第29話 答えを出すべきか
夏祭りから三日後。
俺は、開いたままの旅行鞄を前にして座っていた。
畳の上には、着替え、大学の教科書、使わなかった充電器、ばあちゃんに持たされた土産物が並んでいる。帰省した時よりも荷物が増えているのは、実家や祖父母の家に来た人間の宿命なのだろう。
明日の朝。
俺はこの町を出る。
大学の講義が始まるまでは、まだ少し余裕がある。だが、一人暮らしの部屋も長く空けているし、アルバイトの予定も入っていた。
本当なら、何日も前からわかっていたことだ。
それなのに俺は、三人にも千尋にも言い出せなかった。
夏祭りの夜。
来年も帰ってくると約束した。
六年前とは違い、今度は自分で決めて帰ってくると伝えた。
それでも、帰るという事実そのものがなくなるわけではない。
言えば、美月は笑うだろう。
笑って、寂しくないふりをする。
凛花は怒るだろう。
もっと早く言えと責めながら、本当は引き止めたい気持ちを隠す。
小春は何も言わないかもしれない。
ただ、俺が使ったものを一つずつ記録するように見つめる。
千尋は、仕方がないと受け入れるだろう。
けれど、またね、と笑うその目に寂しさが残る。
全部、想像できた。
だからこそ、言えなかった。
俺は旅行鞄へ服を入れながら、自分の卑怯さに嫌気が差した。
六年前と同じだ。
別れが近づくほど、平気な顔をする。
相手を悲しませたくないという言葉を盾にして、自分が悲しむ場面から逃げている。
千尋の手紙には、困った顔をして逃げるなと書かれていた。
「……本当に、厳しいな」
誰もいない部屋で呟いた時、廊下の床が鳴った。
「悠真兄ちゃん?」
障子が開く。
美月だった。
薄い黄色のワンピースに、長い黒髪を下ろしている。手には麦茶の入った盆を持っていた。
「おばあちゃんが、部屋にいるって――」
美月の声が止まった。
視線が、俺から旅行鞄へ落ちる。
畳の上に並んだ衣服。
まとめられた土産物。
蓋を閉じれば、いつでも持ち出せる荷物。
美月はしばらく何も言わなかった。
盆の上で、氷が小さく音を立てる。
「……帰るの?」
俺は嘘をつけなかった。
「ああ。明日の朝」
「明日」
「言うのが遅くなって、ごめん」
美月は笑った。
「そっか」
予想していた通りの笑顔だった。
柔らかくて、優しくて。
ひどく寂しい笑顔。
「大学、あるもんね」
「ああ」
「アルバイトも?」
「入ってる」
「仕方ないね」
美月はそう言いながら、盆を机に置いた。
背中を向けたまま、長い髪を耳へかける。
「来年、帰ってくるもんね」
「ああ。約束した」
「なら、大丈夫だよ」
大丈夫ではない。
声が震えている。
それでも美月は、俺へ心配をかけまいとしている。
俺は立ち上がった。
「美月」
「大丈夫だから」
「こっち向いてくれ」
「今は、ちょっと」
美月は顔を上げなかった。
「変な顔してるから」
「俺は六年間、待たせた」
「……うん」
「明日帰ることまで黙ってた」
「うん」
「だから、せめて今は隠さないでほしい」
長い沈黙のあと、美月が振り返った。
目が赤かった。
「嫌だよ」
小さな声だった。
「帰ってほしくない」
美月の目から、一粒だけ涙が落ちた。
「来年じゃなくて、明日もいてほしい。明後日も、その次の日も。朝になったら一緒に散歩して、お昼はおばあちゃんの素麺を食べて、夜になったら縁側で話してほしい」
「美月……」
「でも、そんなこと言ったら困るでしょ?」
俺は答えられなかった。
美月は涙を拭い、俺へ一歩近づく。
「悠真兄ちゃん」
胸元へ、そっと額が触れた。
「私、もう子供じゃないよ」
「ああ」
「だから、本当は『お兄ちゃん』って呼んで、ずっと誤魔化していたくない」
美月の両手が、俺の服を掴む。
「悠真が好き」
初めてだった。
兄ちゃんをつけず、俺の名前だけを呼んだのは。
「六年前からずっと。帰ってこなくても、忘れようとしても、ずっと好きだった」
胸元に伝わる涙の温度が、布越しに広がっていく。
俺は美月の肩へ手を置いた。
すぐに答えられない。
それでも、抱えた気持ちを軽く扱いたくなかった。
その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「美月! 悠真が帰るって本当!?」
障子が勢いよく開いた。
凛花が立っていた。
その後ろには小春。
さらに、少し遅れて千尋もいる。
「ばあちゃんから聞いた」
凛花は息を切らしていた。
俺と、胸元に額を預ける美月を見て、表情が固まる。
だが、いつものように怒鳴りはしなかった。
「……言ったの?」
美月が俺から離れる。
涙を拭い、小さく頷いた。
「うん」
「そっか」
凛花は唇を噛んだ。
それから俺を睨む。
「明日帰るって、何で黙ってたのよ」
「言い出せなかった」
「また?」
その一言は鋭かった。
「また、何も言わずにいなくなるつもりだったの?」
「違う」
「何が違うの!?」
凛花の声が部屋に響いた。
目には、もう涙が浮かんでいる。
「あたしたち、六年前にそれで置いていかれたのよ。帰るってわかってたのに、最後まで平気な顔されて。今度は明日の朝まで黙ってるつもりだった?」
「ごめん」
「謝らないで!」
凛花は俺の胸を両手で押した。
強くはない。
でも、六年間の痛みをぶつけるような手だった。
「あたし、悠真が好き」
凛花は泣きながら言った。
「ずっと好きだった。美月が悠真に甘えるたびに腹が立って、小春が悠真の後ろにいるたびに気になって、千尋さんと話してる時なんて、本当に嫌だった」
千尋が少し目を伏せる。
「でも、一番嫌なのは、悠真がいなくなること」
凛花は俺の服を掴んだ。
「あたしを選ばなくても、嫌いになっても、怒らせてもいい。でも、何も言わずにいなくなるのだけは、もう嫌」
怒りではない。
ただ、置いていかれるのが怖いのだ。
六年前からずっと。
俺は凛花の手に、自分の手を重ねた。
「もう黙っていなくならない」
「……本当に?」
「ああ」
「今度破ったら」
「迎えに来るんだろ」
凛花は泣きながら、少しだけ笑った。
「連れ戻すから」
「わかった」
小春が、俺の前へ立った。
いつもと変わらない無表情。
けれど、茶色い瞳はわずかに揺れている。
「悠真お兄さん」
「小春」
「明日、何時ですか」
「九時のバス」
「把握しました」
小春は一度頷く。
「私は、引き止めません」
意外な言葉だった。
美月も凛花も、小春を見る。
「悠真お兄さんには、生活があります。帰る必要があります」
「小春……」
「ですが」
小春が、俺の首元の巾着へ手を伸ばした。
青いビー玉を、布越しに握る。
「私を置いていくことは認めません」
「どういう意味だ?」
「連れていってください」
小春はまっすぐ俺を見た。
「身体ではありません。悠真お兄さんの毎日に、私の居場所を作ってください」
静かな言葉だった。
けれど、誰より強かった。
「電話をしてください。写真を送ってください。今日何を食べたか、誰と話したか、何時に眠るか。全部でなくても構いません」
「最後の方は監視じゃないか?」
「愛情です」
小春は即答した。
冗談のように聞こえるのに、その瞳は本気だった。
「私は、悠真お兄さんが好きです」
小春は巾着から手を離さない。
「六年前より、今の方が好きです。ですから、また記憶の中だけの人になることを許しません」
「ああ」
「約束できますか」
「約束する」
「では、記録しました」
小春の目元が、ほんの少し緩んだ。
最後に、千尋が俺を見る。
美月、凛花、小春。
三人が想いを伝えたあとで、千尋は少し離れた場所に立っていた。
「私は、もう手紙で言っちゃったから」
千尋は困ったように笑った。
「でも、昔のことだけだと思われるのは嫌かな」
その笑顔が消える。
「今も好き」
短い言葉だった。
「再会してから、昔の気持ちを思い出しただけじゃない。話して、笑って、困ってる佐伯を見て、今の佐伯を好きになった」
「千尋」
「返事を急がせるつもりはなかった」
千尋は美月たちを見る。
「でも、三人が言ったのに、私だけ言わなかったら、また六年前と同じになるから」
言えないまま残された手紙。
六年間埋められていた気持ち。
千尋はもう、同じ後悔をするつもりがないのだ。
「佐伯は?」
千尋が聞いた。
「私たちのこと、どう思ってる?」
四人の視線が、俺へ集まった。
美月は涙を拭いながら。
凛花は俺の服を握りながら。
小春は巾着に触れながら。
千尋は逃げずに、正面から。
俺は答えようとして、口を閉じた。
好きか、嫌いか。
そんな単純な話なら、答えはすぐに出る。
全員、大切だ。
全員を失いたくない。
けれど、それは彼女たちが求めている答えではない。
誰か一人を選ぶのか。
誰も選ばず、友達のままでいるのか。
それとも、都合よく全員を繋ぎ止めるのか。
曖昧な言葉は、もう使えない。
千尋の手紙にも書かれていた。
困った顔をして逃げるな。
「明日」
俺は言った。
「バスに乗る前に、答える」
凛花の眉が寄る。
「今じゃ駄目なの?」
「今の俺が言えば、帰る寂しさに流された答えになる」
四人を順番に見る。
「誰が一番長く待ってたとか、誰が一番俺を好きかで決めたくない」
それは競争ではない。
六年間の長さを比べて、一番重い感情へ報いる話でもない。
「俺が、これから誰と一緒にいたいのか」
胸の奥で、言葉の形が少しずつ見えてくる。
「今夜、ちゃんと考える」
美月は不安そうに唇を結んだ。
凛花は納得していない顔をした。
小春はじっと俺の目を見る。
千尋だけが、少しだけ笑った。
「わかった」
「千尋さん」
凛花が責めるように呼ぶ。
「佐伯が逃げないって決めたなら、待とう」
千尋は俺を見る。
「ただし、明日は絶対に目を逸らさないでね」
「ああ」
「約束?」
「約束する」
その夜。
四人が帰ったあとも、俺は眠れなかった。
旅行鞄の横には、千尋の手紙。
首元には小春のビー玉。
机の上には、美月が持ってきた麦茶。
右手には、凛花が服を掴んだ感触が残っている。
思い出す。
泣き虫だった美月。
強がってばかりだった凛花。
何も言わず後ろをついてきた小春。
同じ教室で俺を見ていた千尋。
そして今の四人。
甘くて、面倒で、重くて。
それでも、誰一人として俺の日常から消えてほしくない。
窓の外では、夏の虫が鳴いていた。
六年前、俺は何も決められないまま町を出た。
だから今度は。
朝が来る前に、自分の答えを見つけなければならない。
旅行鞄の蓋を閉じる。
乾いた音が、静かな部屋に響いた。
明日。
俺はこの町を出る。
そしてその前に、六年前から続いてきたこの夏へ、自分の言葉で区切りをつける。
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