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第20話 田舎の修羅場

 千尋と会う約束をしたのは、その翌日の午後だった。


 場所は、商店街の外れにある小さな喫茶店。


 昔は駄菓子屋の隣にあった古い文房具屋だったはずだが、六年の間に改装されたらしい。木の看板に、丸い文字で「喫茶こもれび」と書かれている。大きな窓からは店内の観葉植物が見え、入口には手書きのメニューが置かれていた。


 この町に、こんな洒落た店ができていたとは。


 俺が知らない六年間は、やっぱりそこかしこに転がっている。


 問題は、俺がこの約束を誰にも言っていないことだった。


 美月にも。

 小春にも。

 凛花にも。


 特に凛花には、昨日「葉山さんと話す時、あたしも行く」と釘を刺されていた。いや、あれは釘というより杭だった。俺の行動範囲に打ち込まれた杭。


 だからこそ、言いづらかった。


 別にやましいことをするつもりはない。


 千尋とは昔話をするだけだ。六年前、ちゃんと言えなかったことがあると彼女は言っていた。それなら、当事者である俺が聞くべきだと思った。


 けれど、その理屈を凛花に説明したところで、納得してくれる未来が見えなかった。


 美月は笑顔で「私も行くね」と言うだろう。

 小春は無言でついてくるだろう。

 凛花は怒りながら先頭に立つだろう。


 それはもう、千尋と話す場ではなく、尋問会場である。


 だから俺は、一人で来た。


 その判断が正しいかどうかはわからない。


 ただ、後ろめたさは確実にあった。


 首元の巾着が、こつんと胸に当たる。


 小春に見られている気がして、俺は思わず巾着を押さえた。


 いや、見られていない。


 さすがに今日は見られていないはずだ。


 俺は店の扉を開けた。


 冷房の涼しい空気と、コーヒーの香りが流れてくる。


 店内は静かだった。


 奥の席に、千尋がいた。


 白いブラウスに、紺色のスカート。昨日より少しだけ落ち着いた服装で、髪を横でゆるく結んでいる。俺に気づくと、彼女は小さく手を上げた。


「佐伯、こっち」


「ああ」


 席に着くと、千尋は少し笑った。


「本当に来てくれたんだ」


「約束したからな」


「そっか」


 千尋はその一言を、妙に大事そうに受け取った。


 俺はメニューを開きながら、少しだけ視線を泳がせる。


 その反応に、昨日の凛花の言葉が頭をよぎった。


 ――女の子の顔だった。


 いや、考えるな。


 考えたら余計にぎこちなくなる。


 俺はアイスコーヒーを頼み、千尋はレモンスカッシュを頼んだ。


 飲み物が届くまで、少し沈黙があった。


 けれど、それは気まずい沈黙ではなかった。


 窓の外には商店街が見える。自転車に乗ったおばあちゃんがゆっくり通り過ぎ、遠くで風鈴が鳴っている。店内には古いジャズみたいな音楽が流れていた。


 この町で、同級生と向かい合って座っている。


 それだけなのに、妙に不思議だった。


「佐伯って、あんまり変わってないね」


 千尋が言った。


「そうか?」


「うん。背は伸びたし、大人っぽくはなったけど、困った時に目を逸らすところは同じ」


「そんな癖あったか?」


「あったよ。先生に当てられた時とか、宿題忘れた時とか」


「嫌な記憶力だな」


「よく見てたから」


 千尋はさらりと言った。


 俺は返事に詰まった。


 彼女はレモンスカッシュのストローを指先でくるくる回している。その横顔は穏やかだ。けれど、さっきの言葉だけは少し温度が違った。


「……葉山は変わったな」


「どこが?」


「雰囲気。昔より落ち着いた」


「昔は落ち着いてなかった?」


「図書室で先生に怒られてた記憶がある」


「あれは佐伯が変な本を持ってきたからでしょ」


「あったな、そんなこと」


 思い出して、俺は笑った。


 千尋も笑った。


 そこからは、会話が自然に転がった。


 小学校の担任の話。

 給食の揚げパンを誰が二個食べたかという話。

 中学の体育祭で、俺がリレーのバトンを落として小学生の凛花に何故か怒鳴られた話。

 図書室の窓際の席が取り合いになった話。

 六年前の校舎が、今は少し改修された話。


 千尋はよく覚えていた。


 美月たちの記憶とは違う。


 美月たちは、俺個人にまつわる記憶を宝物みたいに持っていた。


 千尋は、俺と同じ時間を過ごした記憶を、少し離れた棚から取り出すみたいに話す。


 その距離感が、心地よかった。


 同年代としての空気。


 兄貴分ではなく、憧れの対象でもなく、ただ同じ教室にいた佐伯悠真として見られている感じ。


 それが、思った以上に懐かしかった。


「佐伯が引っ越すって聞いた時、クラスけっこう騒いだんだよ」


 千尋が不意に言った。


「そうだったのか」


「うん。でも佐伯、最後の日、みんなの前では普通だった」


「……まあ、格好つけてたんだろ」


「そうだと思った」


 千尋はグラスの水滴を指でなぞった。


「でも、帰りに見たんだ」


「何を?」


「バスに乗る前、少しだけ泣いてたでしょ」


 俺は言葉を失った。


 そんなところまで見られていたのか。


 六年前の俺は、誰にも見られていないつもりだった。美月たちに手を振って、バスに乗って、窓の方を向いて、声を殺して泣いた。


 それが、千尋の記憶にも残っていた。


「……見てたのか」


「見えちゃっただけ」


 千尋は苦笑する。


「声かけようと思った。でも、できなかった」


「何で」


「佐伯が、もうこの町の人じゃなくなる気がしたから」


 その言葉は静かだった。


 でも、胸に残る言い方だった。


「それで、ちゃんと言えなかった」


「何を?」


 俺が聞くと、千尋は少しだけ黙った。


 店内の冷房の音が聞こえる。


 窓の外で、誰かの自転車のベルが鳴った。


 千尋はゆっくり顔を上げた。


「好きだった」


 短い言葉だった。


 それなのに、時間が止まったみたいになった。


 俺は何も言えなかった。


 千尋は俺の反応を見て、少し困ったように笑った。


「昔の話だよ」


「……昔の?」


「うん。小学校の高学年くらいから、中一まで」


 千尋はストローから手を離した。


「佐伯は、いつも美月ちゃんたちの面倒見てたでしょ。凛花ちゃんが怒って、美月ちゃんが泣いて、小春ちゃんが後ろにいて。その真ん中で、佐伯が困った顔しながら笑ってた」


「……そんなの、よく見てたな」


「だから言ったでしょ。よく見てたって」


 千尋は少しだけ頬を赤くした。


「私は同じクラスだったから、近いようで遠かった。佐伯はみんなに優しかったけど、私にだけ特別ってわけじゃなかったし」


 その言葉に、俺は胸の奥がちくりとした。


 俺はまた、知らないうちに誰かに何かを残していたのか。


 美月たちだけじゃない。


 凛花だけじゃない。


 小春だけじゃない。


 俺が六年前に置いてきたものは、この町のいろんな場所に、思っていたよりたくさん残っている。


「だから、言えなかった」


 千尋は続けた。


「引っ越す日も、元気でねって言うのが精一杯だった」


「……ごめん」


「謝らなくていいよ。佐伯は何も悪くない」


「でも」


「悪くないって言われても、佐伯は困るんだろうね」


 千尋は少し笑った。


 それがまた、妙に俺を見透かしていた。


「今も、好きなのかって聞かれたら、正直わからない」


 千尋は窓の外を見た。


「でも、昨日会って、思った。ああ、私はこの人に、ちゃんと好きだったって言いたかったんだなって」


 俺はその言葉を、黙って受け止めるしかなかった。


 美月たちの好意は、熱を持って迫ってくる。


 千尋の言葉は、それとは違った。


 過去に置いてきた手紙を、六年後に渡されたみたいだった。


 今すぐ返事を求めるわけではない。


 ただ、受け取ってほしい。


 そういう静かな切実さがあった。


「ありがとう」


 俺はようやく言った。


「言ってくれて」


 千尋は目を丸くしたあと、少しだけ笑った。


「そういうところ」


「え?」


「そういうところが、たぶん好きだった」


 それは反則だった。


 俺はグラスを持ち上げて、無意味にアイスコーヒーを飲んだ。


 苦い。


 顔が熱い。


 千尋はそんな俺を見て、楽しそうに笑った。


 それから、少しだけ身を乗り出す。


「ねえ、佐伯」


「何」


「もう一回、友達からでいいから、話してくれる?」


「それはもちろん」


「よかった」


 千尋の笑顔は、素直に嬉しそうだった。


 その顔を見て、俺も少し笑った。


 たぶん、その瞬間の空気は悪くなかった。


 穏やかで、懐かしくて、少しだけ照れくさくて。


 六年前に言えなかった言葉が、ようやく今の俺たちの間に置かれた。


 だから俺は、油断していた。


 窓の外を、見ていなかった。


「悠真兄ちゃん?」


 声がした。


 身体が固まった。


 ゆっくり振り返る。


 喫茶店の入口に、美月が立っていた。


 その隣に、小春がいた。


 美月は買い物袋を持っている。小春はいつものように無表情だった。ただ、その目だけが、こちらをじっと見ていた。


 そして二人とも、俺と千尋が向かい合って座っている光景を、完全に見ていた。


 美月の笑顔が、いつも通り柔らかく浮かぶ。


 けれど、その目は笑っていなかった。


「偶然だね」


 美月が言った。


 声は甘い。


 甘いのに、背筋が冷える。


 小春は俺の首元を見た。


 巾着があることを確認したあと、視線を千尋へ移す。


「予定にはありませんでした」


「小春さん?」


「今日の悠真お兄さんの行動予定には、ここは入っていません」


「何で俺の行動予定を把握してる前提なんだ」


 ツッコミはした。


 だが、声は弱かった。


 美月が一歩、店内へ入ってくる。


「千尋さん、だよね」


「うん。久しぶり、美月ちゃん」


 千尋は落ち着いていた。


 しかし、その指先がグラスの横で少しだけ強ばっているのが見えた。


 美月はにこりと笑った。


「悠真兄ちゃんと、何を話してたの?」


 直球だった。


 逃げ道のない質問。


 俺は慌てて口を開く。


「昔話だよ。小中学校の」


「二人きりで?」


「まあ、そうだけど」


「私たちには言わないで?」


 その一言で、喫茶店の空気が沈んだ。


 小春が静かに俺を見ている。


「なぜ、言いませんでしたか」


 責める声ではない。


 だが、逃げられない声だった。


 俺は答えに詰まった。


 言えばついてくると思ったから。


 千尋と落ち着いて話せないと思ったから。


 凛花に怒られると思ったから。


 どれも本当だ。


 でも、そのどれもが今ここで言うには最低だった。


 美月は俺の沈黙を見て、少しだけ首を傾げた。


「言えないこと、話してたの?」


「違う」


「じゃあ、何?」


「それは……」


 千尋が静かに口を開いた。


「私が、佐伯に昔の話を聞いてほしくて誘ったの」


 美月の視線が千尋へ向く。


 小春の視線も。


 千尋は少しだけ背筋を伸ばした。


「六年前、言えなかったことがあったから」


 美月の笑顔が、ほんの少し深くなった。


「言えなかったこと」


「うん」


「それって、私たちが聞いてもいいこと?」


 千尋は黙った。


 その沈黙が、答えだった。


 小春が一歩近づく。


「聞かない方がいい内容ですか」


「小春」


 俺が止めようとすると、小春は俺を見た。


「悠真お兄さんは、知ったのですね」


 言葉が刺さった。


「私たちに黙って」


 美月が続ける。


「千尋さんの、六年前を」


 その瞬間、俺は理解した。


 二人が怒っているのは、千尋と会っていたことだけではない。


 俺がまた、誰かの六年間を先に受け取っていたこと。


 しかも、それを黙っていたこと。


 それが彼女たちには許せないのだ。


 美月は静かに俺の隣へ来た。


 そして、俺の腕にそっと手を置く。


 優しい触れ方だった。


 なのに、逃げられない。


「悠真兄ちゃん」


「……はい」


「あとで、ちゃんと教えてね」


 笑顔だった。


 とても甘い笑顔。


「私たちにも」


 小春が俺の反対側に立った。


「共有が必要です」


「何を共有する気だ」


「悠真お兄さんの過去と現在です」


「範囲が広すぎる」


 千尋が、少し困ったように笑った。


 だが、その笑顔には引く気配がなかった。


「佐伯、人気者だね」


「今それを言うか」


「でも、私も引くつもりはないよ」


 美月の手が、俺の腕でぴたりと止まった。


 小春の目が、わずかに細くなる。


 俺は本気で胃が痛くなってきた。


 その時、店の扉が再び開いた。


「悠真、あんたどこで油売って――」


 凛花だった。


 最悪のタイミングだった。


 俺と千尋。

 俺の腕に手を置く美月。

 反対側に立つ小春。

 そして入口で固まる凛花。


 凛花の目が、ゆっくり状況を把握していく。


 やがて彼女は、笑った。


 笑ったのに、目はまったく笑っていなかった。


「へぇ」


 たった一音で、室温が三度くらい下がった気がした。


「楽しそうじゃない」


 俺は思った。


 今日、俺は一人で来た。


 たしかに一人で来たはずだった。


 なのに今、なぜか喫茶店の一角で、この夏最大の包囲網が完成している。


 首元のビー玉が、こつんと胸に当たった。


 忘れるな。


 そう言われた気がした。


 俺は乾いた笑いを浮かべることすらできず、ただ思った。


 この町の夏は、俺に平穏というものを一秒たりとも与える気がないらしい。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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