論破してみる?
『自分は、誰にも愛されない』
この一文を、論破出来るか。
あなたは、どう思うだろうか。
……これは、残念ながら論破出来ないだろう。少なくとも、筆者には不可能だ。
なぜなら、これは個人的主観による結論……いや、感想だからだ。
そして、この"愛"という概念を、どんな定義として使っているか……という問題もある。
先ずは、その部分をすり合わせる必要があるのだが……。
それも、おそらく難しいのだ。
概念というものは、感覚的に理解している部分も多いだろうからだ。上手く言語化出来ることばかりではないだろう。
筆者は、以前書いた回で、愛とは利他である——と述べたことがある。
その定義に照らし合わせると、『愛される』ということを実現するのは、かなり難しいだろう……と言わざるを得ない。人間は、限りなく利己的だからだ。いや、野生生物も、かなりの割合で利己的なのではないだろうか。
しかし、母が子を守る本能は、色々な生物に備わっているように見受けられる。だが、果たしてあれは、愛と呼べるものなのだろうか……という疑問もある。そして、それが人間の求める愛という概念であるか……という話でもある。
性愛、友愛、親愛、自己愛……日本語表記だと、"愛"という文字は様々に使われているが。それらは、全て同じなのだろうか。
それぞれが使われている場面を鑑みると、必ずしも利他というようにはみえない。
どちらかといえば、執着心に近いもののように思える。
では、執着されたら、愛なのだろうか。
……そんなものは、究極的な利己でしかない。やはり大幅に異なっているように思える。むしろ、それこそが恋心……とでもいうべきだろうか。愛ではなさそうに思う。
いや。
恋と愛は、違うものだと認識していたが。
もしかして、世間的には同じものとして運用されているのだろうか?
言葉に定義があって、辞書に載っていたとしても。
実際に使われている意味合いの方が正しいとされ、やがて意味が置き換わっていくことなど、往々にしてあろう。
これも、その類かもしれない。
さて。
こうして言葉の意味を……そして、論を考えたとしても。
『自分は、誰にも愛されない』
という一文は、このように大きな揺れを抱えている。これを、論破出来るだろうか。
筆者には、無理だ。
そもそも愛というものは、物質ではない。そして、数値化も出来ない。だから、客観的事実としての愛というものを示す手段が、全くもって思い付かない。少なくとも、筆者の定義する『愛』においては。
それでは、いくら論じようとしても、推論の域を出ないだろう。客観的証明が、出来ないのだから。
そんなもので、主観を論破出来ようはずもない。
そして、『愛』という概念が、共通認識として一般化されることも、ないのだろう。
——だが、心配ない。
だから筆者も、誰からも愛されることはないのだ。
存在証明が不可能な時点で、ないと思えば、ないのだから。
皆、同じなのだ。
楽な方にしたらいいのさ。




