エピローグ 君がいない春に、僕は生きる
二〇三〇年。
三月二十九日。
春。
あの日から、四年が経った。
今年も、桜が咲いていた。
柔らかな春風が吹くたび、淡いピンク色の花びらが空へと舞い上がる。
まるで、誰かが空からそっと手を振っているようだった。
一枚の花びらが、ゆっくりと地面に落ちる。
それを見つめながら、美雪は小さく呟いた。
「……今年も、綺麗だね」
見上げた先には、満開の桜。
四年前と同じ場所。
同じ季節。
同じように吹く、春の風。
けれど。
たった一つだけ、あの頃とは違うものがあった。
隣に、蓮がいない。
それだけのことが、今でも胸を締めつけるほど寂しかった。
それでも、美雪は空を見上げていた。
もう、泣くだけではなくなったから。
*
「お姉ちゃん!」
後ろから、聞き慣れた声が響いた。
「遅いよ!」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
美雪は振り返り、微笑んだ。
手には、一冊の本。
そして、何度も読み返した古い白い封筒があった。
「また来たの?」
「うん」
「毎年、来てるよね」
「そうだね」
美雪は、桜の木の下にあるベンチへと歩いていった。
ゆっくりと腰を下ろし、隣に置いた本を大切そうに抱える。
そして、もう一度、桜を見上げた。
「……蓮」
小さく、その名前を呼ぶ。
返事はない。
もちろん、分かっている。
もう二度と、あの優しい声で名前を呼び返してくれることはない。
それでも。
美雪は、毎年ここへ来る。
蓮と最後に桜を見た、この場所へ。
彼と交わした約束を、忘れないために。
そして、自分が今も生きていることを、伝えるために。
*
四年前。
蓮が亡くなったあと。
美雪の世界から、色が消えた。
朝が来ることが、苦しかった。
目を覚ますたびに、蓮がいないという現実を思い知らされた。
昨日まであったはずの未来が、突然、目の前から消えてしまった。
もう一緒にご飯を食べることもできない。
くだらないことで笑い合うこともできない。
来年の桜を見ることも。
その次の年の桜を見ることも。
何もかもが、叶わなくなってしまった。
ご飯を食べることさえ、申し訳なく感じた。
自分だけが温かい食事を口にしている。
自分だけが眠り、目を覚まし、新しい一日を迎えている。
そんな当たり前のことが、どうしても許せなかった。
笑うことも怖かった。
楽しいと思うことさえ、蓮を裏切っているような気がした。
どうして、私だけが生きているんだろう。
どうして、蓮じゃなくて私なんだろう。
何度も、何度も考えた。
答えなんて出なかった。
ただ、会いたかった。
もう一度、声を聞きたかった。
もう一度、あの手を握りたかった。
そして、もう一度だけでいいから。
蓮に「美雪」と呼んでほしかった。
そんな願いを抱えながら、美雪は何度も泣いた。
誰にも見られないところで。
誰にも心配をかけないように。
声を押し殺して。
それでも、悲しみは簡単には消えてくれなかった。
*
そんなある日。
美雪は、蓮が残してくれた手紙を読み返した。
もう、何度目なのか分からない。
一度読んで。
涙を拭いて。
また最初から読み直した。
何度読んでも、胸が痛んだ。
何度読んでも、蓮の声が聞こえるような気がした。
そして、最後の一文にたどり着くたび、必ず同じ言葉が心に浮かんだ。
――生きて。
たった一言。
けれど、その言葉には、蓮の願いがすべて込められていた。
自分がいなくなったあとも、美雪には生きていてほしい。
泣いてもいい。
悲しんでもいい。
それでも、いつかまた笑ってほしい。
蓮は、そう願ってくれていた。
美雪は、手紙を胸に抱きしめた。
「……分かったよ」
涙で濡れた頬を拭う。
「私、ちゃんと生きるから」
すぐに前を向けたわけではなかった。
次の日には、また泣いていた。
何もする気になれない日もあった。
それでも。
蓮が残してくれた言葉を思い出すたび、ほんの少しだけ、前へ進もうと思えた。
一歩ずつ。
ほんの少しずつ。
美雪は、自分の人生を取り戻していった。
*
高校を卒業した。
大学へ進学した。
勉強に追われ、友達と笑い合い、時には失敗して落ち込んだ。
何でもない日常が、少しずつ戻ってきた。
初めて大学の友達と旅行に行った日。
みんなで夜遅くまで話し込んだ日。
試験に合格して、嬉しくて飛び上がった日。
そんな瞬間に、美雪は何度も思った。
――蓮にも、見せたかったな。
綺麗な景色を見たとき。
美味しいものを食べたとき。
誰かの優しさに触れたとき。
そのたびに、蓮の顔が浮かんだ。
そして、もう隣にいないことを思い出して、少しだけ寂しくなった。
けれど、以前とは違っていた。
悲しみのあとに、温かな気持ちが残るようになった。
蓮と出会えてよかった。
蓮と過ごせてよかった。
そう、心から思えるようになった。
いつしか、美雪は気づいていた。
蓮を忘れなくても、前へ進んでいいのだと。
思い出を大切に抱えたまま、新しい思い出を作ってもいいのだと。
誰かと笑い合ってもいい。
幸せを感じてもいい。
自分の未来を夢見てもいい。
蓮を愛していたことと、これからの人生を生きていくことは、決して矛盾しない。
だから、美雪は歩き続けた。
蓮を忘れるためではなく。
蓮と過ごした時間を、これからも大切にしていくために。
*
美雪は、膝の上に置いていた白い封筒を開いた。
何度も読み返した手紙。
四年という月日の中で、紙は少しずつ古びていた。
端はわずかに擦れ、便箋に書かれた文字も、ほんの少しだけ薄くなっている。
それでも。
そこに書かれた言葉は、今でも鮮明だった。
『美雪。』
『僕がいない春を、君は生きてください。』
美雪は、そっと目を閉じた。
「……生きてるよ」
小さく笑う。
「ちゃんと、生きてる」
春風が吹き、桜の花びらが目の前を横切った。
「ご飯もちゃんと食べてる」
まるで、蓮に近況を報告するように。
「高校も卒業したよ。大学にも行ったし、ちゃんと卒業できた」
少しだけ、声が弾んだ。
「仕事も始めたんだよ。まだ慣れないことばかりだけど、毎日頑張ってる」
そこで、美雪は一度言葉を止めた。
蓮の顔を思い浮かべる。
きっと彼なら、安心したように笑ってくれるだろう。
そして、いつものように言うのだ。
――そっか。頑張ってるんだな。
そんな声が、聞こえたような気がした。
美雪は、思わず笑みをこぼした。
「友達とも遊んでるよ。旅行にも行ったし、美味しいものもいっぱい食べた」
少しだけ、目を細める。
「……それからね」
頬を、涙が一筋伝った。
「最近は、前よりずっと笑えるようになったんだ」
涙を拭い、もう一度、空を見上げる。
「だから……安心してね」
その言葉は、春の風に乗って、静かに消えていった。
*
美雪は、ポケットから小さな腕時計を取り出した。
四年前、蓮からもらったものだった。
今も、毎日身につけている。
傷も増えた。
文字盤にも、細かな擦れが残っている。
けれど、壊れることなく、今日も時を刻んでいた。
一秒。
また一秒。
時計の針は、静かに進んでいく。
あの日も。
昨日も。
そして、今日も。
時間は、決して止まらない。
美雪は、腕時計を見つめながら呟いた。
「蓮……」
四年前、彼がどんな気持ちでこの時計を渡してくれたのか。
今なら、少しだけ分かる気がした。
限りある時間だからこそ、一緒に過ごす一瞬を大切にしたかったのだろう。
何気ない会話も。
くだらない冗談も。
同じ景色を見つめるだけの時間も。
いつか失われてしまうからこそ、かけがえのないものだった。
「あなたが教えてくれたんだよね」
美雪は、時計をそっと握りしめた。
「時間は、当たり前にあるものじゃないって」
生きていること。
誰かと出会うこと。
誰かを好きになること。
明日もまた会えると信じられること。
そのすべてが、決して当たり前ではないのだと。
「……ありがとう」
美雪は、微笑んだ。
今度は、涙を流さずに。
*
「お姉ちゃん、見て!」
隣にいた小さな子が、地面に落ちた桜の花びらを拾い上げた。
「綺麗でしょ?」
「うん。綺麗だね」
美雪は、そっと頷いた。
「大切にしてね」
「どうして?」
小さな子は、不思議そうに首を傾げた。
美雪は、少しだけ考えた。
どう説明すればいいのだろう。
この小さな花びらに、どれほどの思い出が詰まっているのか。
この季節が、どれほど大切なものなのか。
きっと、今はまだ分からないだろう。
それでも。
「いつかね、今日のことを思い出す日が来るかもしれないから」
「今日のこと?」
「うん」
美雪は、優しく微笑んだ。
「そのときに、この花びらを見て、楽しかったなって思えたら素敵でしょ?」
小さな子は、少し考えてから、嬉しそうに頷いた。
「うん!」
「じゃあ、大切にしようね」
「うん!」
その無邪気な笑顔を見て、美雪の胸が温かくなった。
蓮が生きていたら。
きっと、同じように笑ってくれただろう。
そう思うと、少しだけ寂しくなった。
けれど、それ以上に、嬉しかった。
自分が今、誰かと笑い合えていることが。
*
やがて、帰る時間になった。
美雪はベンチから立ち上がり、桜の木の前に立った。
枝いっぱいに咲く花。
風に揺れる花びら。
遠くから聞こえる、子供たちの笑い声。
穏やかな春の午後だった。
「……また来年ね」
美雪は、そっと呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていた。
もう、返事は返ってこない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「また、一緒に桜を見ようね」
目を閉じる。
心の中に、あの日の蓮の笑顔が浮かんだ。
桜を見上げながら、嬉しそうに笑っていた顔。
自分の手を握りながら、約束を交わしてくれた声。
そして、最後に見せてくれた、あの優しい笑顔。
美雪は、ゆっくりと目を開けた。
今日は、振り返らない。
何度も後ろを振り返りたくなった。
もう一度だけ、あの頃に戻りたくなった。
けれど、もう戻れないことを、美雪は知っていた。
だから、前を見る。
春の道。
続いていく桜並木。
頬を撫でる暖かな風。
その先にある、新しい季節。
新しい一日。
そして、自分の未来。
蓮がいなくなっても、世界は続いていく。
その事実は、残酷なほど変わらなかった。
けれど今は、それを少しだけ受け入れられるようになっていた。
世界が続いていくのなら。
自分も、その中を歩いていこう。
蓮が愛してくれた、この命を抱えて。
*
もし、あの日。
蓮に出会わなかったら。
もし、あの冬に、二人が出会わなかったら。
もし、あの病室で、蓮が自分の気持ちを話してくれなかったら。
もし、二人で桜を見る約束をしなかったら。
きっと、美雪の人生は、今とは違うものになっていただろう。
蓮と出会ったことで、彼女の世界は変わった。
誰かを大切に思うことの意味を知った。
誰かに大切に思われることの温かさを知った。
そして、失うことの痛みも知った。
その痛みは、四年経った今でも、完全には消えていない。
これから先も、きっと消えることはないのだろう。
桜が咲くたびに。
春の風が吹くたびに。
何気ない日常の中で、ふと彼の名前を思い出すたびに。
会いたくなる。
声が聞きたくなる。
もう一度だけ、隣で笑ってほしくなる。
それでも、美雪は思う。
たとえ、短い人生だったとしても。
その人生の中に、誰かを心から大切に思う時間があったのなら。
誰かに愛され、自分も誰かを愛することができたのなら。
もう一日、生きていたいと思えるほどの幸せに出会えたのなら。
その人生は、決して不幸なだけのものではない。
蓮は、苦しんだ。
たくさんのものを失った。
帰る場所も、安心できる時間も、思い描いた未来も。
それでも、最後に彼は、生きたいと願った。
美雪と一緒に、もっと生きていたいと願った。
その願いが生まれたこと自体が、彼の人生にとって、大切な意味を持っていたのだと思う。
だから、美雪は彼の人生を、悲しい結末だけで終わらせたくなかった。
彼が生きた証を、これからも胸に抱いていく。
彼がくれた優しさを、誰かに届けていく。
いつか、自分も誰かの心を救える人になれたら。
蓮が自分にしてくれたように。
誰かに、もう一度生きてみたいと思ってもらえるような人になれたら。
それが、今の美雪の願いだった。
*
夕方。
美雪は、家へ向かう道を歩いていた。
空は、淡いオレンジ色に染まっている。
桜の花びらが、春風に乗って舞い上がった。
何枚かの花びらが、美雪の後ろを追いかけるように、ゆっくりと流れていく。
まるで、誰かがそっと背中を押してくれているようだった。
美雪は、歩きながら小さく笑った。
「……じゃあね」
誰もいない道で、そっと呟く。
「また来年」
その言葉を口にすると、不思議と心が少しだけ軽くなった。
さよならではなく、また来年。
もう二度と会えないと分かっていても、次の春にまたここへ来ることはできる。
同じ桜を見上げて、同じ名前を呼ぶことはできる。
そして、そのときには、また一つ、新しい思い出を胸に抱いているのだろう。
美雪は、前を向いた。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと、歩き続ける。
未来へ。
*
――僕がいない春を、君は生きてください。
それが、蓮の最後の願いだった。
美雪は、その願いを胸に生きている。
何度も泣いた。
何度も立ち止まった。
もう歩けないと思った日もあった。
それでも、歩き続けた。
悲しみが消えたからではない。
蓮を忘れたからでもない。
彼と過ごした時間が、今も自分の中で生き続けているから。
あの日、蓮が教えてくれた。
生きることは、ただ時間を過ごすことではないのだと。
誰かを大切に思うこと。
何気ない一日を愛おしく感じること。
明日も生きていたいと願うこと。
その一つ一つが、生きるということなのだと。
だから、美雪は今日も生きている。
君がいない春を。
君と過ごした記憶を胸に。
君が残してくれた言葉を、心の奥に抱きしめながら。
そして、いつか。
自分も誰かの心を温められる人になるために。
*
桜が舞っていた。
四年前と同じように。
淡いピンク色の花びらが、春の空へと舞い上がっていく。
美雪は、足を止めて空を見上げた。
「……蓮」
もう、涙は流れていなかった。
悲しくないわけではない。
寂しくないわけでもない。
今でも、会いたいと思う。
もう一度だけ、あの笑顔を見たいと思う。
けれど、今の美雪には、もう一つの気持ちがあった。
蓮に出会えてよかった。
蓮を好きになれてよかった。
蓮と過ごした日々が、自分の人生にあってよかった。
そう、心から思えるようになった。
「……私、生きてるよ」
美雪は、空に向かって微笑んだ。
「ちゃんと、生きてるからね」
春風が、優しく頬を撫でた。
「だから……」
美雪は、そっと目を閉じた。
「もう、安心して眠ってね」
その声は、涙ではなく、温かな祈りになっていた。
一枚の桜の花びらが、美雪の肩に落ちた。
彼女は、それを手に取らなかった。
ただ、そのまま歩き始めた。
前へ。
未来へ。
君がいない春へ。
そして、その先へ。
桜は、今年も咲いている。
君がいなくなった世界で。
それでも、確かに続いていく世界で。
美雪は、生きている。
君が愛してくれた自分として。
君と過ごした時間を、決して忘れずに。
君が教えてくれた優しさを、これから出会う誰かへと繋いでいくために。
そして、いつかまた。
桜を見上げながら、涙を流すことなく笑える日が来ると信じて。
――君がいない春に、僕は生きる。




