第25話 未来の君へ
土の中から掘り出された封筒は、六年という時間をそのまま吸い込んだように、薄く黄ばんでいた。
表面には、幼い字で俺の名前が書かれている。
――未来の佐伯悠真へ。
たったそれだけの文字なのに、妙に手を伸ばしづらかった。
千尋が今の俺へ書いた手紙ではない。まだ俺がこの町にいて、いつか離れることすら知らなかった頃の千尋が、未来にいるはずの俺へ向けて残したものだ。
その未来が今日だとするなら、これは本来、俺だけが受け取るべきものなのだろう。
けれど俺の手首には、凛花の指が絡んでいる。
右側では美月が服の裾を握り、小春は封筒から目を逸らさない。
誰も声を荒らげてはいない。
だからこそ、空気が重かった。
「凛花」
俺が名前を呼ぶと、凛花の指がわずかに震えた。
「……何よ」
「これは、千尋が俺に書いた手紙だ」
「わかってる」
「だったら」
「わかってるって言ってるでしょ」
凛花は俺の手首から指を離した。
だが、その顔は納得しているようには見えなかった。
唇をきつく結び、泣くことも怒ることも我慢している。自分には止める権利がないと理解しているから、余計に苦しいのだろう。
六年前の千尋に嫉妬しても仕方ない。
頭では、きっとわかっている。
それでも、感情はそんなに行儀よく並んでくれない。
「読めば」
凛花は吐き捨てるように言った。
「一人で読めばいいじゃない」
「凛花ちゃん」
美月がたしなめるように呼ぶ。
けれど美月も、俺の裾を離していなかった。
千尋はそんな三人を見て、封筒を持つ手を胸元へ戻した。
「無理に今、読まなくてもいいよ」
「でも、俺が帰ってきたら開けるつもりだったんだろ」
「うん。でも」
千尋は少し困ったように笑う。
「こんな顔をさせるつもりじゃなかったから」
凛花が目を伏せる。
美月の指にも力が入る。
小春だけは表情を変えなかったが、視線が一瞬、千尋の封筒から俺の首元の巾着へ落ちた。
青いビー玉。
千尋には手紙がある。
小春にはビー玉がある。
美月には包み紙があり、凛花には古い絆創膏がある。
形は違っても、それぞれが六年前から残してきたものだ。
どれが重いかなんて、比べられるはずがない。
「千尋」
「何?」
「読んでもいいか」
千尋は俺を見つめた。
それから、静かに頷いた。
「うん」
差し出された封筒を受け取る。
紙は少し柔らかくなっていた。力を入れれば破れてしまいそうで、俺はなるべく慎重に封を開けた。
中には、折り畳まれた便箋が一枚入っている。
開く。
丸くて、少し歪んだ子供の字。
俺は最初の一行を読んだ。
そして、思わず息を止めた。
『未来の佐伯へ。大人になっても、まだみんなにやさしいですか』
その言葉だけで、胸の奥が苦しくなった。
六年前の千尋が知っていた俺は、きっと自分が優しい人間だなんて疑っていなかった。
泣いている美月を慰める。
強がる凛花を助ける。
黙ってついてくる小春の手を引く。
宿題を忘れた同級生にノートを貸す。
俺にとっては、ただそうしたかったからしただけだ。
でも、その何気ない行動を、誰かは覚えていた。
『佐伯は、困った顔をしながら、いつも誰かを助けます。だから大人になった佐伯も、きっと困っていると思います』
今の俺を見て書いたのではないかと思った。
実際、俺は困っている。
四人から向けられる感情をどう受け止めればいいのかわからず、夏が終わった後のことも決められず、誰かを傷つけるのが怖くて、都合のいい言葉ばかり選んでいる。
『でも、困った時は、誰かに助けてもらってください』
便箋を持つ指に、少し力が入った。
『私は佐伯に、何度も助けてもらいました。でも、私が佐伯を助けたことは、あまりありません。だから未来では、私が佐伯を助けられる人になっていたらいいです』
千尋を見る。
千尋は何も言わなかった。
ただ、少し不安そうな目で、俺が手紙を読む姿を見ている。
『それから、これは書くか迷いました。でも未来の私なら、今より勇気があると思うので書きます』
次の行だけ、何度も書き直した跡があった。
『私は佐伯のことが好きです』
単純な一文だった。
今の千尋から、すでに聞いた言葉。
それでも、六年前の文字で読むと、重さが違った。
『未来の私がまだ佐伯を好きだったら、ちゃんと言えているといいです』
手紙は、そこで終わっていた。
最後に、小さな字で追伸がある。
『もし佐伯が誰かを好きになっていても、困った顔をして逃げないでください』
「……見透かされすぎだろ」
思わず呟いた。
「何て書いてあったの?」
美月が静かに聞く。
俺はすぐには答えなかった。
これは千尋の手紙だ。
内容を勝手に話すべきではない。
千尋を見ると、彼女は小さく頷いた。
「大丈夫。話しても」
「でも」
「もう、言ったから」
千尋は少し照れたように目を伏せた。
「好きだったことは、みんな知ってるし」
その言葉に、凛花の肩がわずかに揺れる。
俺は手紙の内容を、できるだけ丁寧に伝えた。
俺が大人になっても誰かに優しくしているか。
困った時は誰かに助けてもらってほしいこと。
未来の千尋が、俺を助けられる人になっていたらいいということ。
そして。
未来でも好きなら、きちんと伝えていてほしいということ。
すべて話し終えると、誰もすぐには口を開かなかった。
夏の風が木の葉を揺らす。
掘り返された土の匂い。
遠くで鳴く蝉の声。
小春が、最初に口を開いた。
「千尋さんは、悠真お兄さんを助けたいのですね」
「うん」
「私は、離れないようにしたいです」
小春は首元の巾着へ視線を向ける。
「似ていますが、違います」
千尋は少し考えてから頷いた。
「そうかもしれないね」
美月は俺の裾を握ったまま、手紙を見ていた。
「私は、悠真兄ちゃんに帰ってきてほしかった」
「美月」
「帰ってきた後のこと、ちゃんと考えてなかった」
美月は笑った。
けれど、その笑顔は少しだけ寂しかった。
「帰ってきたら、六年前の続きが始まると思ってた。でも、悠真兄ちゃんには私たちの知らない六年間があって、千尋さんのこともあって」
美月の指が、ゆっくり裾から離れた。
「帰ってきても、全部が昔のままになるわけじゃないんだね」
それは、彼女が初めて口にした諦めに似ていた。
俺は美月の手を取った。
考えるより先に動いていた。
「昔のままじゃない」
美月が俺を見る。
「でも、なくなったわけじゃない」
俺は彼女の手を包む。
「六年前の続きじゃなくても、今から作ればいいだろ」
美月の目が大きくなる。
言ってから、自分の言葉の甘さに気づいた。
凛花がこちらを睨む。
小春もじっと見ている。
千尋まで少し驚いている。
また俺は、後先を考えずに約束のような言葉を吐いたのかもしれない。
けれど、美月の寂しそうな顔を見たままにはできなかった。
「……私だけ?」
美月が小さく聞いた。
「何が?」
「今から作るの」
俺は答えに詰まった。
すると凛花が、美月とは反対側から俺の手を掴んだ。
「あたしもだから」
「凛花?」
「六年前の続きじゃなくて、今の悠真との時間」
凛花は顔を赤くしながら、それでも手を離さなかった。
「勝手に美月だけにあげないで」
小春が俺の背後へ回る。
肩に、額が触れた。
「私も必要です」
「何が?」
「これからの記憶」
小春の声は耳元で静かに響いた。
「悠真お兄さんが忘れられないくらい、増やします」
千尋は三人を見たあと、少しだけ笑った。
けれど、その笑顔の奥に、薄い寂しさがあった。
「やっぱり、私は入る隙ないかな」
俺は千尋を見る。
「そんなことない」
即答していた。
三人の気配が、一斉に強くなる。
しまった。
だが、ここで言葉を引っ込める方が、もっと卑怯だ。
「千尋との六年間も、俺は知らなかった。でも今、知った」
俺は手紙を丁寧に折り畳む。
「だから、これからも話したい」
千尋の瞳が、わずかに潤んだ。
「友達として?」
その問いは穏やかだった。
けれど逃げ道はない。
「今は、それ以上を約束できない」
正直に答えた。
「でも、千尋を遠ざけるつもりもない」
千尋はしばらく黙っていた。
それから、少し困ったように笑った。
「今は、それでいい」
彼女は手を差し出した。
「手紙、佐伯が持ってて」
「いいのか?」
「未来の佐伯宛てだから」
俺は便箋を封筒へ戻し、受け取った。
首元には小春のビー玉。
ポケットには千尋の手紙。
右手には美月。
左手には凛花。
背中には、小春の額の温度。
重い。
物理的にも、感情的にも。
それなのに、不思議と逃げたいとは思わなかった。
「帰ろうか」
俺が言うと、四人がそれぞれ頷いた。
埋めた穴を戻し、土をならす。
タイムカプセルは開けた。
六年前の言葉も、ようやく未来へ届いた。
けれど俺たちの間には、まだ開けられていないものがいくつもある。
美月の本当の願い。
凛花が怒りの奥に隠している不安。
小春が静かに抱えている執着。
千尋の「今」の気持ち。
そして、俺自身が誰をどう思っているのか。
坂道を下りながら、俺はポケットの封筒をそっと押さえた。
六年前の千尋は、未来の俺に逃げるなと書いていた。
ずいぶん無茶な注文だと思う。
だが、今度こそ。
少なくとも、困った顔をしたまま目を逸らすことだけは、やめなければならないのかもしれない。
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