最終話 帰る場所
朝は、思っていたより静かに来た。
六年前の別れの日には、もっと世界全体が騒がしかった気がする。慌ただしく荷物が運ばれ、父と母に急かされ、泣き声と蝉の声が混ざり合っていた。
けれど今朝、開け放した窓から聞こえてくるのは、田んぼを渡る風と、遠くで鳴く鳥の声だけだった。
畳の上には、蓋を閉じた旅行鞄。
机には、飲み切れなかった美月の麦茶。
ポケットには千尋の手紙。
首元には、小春の青いビー玉。
そして右手には、昨夜、凛花に服を掴まれた感触がまだ残っている。
俺はほとんど眠れなかった。
四人の顔を何度も思い浮かべた。
誰が一番長く待ったのか。
誰の気持ちが一番重いのか。
誰を選べば、最も傷つく人が少ないのか。
そんなことばかり考えて、途中で気づいた。
俺はまた、逃げようとしている。
正解を選ぼうとしているのではない。
自分が責められない答えを探していただけだ。
恋愛は、待った年数への褒美ではない。
優しさの返礼でもない。
誰かを選ぶということは、罪悪感に押されて手を取ることではない。
俺は四人を大切に思っている。
美月が笑えば嬉しい。
凛花が隣にいないと落ち着かない。
小春の静かな声を聞くと安心する。
千尋とは、これからも同じ目線で話していたい。
そのどれも嘘ではない。
けれど、今この瞬間に誰か一人へ「恋人になってほしい」と告げられるほど、俺は今の四人をまだ知らない。
知っているのは、六年前の彼女たちと、この夏に再会してからの短い時間だけだ。
待たせた責任だけで手を取れば、今度こそ本当に彼女たちの気持ちを裏切る。
だから俺は、自分に都合の悪い答えを選ぶことにした。
きっと怒られる。
泣かせるかもしれない。
それでも、嘘をつくよりはいい。
◆
朝食を終えると、じいちゃんが車を出すと言ってくれた。
けれど俺は断った。
バス停までは歩いて十分ほどだ。
最後くらい、自分の足でこの町を歩きたかった。
「来年は、もっと長くいなさい」
玄関先で、ばあちゃんが言った。
「ああ」
「連絡もしなさい」
「わかってる」
「わかってるって言う男は、だいたいやらないからね」
「信用ないな」
「六年も帰らなかった孫に言われたくないよ」
何も言い返せなかった。
ばあちゃんは笑い、俺の背中を一度だけ叩いた。
「待ってくれる人がいるうちに、ちゃんと帰っておいで」
その言葉を胸に刻み、旅行鞄を持って家を出た。
夏の朝の日差しが、田んぼ道を白く照らしている。
初めてこの道を歩いた日のように、蝉が鳴いていた。
けれど、あの日の俺は一人だった。
今日は違う。
バス停の前に、四人が立っていた。
美月は白いワンピース姿で、両手を胸元に重ねている。
凛花は腕を組み、何度も道路の向こうを確認していた。
小春は小さな鞄を抱え、時刻表の前に立っている。
千尋は少し離れた場所で、穏やかにこちらを見ていた。
俺を見つけた瞬間、美月が駆け出した。
「悠真兄ちゃん」
胸元へ飛び込んでくる。
俺は旅行鞄を置き、その身体を受け止めた。
美月の腕が背中へ回る。
「……来た」
「そりゃ来るだろ。バスに乗るんだから」
「何も言わずに、先に行ってなくてよかった」
その言葉に胸が痛んだ。
「もう、そんなことはしない」
「約束?」
「ああ」
俺が答えると、美月は抱きしめる腕に少しだけ力を込めたあと、ゆっくり離れた。
次に凛花が近づいてくる。
「遅い」
「まだ出発の二十分前だぞ」
「あたしたちは一時間前からいる」
「早すぎるだろ」
「小春が時間を間違えたの」
「間違えていません」
小春が静かに否定する。
「乗り遅れ防止です」
「一時間も必要ない」
「悠真お兄さんが逃走した場合の捜索時間を含みます」
「俺は犯罪者か」
いつものやり取りだった。
俺はそれに、少しだけ救われた。
千尋が俺の旅行鞄を見る。
「忘れ物ない?」
「たぶん」
「手紙は?」
俺はポケットを軽く叩いた。
「持ってる」
「なら、よかった」
千尋が微笑む。
その笑顔を見て、俺は息を吸った。
「四人に、話がある」
空気が変わった。
美月の表情が固くなる。
凛花は組んでいた腕を下ろした。
小春が俺をまっすぐ見る。
千尋は、静かに頷いた。
バス停の屋根の下。
田んぼから吹く風。
遠くで近づいてくる車の音。
俺は四人から目を逸らさなかった。
「俺は、今ここで誰か一人を選べない」
美月の唇が、わずかに震えた。
凛花の眉が寄る。
それでも俺は続けた。
「お前たちを大切に思ってる。誰にもいなくなってほしくない。それは本当だ」
「それって」
凛花が低い声を出す。
「誰も傷つけたくないから、選ばないってこと?」
「違う」
俺ははっきり否定した。
「選ばないんじゃない。今の俺には、まだ選ぶ資格がない」
「資格?」
「俺が知っているのは、六年前のお前たちと、この夏の短い時間だけだ」
美月を見る。
「美月が六年間、何を考えて、どうやって大人になったのか。俺はまだほとんど知らない」
凛花を見る。
「凛花が強がってない時、どんなことを考えてるのかも」
小春を見る。
「小春が俺以外のことをどう思って、どんな毎日を過ごしてるのかも」
千尋を見る。
「千尋とだって、再会してから何度か話しただけだ」
俺は拳を握る。
「そんな俺が、待たせた罪悪感だけで一人を選んだら、それは好きだからじゃない。責任を取った気になりたいだけだ」
誰も口を挟まなかった。
「だから、時間が欲しい」
都合のいい言葉だと思う。
四人を繋ぎ止めるための、最低な言葉に聞こえるかもしれない。
だからこそ、続きを誤魔化してはいけない。
「その代わり、もう逃げない」
俺は首元の巾着を握った。
「連絡する。会いに来る。お前たちの今を知る。俺の毎日も伝える」
美月の目が潤む。
「誰かに好きな人ができたら、隠さずに言う。俺が誰かを選べるくらい好きになった時も、全員に自分の口で伝える」
「それまで待てって言うの?」
凛花の声は尖っていた。
「待ってほしいとは言わない」
凛花が目を見開く。
「お前たちには、お前たちの人生がある。俺以外を好きになるかもしれない。その時は、俺に遠慮しないでほしい」
「嫌」
美月が即座に言った。
「悠真以外なんて、好きにならない」
「未来のことはわからない」
「私はわかるよ」
涙を浮かべながら、美月は笑う。
「六年間わからなかったなら、諦めてた。でも、ずっと好きだった」
凛花が一歩前へ出る。
「勝手なこと言わないで」
「凛花?」
「待ってほしいとは言わないとか、他の人を好きになっていいとか」
凛花は俺の胸を指で押した。
「そうやって、また自分だけ綺麗に離れようとしてる」
図星だった。
俺はまだ、傷つけた時の言い訳を残そうとしていた。
「選ぶまで、こっちは好きにするから」
「好きに?」
「あんたの生活に入る。連絡する。会いに行く。大学に女がいたら警戒する」
「最後のはやめろ」
「嫌」
凛花はきっぱり言った。
「選ばれるのを黙って待つつもりはない。あたしを選ばせる」
美月が俺の腕を取る。
「私も」
「美月まで」
「悠真が私たちを知るなら、私たちも今の悠真を知る」
柔らかな胸の膨らみが腕に触れたが、今はそれに動揺するより、美月の目の強さに息を呑んだ。
「そのうえで、私を一番好きにさせるから」
小春が俺の旅行鞄を持ち上げる。
「荷物を持ちます」
「突然どうした」
「悠真お兄さんの日常へ入る練習です」
「今から?」
「はい」
小春は旅行鞄の持ち手を離さない。
「私は待ちません。観測し、記録し、接触を継続します」
「字面が怖い」
「愛情です」
いつもの返答だった。
しかしその目には、いつも以上の決意があった。
「悠真お兄さんが選べないなら、選べるまで離れません」
最後に、千尋が俺の前へ立つ。
「佐伯らしい答えだね」
「褒めてないだろ」
「半分は」
「残り半分は?」
「ずるいと思ってる」
千尋は苦笑した。
「でも、昨日よりはいい。誰かを傷つけないための答えじゃなくて、自分がまだ知らないって認めた答えだから」
「千尋は、それでいいのか」
「よくはないよ」
千尋は俺のポケットの上へ、そっと手を置く。
六年前の手紙がある場所。
「でも、私は一回、言えないまま終わった。だから今度は、ちゃんと佐伯の近くにいて、好きになってもらう」
「簡単に言うな」
「佐伯の好みは、昔からけっこう知ってるから」
千尋が少し意地悪そうに笑う。
左右から美月と凛花の視線が刺さった。
小春も無言で千尋を見る。
早くも競争が再開している。
俺は頭を抱えたくなった。
けれど。
四人の顔を見て、胸の奥にあった重いものが少しだけ軽くなった。
俺は誰も選ばなかった。
今日のところは。
それでも、曖昧なまま逃げたわけではない。
これから選べるようになるまで、四人と向き合う。
誰かが傷つく可能性からも。
自分が嫌われる怖さからも。
もう逃げない。
遠くから、バスが見えた。
凛花が俺の腕を掴む。
「本当に乗るの?」
「ああ」
「今ならまだ、逃がさない選択もできるけど」
「物騒な言い方をするな」
美月が反対側から抱きつく。
「次はいつ帰る?」
「年末には一度来たい」
「来たい、じゃなくて?」
「来る」
美月は満足そうに笑った。
小春が旅行鞄をバスの乗降口まで運ぶ。
「毎日、連絡してください」
「毎日は難しい」
「では、二日に一度」
「交渉が具体的だな」
「三日空いた場合、訪問します」
「二日に一度でお願いします」
千尋は少し離れた場所で笑っていた。
「佐伯」
「何だ?」
「今度、私がそっちへ行ってもいい?」
「ああ。案内する」
「二人で?」
周囲の空気が冷える。
「全員で」
俺は即座に訂正した。
千尋は楽しそうに笑った。
「少しは学んだね」
バスの扉が開く。
俺は旅行鞄を預け、乗り口の前で振り返った。
六年前。
俺は泣く三人へ、根拠のない約束を残して去った。
今日は違う。
四人は泣いているだけではない。
美月は笑っている。
凛花は悔しそうに俺を睨んでいる。
小春は時刻表と俺を交互に確認している。
千尋は小さく手を振っている。
彼女たちは、もう置いていかれるだけの存在ではなかった。
俺が逃げれば追いかけてくる。
黙れば問い詰める。
忘れれば思い出させる。
そんな四人だ。
「行ってくる」
俺は言った。
さよならではなく。
美月が答える。
「行ってらっしゃい、悠真」
今度は「兄ちゃん」をつけなかった。
凛花が腕を組んだまま言う。
「早く帰ってきなさいよ」
小春は胸元の巾着を指差す。
「なくさないでください」
千尋は手を振りながら笑う。
「次は私たちが会いに行くから」
俺は頷き、バスへ乗った。
窓際の席へ座る。
バスがゆっくり動き出す。
四人が遠ざかる。
六年前の俺なら、見ていられずに目を逸らしていただろう。
今日は違った。
姿が見えなくなるまで、ずっと窓の外を見ていた。
◆
一年後。
俺は再び、同じバス停へ降り立った。
真夏の日差し。
青い田んぼ。
山から吹いてくる、少し湿った風。
首元には、青いビー玉。
鞄の中には、何度も読み返した千尋の手紙。
大学生活の一年は、思った以上に騒がしかった。
美月からは毎朝のように写真が届いた。
朝食、空、川、作った弁当。
時々、本人の写真も混ざっていた。
凛花からは通話がかかってきた。
用事などないと言いながら、一時間近く話すこともあった。
小春からは、三日以上返信を空けると短い文章が届いた。
『生存確認を要求します』
怖かったので、連絡は二日に一度を守った。
千尋は何度か都会へ来た。
俺の大学を見て、一人暮らしの部屋の近くを歩き、昔と同じように自然に話した。
美月たちも一度来た。
俺の狭い部屋を見た小春が、本気で隣室への引っ越しを検討し始めたので、全力で止めた。
一年経っても、俺はまだ一人を選べていない。
けれど、何も進んでいないわけではなかった。
四人の好きなものを知った。
苦手なことを知った。
将来の夢を知った。
六年前の記憶だけではなく、今の彼女たちを少しずつ知った。
そして、自分の中にある感情も。
誰か一人へ傾き始めている心を、今度は誤魔化していない。
ただ、その答えを口にするのは、もう少し先だ。
今日ではない。
この夏が終わる頃には、きっと。
「悠真!」
声がした。
凛花が真っ先に走ってくる。
「最初に見つけた!」
「バスの到着時刻を知ってただろ」
「それでも最初は最初!」
凛花が俺の腕へ飛びつく。
そのすぐ後ろから、美月が駆け寄った。
「おかえり、悠真」
「ああ。ただいま」
美月が反対側の腕を取る。
柔らかな感触が触れたが、一年前ほど慌てなくなった。
慣れたわけではない。
顔に出さない技術が上がっただけだ。
「心拍数が上昇しています」
小春が俺の胸元へ手を当てた。
「測るな」
「成長していません」
「余計なお世話だ」
小春は旅行鞄を当然のように奪った。
最後に、千尋がゆっくり歩いてくる。
「おかえり、佐伯」
「ただいま、千尋」
四人がいる。
去年と同じ。
でも、去年とは違う。
俺たちはもう、六年前の別れに縛られているだけではない。
離れた一年の中にも、共有した時間がある。
これから先の記憶がある。
「それで、今日はどこへ行く?」
俺が聞くと、美月が微笑む。
「川」
凛花が即座に反対する。
「先に夏祭りの浴衣を選ぶ」
「祭りはまだ先だろ」
「先に予約するの!」
小春は静かに言う。
「秘密基地の点検が必要です」
千尋は笑った。
「学校にも行きたいな」
四人が一斉に話し始める。
俺の意見は、今年もあまり尊重されそうにない。
けれど、それでいい。
六年前。
感動の別れをしたガキンチョたちは、綺麗な女性になった。
それだけなら、まだよかった。
彼女たちは、六年分の想いを抱えたまま、甘く、重く、少し面倒に成長していた。
俺はそんな子に育てた覚えはない。
たぶん。
ほんの少しも。
まったくないと言い切りたい。
けれど俺の左右で腕を抱き、背後と正面から逃げ道を塞ぐ四人を見ていると、責任がないとも言い切れなかった。
「悠真、早く」
凛花が手を引く。
「置いていくよ」
「それは困る」
俺は笑い、四人と一緒に歩き出した。
もう、置いていかない。
置いていかれもしない。
夏の日差しの向こうに、祖父母の家が見える。
縁側では、ばあちゃんが団扇を扇ぎながら待っていた。
俺には帰る場所がある。
そして今度は、その場所を忘れない。
青いビー玉が胸元で揺れた。
夏は、また始まった。
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