自己肯定感?
やはやはー。
みんなはげんきー。
りせた。だよー。
今日もしょぼくれてるんだぜぇー。
かなしみの果てに何があるかなんて知らないけど。生きてる。
そんな感じなのにさ。
「りせた。って、自己肯定感高いよね」
と、言われたんよね。
なんか、そう見えるんだと。
筆者本人的には、有り得ない話なので、当然……
「え? ほんとに? いや、そういう基準では生きてないかなー」
って答えたわけなんだけどさ。
「そうなの? でも、自分の考えとか、色々言うやん。頑固だし」
と、返ってきた。
ふむ……?
とりあえず、論拠が全くないと思うけど。そのひとには、そのように感じられたとのことだった。
確かに、筆者は頑固っぽく見える部分があるだろう。筋が通ってないことは、全く認めないから。しかし、理にかなってることとか、効率のいいこと、合理的だなと思えることなんかは、かなりすんなり受け入れるのだがね。
論理的な話術で営業かけられたりすると、結構弱かったりするしなぁ。詐欺っぽいことされたりとかも……。
……まぁ、それはいいか。
とにかく。
自己肯定感とかいう表現、世間的によくすると思う。
対極側は、自己否定なんだろか?
結構自虐ネタを使いまくってる通り、筆者は別に自分に対して肯定的ではないのよね。
自身の中を有り体に表せば、『自己矛盾を俯瞰しようとしている』という感じである。
それが、自己否定する自分を肯定しているようにでも映るのだろうか。
だが、その実態は、肯定ではない。
容認——受容なのだ。それは、確かにしている。
その受容が、『肯定』と映り、『自己肯定』として拡大解釈されたのかも知れんね。
しかし。ものすごく平たく言えば。
『まぁ、こんなもんよね、オレなんて……』というやつでしかない。こんなものの、何が自己肯定感なのか。かなり溜息混じりだぞ。
自己肯定感は、世間的にいいもののように扱われていて、持っている方がいいようにいわれる風潮があると思うが。
筆者は、そんなもの要らないと思っている。むしろ、自己肯定だけで生きるのは、危険だとさえ思う。そのうち"自分絶対正義!"のようになりそうな印象があるのだ。人間は、利己利己しい生き物なのだから。
だから、そもそも、そういう評価軸で生きていないのだ。あんな醜い姿になりたくないから。
……と。
こんな感じのことを、もう少し毒を抜きながら、粗方説明したのだが。
「ほら、やっぱり認めないじゃん」
と、全く伝わらなかった。
まぁ、それはいつものことだがな。だから、すぐ諦めた。
さて。
ここで少し、思い浮かべてみて欲しい。
余命幾ばくもないと、医師から告げられた人間を。
概ねは、落胆し、悲観するだろう。
そして、ひとにはよるが、やがてその運命を受け入れる。それが受容というもののはず。それは、諦観に近いと思う。喜んで受け入れるひとは、かなり少ないのではないだろうか。
筆者的には、受容は諦観なのだ。
自分が思う自分と、他人から見た自分は、ズレがある。
それは、解っているはずだったが。
発言や行動の——皮膚でいうところの、垢になりそうな角質層くらいしか、見られないんだなって思った。
ある意味、それが利用出来ることも知っている。
内面でどう思っていようが、それを一切出さなければ、他人にとっては、ないのも同然なのだから。
——だが。
やはり、人間は孤独なのだ。
理解し合うなんて、全くもって不可能だよな。頭の中は覗けないのだから。
解った気にさせてあげることは、出来るかも知れないが。
そんなものは、相互理解などではないのだ。
しかし、世の中は、人間は、理解しろと一方的に押し付けてくる場合すらある。
解ったフリも、必要なのだ。大量に。
精神は、完全なる孤独。
だが、経済も、社会も、そうはいかない。そこでの孤独は、"死"だから。
生きるって、めんどくさいねぇ。
でも、生きちゃってるのよなー。
死への恐怖心や忌避感が、なくならないからね。
いたしかたあるまじろ。
——ね?
肯定、してないだろ?




