第21話 形を変えただけの修羅場
喫茶店の中は、冷房が効いていた。
さっきまで、むしろ少し寒いくらいだと思っていた。
だが今、俺の額にはじっとりと汗が浮いている。
原因は暑さではない。
入口に立つ凛花。
俺の腕に手を置く美月。
反対側に立つ小春。
向かいの席に座る千尋。
四方向から視線が飛んでくるこの状況は、もはや喫茶店ではない。裁判所だ。いや、裁判所ならまだ弁護士がいる。今の俺には弁護士どころか、弁解の余地すらない。
凛花はゆっくり店内へ入ってきた。
スポーツバッグを肩にかけたまま、つかつかと俺たちの席へ近づいてくる。その歩き方には迷いがない。迷いがないぶん、怖い。
「で?」
凛花は俺の前で立ち止まった。
「これは何?」
「えっと」
「何?」
二回目の声が低い。
俺はアイスコーヒーのグラスを見た。
氷がからん、と音を立てる。
その音が妙に大きく聞こえた。
「葉山と、昔話を」
「へぇ。昔話」
凛花は笑った。
笑っている。
ただし、明らかに笑顔ではない。
「昔話って、二人きりでしなきゃいけないものだったんだ」
「いや、それは」
「しかも、あたしには黙って」
「……ごめん」
言った瞬間、凛花の眉がさらに寄った。
「謝るってことは、悪いことした自覚はあるんだ」
詰んだ。
謝っても詰む。
謝らなくても詰む。
俺はこの夏で、凛花の地雷原を歩く技術だけはかなり上がったと思っていた。だが、今日の地雷原は密度が違う。一歩目から爆発している。
美月が俺の腕に置いた手を、そっと握る形に変えた。
その動きに、凛花の視線が落ちる。
「美月」
「なあに?」
「その手、何」
「悠真兄ちゃんが逃げないように」
美月はやわらかく答えた。
恐ろしいことを、砂糖菓子みたいな声で言うな。
凛花が目を細める。
「逃げると思ってるの?」
「思ってないよ。でも、悠真兄ちゃんは困ると目を逸らすから」
「それはそう」
「確認が必要です」
小春まで頷いた。
俺の人格評価が低い。
いや、今日に限っては反論できない。
千尋は向かいの席で、少しだけ困ったように笑っていた。
ただ、その目は逃げていなかった。
むしろ、俺よりずっと落ち着いている。
「ごめんね。私が佐伯を誘ったの」
千尋が言った。
凛花の視線が、今度は千尋へ向かう。
「それはさっき聞いた」
「うん。でも、佐伯は悪くないよ。私が、二人で話したかったから」
「二人で?」
「うん」
千尋は頷いた。
「六年前のことを、ちゃんと本人に言いたかったから」
凛花の口元が少し強ばる。
美月の指が、俺の腕を軽く締める。
小春は無言で千尋を見ている。
六年前。
この言葉は、この町ではただの過去ではない。
俺がいなくなった年。
三人が待ち始めた年。
千尋が言えなかったものを抱えた年。
それぞれにとって意味が違うからこそ、誰の口から出ても空気が重くなる。
「何を言ったの」
凛花が聞いた。
俺は反射的に口を開きかける。
だが、その前に千尋が答えた。
「好きだったって」
店内の音が消えた気がした。
美月の笑顔が、ぴたりと止まる。
小春の目が少しだけ細くなる。
凛花は、黙った。
怒ると思った。
すぐに噛みつくと思った。
だが、凛花は何も言わなかった。
ただ、俺を見た。
その目が、思っていたよりもずっと痛かった。
「……そう」
凛花は短く言った。
「言われたんだ」
「凛花」
「佐伯って呼ばれて、昔話して、好きだったって言われて」
凛花の声は震えていなかった。
そのことが、逆に苦しかった。
「楽しかった?」
俺はすぐには答えられなかった。
楽しかった。
それは事実だった。
千尋との会話は、懐かしくて、穏やかで、心地よかった。同年代の友達として、六年前の空気に戻れたような気がした。
でも、それをここで言えば、凛花を傷つける。
だからといって否定すれば、千尋に嘘をつくことになる。
俺はまた、言葉を選べずに沈黙した。
凛花はその沈黙だけで答えを受け取ったらしい。
小さく笑った。
「そっか」
「違う、凛花」
「何が違うの」
「俺は、別にそういうつもりで」
「そういうつもりじゃなければ、黙って来てもいいんだ」
言い返せなかった。
凛花は強い。
口も強いし、態度も強い。
けれど今の彼女は、ただ怒っているわけではなかった。
俺が黙っていたこと。
千尋と二人で会ったこと。
千尋から「好きだった」と言われたこと。
その時間を、凛花だけでなく美月や小春の外側で共有してしまったこと。
その全部が、凛花の中で刺さっている。
そして俺は、それを抜く言葉を持っていなかった。
美月が静かに口を開いた。
「千尋さん」
「うん」
「昔の話、なんだよね?」
「……うん。そう言った」
「今は?」
美月の声はやわらかい。
だが、問いは鋭かった。
千尋は少し目を伏せた。
それから、正直に言った。
「わからない」
美月の指が、俺の腕に沈む。
痛くはない。
でも、離さないという意思だけははっきりしていた。
「わからないんだ」
「うん」
「そっか」
美月は微笑んだ。
とても綺麗に。
だから怖かった。
「じゃあ、これからわかるかもしれないんだね」
千尋は何も言わなかった。
その沈黙が、また答えになる。
小春が一歩前へ出た。
「葉山千尋さん」
「はい」
「悠真お兄さんのことを、どのくらい覚えていますか」
「小春?」
俺は思わず止めようとした。
だが、小春は俺を見ない。
千尋だけを見ている。
千尋は少し困った顔をしたが、逃げずに答えた。
「同じクラスだった頃のことなら、けっこう覚えてるよ」
「具体的には」
「宿題を忘れた時、先生に当てられて目を逸らすところとか。体育祭でバトンを落としたこととか。図書室で、私が読んでた本を横から覗き込んできたこととか」
小春は黙って聞いていた。
美月も。
凛花も。
俺は胃が痛かった。
これは何だ。
俺の記憶品評会か。
「なるほど」
小春は小さく頷いた。
「私たちとは、別の悠真お兄さんを知っているのですね」
その言葉に、俺ははっとした。
そうか。
小春たちが反応しているのは、千尋の好意だけではない。
千尋が、自分たちの知らない俺を持っていること。
それが、たぶん嫌なのだ。
美月たちは、六年間、俺の記憶を抱えていた。
でもそれは、近所の兄貴分としての俺だ。
千尋は、同じ教室にいた佐伯悠真を知っている。
美月たちが見ていなかった俺を知っている。
その事実が、三人の中に波紋を広げている。
「でも」
千尋が静かに言った。
「私も、美月ちゃんたちが知ってる佐伯は知らないよ」
美月が千尋を見る。
「いつも三人に囲まれてる佐伯は知ってる。でも、三人と一緒にいる時の佐伯が何を話して、どんな顔をしてたのかは、遠くからしか見てなかった」
千尋は少しだけ笑った。
「だから、羨ましかった」
凛花の表情がわずかに動く。
「羨ましかった?」
「うん。凛花ちゃんたちは、佐伯の近くにいられたから」
凛花は唇を引き結んだ。
千尋の言葉に敵意はなかった。
だからこそ、まっすぐ入ってくる。
「でも、六年間ずっと待ってたわけじゃない」
千尋は自分の胸元に手を置いた。
「私は、ちゃんと言えなかったことを持ってただけ。美月ちゃんたちとは違う」
美月はしばらく黙っていた。
それから、俺の腕から手を離した。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「違うんだ」
「うん」
「でも、今から同じになるかもしれない」
千尋は答えなかった。
美月もそれ以上は追わなかった。
凛花が、深く息を吐いた。
「……ずるい」
小さな声だった。
全員の視線が凛花へ向く。
凛花は俺を見ずに、テーブルの端を睨んでいた。
「美月も、小春も、千尋さんも、みんなずるい」
「凛花ちゃん?」
「美月は甘えられる。小春は静かに近づける。千尋さんは昔の同級生って顔して、自然に悠真と話せる」
凛花の声が、少しずつ震えた。
「あたしは、いつも怒ってばっかで」
「凛花」
「怒らないと、近くに行けないのよ」
その言葉は、俺の胸をまっすぐ刺した。
凛花は顔を上げた。
目元が赤い。
泣いてはいない。
でも、泣く寸前の顔だった。
「悠真が黙って千尋さんに会ったって知って、すごく嫌だった。でも、何が嫌なのか言葉にしたら、もっと嫌になるから、怒るしかなかった」
喫茶店の中が静まり返る。
美月が黙る。
小春も黙る。
千尋も、何も言わない。
凛花は俺を見る。
「ねえ、悠真」
「……何だ」
「あたしは、ちゃんと近くにいる?」
それは、問いというより確認だった。
六年前、俺のリュックを掴んでいた凛花。
素直に手を繋げず、怒りながら後ろをついてきた凛花。
今も同じなのだ。
甘え方がわからない。
好きと言う前に、怒ってしまう。
近づきたいのに、近づき方が不器用すぎる。
俺は、テーブルの下で拳を握った。
ここで逃げたら駄目だ。
目を逸らしたら駄目だ。
千尋に言われたばかりだ。
俺は困ると目を逸らす。
だから今だけは、逸らしてはいけない。
「いるよ」
俺は言った。
凛花の目が揺れる。
「凛花は、ちゃんと近くにいる」
「……本当に?」
「ああ」
「美月や小春より?」
美月がぴくりと動いた。
小春もこちらを見る。
千尋が少し目を丸くする。
俺は一瞬、地雷を踏んだ音を聞いた気がした。
だが凛花は、本気だった。
冗談でも挑発でもない。
本気で聞いている。
俺は慎重に言葉を選んだ。
「比べられない」
凛花の眉が寄る。
俺は続けた。
「美月には美月の近さがある。小春には小春の近さがある。千尋には千尋との距離がある。でも、凛花は凛花だろ」
「何それ」
「うまく言えないけど」
俺は少し息を吐く。
「お前が怒ってても、強がってても、俺の腕を掴んでくると、ああ凛花だなって思う」
凛花の顔が一気に赤くなった。
「なっ」
「だから、近くにいるよ。ちゃんと」
「……ばか」
凛花は小さく呟いた。
それから、俺の隣に来て、何も言わずに腰を下ろした。
そして、俺の左腕を掴む。
いつものように。
でも、力は弱かった。
「今は、これで許してあげる」
「何を?」
「全部」
「全部は無理がないか」
「うるさい。許してあげるって言ってるんだから、黙って許されなさい」
理不尽だった。
でも、少し安心した。
美月が俺の右側に座る。
「じゃあ、私はこっち」
「自然に包囲を完成させるな」
小春は正面に座る。
「私は監視します」
「言い方」
千尋はそれを見て、くすりと笑った。
「佐伯、大変だね」
「見ての通りだ」
「でも、少し羨ましい」
美月と凛花と小春の視線が千尋へ向く。
千尋は、その視線を受けても引かなかった。
「私も、これから佐伯と話すから」
凛花の腕に力が戻った。
美月の笑顔が深くなる。
小春が無言で頷いた。
俺は天井を見上げた。
どうやら修羅場は、収束したわけではない。
ただ、形を変えただけらしい。
首元のビー玉が、こつんと胸に当たった。
忘れるな。
この町には、まだ俺の知らない六年間がある。
そしてどうやら、その六年間は一人分では済まない。
俺の夏は、さらにややこしくなっていく。
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