第四十章 君がいない春に
午前六時十二分。
病室には、規則的な電子音が響いていた。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
「……蓮」
美雪は、ベッドの傍らで蓮の手を握りしめていた。
何度名前を呼んでも、彼は目を覚まさない。
「お願い……目を覚ましてよ……」
そのとき、病室のドアが勢いよく開いた。
医師と看護師たちが、慌ただしく駆け込んでくる。
「美雪さん、少し離れてください!」
「嫌です……!」
「処置をします。お願いします!」
「でも、蓮が……!」
美雪は蓮の手を離せなかった。
離してしまったら、本当に彼がどこか遠くへ行ってしまう。
そんな気がした。
「お願いします!」
看護師の声に、美雪は唇を噛みしめた。
震える指を、一本ずつ、ゆっくりと蓮の手から離していく。
「……蓮」
最後にもう一度だけ、その名前を呼んだ。
「絶対、戻ってきてね……」
処置室のドアが閉まる。
その向こうから、医師たちの切迫した声が聞こえてきた。
「血圧が低下しています!」
「酸素投与を!」
「急いでください!」
美雪は、廊下に立ち尽くしていた。
足が震えている。
呼吸がうまくできない。
何かしなければ。
何かできることがあるはずなのに。
何もできなかった。
大切な人が苦しんでいるのに。
自分のすべてだと思える人が、今にもいなくなってしまいそうなのに。
ただ、待つことしかできない。
「……神様」
美雪は震える両手を合わせた。
「お願いです……」
頬を涙が伝っていく。
「一日だけでもいいんです」
声が震えた。
「もう一日だけでいいから……蓮を返してください」
誰にも届かない願いだと分かっていた。
それでも、祈らずにはいられなかった。
「まだ、何も終わってないんです……」
来年の桜を見る約束。
一緒に大学の話をする約束。
これからも、ずっと一緒にいるという約束。
まだ、たくさん残っている。
だから。
「お願い……蓮を連れていかないで……」
美雪は、誰もいない廊下で、声を押し殺して泣いた。
*
午前六時三十五分。
処置室のドアが開いた。
医師が、ゆっくりと姿を現す。
美雪は、すぐに駆け寄った。
「先生……!」
医師の表情を見た瞬間、美雪の足が止まった。
何かを聞くのが怖かった。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「……蓮は?」
医師は一度、静かに目を伏せた。
「できる限りの処置を行いました」
「……」
「現在も、非常に危険な状態です」
美雪の視界が、ゆっくりと滲んでいく。
「……まだ、生きてるんですよね?」
「はい。まだ、頑張っています」
「意識が戻る可能性は……ありますか?」
「可能性はあります。ただ、予断を許さない状態です」
「……そう、ですか」
美雪は震える手で涙を拭った。
まだ、終わっていない。
蓮は、まだここにいる。
それなら、諦めるわけにはいかなかった。
「……会わせてください」
「分かりました」
医師が道を空ける。
美雪は、何度も深呼吸をしながら、病室へと向かった。
どうか。
どうか、間に合いますように。
*
病室に入ると、蓮は静かにベッドに横たわっていた。
顔色は悪く、目は閉じられたままだった。
それでも、美雪には、いつもの蓮と同じ顔に見えた。
少し疲れているだけ。
今は眠っているだけ。
そう思いたかった。
「……蓮」
ベッドのそばまで歩み寄り、そっと手を握る。
「私だよ」
返事はない。
「美雪だよ。ここにいるからね……」
そのとき。
「……み、ゆき……」
かすかな声が聞こえた。
「……え?」
美雪は顔を上げた。
蓮の瞼が、ゆっくりと動く。
「蓮……?」
わずかに開いた瞳が、彼女を捉えた。
「……美雪」
「蓮……!」
美雪は、彼の手を両手で包み込んだ。
「よかった……! よかった……!」
涙が、次々と溢れてくる。
蓮は、そんな彼女を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……泣いてる?」
「泣いてない」
「……嘘だ」
「……っ」
また一粒、涙が落ちた。
「だって……!」
美雪は唇を噛みしめた。
「だって、目を覚まさないんだもん……! 何度呼んでも、返事してくれないんだもん……!」
「……ごめん」
「謝らないでよ……」
美雪は、蓮の手を額に押し当てた。
「お願いだから……もう、あんな思いさせないで……」
蓮は、しばらく彼女を見つめていた。
そして、かすかに呟いた。
「……泣かないで」
「無理だよ……」
「……そっか」
蓮は、弱々しく笑った。
その笑顔を見た瞬間、美雪は、また涙を流した。
どうして。
どうして、こんなときまで笑おうとするのだろう。
自分がどれほど心配しているのか。
どれほど、彼を失うことが怖いのか。
少しでも分かってほしかった。
けれど、同時に思った。
この笑顔を、もう一度見ることができてよかった。
たとえ、ほんの一瞬でも。
*
「……桜」
蓮が、小さく呟いた。
「……え?」
「桜……見た?」
美雪は、何度も頷いた。
「うん……見たよ」
「……一緒に?」
「うん。一緒に見たよ」
「……そっか」
蓮は、安心したように目を閉じた。
「……よかった」
その言葉を聞いて、美雪の胸が締めつけられた。
蓮にとって、あの日の桜は、どれほど大切なものだったのだろう。
ただ花を見ただけではない。
二人で交わした約束を、守ることができた。
そのことが、彼にとって何よりも嬉しかったのだ。
「……約束、守れたね」
美雪が囁く。
「……うん」
「一緒に見られたね」
「……うん」
美雪は、彼の手を握り直した。
「でも……」
声が震える。
「来年も、一緒に見ようよ」
蓮は、すぐには答えなかった。
「来年も。その次の年も……ずっと、一緒に見ようよ」
「……」
「今度は満開の桜を見よう。もっと暖かい日に、ゆっくり歩いて……お弁当も持っていこうよ」
美雪は、必死に笑顔を作った。
「ね? 楽しそうでしょ?」
蓮は、ゆっくりと目を開けた。
「……美雪」
「なに?」
「……約束」
「うん。約束だよ」
「……全部、守れなくても」
美雪の表情が凍りついた。
「……え?」
蓮は、申し訳なさそうに笑った。
「……怒らないで」
「……何、言ってるの?」
美雪の声が震えた。
「何を言ってるの、蓮……」
「……ごめん」
「謝らないでって言ったでしょ……!」
涙が溢れた。
「そんなこと言わないでよ……! 私、まだ……まだ、蓮と一緒にいたいんだよ……!」
握った手に、力がこもる。
「ずっと一緒にいたいの……!」
蓮は、彼女を見つめていた。
その瞳には、悲しみと、愛しさと、どうしようもないほどの悔しさが滲んでいた。
「……うん」
彼は、かすかに頷いた。
「俺も……ずっと、一緒にいたかった」
*
蓮は、しばらく天井を見つめていた。
窓から差し込む朝の光が、白い天井を淡く照らしている。
「……なあ、美雪」
「……なに?」
「人生ってさ……」
蓮は、言葉を探すように少し間を置いた。
「自分の思い通りには、ならないんだな」
美雪は、何も言えなかった。
「昔は……何のために生きてるのか、分からなかった」
「……」
「明日なんて、来なくてもいいって思ってたこともあった」
蓮は、ゆっくりと美雪の方へ顔を向けた。
「でも、今は違う」
「……蓮」
「明日も君に会いたかった。明後日も、その次の日も……」
声が、かすかに震えた。
「もっと一緒にいたかったんだ」
美雪は、顔を伏せた。
涙が止まらなかった。
「……だったら」
震える声で、ようやく言葉を絞り出す。
「だったら、まだ一緒にいようよ……」
蓮は、何も答えなかった。
答えられなかった。
自分だって、そうしたかった。
美雪と一緒に生きていきたかった。
来年の桜を見て。
くだらないことで笑って。
いつか、病院の外で当たり前の毎日を過ごして。
そんな未来を、ずっと夢見ていた。
けれど。
人生は、願うだけではどうにもならないことがある。
それでも。
「……最後まで」
蓮は、美雪の手を握った。
「君に会えて、本当によかった」
美雪は、声を押し殺して泣いた。
*
午前七時。
窓から、柔らかな朝日が差し込んでいた。
春の光だった。
病室の白い壁も、ベッドのシーツも、二人の手も、淡い光に包まれている。
美雪は、蓮の隣に座り、その手を握っていた。
もう、何を話せばいいのか分からなかった。
ただ、少しでも長く、この時間が続いてほしかった。
「……ねえ、蓮」
「……うん?」
「もし……」
美雪は、言葉を選んだ。
口にすることさえ怖かった。
「もし、私の隣からいなくなったら……」
「……」
「一つだけ、お願いしてもいい?」
蓮は、少しだけ笑った。
「……まだ、何も言ってないだろ」
「嫌」
「……美雪」
「聞きたくない……」
美雪は首を横に振った。
「そんな話、したくない……」
蓮は、彼女の手をそっと握り返した。
「……お願い」
その声を聞いて、美雪は俯いた。
しばらくして、涙を拭いながら顔を上げる。
「……何?」
蓮は、ゆっくりと息を吸った。
「生きて」
「……」
「ちゃんと、生きてほしい」
美雪の瞳が揺れた。
「……ご飯を食べて」
「……」
「ちゃんと眠って」
「……」
「学校へ行って、友達と笑って……」
蓮は、一つずつ言葉を紡いでいった。
「大学にも行って。好きなことを見つけて……自分が幸せだって思える時間を、いっぱい作ってほしい」
美雪は、何度も首を横に振った。
「そんなの……」
声が震えた。
「そんなの、蓮がいなかったら……意味ないよ」
蓮は、悲しそうに微笑んだ。
「……今は、そう思うかもしれない」
「……」
「でも、いつか……少しずつでいいから、前を向いてほしい」
「……できないよ」
「……できるよ」
「どうして、そんなこと言えるの……?」
蓮は、ゆっくりと自分の胸元に手を置いた。
「……ここに、俺がいるから」
美雪は、息を呑んだ。
「俺がいなくなっても、俺と過ごした時間までなくなるわけじゃない」
「……」
「一緒に笑ったことも、ご飯を食べたことも、桜を見たことも……全部、本当にあったことだから」
蓮は、彼女をまっすぐに見つめた。
「だから……俺と過ごした時間を、悲しい思い出だけにしないでほしい」
美雪の頬を、涙が伝っていく。
「……蓮」
「君には、幸せになってほしいんだ」
その言葉に、美雪は、もう何も言えなかった。
ただ、彼の手を握りしめた。
*
「……ずるい」
しばらくして、美雪が呟いた。
「……何が?」
「そんなこと言われたら……」
涙で濡れた顔のまま、彼女は小さく笑った。
「忘れられなくなるじゃん……」
蓮も、かすかに笑った。
「……忘れなくていいよ」
「……」
「無理に忘れようとしなくていい。俺のこと、思い出したっていいんだ」
蓮は、ゆっくりと息を吐いた。
「ただ……」
声が、少しずつ小さくなっていく。
「俺を思い出すたびに、泣き続けないでほしい」
美雪は、唇を噛みしめた。
「……」
「俺がいなくなったことだけを考えて、生きるのをやめないでほしい」
蓮は、彼女の手を握り返した。
「……俺を理由に、ちゃんと生きて」
美雪は、声を押し殺して泣いた。
そんなことを言われたら。
生きるしかないではないか。
どれほど苦しくても。
どれほど寂しくても。
彼が望んでくれる未来を、捨てるわけにはいかない。
「……約束する」
美雪は、涙を拭いながら答えた。
「私……ちゃんと生きる」
「……本当?」
「うん」
「……絶対?」
美雪は、蓮の手を両手で包み込んだ。
「絶対」
蓮は、安心したように微笑んだ。
「……ありがとう」
*
午前七時二十三分。
蓮の呼吸が、少しずつ弱くなっていった。
最初に異変に気づいたのは、美雪だった。
「……蓮?」
握っている手の力が、少しずつ失われていく。
「蓮……?」
蓮の瞼が、わずかに動いた。
病室のドアが開き、医師が入ってくる。
美雪は、医師の顔を見た。
その表情を見ただけで、胸が張り裂けそうになった。
「……先生」
声が震える。
医師は、静かに頷いた。
「美雪さん……そばにいてあげてください」
「……っ」
美雪は、蓮の手を握りしめた。
もう、何も考えられなかった。
ただ、彼のそばにいたかった。
「……蓮」
呼びかけると、蓮は、ほんの少しだけ目を開けた。
「……美雪」
「うん。ここにいるよ」
「……春」
「……うん?」
「春……綺麗だね」
美雪は、涙を拭い、窓の外を見た。
桜の枝が、春の風に揺れている。
淡いピンク色の花びらが、朝日に照らされていた。
「……うん」
声が震えた。
「綺麗だね……」
「……見られて、よかった」
「……うん。私も……一緒に見られて、よかった」
蓮は、満足そうに微笑んだ。
「……ありがとう」
「……私の方こそ、ありがとう」
美雪は、彼の手を頬に寄せた。
「蓮に会えてよかった……。本当に、よかった……」
蓮は、かすかに目を細めた。
「……また」
「……うん?」
「また、会えたら……」
美雪の涙が、止まらなくなった。
「……うん」
「今度は……もっと早く会おう」
美雪は、何度も頷いた。
「うん……。絶対だよ……」
「……絶対」
蓮は、最後の力を振り絞るように、美雪の手を握った。
その力は、とても弱かった。
けれど、美雪には、確かに伝わった。
彼が最後まで、自分のそばにいようとしてくれていることが。
蓮は、ゆっくりと目を閉じた。
「……蓮?」
返事はなかった。
「蓮……?」
美雪は、彼の顔を覗き込んだ。
「ねえ……蓮……?」
電子音が、病室に響いていた。
そして。
その音が、変わった。
長く、途切れることのない音。
美雪は、動けなかった。
「……」
何も聞こえなくなった気がした。
目の前にいる蓮の顔も。
握りしめている手の感触も。
すべてが、現実ではないように思えた。
「……蓮?」
震える声で、もう一度呼ぶ。
「起きて……」
返事はない。
「ねえ……お願い……」
涙が、頬を伝っていく。
「昨日まで、一緒にいたじゃん……」
美雪は、蓮の手を両手で包み込んだ。
「一緒に桜を見たじゃん……」
声が、途切れる。
「来年もって……約束したじゃん……!」
もう、笑顔を作ることはできなかった。
「……約束したのに……」
医師は、静かに目を伏せた。
そして、時刻を確認した。
「……午前七時二十七分」
その言葉が、病室に響いた。
蓮は、静かに息を引き取った。
*
美雪は、しばらく動けなかった。
蓮の手を握ったまま、ただ、彼の顔を見つめていた。
さっきまで、話していた。
自分の名前を呼んでくれた。
笑ってくれた。
また会おうと、約束してくれた。
それなのに。
もう、返事は返ってこない。
「……蓮」
美雪は、彼の手を頬に当てた。
まだ、わずかな温もりが残っている。
その温もりが消えてしまうことが、何よりも怖かった。
「……ありがとう」
小さく呟く。
「私を見つけてくれて……」
涙が、ぽろぽろと落ちた。
「私を好きになってくれて……」
声が震える。
「私と一緒にいてくれて……」
何度も、何度も、言葉を繰り返した。
伝えたいことは、まだたくさんあった。
もっと好きだと伝えたかった。
もっと一緒にいたいと言いたかった。
これからも隣にいてほしいと、何度でも伝えたかった。
けれど、そのどれもが、もう届かない。
「……大好き」
美雪は、蓮の手を握りしめた。
「今までも、これからも……ずっと、大好きだよ」
返事はなかった。
「……今まで、本当にありがとう」
窓の外では、桜の花びらが風に舞っていた。
そのうちの一枚が、ひらりと窓ガラスに触れた。
まるで、最後の別れを告げるように。
*
その日の夕方。
美雪は、一人で病院の屋上に立っていた。
空は、淡いオレンジ色に染まっている。
春の風が、そっと頬を撫でた。
手には、一通の手紙があった。
蓮から受け取ったものだった。
いつ書かれたものなのか、分からない。
ただ、封筒には、見慣れた文字で自分の名前が書かれていた。
美雪は、震える指で封を開けた。
中には、何枚かの便箋が入っていた。
最初の一行を見た瞬間、視界が滲んだ。
『美雪へ。』
たったそれだけの文字なのに。
もう二度と、彼の声で自分の名前を呼んでもらえないのだと思うと、胸が苦しくなった。
美雪は、深呼吸をして、読み進めた。
『この手紙を読んでいるということは、僕はもう、君の隣にはいないのかもしれない。』
『できれば、こんな手紙を書かずに済む未来が来てほしかった。』
『来年も、その次の年も、君と一緒に桜を見たかった。』
『もっと一緒にご飯を食べたかったし、くだらない話をして、君を笑わせたかった。』
『だから、本当は、こんなことを書きたくない。』
美雪の目から、涙が一粒落ちた。
便箋の上に、小さな染みができる。
それでも、彼女は読み続けた。
『でも、もし僕が君の隣にいられなくなったときのために、どうしても伝えておきたいことがある。』
『だから、少しだけ僕の話を聞いてほしい。』
美雪は、手紙を握る指に力を込めた。
『美雪。無理に泣かないで、とは言わないよ。』
『僕だって、君がいなくなったら、きっと泣くと思うから。』
『だから、悲しいときは、ちゃんと泣いてほしい。』
『寂しいときは、寂しいって思っていい。』
『僕のことを思い出して、会いたいって泣いてくれてもいい。』
『君の気持ちを、無理に押し込めないでほしい。』
美雪は、唇を噛みしめた。
涙が止まらなかった。
『でも、少しだけ泣いたら、いつか前を向いてほしい。』
『僕が一番好きだったのは、君の笑顔だから。』
『君が笑ってくれると、僕まで幸せな気持ちになれた。』
『君の笑顔を見るたびに、明日も生きていたいって思えた。』
『だから、いつかまた笑ってくれたら、僕は嬉しい。』
美雪は、便箋を胸に押し当てた。
「……蓮……」
声が震えた。
「そんなの……ずるいよ……」
それでも、彼の言葉を一つも見逃したくなくて、再び手紙に目を落とした。
『僕の人生は、たぶん、普通とは少し違っていた。』
『家を追い出されて、帰る場所を失って。』
『お金もなくて、誰にも頼れなくて。』
『自分が何のために生きているのか、分からなくなったこともあった。』
『明日なんて来なくてもいい。そう思った日もあった。』
『でも、君に出会ってから、少しずつ変わっていった。』
『君と食べたご飯。』
『君と歩いた道。』
『君と見た雪。』
『君と迎えたクリスマス。』
『君の家で過ごした、何でもない時間。』
『そして、一緒に見た桜。』
『どれも、特別なことじゃなかったのかもしれない。』
『でも、僕にとっては、全部が大切な思い出だった。』
『君と過ごした時間が、僕の人生を、少しずつ温かいものに変えてくれた。』
『だから、僕は自分の人生を、不幸だったとは思わない。』
『君に出会えたから。』
『君を好きになれたから。』
『最後に、生きたいと思えたから。』
美雪は、とうとう声を押し殺すことができなくなった。
涙が溢れ、嗚咽が漏れる。
それでも、手紙を閉じることはできなかった。
蓮が残してくれた、最後の言葉だったから。
そして、最後のページ。
そこには、少しだけ大きな文字で、こう書かれていた。
『美雪。』
『僕がいない春を、君は生きてください。』
『桜が咲いたら、僕のことを思い出してくれたら嬉しい。』
『一緒に歩いた道も、くだらないことで笑った時間も、全部覚えていてくれたら嬉しい。』
『でも、僕のことを思い出すたびに、悲しい気持ちだけでいっぱいにならないでほしい。』
『いつか、桜を見て綺麗だと思えたら。』
『美味しいものを食べて、幸せだと思えたら。』
『誰かと笑い合って、楽しいと思えたら。』
『そんな小さな幸せを、これからも大切にしてほしい。』
『僕が君の隣にいられなくても、君の人生は続いていくから。』
『そして、いつか。』
『僕のことを思い出しながらでもいい。』
『また、笑ってください。』
『それが、僕の最後のお願いです。』
美雪は、手紙を閉じた。
両手で、そっと胸に抱きしめる。
そこには、もう蓮はいない。
声も聞こえない。
温かな手も、笑顔も、もう触れることはできない。
それでも。
蓮が自分に残してくれたものは、確かにここにあった。
言葉にならないほどの愛情。
一緒に過ごした時間。
そして、生きてほしいという願い。
美雪は、ゆっくりと顔を上げた。
空には、夕焼けが広がっていた。
遠くの桜の木が、春の風に揺れている。
「……分かった」
涙を拭う。
まだ、泣き止むことはできなかった。
今すぐ笑うこともできなかった。
明日から、どうやって生きていけばいいのかさえ、分からなかった。
それでも。
「……約束する」
美雪は、手紙を胸に抱いたまま、空を見上げた。
「私、生きるよ……」
震える声だった。
それでも、はっきりと。
「蓮がいない春も……ちゃんと、生きていく」
*
春の風が、美雪の髪を優しく揺らした。
隣には、もう蓮はいない。
振り返っても、あの優しい笑顔を見ることはできない。
これからは、一人で歩いていかなければならない。
蓮のいない道を。
蓮のいない季節を。
蓮のいない春を。
それでも、美雪は顔を上げた。
悲しみが消えたわけではない。
蓮を失った痛みが、癒えたわけでもない。
きっと、これから何度も泣くだろう。
桜が咲くたびに。
クリスマスが来るたびに。
何気ない日常の中で、彼のことを思い出すたびに。
会いたくて、声が聞きたくて、もう一度だけ手を握りたくて、どうしようもなく苦しくなるだろう。
それでも。
美雪は、一歩だけ前へ進んだ。
蓮が願ってくれた未来を、生きるために。
彼と過ごした時間を、悲しい思い出だけにしないために。
そして、いつかまた、心から笑える日が来ることを信じて。
「……蓮」
最後に、そっと名前を呼んだ。
返事はない。
それでも、美雪は小さく微笑んだ。
「……春だよ」
桜の花びらが、風に舞い上がる。
淡いピンク色の花びらは、夕焼けに染まった空を、ゆっくりと流れていった。
まるで、二人が交わした約束を、優しく包み込むように。
蓮がいない春が、始まろうとしていた。
そして美雪は、その春を生きていく。
蓮が愛してくれた自分として。
蓮と過ごした日々を胸に抱いて。
いつか、桜を見上げて、涙を流しながらでも笑える日が来ると信じて。
――君がいない春に。
私は、君が教えてくれた生き方で、歩いていく。




