へんけん
やぁみんなー。げんきー?
りせた。だよー。
今日も今日とて、げんきにしてないよ。ぐるぐるしてる。頭の中が。
まぁ、それはいつものことなんだけどね。全くもって、困った仕様ですのぅ……。
で。
そんなふうにぐるってたら。
ふと、思ったんよね。
ぐるぐるぐるぐる……チーン! って感じで。
『世の中って偏見で溢れてるよなぁ』ってさ。
……え?
いつも通り?
そうだよ!
あなたは、偏見ってなんだと思う?
あなたは、偏見持ってる?
あ。変な犬じゃないよ。辺境の県でもない。偏見だ。偏った見方。
筆者も、偏見に塗れているのだ。
例えば。
『一人称が自分の名前のひとは、精神的に幼く、非常に自己中心的で我儘』というものだ。
特に、年齢的に中学生を超えてるのであれば、もう既にヤバイ……と思っている。
成人してもそうだったら、『終わってる……』と思ってしまう。おそらくもう手遅れ。呼称を、そして性格を変えることが出来ないだろうからだ。
……と、いうものなのだが。
この持論が、偏見である。
これは、体感的・学習的に導き出した筆者の考えであるだけで、別にそれを社会的に証明してないからね。
つまり、学術的・科学的根拠がないのである。根拠がないことは、偏見だろう。
まぁ、それだけでもないかもだけど……ね。
ひとは、それぞれフィルターを持っている。
主観というものだ。
その主観は、偏光グラスやプリズムのように、事実という光をカットしたり、屈折させたり、分散させたりするのだ。
そして、ひとは、主観でしか、ものごとを測れない。
だから、基準という客観に近しく感じられるものを作ったのだろう。
だが。
その基準を外れたものは、偏見でみられるのだ。そして、みてしまう。
認知バイアスも、その類だろうな。
たとえ無人島に行ったとしても。偏見も、バイアスも、捨てられない。主観で生きている限り。
どこまでいっても、逃れられない。それが、人間。
人間って、面白いよねぇ。
……これもまた、偏見かも、ね。




