第27話 夏祭り
夏祭りの夜は、まだ日が落ちきる前から騒がしかった。
神社へ続く坂道には提灯が並び、赤や橙の明かりが夕闇の中に浮かんでいる。遠くから聞こえる祭囃子と、人の話し声。屋台から流れてくる焼きそばや甘い綿菓子の匂いが、ぬるい夜風に混ざっていた。
俺は祖父母の家の玄関先で、自分の格好を見下ろした。
紺色の浴衣。
白い細い縞が入り、腰には灰色の帯が巻かれている。
「似合ってるよ」
ばあちゃんは満足そうに何度も頷いた。
「親父のじゃないのか、これ」
「そうだよ。あんたのお父さんが若い頃に着てたやつ」
「俺に無断で用意するなよ」
「若い子と祭りに行くのに、普段着じゃ味気ないだろう」
「若い子って言い方をやめてくれ」
ばあちゃんは俺の抗議を聞き流し、帯の位置を軽く直した。
じいちゃんは縁側で麦茶を飲みながら、にやにやしている。
「四人だろ」
「何が」
「迎えに来る娘」
「数えるな」
「昔は三人だったのになぁ」
「増えたみたいに言うな」
「増えたんだろ」
否定しようとして、やめた。
事実として、千尋が増えている。
いや、別に俺の何かになったわけではない。昔の同級生と再会しただけだ。ただ、その同級生から六年前の手紙を受け取り、昔好きだったと告げられた。
十分すぎるほど何かが増えていた。
俺は玄関を出た。
凛花とは、昨夜約束した。
――最初に見つける。
どこで待ち合わせるとは決めていない。
家まで迎えに来るのか、神社の入口で待つのか、それすら曖昧だ。
にもかかわらず、凛花は「絶対先に行く」と言った。
なら、たぶん神社へ向かう途中にいる。
俺は提灯の並ぶ道へ向かった。
まだ空にはわずかに青さが残っている。
浴衣姿の人々が、家々から次々と出てくる。家族連れ、手を繋いだ男女、楽しそうに走る子供たち。六年前にも見たはずの光景なのに、今は少しだけ違って見えた。
祭りが変わったわけではない。
見る俺が変わったのだ。
凛花はどこにいる。
人の流れを目で追う。
赤い浴衣。
紺色の浴衣。
薄桃色の浴衣。
見慣れた短い髪を探す。
そして、坂道の途中にある古い石垣の前で、一人の少女が立っているのを見つけた。
深い藍色の浴衣だった。
鮮やかな赤い金魚の模様が裾から肩へ泳いでいる。普段は動きやすい服ばかり着ている凛花が、今日は髪を片側だけ小さく編み、赤い髪飾りをつけていた。
手には小さな巾着。
慣れない下駄が落ち着かないのか、何度も足元を確認している。
普段より大人びて見えるのに、その仕草だけは妙に幼かった。
俺は少しの間、声をかけられなかった。
見つけた。
約束通り、誰より先に。
「凛花」
呼ぶと、彼女が勢いよく顔を上げた。
俺を見た瞬間、表情が明るくなる。
けれど、すぐに照れ隠しのように眉を寄せた。
「遅い」
「待ち合わせ時間、決めてないだろ」
「それでも遅い」
「何分待った?」
「……十分くらい」
「早く来すぎだ」
「うるさい」
凛花は顔を逸らした。
だが、口元が少し緩んでいる。
「ちゃんと見つけたぞ」
俺が言うと、凛花の肩が小さく揺れた。
「……まあ、約束したしね」
「ああ」
「美月たちは?」
「まだ会ってない」
「千尋さんも?」
「会ってない」
その答えに、凛花は明らかに安心した。
隠すつもりがあるのか疑いたくなるほど、わかりやすい。
「浴衣、似合ってるな」
口から自然に出た。
凛花の動きが止まる。
「……何て?」
「浴衣。似合ってる」
「聞こえてる」
「じゃあ聞き返すな」
「心の準備ができてなかったの!」
凛花は顔を真っ赤にして、巾着で俺の腕を軽く叩いた。
痛くない。
むしろ、その反応が可愛くて笑ってしまう。
「笑うな!」
「悪い」
「全然悪いと思ってないでしょ」
「でも本当に似合ってる」
二回目を言うと、凛花は何も返せなくなった。
赤い金魚の柄へ視線を落とし、帯のあたりを指で触る。
「……悠真も」
「ん?」
「浴衣、悪くない」
「それはどうも」
「悪くないだけだから」
「はいはい」
「適当に流さないで!」
面倒だ。
でも、嫌ではない。
凛花のこういうところを、俺は昔から知っている。
褒められると怒る。
嬉しいのに隠そうとする。
隠しきれず、もっとちゃんと受け取れと怒る。
俺が手を差し出すと、凛花は目を瞬いた。
「何」
「下駄、歩きづらいんだろ」
「平気」
「さっきから足元ばっかり見てた」
「見てたの?」
「最初に見つけるって約束したからな」
凛花は俺の手を見つめた。
それから、恐る恐る指先を重ねる。
掴むというより、触れるだけ。
俺が指を閉じると、凛花の手が少し震えた。
「離さないでよ」
「転ばないように?」
「……それもある」
「他には?」
「自分で考えて」
夜店の明かりの下で、凛花は顔を逸らしていた。
けれど手は、しっかり俺の手を握り返している。
昨夜の縁側とは違う。
今は人の目がある。
町の知り合いもいる。
それでも凛花は離さなかった。
俺たちは手を繋いだまま、神社へ向かって歩き始めた。
凛花の歩幅に合わせ、少しゆっくり進む。
その時間は、長くは続かなかった。
「悠真兄ちゃん!」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返る。
美月がいた。
淡い白色の浴衣に、青い朝顔の模様。長い黒髪は普段と違って高い位置でまとめられ、細い首筋が露わになっている。手には水色の巾着を持ち、こちらへ駆け寄ってきた。
その隣には小春。
薄紫色の浴衣で、茶色い髪を後ろでゆるく束ねている。華やかさより落ち着いた可愛らしさがあり、歩くたび帯飾りが小さく揺れていた。
美月の視線が、俺と凛花の繋いだ手に落ちる。
笑顔は消えなかった。
ただ、足が少しだけ速くなった。
「凛花ちゃん、早いね」
「約束してたから」
凛花は手を離さなかった。
むしろ、少しだけ俺の指を強く握る。
「約束?」
「最初に悠真を見つけるって」
「そうなんだ」
美月はにこりと笑う。
「私、聞いてないな」
「言ってないから」
「どうして?」
「二人の約束だから」
火花が見えた気がした。
夏祭りは花火の前から随分と派手らしい。
小春は無言で俺たちの手を見ていた。
「小春?」
「確認しています」
「何を」
「凛花さんが占有している範囲です」
「土地みたいに言うな」
「右手が空いています」
小春はそう言うと、俺の右手を取った。
躊躇がない。
凛花が左。
小春が右。
俺は両腕を封じられた。
美月がそれを見て、少し困ったように首を傾げる。
「私の場所がない」
「場所を求めるな」
「じゃあ、ここ」
美月は俺の右腕に自分の腕を絡めた。
浴衣越しに身体が触れる。
腕に伝わった柔らかな感触に、俺の背筋が一瞬で固まる。
美月は気づいているのか、俺の腕に寄り添ったまま笑った。
「これなら歩けるね」
「俺が歩きづらい」
「ゆっくりでいいよ」
「そういう問題じゃない」
凛花の視線が俺の右腕に刺さる。
「美月、くっつきすぎ」
「浴衣で転んだら危ないから」
「小春が手を繋いでるでしょ」
「小春ちゃんは小春ちゃん。私は私」
「ずるい!」
聞き覚えのある言葉だった。
俺は早くも祭りから帰りたくなった。
だが、凛花の手は離れない。
小春も離さない。
美月はさらに近づいている。
逃げることは物理的にも不可能だった。
「佐伯」
今度は前方から声がした。
見ると、千尋が人混みの中に立っていた。
深緑色の浴衣に、白い花の模様。栗色の髪は低い位置でまとめられ、横顔に数本だけ後れ毛が垂れている。
同級生として見慣れていた顔が、今夜は妙に大人びていた。
俺は思わず見入ってしまった。
その視線に気づいた千尋が、少し照れたように笑う。
「どうかな」
「似合ってる」
答えた瞬間、左右と右腕の圧力が増した。
痛い。
「佐伯、顔に出るようになったね」
「誰のせいだ」
「さあ」
千尋は楽しそうに笑うと、俺たちの状態を見回した。
「隣、空いてないね」
「残念ながら」
「なら前を歩こうかな」
千尋は俺の一歩前へ移動した。
時折振り返りながら歩く。
そうすると自然に何度も目が合う。
隣を取らず、俺の視線が向く場所を取ったのだ。
美月の笑顔が少し引きつる。
凛花が小さく舌打ちする。
小春は千尋の歩行速度を観察するように目を細めた。
全員、戦い方が違う。
俺だけが何の装備も持たず、戦場の中央を歩かされている。
◆
参道に並んだ屋台を、五人で回った。
凛花は射的を見つけると、すぐに挑戦した。
「悠真、欲しいもの選んで」
「俺が?」
「あたしが取る」
頼もしい。
そう思った五分後、凛花は弾をすべて外した。
「……銃が悪い」
「台に固定されてるぞ」
「照準がずれてる」
「途中から目を閉じてただろ」
「閉じてない!」
悔しそうな凛花の横で、小春が一回分の料金を払った。
無言で銃を構え、一発目で小さな青いイルカの人形を落とす。
「悠真お兄さんへ」
「ありがとう」
「なっ……」
凛花が固まった。
美月が金魚すくいへ俺を連れていき、紙のポイを一枚渡してくる。
「一緒にやろう」
「一枚しかないぞ」
「一緒に持つの」
美月は俺の手に自分の手を重ねた。
二人で一枚のポイを持ち、水面を泳ぐ金魚を追う。
近い。
耳元に美月の息遣いが聞こえる。
浴衣から覗く白い首筋が、提灯の明かりに照らされていた。
「悠真兄ちゃん、右」
「近づきすぎると破れる」
「じゃあ、もっとゆっくり」
「動くな、美月」
「うん」
言葉だけ聞けば何の場面かわからない。
結局、金魚を一匹も取れないまま紙は破れた。
それでも美月は嬉しそうだった。
「取れなかったぞ」
「でも、一緒にできた」
目的が違ったらしい。
千尋とは、りんご飴を半分ずつ食べることになった。
千尋が買ったものの、大きすぎて一人では食べきれないと言ったからだ。
「佐伯、先にどうぞ」
「いや、買ったのは千尋だろ」
「じゃあ交互に」
「それ、かなり食べづらくないか」
「昔、アイスもこうして食べたよ」
「覚えてない」
「私は覚えてる」
千尋が一口かじり、俺へ差し出す。
赤い飴には、小さな歯形が残っていた。
受け取ろうとすると、凛花が横からりんご飴を奪った。
「あたしも食べる」
「凛花のじゃないよ」
「みんなで食べた方がおいしいでしょ」
凛花はそう言って、反対側を大きくかじった。
顔が必死だった。
嫉妬を隠すために、口の中をりんごでいっぱいにしている。
「喉に詰まらせるなよ」
「子供じゃない」
「口に入れたまま話すな」
俺が笑うと、凛花は頬を膨らませたまま睨んできた。
その姿が六年前と変わらなくて、また笑ってしまう。
「何笑ってんのよ」
「いや、可愛いなと思って」
凛花の動きが止まった。
美月も。
小春も。
千尋も。
俺自身も止まった。
自然に言ってしまった。
凛花は顔を真っ赤にし、口元を袖で隠した。
「……ばか」
「悪い」
「謝るな」
「じゃあ、可愛い」
「二回言うな!」
凛花は逃げるように、参道の先へ歩き出した。
しかし数歩進んだところで止まり、振り返る。
「早く来なさいよ」
俺を待っている。
その顔はまだ赤かった。
俺は三人と千尋を連れ、凛花のもとへ向かった。
境内の奥では、花火を知らせる太鼓が鳴り始めていた。
夜空はすっかり暗い。
もうすぐ、花火が上がる。
六年前にも、俺たちはこの祭りへ来た。
けれどその時、最後まで一緒にはいられなかった気がする。
何があったのか。
なぜか、その部分だけ記憶が曖昧だった。
凛花は人混みの向こうで、俺を見ている。
美月は腕に触れたまま。
小春は手を握っている。
千尋は一歩前を歩きながら、何度も振り返る。
夜空に、一発目の花火が上がった。
大きな音とともに、白い光が開く。
その瞬間。
「悠真兄ちゃん」
美月の声がした。
いつもの甘い声ではなかった。
「六年前の夏祭り、覚えてる?」
花火の光に照らされた美月の顔から、笑顔が消えていた。
凛花も足を止める。
小春は俺の手を握ったまま、少しだけ俯いた。
千尋も振り返る。
「六年前、悠真兄ちゃんはここで約束したよね」
胸の奥で、何かが動いた。
忘れていた記憶の蓋が、花火の音に震える。
美月の濡れた目。
怒鳴る凛花。
黙って服を掴む小春。
そして俺が口にした、無責任な言葉。
次の花火が上がる。
赤い光の下で、美月が俺をまっすぐ見つめていた。
「今度は、ちゃんと覚えてる?」
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