第26話 最初は私だから
祖父母の家に戻った頃には、空は夕焼けから群青色へ変わり始めていた。
山の端に残っていた橙色が、少しずつ夜に飲み込まれていく。田んぼからは蛙の声が聞こえ、庭先では蚊取り線香の煙が細く揺れていた。
玄関で千尋と別れる。
「今日はありがとう」
千尋は俺に向かって、少しだけ頭を下げた。
「こっちの台詞だろ。手紙まで受け取ったし」
「ううん。ずっと渡したかったから」
千尋は俺のポケットへ視線を落とす。
そこには、六年前の手紙が入っている。
「大事にしてね」
「ああ」
「なくしたら怒るから」
「小春みたいなこと言うな」
俺が苦笑すると、千尋も笑った。
そのやり取りを、三人は少し離れた場所から見ていた。
美月は笑っている。
小春は無表情。
凛花は、明らかに不満そうだった。
「じゃあ、またね。佐伯」
「またな」
千尋が夕暮れの道を歩いていく。
その背中が見えなくなる前に、美月が俺の隣へ並んだ。
「また会うの?」
「町にいるんだから、会うこともあるだろ」
「二人で?」
「……それは」
言葉に詰まった瞬間、小春が俺の反対側に立った。
「事前申告が必要です」
「俺の外出は許可制なのか?」
「前例があります」
今日のことだ。
反論できない。
凛花は何も言わず、俺たちの横を通り過ぎた。
「凛花?」
「帰る」
「夕飯食べていかないのか」
「食欲ない」
凛花は振り返らなかった。
俺の胸に、何かが引っかかった。
喫茶店では自分の気持ちを口にして、学校では俺の手を掴んだ。少しずつ機嫌を直してくれたように見えていた。
けれど、そんなに簡単な話ではなかったのだろう。
千尋の手紙を、俺は受け取った。
それを拒まなかった。
未来の俺たちの時間を作ろうと言いながら、千尋にも「これからも話したい」と伝えた。
凛花からすれば、安心できる要素など一つもない。
「追いかける?」
美月が聞いた。
俺は少し迷った。
「今は、やめておく」
「どうして?」
「あいつ、たぶん一人で考えたいんだと思う」
美月は俺をじっと見た。
「わかるんだ」
「昔から、怒ってる時に追いかけると余計に怒るから」
六年前もそうだった。
凛花は本当に助けてほしい時ほど、「放っておいて」と言う。
だから俺は、少し待つことにした。
ただし、逃げるつもりはなかった。
◆
夕飯を食べ、風呂を済ませたあと、俺は一人で縁側に座っていた。
庭はすっかり暗くなっている。
軒下に吊るされた風鈴が、夜風に揺れる。昼間の熱を残した縁側の板は少し温かく、素足を乗せると妙に落ち着いた。
手には、千尋の手紙。
もう一度開く。
――もし佐伯が誰かを好きになっていても、困った顔をして逃げないでください。
「簡単に言ってくれるよな」
六年前の千尋に文句を言っても仕方がない。
俺はずっと、誰も傷つけたくないと思っていた。
けれど、それは優しさではなく、臆病なだけなのかもしれない。
何も選ばず。
誰にも答えず。
夏が終われば都会へ戻る。
それなら、俺だけは傷つかずに済む。
でも、残される側は違う。
六年前と同じだ。
俺は何も決めずに町を出て、残った三人と千尋が、六年間それぞれの感情を抱えることになった。
同じことは繰り返したくない。
だからといって、今すぐ答えが出るわけでもない。
「……難しいな」
「今さら気づいたの?」
声がして、顔を上げた。
庭の入り口に凛花が立っていた。
白いTシャツに短パンという簡単な格好で、手には二本の瓶ラムネを持っている。暗がりの中でも、不機嫌そうな顔がわかった。
「帰ったんじゃなかったのか」
「帰ったわよ。一回」
「じゃあ何で戻ってきた」
「ばあちゃんが、これ持っていけって」
凛花はそう言って、縁側に上がる。
俺の隣へ腰を下ろし、ラムネを一本押しつけてきた。
瓶は冷たかった。
「ありがとう」
「ばあちゃんに言って」
「持ってきたのはお前だろ」
「ついで」
凛花は自分のラムネを開けようとして、蓋を何度か押した。
しかし玉が落ちない。
力の入れ方が悪いらしい。
「貸せ」
「自分でできる」
「六年前もそれ言って開けられなかっただろ」
「今はできる」
「手、赤くなってるぞ」
凛花はしばらく抵抗したあと、無言で瓶を差し出した。
俺が蓋を押すと、ぽん、と軽い音がしてビー玉が落ちる。中の炭酸が白く泡立った。
「ほら」
「……ありがと」
凛花は瓶を受け取り、一口飲んだ。
俺たちはしばらく、何も話さなかった。
庭から虫の声がする。
風鈴が鳴る。
縁側に並んでラムネを飲むだけの時間は、六年前にもあった。
でも今は、沈黙の意味が違う。
「手紙、読んでたの」
凛花が言った。
「ああ」
「そんなに大事?」
問いかける声は、棘を作ろうとしていた。
けれど、その奥にある不安は隠せていなかった。
「大事だよ」
「……そう」
「千尋が六年間持ってたものだから」
凛花の指が、ラムネの瓶を強く握る。
俺は続けた。
「でも、お前の絆創膏も大事だ」
「何よ、急に」
「美月の包み紙も、小春のビー玉も」
俺は首元の巾着に触れた。
「比べるものじゃないと思ってる」
「逃げてるだけじゃない?」
凛花は鋭く言った。
胸を突かれた。
俺は一度黙ったあと、首を振る。
「そうかもしれない」
「認めるんだ」
「今すぐ誰か一人を選べって言われても、俺には無理だ」
凛花は俯いた。
「でも」
俺は凛花の方へ向き直る。
「誰も選ばずに町を出て、全部なかったことにするつもりもない」
凛花がゆっくり顔を上げた。
「夏が終わったら、帰るんでしょ」
「大学があるからな」
「じゃあ、結局いなくなる」
「いなくなることと、忘れることは違う」
「六年前も、そんなこと言ってた」
凛花の声が震えた。
俺は言葉を失う。
「忘れないって言った。絶対帰ってくるって言った。でも、六年も来なかった」
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
凛花はラムネを縁側に置いた。
そのまま両手を膝の上で握る。
「あたし、千尋さんが嫌いなわけじゃない」
「わかってる」
「美月や小春にだって、本気で消えてほしいとか思ってない」
「それも、たぶんわかってる」
「でも、悠真の隣に誰かがいると、嫌なの」
凛花は顔を上げた。
泣いてはいなかった。
けれど、目は潤んでいた。
「あたしがいないところで楽しそうにされると、置いていかれたみたいになる」
その言葉は、幼い頃の凛花と重なった。
美月が俺の手を握った時。
小春が俺の背中に隠れた時。
凛花はいつも怒りながら、俺の服を掴んでいた。
置いていかれないために。
俺はラムネを置き、凛花の手に触れた。
びくりと肩が揺れる。
それでも凛花は、手を引かなかった。
「今日は悪かった」
「……何が」
「黙って千尋に会ったこと」
「楽しかった?」
「ああ」
正直に答えた。
凛花の眉が寄る。
「でも、凛花が来てくれて安心した」
「何それ」
「怒られるとは思ったけど」
「安心する要素ないでしょ」
「お前が俺の隣にいるのが、当たり前になってるんだと思う」
凛花の目が大きくなった。
言った俺自身も、少し驚いていた。
けれど嘘ではない。
この町へ戻ってから、凛花はずっと近くにいた。
怒って、強がって、俺の腕を掴んで。
その存在がなくなれば、きっと落ち着かない。
「……ずるい」
凛花が呟いた。
「またそれか」
「そういうこと、急に言うから」
凛花は俺の手を握り返した。
指が絡む。
手を繋ぐというより、逃がさないように確かめる握り方だった。
「少しだけ、このまま」
「ああ」
「美月たちには言わないで」
「わかった」
「千尋さんにも」
「言わない」
「約束」
「約束する」
凛花は俺の肩へ、そっと頭を預けた。
触れた髪から、石鹸の匂いがする。
いつもの凛花なら、こんなことをした直後に照れて離れるはずだった。
けれど今夜は動かなかった。
俺も動かなかった。
肩に伝わる重さは軽い。
なのに、胸の奥では六年分の時間を預けられたように感じた。
「悠真」
「何だ」
「明日、夏祭りがある」
「そうなのか?」
「忘れたの?」
「六年も前だからな」
「神社の祭り。花火も上がる」
凛花は俺の肩に頭を乗せたまま言った。
「一緒に行くから」
「それは決定なのか」
「決定」
「美月と小春も来るだろ」
「……千尋さんも、たぶん」
「そうだな」
凛花の手に、少し力が入った。
「でも、最初に見つけるのはあたしだから」
「何を?」
「浴衣姿の悠真」
「俺も浴衣なのか?」
「ばあちゃんが用意してた」
外堀が完全に埋められている。
俺は苦笑した。
「じゃあ、俺も最初に凛花を見つける」
凛花の身体が固まった。
「……本当に?」
「ああ」
「美月より先に?」
「お前が先に来ればな」
「絶対先に行く」
凛花は顔を上げた。
目元はまだ少し赤い。
けれど、ようやく笑っていた。
「約束だから」
「ああ。約束」
風鈴が鳴る。
首元のビー玉が揺れ、縁側に置いたラムネの瓶の中でも、透明な玉が小さな音を立てた。
明日は夏祭り。
美月も、小春も、千尋も来る。
きっとまた、平穏とはほど遠い夜になる。
それでも今だけは、隣にいる凛花の手を離さずにいた。
六年前に繋げなかった手を。
今度こそ、置いていかないと伝えるように。
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