、ずっと一緒にいる』


その下に、新しい文字を書き加えた。


『明日、桜の蕾を見る』


ペンを置く。


そして、窓の外へ目を向けた。


暗くなり始めた空。


遠くに見える木。


その枝には、小さな蕾がついている。


蓮は、その姿をじっと見つめた。


「……明日」


静かに呟く。


「明日、会おう」


誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。


美雪に。


春に。


それとも、明日という時間そのものに。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


蓮は、明日を待っていた。


     *


三月二十七日。


金曜日。


朝。


蓮は目を覚ました。


カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。


窓の外には、小さな桜の蕾が見える。


冬は、いつの間にか終わろうとしていた。


蓮は、その蕾をじっと見つめた。


「……もうすぐだ」


春。


美雪との約束。


ずっと、ずっと待ち続けてきた季節。


蓮はゆっくりと笑った。


机の上には、二人の写真。


小さな赤いだるま。


そして、願いを書いたノート。


そのすべてが、ここまで過ごしてきた時間を教えてくれていた。


十二月。


クリスマスを迎えた。


一月。


新しい年を迎えた。


二月。


小さな春の兆しを見つけた。


そして、三月。


一日ずつ。


一日ずつ。


不安を抱えながらも、今日まで来ることができた。


蓮は、もう一度窓の外を見た。


「……美雪」


小さく呟く。


「約束、覚えてるよな」


もちろん、返事はない。


それでも、蓮は微笑んだ。


「俺も、覚えてる」


その言葉を胸に刻むように、蓮はそっと目を閉じた。


まだ、未来のことは分からない。


明日がどうなるのかも、誰にも分からない。


それでも、今は信じていたかった。


美雪と一緒に桜を見ること。


その先の季節も、一緒に過ごすこと。


そして、いつか二人で、この冬を振り返って笑うこと。


蓮は再び目を開けた。


窓の外では、小さな桜の蕾が、春の訪れを静かに待っていた。


春は、もうすぐそこまで来ていた。

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