第23話 忘れられない何か
神社を出る頃には、商店街の影が長く伸び始めていた。
西日を受けた古い店先は橙色に染まり、吊るされた風鈴が風に揺れるたび、涼しげな音を落としていく。まだ気温は高い。それでも昼間の刺すような日差しは弱まり、夏の一日がゆっくり終わりへ向かっているのがわかった。
俺たちは五人で、祖父母の家へ戻る道を歩いていた。
美月は俺の右側。
凛花は左側。
小春はいつものように半歩後ろ。
そして千尋は、その少し外側を歩いている。
今まで三人で完成していた包囲網に、新しい人物が加わったせいだろう。陣形が妙に不安定だった。
美月は時折、千尋の方を振り返る。
凛花は気にしていないふりをしながら、千尋が俺に話しかけるたびに歩幅を少し速める。
小春は全員の位置を確認するように視線を動かしている。
千尋だけが、そんな三人の反応を受けながらも穏やかに歩いていた。
強い。
同級生という立場がそうさせるのか、元々こういう性格なのか。少なくとも俺なら、とっくにこの重圧から逃げている。
「佐伯の家に行くの、久しぶり」
千尋が口を開いた。
「来たことあったか?」
「あるよ。小学校の自由研究、一緒にやったでしょ」
「……記憶にない」
「正確には、佐伯が終わってなくて、私が手伝わされた」
「それは大変申し訳ありませんでした」
俺が頭を下げると、千尋は小さく笑った。
「いいよ。佐伯のおばあちゃんがお昼ご飯を出してくれたから」
「何食べた?」
「素麺」
「今日も食べたな」
何気ない会話だった。
それだけなのに、左側から視線が刺さる。
見ると、凛花が不機嫌そうに唇を尖らせていた。
「凛花?」
「何」
「どうした」
「別に」
絶対に別にではない。
だが、喫茶店でのことがあったばかりだ。ここで無理に聞けば、また変な方向へ爆発しかねない。
そう思っていると、凛花が自分から俺の袖を掴んだ。
「……あたしも、悠真の家で自由研究したことある」
「あったか?」
「あった」
「何の?」
「虫」
「雑だな」
「悠真が捕まえたカブトムシ、観察したでしょ」
少しずつ記憶が蘇る。
たしか、凛花がカブトムシを触れないくせに、触れるふりをしていた夏があった。俺が手に乗せて近づけた瞬間、悲鳴を上げて逃げた気がする。
「お前、泣いたよな」
「泣いてない!」
「泣いてた」
「目に汗が入っただけ!」
「室内で?」
「夏だったから!」
無理がある。
俺が笑うと、凛花は顔を赤くして俺の腕を叩いた。
そのやり取りを、美月が少し羨ましそうに見ていた。
「私も、悠真兄ちゃんの家で宿題した」
「美月は途中で寝ただろ」
「起きたら終わってた」
「俺がやったからな」
「嬉しかった」
「教育上は最悪だぞ」
美月はくすくす笑いながら、俺の右袖をつまんだ。
小春も背後から静かに付け加える。
「私は、寝ていません」
「お前はずっと俺を見てた」
「観察日記です」
「題材が俺だったのかよ」
「はい」
即答だった。
千尋が吹き出す。
その瞬間、四人の視線が千尋へ集まった。
千尋は口元を手で押さえながら、それでも笑いを止められないようだった。
「ごめん。でも、変わってないなって思って」
「何が?」
「佐伯がみんなに振り回されてるところ」
言われて、俺は周囲を見る。
右袖を美月に掴まれ、左腕を凛花に叩かれ、背後には小春がいる。
六年前と、何も変わっていない。
ただし、彼女たちの外見と感情の重さだけが、致命的なほど変わっている。
「千尋さんも、そのうち振り回す側になるかもしれないよ」
美月が笑顔で言った。
言葉だけなら歓迎しているようにも聞こえる。
だが、声の奥には細い針が隠れていた。
千尋は少し考えてから答えた。
「私は、振り回すより一緒に歩きたいかな」
美月の笑顔が止まる。
凛花の眉が動く。
小春が無言で千尋を見る。
俺は空を仰いだ。
千尋は穏やかに見えて、時々とんでもない球を投げる。
しかも本人にどこまで自覚があるのかわからない。
◆
家に着くと、縁側にいたばあちゃんが五人になった俺たちを見て、目を丸くした。
「あら、また一人増えたねぇ」
「人を拾ってきたみたいに言うな」
「千尋ちゃんでしょう。大きくなったねぇ」
「お久しぶりです」
千尋が丁寧に頭を下げる。
ばあちゃんは懐かしそうに目を細め、そのまま当然のように全員を家へ上げた。
俺の知らないところで、ばあちゃんと町の人々の繋がりは六年間ずっと続いていたのだろう。俺が忘れかけていた名前も顔も、この家には当たり前のように残っている。
居間には冷えた麦茶と、切ったスイカが出された。
そして当然のように、俺が中央へ座らされる。
右に美月、左に凛花、正面に小春。
千尋は少し離れた向かい側へ座った。
ようやく少し息ができる配置だと思ったが、千尋と正面から目が合うせいで、これはこれで落ち着かない。
「佐伯、スイカの種を飲み込む癖、まだある?」
「そんな癖ない」
「あったよ」
「飲み込んでたんじゃなくて、取るのが面倒だっただけだ」
「同じじゃない?」
千尋が笑う。
俺も笑いながらスイカを口に運ぶ。
すると、美月がじっとこちらを見ていた。
「悠真兄ちゃん」
「何だ?」
「種、取ってあげようか」
「自分でできる」
「昔は取ってあげてたよ」
「逆じゃないか? 俺が取ってやってた気が」
「今度は私がしたいの」
美月は俺の皿へ手を伸ばし、黒い種を一つ丁寧に取った。
その指先が近い。
美月は種を取り終えると、満足そうに微笑んだ。
「はい、食べて」
「いや、食べるけど」
「食べさせようか?」
「そこまではいい」
凛花がすぐ横から割り込む。
「美月、世話焼きすぎ」
「凛花ちゃんもしたい?」
「したくない!」
凛花は即答した。
だが数秒後、自分の皿から種の少ない部分を切り分け、俺の皿に置いた。
「こっち食べれば」
「ありがとう」
「別に。種飲み込んで、お腹からスイカ生えても困るし」
「六年前の迷信をまだ信じてるのか」
「信じてない!」
顔を赤くする凛花を見て、千尋がまた笑った。
凛花はその笑い声に反応し、少しだけ頬を膨らませる。
小春は何も言わず、自分のスイカの種をすべて取り除いたあと、その皿ごと俺に差し出した。
「どうぞ」
「お前の分だろ」
「悠真お兄さん用です」
「全部?」
「はい」
「お前も食べろ」
「では、半分ずつ」
小春は俺の返事を待たず、スイカを小さく割った。
そのうちの半分を自分の口へ運び、もう半分を俺の口元へ差し出す。
「……自分で持つ」
「共有です」
「言い方で押し切るな」
結局、俺が口を開けると、小春はほんの少しだけ目を細めた。
正面では、千尋がその様子を眺めている。
「本当に、昔からこうだったんだ」
「ここまでではなかった」
「そうかな」
「少なくとも、全員もう少し子供だった」
「佐伯もね」
千尋の言葉に、俺は黙る。
そうだ。
俺も子供だった。
守れない約束をして、別れを綺麗なものにしようとして、待つ側の時間を考えなかった。
六年前の俺は、優しいつもりだった。
けれど今思えば、ただ無責任だったのかもしれない。
そんなことを考えていると、ばあちゃんが押し入れから古い箱を持ってきた。
「そうだ。懐かしいものがあったよ」
箱の中には、古い写真が何枚も入っていた。
運動会。
夏祭り。
川遊び。
神社の境内。
祖父母の家の縁側。
俺の知らない写真もあれば、覚えている場面もある。
その一枚を、千尋が手に取った。
「これ」
小学校の卒業式の写真だった。
校門の前で、同級生数人と並んでいる。
中央に俺。
その隣に千尋。
千尋は今より幼い顔で笑っている。そして制服の袖が、俺の袖にわずかに触れていた。
凛花が写真を覗き込む。
「……近くない?」
「記念写真だぞ」
「他にも場所あったでしょ」
美月も反対側から見る。
「千尋さん、悠真兄ちゃんの隣だったんだ」
「たまたまね」
「本当に?」
千尋は一瞬だけ黙った。
それから、少し照れたように笑った。
「半分は、たまたま」
空気が変わった。
残り半分の意味を、誰も聞かなくても理解した。
凛花が俺の袖を掴む。
美月が写真と俺を交互に見る。
小春は無言で箱の中を探り、別の写真を取り出した。
そこには、六年前の俺と三人が写っていた。
俺の右に美月。
左に凛花。
背後に小春。
今と同じ配置だった。
「こちらが正式です」
「何の正式だ」
「配置です」
小春は真顔だった。
千尋は二枚の写真を見比べて、少しだけ寂しそうに笑った。
「やっぱり、強いな」
小さな声だった。
美月と凛花には聞こえなかったかもしれない。
でも、俺には聞こえた。
俺は千尋を見る。
千尋はすぐ、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「佐伯、今度昔の学校にも行こうよ」
「ああ。いいな」
俺が答えた瞬間、左右から服を引かれる。
「私も行く」
美月。
「あたしも」
凛花。
「同行します」
小春。
千尋は三人を見て、少しだけ目を丸くしたあと、笑った。
「じゃあ、みんなで行こう」
その言葉に、三人は何も返さなかった。
拒絶はしない。
だが、完全に受け入れてもいない。
その微妙な距離が、今の俺たちらしかった。
俺は二枚の写真を見下ろす。
同級生と笑う俺。
三人に囲まれて笑う俺。
どちらも六年前の俺だ。
そして、どちらの隣にも、俺が知らなかった感情があった。
首元のビー玉が、胸に触れる。
夏はまだ続く。
六年前の学校へ行けば、きっとまた何かが見つかる。
俺が忘れていたもの。
彼女たちが忘れられなかったもの。
そしてたぶん、誰かがまだ口にしていないものまで。
俺は写真を箱へ戻しながら、嫌な予感と、少しの期待を同時に抱いていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




