第22話 戻るかもしれない
喫茶店を出たあと、俺たちはしばらく商店街を歩いた。
先頭を歩くのは、美月だった。
右手に買い物袋を持ち、左手は何も持っていない。けれど、その空いた手が時々こちらへ伸びかけて、すぐに引っ込む。いつもなら当然のように俺の腕を取る美月が、今だけ少し遠慮している。
その距離が、逆に落ち着かなかった。
左隣には凛花がいる。
喫茶店では俺の腕を掴んでいたのに、店を出てからは少し距離を取っている。怒っているわけではない。むしろ、怒りを出し切った後の気まずさみたいなものが横顔に残っていた。
半歩後ろには小春。
いつもの位置だ。
ただ、今日はその視線がいつも以上に鋭い気がする。俺の首元の巾着、手元、歩幅、呼吸の乱れまで全部記録しているのではないかと疑いたくなるほどだった。
そして、少し離れて千尋が歩いている。
同級生としての自然な距離。
美月たちのように密着するでもなく、凛花のように腕を掴むでもなく、小春のように背後を取るでもない。けれど、だからこそ妙に意識してしまう。
この町の空気が、また少し変わっていた。
昨日までは、俺と三人の夏だった。
そこに千尋が加わったことで、六年前の教室の匂いまで混ざり始めている。
商店街の風鈴が、ちりんと鳴った。
その音に、千尋が顔を上げる。
「この音、懐かしい」
「葉山もよくここ通ってたのか」
「うん。学校帰りに。佐伯が駄菓子屋の前で美月ちゃんたちに捕まってるの、何回も見た」
「捕まってるって言うな」
「でも捕まってたよ」
千尋はくすっと笑った。
「凛花ちゃんがリュック掴んで、美月ちゃんが袖掴んで、小春ちゃんが後ろにいて。佐伯、毎回困った顔してた」
「……今と変わってないな」
「変わってないね」
千尋が笑う。
その瞬間、凛花がぴくりと反応した。
「千尋さん」
「うん?」
「あんまり昔から見てました感出さないでもらえる?」
「出してるつもりはないんだけど」
「出てる」
凛花の声には棘があった。
ただ、さっきの喫茶店での刺すような棘ではない。どちらかといえば、自分の場所を主張するために無理やり立てた棘だった。
千尋は困ったように笑う。
「ごめんね。でも、本当に見てたから」
「……そういうとこ」
「凛花」
俺が口を挟むと、凛花はふいっと顔を逸らした。
「別に怒ってない」
「怒ってるだろ」
「怒ってない。ちょっと面白くないだけ」
「それを怒ってるって言うんじゃないのか」
「違う」
凛花は俺の言葉を切ってから、小さく付け足した。
「嫉妬」
俺は足を止めかけた。
美月も前で少しだけ振り返る。
小春は瞬きひとつしない。
千尋は驚いたように目を丸くした。
凛花は自分で言っておきながら、顔を真っ赤にしていた。
「……何よ。言わなきゃわからないでしょ、悠真は」
その言葉は、喫茶店での言葉よりずっと直接的だった。
凛花が、自分の弱いところをそのまま差し出してきたような声だった。
俺は何も言えなくなる。
言葉を探しているうちに、美月が戻ってきた。
「凛花ちゃん、ずるい」
「は?」
「そういうふうに言えたら、悠真兄ちゃん、困るもん」
「美月だっていつも困らせてるでしょ」
「私は甘えてるだけだよ」
「それが一番ずるいのよ」
凛花と美月が睨み合う。
だが、喧嘩のようでいて、どこかじゃれ合いにも似ていた。
小春が静かに俺の袖をつまむ。
「悠真お兄さん」
「何だ」
「私も嫉妬しています」
「さらっと言うな」
「凛花さんの申告により、私も申告する必要があると判断しました」
「会議か?」
「共有です」
小春はいつもの無表情で、しかし指先だけは俺の袖を離さない。
「千尋さんは、私たちの知らない悠真お兄さんを知っています」
「ああ」
「それは、嫌です」
静かな言葉だった。
けれど、真っ直ぐだった。
小春は続ける。
「ですが、知りたいです」
「……何を?」
「千尋さんが知っている悠真お兄さんを」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
てっきり、小春は千尋を遠ざけようとしているのだと思っていた。
美月も凛花も、千尋を敵として見るのだと。
けれど、違う。
少なくとも小春は、自分たちの知らない俺を恐れながら、それでも知ろうとしている。
美月が小春を見た。
「それ、私も知りたい」
凛花は不満そうに口を尖らせたが、少ししてからため息をついた。
「……まあ、知らないままなのは、もっと嫌」
千尋は三人を見て、それから俺を見る。
「佐伯、愛されてるね」
「今それを言うと俺が死ぬ」
「でも本当のことだし」
「やめてくれ」
顔が熱くなる。
この状況で真正面から言われると、逃げ場がない。
美月が嬉しそうに俺を見る。
凛花が照れ隠しに睨む。
小春が袖をつまむ力を少しだけ強める。
千尋まで、どこか楽しそうに笑っている。
俺はもう、どこに視線を置けばいいのかわからなかった。
◆
そのまま帰るには、空気が複雑すぎた。
だから、というわけでもないが、俺たちは商店街の端にある小さな神社へ寄ることになった。
六年前、学校帰りに何度も通った場所だ。
今の秘密基地の神社とは違う。商店街の守り神みたいな小さな社で、鳥居も低く、境内も狭い。けれど木陰があり、古いベンチが一つ置かれている。
千尋がそこで足を止めた。
「ここ、覚えてる?」
「もちろん」
「中学の時、佐伯がここで宿題写してた」
「覚えてなくていいことを覚えてるな」
「私のノートだったし」
「その節はお世話になりました」
俺が頭を下げると、千尋は笑った。
そのやり取りに、凛花がむっとした顔をする。
「宿題写させてもらってたの?」
「たまにな」
「最低」
「ぐうの音も出ない」
美月がくすっと笑う。
「悠真兄ちゃん、昔からそういうところあったんだ」
「俺の評価が下がっていく」
「私は、そういう悠真兄ちゃんも好きだよ」
何気なく落とされた言葉に、俺の心臓が跳ねた。
美月は微笑んだまま、ベンチに座る。
言った本人は平然としているように見えるが、耳が少し赤い。狙っているのか天然なのか、もはや判別不能だ。
凛花が対抗するように、俺の隣に腰を下ろした。
「あたしは、宿題写す男はどうかと思う」
「正論だな」
「でも、ちゃんと謝れるなら許す」
「許してくれるのか」
「……あたしには、ちゃんと頼みなさいよ」
声が小さい。
つまり、頼られたいらしい。
俺は少し笑った。
「じゃあ今度、何か困ったら頼る」
凛花の顔が一気に赤くなった。
「べ、別に今すぐとは言ってない!」
「今度って言っただろ」
「うるさい!」
小春が俺の反対側に座る。
「私は、宿題を写させません」
「厳しい」
「代わりに、隣で解きます」
「優しいのか厳しいのかわからない」
「最後まで見ます」
小春は淡々と言った。
それは勉強の話のはずなのに、妙に別の意味を帯びて聞こえた。
千尋は俺たちを見て、少し眩しそうに目を細めた。
「やっぱり、いいな」
「何が?」
「佐伯の周りって、昔から賑やかだったんだなって」
「本人は命がけだけどな」
「でも、嫌じゃなさそう」
千尋の指摘に、俺は黙った。
嫌ではない。
それが問題だった。
美月の甘さも、凛花の不器用さも、小春の静かな執着も、千尋の懐かしい距離感も。
全部が俺を困らせる。
けれど、全部が嫌ではない。
むしろ、心地よさすらある。
その事実が、一番まずい。
なぜなら、俺は夏が終わればこの町を出る。
大学へ戻る。
元の生活に戻る。
そう思っていた。
でも、この町で受け取るものが増えれば増えるほど、その「戻る」という言葉の輪郭が揺らいでいく。
「佐伯」
千尋が俺を呼んだ。
「また話そうね」
美月がすぐにこちらを見る。
凛花の膝が俺の膝に軽く当たる。
小春が巾着の紐を指で押さえる。
俺はその全部を感じながら、千尋を見た。
「ああ。また話そう」
そう答えた瞬間、三人の気配が変わった。
美月は笑ったまま、少しだけ俺に寄る。
凛花は俺の腕を掴む。
小春は小さく頷く。
「では、私たちも同席します」
「やっぱりそうなるのか」
「当然でしょ」
凛花が即答した。
「悠真を一人にしたら、またこうなるし」
「こうって何だ」
「知らない間に、女の子から好きだったって言われる」
「俺のせいなのか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「悠真が鈍いせい」
「全部俺じゃねぇか」
美月がにこにこと笑う。
「大丈夫だよ。次からは、ちゃんと一緒に聞くから」
「何を?」
「悠真兄ちゃんの知らない六年間」
小春が続ける。
「回収します」
「借金みたいに言うな」
「実際、未回収です」
反論できないのが悲しい。
千尋はそのやり取りを見て、肩を震わせて笑った。
「じゃあ、次はみんなで」
その言葉は、柔らかかった。
そして少しだけ強かった。
千尋もまた、この輪の外にいるつもりはないのだろう。
美月と凛花と小春が、そのことに気づかないはずがなかった。
空気はまた少しだけ張り詰める。
けれど、さっきみたいな刺すようなものではない。
もっと甘くて、面倒で、逃げ道のない張り詰め方だった。
商店街の神社に、夕方の光が差し込む。
俺の首元で、青いビー玉が揺れる。
六年前に置いていったものが、次々と戻ってくる。
美月。
凛花。
小春。
千尋。
そして俺は、その全部を受け取る覚悟なんて、まだ少しもできていない。
それなのに。
四人に囲まれているこの時間を、悪くないと思ってしまっている。
俺は自分の先行きが、かなり不安になった。
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