第三十九章 約束の桜
三月二十七日。
金曜日。
病室の窓から、小さな桜の蕾が見えていた。
まだ、花開くには少し早い。
けれど、固く閉じた蕾の先には、かすかに淡いピンク色が覗いていた。
長かった冬も、ようやく終わろうとしている。
蓮はベッドに横たわったまま、その蕾をじっと眺めていた。
「……もうすぐだな」
小さく呟く。
春が来る。
美雪と約束した、あの春が。
十二月には、二人でクリスマスを迎えた。
一月も、二月も、そして三月も。
体調が悪くて、一日中ベッドから起き上がれない日もあった。
何もする気になれず、ただ天井を見つめていた日もあった。
それでも、蓮は今日まで生きてきた。
一日ずつ。
昨日より少しでも先へ進むように。
いつか、美雪と一緒に桜を見るために。
そして今、その約束が、ようやく手の届くところまで来ていた。
*
「蓮、入るよ」
ドアが開き、聞き慣れた声が病室に響いた。
「美雪。おはよう」
「おはよう」
美雪は笑顔で入ってきた。
その手には、小さな花束が握られている。
「……それ、どうしたの?」
蓮が尋ねると、美雪は花束を少し持ち上げた。
「お花」
「それは見れば分かるよ」
「じゃあ、何の花でしょう?」
「……桜?」
「残念。桃の花でした」
美雪は、少し得意げに笑った。
「まだ桜は咲いてないからね。これは、その代わり」
「桜の代わりか……」
蓮は花束を見つめた。
淡いピンク色の花びらが、窓から差し込む光を受けて、優しく輝いている。
「綺麗だね」
「でしょ?」
美雪は嬉しそうに頷いた。
「でも、本番はこれからだから」
「本番?」
「桜だよ。一緒に見るんでしょ?」
その言葉に、蓮は思わず笑った。
「……そうだったな」
「忘れないでよ。私、楽しみにしてるんだから」
「忘れるわけないだろ」
「本当?」
「本当」
蓮は、美雪の目をまっすぐ見つめた。
「絶対、一緒に見よう」
「……うん。絶対ね」
美雪は笑った。
その笑顔を見ていると、蓮は不思議と、何でもできるような気がした。
たとえ、それがほんの一瞬の錯覚だったとしても。
今は、それでよかった。
*
しかし、その日の午後。
蓮の体調は、急激に悪化した。
息を吸っても、十分に空気が入ってこない。
胸の奥が苦しく、身体は鉛のように重かった。
少し身体を動かすだけで息が乱れ、額には冷たい汗が滲んだ。
異変に気づいた看護師が、何度も様子を確認しに来る。
「今日は無理をせず、ゆっくり休みましょうね」
「……はい」
蓮は、かすれた声で答えた。
看護師が病室を出ていくと、静寂が戻ってきた。
ベッドの傍らでは、美雪が黙って蓮を見つめていた。
「……大丈夫だよ」
蓮は、彼女を安心させるように笑った。
けれど、美雪は笑わなかった。
「……また、それ」
「え?」
「大丈夫って言葉」
美雪は、膝の上で両手を握りしめた。
「蓮、最近ずっとそう言うよね」
「……」
「本当は苦しいのに。つらいのに。怖いのに」
声が、少しずつ震えていく。
「それでも、私には大丈夫って言う」
「美雪……」
「私、そんなに頼りない?」
「違う。そういう意味じゃ……」
「じゃあ、どうして?」
美雪は俯いた。
「どうして、何も教えてくれないの?」
蓮は、何も言えなかった。
彼女を心配させたくなかった。
泣かせたくなかった。
だから、いつも笑っていた。
苦しくても、怖くても、平気なふりをしてきた。
けれど、それは本当に美雪のためだったのだろうか。
それとも、自分が彼女の前で弱い人間になることを、恐れていただけなのだろうか。
「……ごめん」
「謝らないで」
美雪は顔を上げた。
その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいた。
「ただ、教えてほしいの」
「……」
「苦しいときは、苦しいって言って」
蓮の手を、そっと握る。
「怖いときは、怖いって言って」
その手に、少しだけ力がこもった。
「私にできることがなくても……何もしてあげられなくても、せめて隣にいさせてよ」
「……美雪」
「一人で全部、抱え込まないで」
蓮は、握られた手を見つめた。
温かかった。
その温もりが、今にも壊れてしまいそうな自分を、必死に繋ぎ止めてくれている気がした。
「……うん」
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「分かった。もう、隠さない」
美雪は何も言わず、彼の手を握り続けた。
その手を離したら、蓮がどこか遠くへ行ってしまう。
そんな予感を振り払うように。
*
その夜。
蓮は、なかなか眠れなかった。
時計の針が、静かに時を刻んでいる。
午前一時。
午前二時。
午前三時。
時間だけが、何事もなかったかのように進んでいく。
けれど、蓮の胸の中では、いくつもの感情が渦巻いていた。
身体が苦しい。
明日が怖い。
目を閉じれば、そのまま二度と目を覚まさないのではないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
蓮は、ゆっくりと窓の方へ顔を向けた。
夜の街は暗く、遠くに見える建物の明かりだけが、ぽつぽつと輝いていた。
「……桜」
呟いた声は、誰にも届かない。
あと少し。
あと少しで、約束を果たせる。
それなのに、どうしてこんなにも怖いのだろう。
生きたいと思うようになったからだろうか。
失いたくないものが、できてしまったからだろうか。
以前の蓮なら、明日が来ることに、これほど強い願いを抱かなかったかもしれない。
明日が来ても、何も変わらない。
そう思っていた。
けれど、今は違う。
明日になれば、美雪に会える。
明日になれば、また話ができる。
いつか、二人で桜を見ることだってできるかもしれない。
そんな当たり前の未来が、今の蓮には、何よりも大切だった。
「……神様」
思わず、口から言葉が零れた。
「もう少しだけ……」
それ以上は、言えなかった。
何を願えばいいのか、自分でも分からなかった。
ただ、もう少しだけ生きていたかった。
美雪と一緒に。
*
三月二十八日。
朝。
「おはよう、蓮」
美雪の声で、蓮は目を覚ました。
「……おはよう」
「今日はどう?」
いつもの質問。
けれど、今日の美雪は、いつも以上に心配そうだった。
「昨日よりは、少し楽かな」
「本当?」
「うん。今日は本当」
蓮がそう言うと、美雪はようやく安堵したように息を吐いた。
「なら、よかった」
そして、少しだけ迷ったあと、彼女は口を開いた。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「桜……今日、見に行けるかもしれないよ」
「……え?」
蓮は、思わず身体を起こそうとした。
けれど、すぐに美雪に止められる。
「ちょっと、無理しないの」
「あ、ごめん」
「病院の近くに公園があるでしょ? そこの桜が、少しずつ咲き始めてるんだって」
「本当に?」
「うん。先生に許可をもらえたら、少しだけ行ってみない?」
蓮は、しばらく美雪を見つめていた。
嬉しかった。
嬉しいはずなのに、胸の奥がじんわりと熱くなり、うまく言葉が出てこなかった。
「……行きたい」
ようやく、それだけを口にした。
「うん」
美雪は、優しく微笑んだ。
「じゃあ、先生に聞いてみよう」
*
医師に確認すると、体調に注意し、短時間であれば外出してもよいとの許可が出た。
「ただし、少しでも具合が悪くなったら、すぐに戻ってきてください」
「はい」
「絶対に無理はしないこと。分かりましたね?」
「分かりました」
蓮が答えると、隣にいた美雪も真剣な顔で頷いた。
「私も一緒にいます。何かあったら、すぐに戻ります」
「お願いします」
医師はそう言って、二人を見送った。
*
午後二時。
二人は、病院の外へ出た。
春の風が、そっと頬を撫でた。
冷たさの残る冬の風とは違う。
柔らかくて、どこか懐かしい匂いのする風だった。
「……暖かいね」
蓮が呟く。
「うん。もう春だね」
美雪は、空を見上げた。
澄んだ青空の向こうに、薄い雲がゆっくりと流れている。
それだけの景色なのに、蓮には、ずいぶん久しぶりに見るもののように感じられた。
病室の窓から眺める景色と、外に出て見る景色は、こんなにも違うのか。
頬を撫でる風も、足元に広がる道も、遠くから聞こえる子供たちの声も。
すべてが、そこにある。
自分がまだ、この世界の中にいるのだと感じられた。
「蓮、ゆっくりでいいからね」
「うん」
二人は、ゆっくりと歩き始めた。
一歩。
また一歩。
以前なら、何でもない距離だった。
けれど、今の蓮にとっては、少し歩くだけでも息が切れる。
それでも、立ち止まるたびに美雪が隣で待っていてくれた。
「疲れた?」
「……少し」
「じゃあ、休もう」
「もうちょっとだけ」
「無理は駄目」
「分かってる」
「本当に?」
「……本当に」
美雪は、疑うように目を細めた。
その顔がおかしくて、蓮は小さく笑った。
「何笑ってるの?」
「いや。美雪って、意外と厳しいんだなって」
「当たり前でしょ。誰のせいだと思ってるの?」
「……俺です」
「よろしい」
二人は顔を見合わせて笑った。
ほんの短い会話。
何でもないやり取り。
けれど、蓮はその時間が、どうしようもなく愛おしかった。
*
公園に着いたとき、蓮は思わず足を止めた。
目の前には、何本もの桜の木が並んでいた。
まだ満開には遠い。
枝の先には蕾が残り、ところどころに、淡いピンク色の花が咲き始めているだけだった。
それでも。
「……綺麗だ」
蓮は、息を呑むように呟いた。
「うん」
美雪も、静かに頷いた。
「まだ、これからだね」
「ああ」
蓮は、桜の木を見上げた。
冬の間、ずっと待っていた景色。
何度も想像した景色。
美雪と一緒に見ることだけを願っていた、春の景色。
それが今、目の前にある。
「……本当に、来られたんだな」
蓮の声が、わずかに震えた。
美雪は、その横顔を見つめた。
「来られたね」
「うん……」
蓮は、何度も頷いた。
「よかった……」
その一言に、いくつもの想いが詰まっていた。
今日まで生きてこられたこと。
約束を忘れずにいてくれた人がいること。
そして、まだ自分の隣に、美雪がいてくれること。
それらすべてが、胸いっぱいに広がっていく。
二人は、桜の木が見えるベンチに腰を下ろした。
そのとき、柔らかな風が吹いた。
枝が揺れ、花びらが一枚、ひらりと舞い落ちる。
それは、ゆっくりと弧を描きながら、蓮の肩に降りてきた。
「あっ」
美雪が気づき、そっと手を伸ばす。
「ついてるよ」
彼女は花びらを摘まみ上げた。
「はい、取れた」
「ありがとう」
蓮は、花びらを受け取った。
小さな花びらだった。
指先に乗せると、今にも壊れてしまいそうなほど繊細だった。
「……なあ、美雪」
「ん?」
「約束、守れたな」
美雪は、桜の木を見上げた。
「まだ満開じゃないけどね」
「それでもいいよ」
蓮は、手のひらの花びらを見つめながら言った。
「一緒に見られたから」
美雪は、しばらく何も言わなかった。
やがて、彼女はそっと蓮の肩に寄りかかった。
「……うん」
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
「一緒に見られて、よかった」
蓮は、彼女の頭に自分の頭をそっと寄せた。
春の風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
この時間が、いつまでも続けばいい。
そう願わずにはいられなかった。
*
帰り道。
病院が見えてきた頃、蓮は突然、足を止めた。
「……蓮?」
「ちょっと……」
胸のあたりを押さえる。
息が、うまく吸えない。
さっきまで感じていた春の暖かさが、急に遠のいていく。
「蓮、大丈夫?」
「……少し、苦しい」
その言葉を聞いた瞬間、美雪の表情が変わった。
「すぐ戻ろう」
彼女は、蓮の身体を支えた。
「歩ける? 無理なら、誰か呼んでくるから」
「……うん」
「蓮?」
「……大丈夫」
美雪は、悲しそうに眉を寄せた。
「その言葉、禁止って言ったでしょ」
蓮は、苦しそうに息をしながらも、かすかに笑った。
「……ごめん」
「謝らなくていいから。今は、ちゃんと頼って」
「……うん」
美雪は、蓮の身体を支えながら、一歩ずつ病院へ向かった。
その手は、小さく震えていた。
けれど、決して離そうとはしなかった。
*
病院に戻ると、すぐに医師と看護師が駆けつけた。
蓮はベッドに横になり、検査を受けた。
美雪は、病室の隅で両手を握りしめながら、その様子を見つめていた。
何もできない。
ただ、待つことしかできない。
その時間が、ひどく長く感じられた。
やがて、医師が美雪に声をかけた。
「今日は、もうゆっくり休ませてあげてください」
「……はい」
「しばらくは、安静が必要です」
「分かりました」
医師が出ていったあと、美雪は静かにベッドへ近づいた。
蓮は、目を閉じていた。
「……寝てる?」
「……起きてるよ」
かすかな声が返ってくる。
美雪は、ほっと息を吐いた。
「そっか」
「……美雪」
「なに?」
「今日……ありがとう」
「……また、それ?」
美雪は、困ったように笑った。
「さっきも言ったじゃない」
「何回言っても、足りないから」
蓮は、ゆっくりと目を開けた。
「本当に、ありがとう」
美雪は、彼の顔を見つめた。
その表情を見ていると、胸の奥が締めつけられる。
何か言いたかった。
大丈夫だよ、と。
また一緒に行こう、と。
来年も、その次の年も、二人で桜を見よう、と。
けれど、どの言葉も、簡単には口にできなかった。
代わりに、美雪は微笑んだ。
「……私の方こそ、ありがとう」
「……え?」
「一緒にいてくれて」
蓮は、驚いたように彼女を見た。
「そんなの……俺の方こそだよ」
美雪は、そっと彼の手を握った。
「じゃあ、お互いさまだね」
「……そうだな」
二人は、小さく笑った。
その笑顔の奥に、言葉にできない不安を隠しながら。
*
夜。
美雪は、蓮の隣に座っていた。
窓の外では、街の明かりが静かに輝いている。
「ねえ、蓮」
「うん?」
「今日の桜、覚えてる?」
「もちろん」
「まだ、ほんの少ししか咲いてなかったね」
「ああ」
「満開になったら、もっと綺麗なんだろうな」
「……そうだな」
美雪は、窓の外を見つめたまま続けた。
「もし、今年の春が終わっても」
「……」
「来年も、その次の年も」
少しだけ、声が震えた。
「桜を見るたびに、今日のことを思い出すと思う」
蓮は、彼女の横顔を見つめた。
「……うん」
「一緒に歩いたことも。ベンチに座ったことも。蓮の肩に花びらが落ちたことも」
美雪は、笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「全部、忘れないから」
蓮は、そっと手を伸ばした。
美雪の手を握る。
「俺も、忘れないよ」
「……本当?」
「本当」
蓮は、少しだけ彼女の手を強く握った。
「俺にとって、今日が一番幸せな日だったかもしれない」
美雪の瞳が揺れた。
「……そんなこと言わないでよ」
「え?」
「これから、もっと幸せな日があるんだから」
彼女は、蓮の手を握り返した。
「来年も、再来年も。もっと綺麗な桜を一緒に見ようよ」
「……うん」
「約束だからね」
蓮は、ゆっくり頷いた。
「約束」
その言葉を口にしながら、蓮は願っていた。
どうか、この約束が叶いますように。
どうか、来年も彼女の隣にいられますように。
どうか、もう少しだけ。
この幸せが続きますように。
*
深夜。
美雪は、ベッドの横に置かれた椅子で眠っていた。
疲れていたのだろう。
いつの間にか、蓮の手を握ったまま、静かな寝息を立てていた。
蓮は、彼女の寝顔を見つめた。
長い黒髪。
少し疲れた表情。
眠っているときでさえ、握った手を離そうとしない、その小さな指。
きっと、今日もずっと心配してくれていたのだろう。
自分が苦しそうにしているのを見て、どれほど怖かっただろう。
それなのに、美雪は最後まで笑ってくれた。
自分の前では、いつも。
「……美雪」
蓮は、聞こえないほど小さな声で呼んだ。
「ありがとう」
返事はない。
彼女は、穏やかな寝息を立てている。
「俺を見つけてくれて」
蓮の目に、涙が浮かんだ。
「一人じゃなくしてくれて」
言葉にするたび、胸の奥が熱くなった。
「生きたいって……思わせてくれて」
涙が一粒、頬を伝い、枕に落ちた。
蓮は、そっと目を閉じた。
もっと一緒にいたい。
もっと話したい。
もっと笑わせたい。
まだ、伝えていないことがたくさんある。
行きたい場所も。
一緒に食べたいものも。
二人で過ごしたい日々も。
数えきれないほど、残っている。
だからこそ、怖かった。
自分がいなくなったあと、美雪がどんな顔をするのか。
どれほど泣くのか。
それを想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。
「……ごめんな」
蓮は、握られた手を見つめた。
「もっと一緒にいたかった」
声が、かすかに震えた。
「来年も、その次も……ずっと」
それ以上は、言葉にならなかった。
ただ、涙だけが静かに流れ続けた。
*
翌朝。
カーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込んでいた。
美雪は、ゆっくりと目を覚ました。
「……ん」
少し寝ぼけた顔で、窓の外を見る。
それから、隣のベッドへ視線を向けた。
「……蓮?」
蓮は、静かに目を閉じていた。
その寝顔を見て、美雪は小さく微笑んだ。
「おはよう」
返事はなかった。
まだ眠っているのだろう。
そう思った。
「昨日、桜を見に行けてよかったね」
美雪は、彼の手をそっと握った。
「私、すごく嬉しかった」
返事はない。
「……ねえ、蓮」
少しだけ、顔を覗き込む。
「今日は天気がいいよ」
返事はなかった。
美雪の笑顔が、ゆっくりと消えていく。
「……蓮?」
もう一度、名前を呼ぶ。
握った手に、力を込めた。
「ねえ……起きてよ」
返事はない。
いつもなら、どれだけ眠そうでも、蓮は小さく笑ってくれた。
面倒くさそうに返事をして、それでも最後には、美雪の話を聞いてくれた。
なのに。
今日は、何も返ってこない。
「……蓮?」
美雪は、彼の手を両手で包み込んだ。
冷たかった。
いつも感じていた温もりが、そこにはなかった。
「……嘘」
声が震えた。
「ねえ……嘘でしょ?」
美雪は、何度も蓮の名前を呼んだ。
何度も、何度も。
まるで、名前を呼び続ければ、いつものように目を開けてくれると信じているかのように。
「蓮……お願い……」
震える手で、ナースコールに手を伸ばす。
「誰か……お願い……!」
病室に、電子音が響いた。
駆けつけた看護師が蓮の様子を確認し、すぐに医師を呼ぶ。
美雪は、ベッドのそばから動けなかった。
何が起きているのか、理解したくなかった。
ただ、蓮の手を握りしめていた。
「お願い……」
涙が、頬を伝って落ちていく。
「まだ……」
声が、途切れた。
「まだ、約束がいっぱいあるよ……」
来年のクリスマス。
一緒に映画を見る約束。
またケーキを食べる約束。
いつか、二人で大学の話をする約束。
そして。
来年も、一緒に桜を見る約束。
「……蓮」
美雪は、彼の手を額に押し当てた。
「私、まだ何も返せてないよ……」
涙が止まらなかった。
「もっと一緒にいたいよ……」
声を押し殺そうとしても、嗚咽が漏れてしまう。
「だから……お願い……」
もう、笑えなかった。
いつものように、強がることもできなかった。
「起きてよ……」
美雪は、蓮の手を握りしめたまま、何度も何度も名前を呼んだ。
「蓮……蓮……!」
けれど、蓮は目を開けなかった。
*
窓の外。
風が吹いた。
桜の枝が、静かに揺れる。
その枝から、一枚の花びらが離れた。
淡いピンク色の花びらは、風に乗って空を舞い、ゆっくりと病室の窓の前を通り過ぎていく。
まるで、誰かに別れを告げるように。
春は、もうすぐそこまで来ていた。
二人で見た、あの桜も。
これから満開を迎えるはずだった。
けれど。
その春を、蓮と一緒に迎えるという約束は。
まだ、果たされていなかった。
そして美雪は、まだ知らない。
昨日、蓮がどんな願いを胸に抱きながら、眠りについたのかを。
彼が最後まで、どれほど強く生きたいと願っていたのかを。
ただ一つ、確かなことがある。
蓮にとって、あの日の桜は。
生きてきた中で、最も幸せな景色だった。
そして美雪にとっても。
それは、一生忘れることのできない春になる。
――二人で交わした、約束の桜。
その花びらだけが、静かに春の空へと舞い上がっていった。




