第24話 過去からのメッセージ
六年前の学校へ行く話は、翌日の午前中に実行されることになった。
決定までに、俺の意思がどの程度尊重されたのかはわからない。
千尋が「明日はどう?」と聞き、美月が「空いてるよ」と答え、凛花が「別に行ってもいい」と腕を組み、小春が「予定に登録しました」と頷いた。
その間、俺は一度も自分の予定を確認されていない。
まあ、予定などなかったので結果的には問題ない。
ただ、この調子でいくと夏休みが終わる頃には、俺の人生の予定表そのものが四人に管理されていそうで怖かった。
学校までは、祖父母の家から歩いて二十分ほどだった。
昔は毎朝通っていた道だ。
用水路の脇を抜け、古い住宅街を曲がり、長い坂を上る。記憶の中ではもっと距離があったはずなのに、今歩くと驚くほど近い。
子供の頃の世界は、何もかもが大きかった。
坂道は山みたいに長く、校庭はどこまでも広く、夏休みは永遠に続くものだと思っていた。
今では、そのどれにも終わりが見える。
「佐伯、そこ」
千尋が道端の古い電柱を指差した。
「昔、ぶつかったよね」
「誰が」
「佐伯が」
「記憶にない」
「私に手を振りながら歩いてて、正面から」
千尋は思い出し笑いを堪えるように口元を押さえた。
俺の左右から、視線が刺さる。
「千尋さんに手、振ってたんだ」
美月が柔らかい声で言った。
「登校中だぞ。知り合いなら振るだろ」
「私には?」
「毎朝家まで迎えに来てただろ」
「じゃあ、手を振る必要なかったね」
美月は納得したように微笑んだ。
何に納得したのかは、あえて聞かない。
凛花は例の電柱を見ながら、鼻で笑った。
「悠真、昔から間抜けだったのね」
「お前は木から降りられなくなっただろ」
「それとこれは別」
「何が別なんだよ」
「千尋さんを見て電柱にぶつかったこと」
「いや、別に見惚れてたわけじゃないぞ」
言った瞬間、千尋が少しだけ顔を赤くした。
凛花がそれを見逃すはずもない。
「……へぇ」
「何だよ」
「別に」
声に、別にではない何かが詰まっていた。
小春は半歩後ろから、電柱をじっと見ていた。
「保存しますか」
「何を?」
「悠真お兄さんが千尋さんを見ながら衝突した電柱として」
「歴史的建造物にするな」
小春はスマホで一枚だけ写真を撮った。
消してくれと言ったが、聞こえなかったことにされた。
◆
坂の上に、校舎が見えた。
白い壁。
青い時計。
校門脇に植えられた桜の木。
何度も夢に出たわけではない。
都会で暮らしている間、毎日のように思い出したわけでもない。
それでも、目にした瞬間、胸の奥に眠っていたものが一斉に起き上がった。
朝のチャイム。
チョークの粉。
体育館のワックスの匂い。
夏場になると妙に熱くなった窓際の席。
廊下を走って先生に怒鳴られた声。
六年前まで、ここが俺の日常だった。
「……小さくなったな」
俺が呟くと、千尋が隣で頷いた。
「私も、久しぶりに来た時そう思った」
「校庭、もっと広かった気がする」
「佐伯の足が短かったからじゃない?」
「感傷を壊すな」
千尋が笑った。
その自然なやり取りに、美月たち三人が少しだけ置いていかれたような顔をした。
この学校に通っていたのは、俺と千尋だ。
三人にもそれぞれ学校の記憶はあるだろう。だが、同じ教室、同じ先生、同じ授業を共有していたのは千尋だけだ。
その事実が、目に見えない壁になっている。
気づいた俺は、美月の方を振り返った。
「お前らも、昔この校庭まで迎えに来てたよな」
美月の表情が少し明るくなる。
「うん。悠真兄ちゃんが終わるまで、校門の前で待ってた」
「雨の日もいたよな」
「傘、持っていったから」
「自分の分しかなかったけどな」
「一緒に入ればよかったから」
美月は、今になって正解を教えるみたいに言った。
凛花も腕を組みながら口を挟む。
「あたしは別に迎えじゃなかったけど」
「毎日いたぞ」
「通り道だったの」
「お前の家、逆方向だろ」
「……昔のことは覚えてない」
「都合の悪い記憶だけ消すな」
凛花は顔を赤くして、俺の背中を軽く叩いた。
小春は校門の柱にそっと触れた。
「ここから、見ていました」
「何を?」
「悠真お兄さんが出てくるところを」
「お前も待ってたのか」
「はい」
小春は淡々と答える。
「誰より先に見つけるためです」
それは可愛らしい競争の話に聞こえた。
けれど、小春の目は当時の校門を本当に見ているようだった。
六年前。
俺が友達と笑いながら校舎から出てくる。
美月たちは校門の前で待っている。
その中で小春だけが、誰より先に俺を見つけようと、瞬きもせず昇降口を見ていた。
そんな光景が、簡単に想像できた。
「今日は俺が先に見つけたな」
俺がそう言うと、小春が顔を上げた。
「何をですか」
「お前がここに残してた記憶」
小春は少しだけ目を見開いた。
それから、俺の袖を指先でつまんだ。
「では、持って帰ってください」
「ああ」
「なくさないでください」
「努力します」
「約束にしてください」
俺は苦笑した。
「わかった。約束」
小春の指が、袖を掴む力をほんの少し強めた。
◆
校舎には入れなかった。
当然だ。
夏休み中とはいえ、卒業生が勝手に入れば不審者である。
俺たちは校門の外から校庭を眺め、学校の裏にある小さな公園へ回った。
そこには古い鉄棒と、色褪せたベンチがあった。
千尋は公園の隅にある大きな木の前で立ち止まった。
「覚えてる?」
俺は木を見る。
根元の一部が、不自然に少し盛り上がっている。
しばらく考えて、記憶が戻った。
「タイムカプセル」
「そう」
小学校の卒業前、クラス全員で未来の自分宛てに手紙を書いた。
本来なら学校側が保管するはずだったが、俺たちの班だけ、秘密でもう一つ作ったのだ。
缶の中に手紙や小さな品物を入れ、この木の根元へ埋めた。
「まだあるのか?」
「たぶん」
「掘るの?」
美月が聞く。
千尋は少し迷ってから、俺を見た。
「佐伯が帰ってきたら、開けようと思ってた」
その言葉に、凛花の表情が固まる。
「帰ってこなかったら?」
凛花の問いは鋭かった。
千尋は木の根元を見たまま答える。
「ずっと開けなかったと思う」
空気が静かになった。
それは千尋なりの六年間だった。
美月の包み紙。
凛花の絆創膏。
小春のビー玉。
そして千尋の、開けられなかったタイムカプセル。
形は違っても、全員が俺の帰りを条件にした何かを持っていた。
俺は近くに落ちていた丈夫そうな枝を拾い、木の根元へしゃがんだ。
「掘るか」
千尋が目を丸くする。
「いいの?」
「俺が帰ってきたら開ける予定だったんだろ」
その言葉に、千尋は小さく笑った。
「うん」
五人で土を掘った。
凛花が一番豪快で、美月は服が汚れるのを気にせず手伝い、小春は掘る場所を正確に指示した。千尋は昔の記憶を頼りに位置を確認する。
しばらくして、枝の先に硬いものが当たった。
土の中から出てきたのは、錆びた四角い缶だった。
蓋は固く、俺と凛花で力を入れてようやく開いた。
中には、湿気で少し波打った紙が何枚か入っていた。
千尋が一通を取り出す。
そこには子供の字で、俺の名前が書かれていた。
――未来の佐伯悠真へ。
「俺の手紙か」
「ううん」
千尋が首を振った。
「私が、未来の佐伯に書いた手紙」
三人の気配が、変わった。
凛花が千尋を見る。
美月の笑顔がわずかに固まる。
小春は手紙へ視線を落とした。
千尋は封筒を胸元に持ったまま、俺を見つめた。
「読む?」
六年前の千尋が、未来の俺に書いた手紙。
まだ片想いを口にできなかった頃の言葉。
俺は手を伸ばしかけた。
その時、凛花が俺の手首を掴んだ。
「待って」
「凛花?」
凛花は千尋を見ていた。
敵意ではない。
けれど、不安と嫉妬を隠せていない目だった。
「それ、ここで読むの?」
千尋は少し黙った。
美月も俺の服の裾を掴む。
「私も、知りたい」
小春が静かに頷く。
「共有を希望します」
「これは私が佐伯に書いたものだよ」
千尋の声は穏やかだった。
しかし、封筒を持つ手は離さない。
「だから、最初は佐伯だけに読んでほしい」
凛花の指に力がこもった。
俺は手紙と四人の顔を順番に見た。
タイムカプセルを掘り起こしただけのはずなのに。
また一つ、六年前の感情が地中から姿を現した。
しかも今度は、まだ封が開いていない。
俺の夏が平穏になる日は、どうやら本当に来ないらしい。
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