表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/30

第29話 答えを出すべきか

 夏祭りから三日後。


 俺は、開いたままの旅行鞄を前にして座っていた。


 畳の上には、着替え、大学の教科書、使わなかった充電器、ばあちゃんに持たされた土産物が並んでいる。帰省した時よりも荷物が増えているのは、実家や祖父母の家に来た人間の宿命なのだろう。


 明日の朝。


 俺はこの町を出る。


 大学の講義が始まるまでは、まだ少し余裕がある。だが、一人暮らしの部屋も長く空けているし、アルバイトの予定も入っていた。


 本当なら、何日も前からわかっていたことだ。


 それなのに俺は、三人にも千尋にも言い出せなかった。


 夏祭りの夜。


 来年も帰ってくると約束した。


 六年前とは違い、今度は自分で決めて帰ってくると伝えた。


 それでも、帰るという事実そのものがなくなるわけではない。


 言えば、美月は笑うだろう。


 笑って、寂しくないふりをする。


 凛花は怒るだろう。


 もっと早く言えと責めながら、本当は引き止めたい気持ちを隠す。


 小春は何も言わないかもしれない。


 ただ、俺が使ったものを一つずつ記録するように見つめる。


 千尋は、仕方がないと受け入れるだろう。


 けれど、またね、と笑うその目に寂しさが残る。


 全部、想像できた。


 だからこそ、言えなかった。


 俺は旅行鞄へ服を入れながら、自分の卑怯さに嫌気が差した。


 六年前と同じだ。


 別れが近づくほど、平気な顔をする。


 相手を悲しませたくないという言葉を盾にして、自分が悲しむ場面から逃げている。


 千尋の手紙には、困った顔をして逃げるなと書かれていた。


「……本当に、厳しいな」


 誰もいない部屋で呟いた時、廊下の床が鳴った。


「悠真兄ちゃん?」


 障子が開く。


 美月だった。


 薄い黄色のワンピースに、長い黒髪を下ろしている。手には麦茶の入った盆を持っていた。


「おばあちゃんが、部屋にいるって――」


 美月の声が止まった。


 視線が、俺から旅行鞄へ落ちる。


 畳の上に並んだ衣服。


 まとめられた土産物。


 蓋を閉じれば、いつでも持ち出せる荷物。


 美月はしばらく何も言わなかった。


 盆の上で、氷が小さく音を立てる。


「……帰るの?」


 俺は嘘をつけなかった。


「ああ。明日の朝」


「明日」


「言うのが遅くなって、ごめん」


 美月は笑った。


「そっか」


 予想していた通りの笑顔だった。


 柔らかくて、優しくて。


 ひどく寂しい笑顔。


「大学、あるもんね」


「ああ」


「アルバイトも?」


「入ってる」


「仕方ないね」


 美月はそう言いながら、盆を机に置いた。


 背中を向けたまま、長い髪を耳へかける。


「来年、帰ってくるもんね」


「ああ。約束した」


「なら、大丈夫だよ」


 大丈夫ではない。


 声が震えている。


 それでも美月は、俺へ心配をかけまいとしている。


 俺は立ち上がった。


「美月」


「大丈夫だから」


「こっち向いてくれ」


「今は、ちょっと」


 美月は顔を上げなかった。


「変な顔してるから」


「俺は六年間、待たせた」


「……うん」


「明日帰ることまで黙ってた」


「うん」


「だから、せめて今は隠さないでほしい」


 長い沈黙のあと、美月が振り返った。


 目が赤かった。


「嫌だよ」


 小さな声だった。


「帰ってほしくない」


 美月の目から、一粒だけ涙が落ちた。


「来年じゃなくて、明日もいてほしい。明後日も、その次の日も。朝になったら一緒に散歩して、お昼はおばあちゃんの素麺を食べて、夜になったら縁側で話してほしい」


「美月……」


「でも、そんなこと言ったら困るでしょ?」


 俺は答えられなかった。


 美月は涙を拭い、俺へ一歩近づく。


「悠真兄ちゃん」


 胸元へ、そっと額が触れた。


「私、もう子供じゃないよ」


「ああ」


「だから、本当は『お兄ちゃん』って呼んで、ずっと誤魔化していたくない」


 美月の両手が、俺の服を掴む。


「悠真が好き」


 初めてだった。


 兄ちゃんをつけず、俺の名前だけを呼んだのは。


「六年前からずっと。帰ってこなくても、忘れようとしても、ずっと好きだった」


 胸元に伝わる涙の温度が、布越しに広がっていく。


 俺は美月の肩へ手を置いた。


 すぐに答えられない。


 それでも、抱えた気持ちを軽く扱いたくなかった。


 その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。


「美月! 悠真が帰るって本当!?」


 障子が勢いよく開いた。


 凛花が立っていた。


 その後ろには小春。


 さらに、少し遅れて千尋もいる。


「ばあちゃんから聞いた」


 凛花は息を切らしていた。


 俺と、胸元に額を預ける美月を見て、表情が固まる。


 だが、いつものように怒鳴りはしなかった。


「……言ったの?」


 美月が俺から離れる。


 涙を拭い、小さく頷いた。


「うん」


「そっか」


 凛花は唇を噛んだ。


 それから俺を睨む。


「明日帰るって、何で黙ってたのよ」


「言い出せなかった」


「また?」


 その一言は鋭かった。


「また、何も言わずにいなくなるつもりだったの?」


「違う」


「何が違うの!?」


 凛花の声が部屋に響いた。


 目には、もう涙が浮かんでいる。


「あたしたち、六年前にそれで置いていかれたのよ。帰るってわかってたのに、最後まで平気な顔されて。今度は明日の朝まで黙ってるつもりだった?」


「ごめん」


「謝らないで!」


 凛花は俺の胸を両手で押した。


 強くはない。


 でも、六年間の痛みをぶつけるような手だった。


「あたし、悠真が好き」


 凛花は泣きながら言った。


「ずっと好きだった。美月が悠真に甘えるたびに腹が立って、小春が悠真の後ろにいるたびに気になって、千尋さんと話してる時なんて、本当に嫌だった」


 千尋が少し目を伏せる。


「でも、一番嫌なのは、悠真がいなくなること」


 凛花は俺の服を掴んだ。


「あたしを選ばなくても、嫌いになっても、怒らせてもいい。でも、何も言わずにいなくなるのだけは、もう嫌」


 怒りではない。


 ただ、置いていかれるのが怖いのだ。


 六年前からずっと。


 俺は凛花の手に、自分の手を重ねた。


「もう黙っていなくならない」


「……本当に?」


「ああ」


「今度破ったら」


「迎えに来るんだろ」


 凛花は泣きながら、少しだけ笑った。


「連れ戻すから」


「わかった」


 小春が、俺の前へ立った。


 いつもと変わらない無表情。


 けれど、茶色い瞳はわずかに揺れている。


「悠真お兄さん」


「小春」


「明日、何時ですか」


「九時のバス」


「把握しました」


 小春は一度頷く。


「私は、引き止めません」


 意外な言葉だった。


 美月も凛花も、小春を見る。


「悠真お兄さんには、生活があります。帰る必要があります」


「小春……」


「ですが」


 小春が、俺の首元の巾着へ手を伸ばした。


 青いビー玉を、布越しに握る。


「私を置いていくことは認めません」


「どういう意味だ?」


「連れていってください」


 小春はまっすぐ俺を見た。


「身体ではありません。悠真お兄さんの毎日に、私の居場所を作ってください」


 静かな言葉だった。


 けれど、誰より強かった。


「電話をしてください。写真を送ってください。今日何を食べたか、誰と話したか、何時に眠るか。全部でなくても構いません」


「最後の方は監視じゃないか?」


「愛情です」


 小春は即答した。


 冗談のように聞こえるのに、その瞳は本気だった。


「私は、悠真お兄さんが好きです」


 小春は巾着から手を離さない。


「六年前より、今の方が好きです。ですから、また記憶の中だけの人になることを許しません」


「ああ」


「約束できますか」


「約束する」


「では、記録しました」


 小春の目元が、ほんの少し緩んだ。


 最後に、千尋が俺を見る。


 美月、凛花、小春。


 三人が想いを伝えたあとで、千尋は少し離れた場所に立っていた。


「私は、もう手紙で言っちゃったから」


 千尋は困ったように笑った。


「でも、昔のことだけだと思われるのは嫌かな」


 その笑顔が消える。


「今も好き」


 短い言葉だった。


「再会してから、昔の気持ちを思い出しただけじゃない。話して、笑って、困ってる佐伯を見て、今の佐伯を好きになった」


「千尋」


「返事を急がせるつもりはなかった」


 千尋は美月たちを見る。


「でも、三人が言ったのに、私だけ言わなかったら、また六年前と同じになるから」


 言えないまま残された手紙。


 六年間埋められていた気持ち。


 千尋はもう、同じ後悔をするつもりがないのだ。


「佐伯は?」


 千尋が聞いた。


「私たちのこと、どう思ってる?」


 四人の視線が、俺へ集まった。


 美月は涙を拭いながら。


 凛花は俺の服を握りながら。


 小春は巾着に触れながら。


 千尋は逃げずに、正面から。


 俺は答えようとして、口を閉じた。


 好きか、嫌いか。


 そんな単純な話なら、答えはすぐに出る。


 全員、大切だ。


 全員を失いたくない。


 けれど、それは彼女たちが求めている答えではない。


 誰か一人を選ぶのか。


 誰も選ばず、友達のままでいるのか。


 それとも、都合よく全員を繋ぎ止めるのか。


 曖昧な言葉は、もう使えない。


 千尋の手紙にも書かれていた。


 困った顔をして逃げるな。


「明日」


 俺は言った。


「バスに乗る前に、答える」


 凛花の眉が寄る。


「今じゃ駄目なの?」


「今の俺が言えば、帰る寂しさに流された答えになる」


 四人を順番に見る。


「誰が一番長く待ってたとか、誰が一番俺を好きかで決めたくない」


 それは競争ではない。


 六年間の長さを比べて、一番重い感情へ報いる話でもない。


「俺が、これから誰と一緒にいたいのか」


 胸の奥で、言葉の形が少しずつ見えてくる。


「今夜、ちゃんと考える」


 美月は不安そうに唇を結んだ。


 凛花は納得していない顔をした。


 小春はじっと俺の目を見る。


 千尋だけが、少しだけ笑った。


「わかった」


「千尋さん」


 凛花が責めるように呼ぶ。


「佐伯が逃げないって決めたなら、待とう」


 千尋は俺を見る。


「ただし、明日は絶対に目を逸らさないでね」


「ああ」


「約束?」


「約束する」


 その夜。


 四人が帰ったあとも、俺は眠れなかった。


 旅行鞄の横には、千尋の手紙。


 首元には小春のビー玉。


 机の上には、美月が持ってきた麦茶。


 右手には、凛花が服を掴んだ感触が残っている。


 思い出す。


 泣き虫だった美月。


 強がってばかりだった凛花。


 何も言わず後ろをついてきた小春。


 同じ教室で俺を見ていた千尋。


 そして今の四人。


 甘くて、面倒で、重くて。


 それでも、誰一人として俺の日常から消えてほしくない。


 窓の外では、夏の虫が鳴いていた。


 六年前、俺は何も決められないまま町を出た。


 だから今度は。


 朝が来る前に、自分の答えを見つけなければならない。


 旅行鞄の蓋を閉じる。


 乾いた音が、静かな部屋に響いた。


 明日。


 俺はこの町を出る。


 そしてその前に、六年前から続いてきたこの夏へ、自分の言葉で区切りをつける。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

応援が次回更新の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ