第28話 忘れない約束
――今度は、ちゃんと覚えてる?
美月の問いを聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいた記憶が浮かび上がった。
六年前。
同じ神社。
同じ提灯。
同じように夜空を埋めた、大きな花火。
あの日の俺は、引っ越しを翌週に控えていた。
三人には、できるだけ普段通りに接していたつもりだった。別れを意識させれば泣くだろうと思い、最後まで兄貴分らしく笑っていようとした。
だが、美月はずっと俺の袖を掴んでいた。
凛花は屋台を回っている間、一度も俺の顔を見ようとしなかった。
小春は、いつも以上に何も言わず、俺から一歩も離れなかった。
花火が上がった時、美月が泣いた。
『来年は、いないの?』
そう聞かれた。
俺は困った。
答えなんて持っていなかった。
父親の仕事の都合で引っ越すことだけは決まっていたが、次にいつ戻れるかまでは知らなかった。
それでも、泣いている美月を安心させたかった。
怒りながら涙を堪える凛花に、心配するなと言いたかった。
俺の袖を握りしめる小春の手を、離したくなかった。
だから俺は言った。
『来年も帰ってくる』
思い出した。
はっきりと。
『来年も、その次の年も、絶対に帰ってくる。だから、また四人で花火を見よう』
根拠なんてなかった。
子供だった俺が、その場を収めるために口にした言葉だった。
けれど三人は、それを約束として受け取った。
美月は泣きながら笑った。
凛花は何度も「絶対だから」と確認した。
小春は、俺の小指に自分の小指を絡ませた。
その翌年。
俺は帰らなかった。
その次の年も。
さらに次の年も。
六年間、一度も。
「……思い出した」
声が掠れた。
花火の音が夜空を震わせる。
青い光が開き、境内を一瞬だけ昼間のように照らす。その光の中で、美月は俺を見ていた。
笑っていない。
怒ってもいない。
ただ、長い間待ち続けた人の目をしていた。
「何を約束したか、言える?」
「ああ」
喉の奥が痛かった。
「来年も帰ってくるって言った」
凛花が唇を噛んだ。
小春の指が、俺の右手に強く絡む。
「その次の年も帰ってくる。毎年、四人で花火を見るって」
「帰ってこなかったね」
美月の声は穏やかだった。
責める口調ではない。
だからこそ、言葉が深く刺さった。
「一年目、私、ずっと待ってた」
美月は花火から目を逸らさずに続ける。
「朝から浴衣を着て、悠真兄ちゃんが家に来るのを待ってた。夕方になっても来なくて、おばあちゃんの家にも何回も見に行った」
知らなかった。
「夜になって、凛花ちゃんと小春ちゃんと三人でここに来た。もしかしたら、神社で待ってるかもしれないって思ったから」
美月の目に、花火の光が映る。
「でも、いなかった」
「……ごめん」
「二年目も待ったよ」
謝罪を遮るように、美月は言った。
「三年目も。四年目からは浴衣を着なかった。でも、神社には来た」
隣で、凛花が拳を握っていた。
「五年目に、美月がもう待たないって言ったの」
凛花の声が割り込む。
「それなのに祭りの日になったら、いつもの場所に立ってた。小春も毎年、悠真を探してた」
「凛花さんもです」
小春が静かに言った。
「毎年、誰より早く来ていました」
「余計なこと言わないで」
凛花は小春を睨んだ。
けれど、その目は赤かった。
「だって、来るかもしれないって思うでしょ」
凛花は俺へ向き直った。
「あんた、約束したんだから。馬鹿みたいに笑って、絶対帰るって言ったんだから」
「凛花」
「忘れてたくせに」
その一言に、何も返せなかった。
俺は忘れていた。
三人が毎年、同じ場所で待っていた間。
都会の学校へ通い、新しい友人を作り、大学へ進み、忙しいという言葉でこの町を遠ざけていた。
もちろん、帰れなかった事情はある。
最初の数年は父親の仕事が忙しく、家族揃って帰省する機会を作れなかった。進学してからは俺自身にも予定ができた。
だが、連絡する方法までなかったわけではない。
ばあちゃんに電話をすればよかった。
手紙を書けばよかった。
約束を守れないと、伝えることはできた。
俺は、それすらしなかった。
「小春も、待ったのか」
聞くまでもない問いだった。
小春は俺の手を握ったまま頷く。
「はい」
「毎年?」
「はい」
「どうして……」
「約束したからです」
小春は一度も迷わなかった。
「悠真お兄さんは、帰ってくると言いました。だから帰ってこない場合、翌年に延期されたのだと判断しました」
「翌年も来なかったら?」
「さらに翌年です」
「ずっと?」
「帰ってくるまで」
小春の声は変わらない。
責めてもいない。
泣いてもいない。
ただ、俺が帰ってくるという前提だけを、六年間変えなかった。
その重さに、息が苦しくなる。
「小春」
「今年、帰ってきました」
小春は俺を見上げる。
「ですから、約束は六年遅れで履行されました」
「そんなのでいいのか」
「よくありません」
初めて、小春が即座に否定した。
「六年は戻りません」
俺の手を握る指に、さらに力が入る。
「ですが、今の悠真お兄さんまで失うよりはいいです」
夜空に、大きな金色の花火が開いた。
光が降ってくるようだった。
周囲では歓声が上がっている。
同じ花火を見ているはずなのに、俺たちの周りだけ時間が止まっていた。
千尋は少し離れた場所で、黙っていた。
これは俺と三人の間に残った記憶だ。
口を挟まず、ただ俺たちを見守っている。
けれど、その顔も苦しそうだった。
俺は三人を順番に見た。
美月。
凛花。
小春。
六年前より、ずっと綺麗になった。
身体も、声も、表情も変わった。
それでも、俺の帰りを待っていた。
「ごめん」
もう一度言った。
今度は、言葉だけで終わらせないために、三人から目を逸らさなかった。
「約束したことも、それを忘れてたことも。六年間、何も伝えなかったことも。本当にごめん」
美月の瞳から、涙が一粒だけ落ちた。
「謝ったら、またいなくなる?」
「ならない」
反射的に答えそうになり、俺は一度言葉を止めた。
六年前と同じ、根拠のない約束をしてはいけない。
安心させるためだけの言葉で、また待たせるわけにはいかない。
「夏休みが終われば、大学へ戻る」
美月の表情が曇る。
凛花が俯く。
小春の指が冷たくなる。
「でも、来年の夏も帰ってくる」
はっきりと言った。
三人が顔を上げる。
「今度は、その場しのぎじゃない。俺が自分で決めて帰ってくる」
「……本当に?」
美月の声が震える。
「ああ」
「忙しくても?」
「予定を空ける」
「大学に好きな人ができても?」
その問いに、一瞬だけ詰まった。
けれど、誤魔化さなかった。
「それでも、約束は守る」
美月は涙を拭おうとした。
だが俺は先に、浴衣の袖でその頬に触れた。
濡れた頬は、夏の夜なのに少し冷たかった。
美月は驚いたように俺を見る。
「悠真兄ちゃん」
「六年分を、今夜だけで取り戻せるとは思ってない」
頬に触れたまま、俺は続ける。
「だから来年も、その次も、少しずつ返す」
また約束している。
自分でもわかった。
でも、六年前とは違う。
守れない可能性から目を逸らしていない。
それでも守りたいと、自分の意思で言っている。
美月は俺の手に、自分の手を重ねた。
「じゃあ、信じる」
「いいのか」
「六年間も信じたから。もう一年くらい増えても同じだよ」
美月は笑った。
涙で濡れた、甘くて重い笑顔だった。
「でも、今度来なかったら迎えに行くね」
「どこへ?」
「悠真兄ちゃんの家」
「住所、知らないだろ」
「調べるよ」
笑顔のまま言われると怖い。
冗談かどうかもわからない。
「私も行く」
凛花が言った。
「逃げても無駄だから」
「逃げないって」
「一回逃げた」
「引っ越しは逃亡に入るのか?」
「あたしたちにとっては入る」
反論できなかった。
凛花は俺の左手を掴んだ。
指を絡める。
人目を気にして一瞬だけ迷ったようだが、今夜は離さなかった。
「来年、最初に見つけるのもあたしだから」
「ああ」
「今日と同じ場所で待ってる」
「家まで迎えに行くよ」
凛花の目が大きくなる。
「……本当に?」
「今度は、待たせたくない」
凛花の顔が赤くなった。
夜だから見えないふりをしてやろうと思ったが、花火が容赦なく照らしていた。
「じゃあ、絶対来て」
「ああ」
「浴衣で」
「それも指定なのか」
「今日の、似合ってたから」
最後だけ小さな声だった。
俺が笑うと、凛花は繋いだ手を強く握った。
「笑わないで」
「嬉しかっただけだ」
「……もっと笑わないで」
小春は俺の右手を取った。
そこはさっきまで美月が触れていた場所だ。
小春は俺の小指に、自分の小指を絡ませる。
六年前と同じ形。
「約束を更新します」
「更新?」
「来年の夏祭りも、四人で花火を見ます」
小春は一度、千尋を見た。
「訂正します」
千尋が少し驚いたように瞬く。
「五人で見ます」
「小春」
「千尋さんも、今は関係者です」
歓迎というには、硬い言葉だった。
それでも小春なりに、千尋を輪の中へ入れようとしている。
千尋は少しだけ目を伏せたあと、柔らかく笑った。
「ありがとう」
「ただし」
小春は続ける。
「悠真お兄さんの隣は譲りません」
「そこは譲らないんだ」
「はい」
千尋は困ったように笑った。
「じゃあ、私は佐伯の前を歩こうかな」
「千尋さん」
美月の笑顔に圧が戻る。
凛花も眉を寄せる。
さっきまでの湿った空気が、一瞬でいつもの甘くて面倒なものへ変わった。
俺は思わず息を吐く。
安心した。
こんな状況に安心している自分も、相当おかしくなっている。
次の花火が上がる。
赤。
青。
金。
夜空いっぱいに光が広がった。
美月が俺の腕に寄り添う。
凛花が左手を握る。
小春が右の小指を離さない。
千尋は少し前で振り返り、俺たちを見て笑っている。
六年前に叶わなかった約束。
遅すぎた花火。
失われた六年間は、戻らない。
それでも今、俺たちは同じ夜空を見ている。
「悠真兄ちゃん」
美月が呼ぶ。
「今度は忘れないでね」
「ああ」
俺は四人の顔を見た。
「忘れない」
胸元で、青いビー玉が揺れる。
ポケットには千尋の手紙。
両手には、離そうとしない温度。
今度の約束は、記憶だけに任せない。
来年、この場所へ帰ってくる。
その時もきっと、俺は同じように四人に囲まれて困っているのだろう。
けれど、それでいいと思った。
花火の音に紛れないように。
俺はもう一度、はっきりと口にした。
「来年も、一緒に見よう」
四人の返事が重なった。
夜空に開いた最後の花火よりも、その声の方がずっと強く、俺の胸に残った。
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