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最終話 帰る場所

 朝は、思っていたより静かに来た。


 六年前の別れの日には、もっと世界全体が騒がしかった気がする。慌ただしく荷物が運ばれ、父と母に急かされ、泣き声と蝉の声が混ざり合っていた。


 けれど今朝、開け放した窓から聞こえてくるのは、田んぼを渡る風と、遠くで鳴く鳥の声だけだった。


 畳の上には、蓋を閉じた旅行鞄。


 机には、飲み切れなかった美月の麦茶。


 ポケットには千尋の手紙。


 首元には、小春の青いビー玉。


 そして右手には、昨夜、凛花に服を掴まれた感触がまだ残っている。


 俺はほとんど眠れなかった。


 四人の顔を何度も思い浮かべた。


 誰が一番長く待ったのか。

 誰の気持ちが一番重いのか。

 誰を選べば、最も傷つく人が少ないのか。


 そんなことばかり考えて、途中で気づいた。


 俺はまた、逃げようとしている。


 正解を選ぼうとしているのではない。


 自分が責められない答えを探していただけだ。


 恋愛は、待った年数への褒美ではない。


 優しさの返礼でもない。


 誰かを選ぶということは、罪悪感に押されて手を取ることではない。


 俺は四人を大切に思っている。


 美月が笑えば嬉しい。

 凛花が隣にいないと落ち着かない。

 小春の静かな声を聞くと安心する。

 千尋とは、これからも同じ目線で話していたい。


 そのどれも嘘ではない。


 けれど、今この瞬間に誰か一人へ「恋人になってほしい」と告げられるほど、俺は今の四人をまだ知らない。


 知っているのは、六年前の彼女たちと、この夏に再会してからの短い時間だけだ。


 待たせた責任だけで手を取れば、今度こそ本当に彼女たちの気持ちを裏切る。


 だから俺は、自分に都合の悪い答えを選ぶことにした。


 きっと怒られる。


 泣かせるかもしれない。


 それでも、嘘をつくよりはいい。



 朝食を終えると、じいちゃんが車を出すと言ってくれた。


 けれど俺は断った。


 バス停までは歩いて十分ほどだ。


 最後くらい、自分の足でこの町を歩きたかった。


「来年は、もっと長くいなさい」


 玄関先で、ばあちゃんが言った。


「ああ」


「連絡もしなさい」


「わかってる」


「わかってるって言う男は、だいたいやらないからね」


「信用ないな」


「六年も帰らなかった孫に言われたくないよ」


 何も言い返せなかった。


 ばあちゃんは笑い、俺の背中を一度だけ叩いた。


「待ってくれる人がいるうちに、ちゃんと帰っておいで」


 その言葉を胸に刻み、旅行鞄を持って家を出た。


 夏の朝の日差しが、田んぼ道を白く照らしている。


 初めてこの道を歩いた日のように、蝉が鳴いていた。


 けれど、あの日の俺は一人だった。


 今日は違う。


 バス停の前に、四人が立っていた。


 美月は白いワンピース姿で、両手を胸元に重ねている。


 凛花は腕を組み、何度も道路の向こうを確認していた。


 小春は小さな鞄を抱え、時刻表の前に立っている。


 千尋は少し離れた場所で、穏やかにこちらを見ていた。


 俺を見つけた瞬間、美月が駆け出した。


「悠真兄ちゃん」


 胸元へ飛び込んでくる。


 俺は旅行鞄を置き、その身体を受け止めた。


 美月の腕が背中へ回る。


「……来た」


「そりゃ来るだろ。バスに乗るんだから」


「何も言わずに、先に行ってなくてよかった」


 その言葉に胸が痛んだ。


「もう、そんなことはしない」


「約束?」


「ああ」


 俺が答えると、美月は抱きしめる腕に少しだけ力を込めたあと、ゆっくり離れた。


 次に凛花が近づいてくる。


「遅い」


「まだ出発の二十分前だぞ」


「あたしたちは一時間前からいる」


「早すぎるだろ」


「小春が時間を間違えたの」


「間違えていません」


 小春が静かに否定する。


「乗り遅れ防止です」


「一時間も必要ない」


「悠真お兄さんが逃走した場合の捜索時間を含みます」


「俺は犯罪者か」


 いつものやり取りだった。


 俺はそれに、少しだけ救われた。


 千尋が俺の旅行鞄を見る。


「忘れ物ない?」


「たぶん」


「手紙は?」


 俺はポケットを軽く叩いた。


「持ってる」


「なら、よかった」


 千尋が微笑む。


 その笑顔を見て、俺は息を吸った。


「四人に、話がある」


 空気が変わった。


 美月の表情が固くなる。


 凛花は組んでいた腕を下ろした。


 小春が俺をまっすぐ見る。


 千尋は、静かに頷いた。


 バス停の屋根の下。


 田んぼから吹く風。


 遠くで近づいてくる車の音。


 俺は四人から目を逸らさなかった。


「俺は、今ここで誰か一人を選べない」


 美月の唇が、わずかに震えた。


 凛花の眉が寄る。


 それでも俺は続けた。


「お前たちを大切に思ってる。誰にもいなくなってほしくない。それは本当だ」


「それって」


 凛花が低い声を出す。


「誰も傷つけたくないから、選ばないってこと?」


「違う」


 俺ははっきり否定した。


「選ばないんじゃない。今の俺には、まだ選ぶ資格がない」


「資格?」


「俺が知っているのは、六年前のお前たちと、この夏の短い時間だけだ」


 美月を見る。


「美月が六年間、何を考えて、どうやって大人になったのか。俺はまだほとんど知らない」


 凛花を見る。


「凛花が強がってない時、どんなことを考えてるのかも」


 小春を見る。


「小春が俺以外のことをどう思って、どんな毎日を過ごしてるのかも」


 千尋を見る。


「千尋とだって、再会してから何度か話しただけだ」


 俺は拳を握る。


「そんな俺が、待たせた罪悪感だけで一人を選んだら、それは好きだからじゃない。責任を取った気になりたいだけだ」


 誰も口を挟まなかった。


「だから、時間が欲しい」


 都合のいい言葉だと思う。


 四人を繋ぎ止めるための、最低な言葉に聞こえるかもしれない。


 だからこそ、続きを誤魔化してはいけない。


「その代わり、もう逃げない」


 俺は首元の巾着を握った。


「連絡する。会いに来る。お前たちの今を知る。俺の毎日も伝える」


 美月の目が潤む。


「誰かに好きな人ができたら、隠さずに言う。俺が誰かを選べるくらい好きになった時も、全員に自分の口で伝える」


「それまで待てって言うの?」


 凛花の声は尖っていた。


「待ってほしいとは言わない」


 凛花が目を見開く。


「お前たちには、お前たちの人生がある。俺以外を好きになるかもしれない。その時は、俺に遠慮しないでほしい」


「嫌」


 美月が即座に言った。


「悠真以外なんて、好きにならない」


「未来のことはわからない」


「私はわかるよ」


 涙を浮かべながら、美月は笑う。


「六年間わからなかったなら、諦めてた。でも、ずっと好きだった」


 凛花が一歩前へ出る。


「勝手なこと言わないで」


「凛花?」


「待ってほしいとは言わないとか、他の人を好きになっていいとか」


 凛花は俺の胸を指で押した。


「そうやって、また自分だけ綺麗に離れようとしてる」


 図星だった。


 俺はまだ、傷つけた時の言い訳を残そうとしていた。


「選ぶまで、こっちは好きにするから」


「好きに?」


「あんたの生活に入る。連絡する。会いに行く。大学に女がいたら警戒する」


「最後のはやめろ」


「嫌」


 凛花はきっぱり言った。


「選ばれるのを黙って待つつもりはない。あたしを選ばせる」


 美月が俺の腕を取る。


「私も」


「美月まで」


「悠真が私たちを知るなら、私たちも今の悠真を知る」


 柔らかな胸の膨らみが腕に触れたが、今はそれに動揺するより、美月の目の強さに息を呑んだ。


「そのうえで、私を一番好きにさせるから」


 小春が俺の旅行鞄を持ち上げる。


「荷物を持ちます」


「突然どうした」


「悠真お兄さんの日常へ入る練習です」


「今から?」


「はい」


 小春は旅行鞄の持ち手を離さない。


「私は待ちません。観測し、記録し、接触を継続します」


「字面が怖い」


「愛情です」


 いつもの返答だった。


 しかしその目には、いつも以上の決意があった。


「悠真お兄さんが選べないなら、選べるまで離れません」


 最後に、千尋が俺の前へ立つ。


「佐伯らしい答えだね」


「褒めてないだろ」


「半分は」


「残り半分は?」


「ずるいと思ってる」


 千尋は苦笑した。


「でも、昨日よりはいい。誰かを傷つけないための答えじゃなくて、自分がまだ知らないって認めた答えだから」


「千尋は、それでいいのか」


「よくはないよ」


 千尋は俺のポケットの上へ、そっと手を置く。


 六年前の手紙がある場所。


「でも、私は一回、言えないまま終わった。だから今度は、ちゃんと佐伯の近くにいて、好きになってもらう」


「簡単に言うな」


「佐伯の好みは、昔からけっこう知ってるから」


 千尋が少し意地悪そうに笑う。


 左右から美月と凛花の視線が刺さった。


 小春も無言で千尋を見る。


 早くも競争が再開している。


 俺は頭を抱えたくなった。


 けれど。


 四人の顔を見て、胸の奥にあった重いものが少しだけ軽くなった。


 俺は誰も選ばなかった。


 今日のところは。


 それでも、曖昧なまま逃げたわけではない。


 これから選べるようになるまで、四人と向き合う。


 誰かが傷つく可能性からも。


 自分が嫌われる怖さからも。


 もう逃げない。


 遠くから、バスが見えた。


 凛花が俺の腕を掴む。


「本当に乗るの?」


「ああ」


「今ならまだ、逃がさない選択もできるけど」


「物騒な言い方をするな」


 美月が反対側から抱きつく。


「次はいつ帰る?」


「年末には一度来たい」


「来たい、じゃなくて?」


「来る」


 美月は満足そうに笑った。


 小春が旅行鞄をバスの乗降口まで運ぶ。


「毎日、連絡してください」


「毎日は難しい」


「では、二日に一度」


「交渉が具体的だな」


「三日空いた場合、訪問します」


「二日に一度でお願いします」


 千尋は少し離れた場所で笑っていた。


「佐伯」


「何だ?」


「今度、私がそっちへ行ってもいい?」


「ああ。案内する」


「二人で?」


 周囲の空気が冷える。


「全員で」


 俺は即座に訂正した。


 千尋は楽しそうに笑った。


「少しは学んだね」


 バスの扉が開く。


 俺は旅行鞄を預け、乗り口の前で振り返った。


 六年前。


 俺は泣く三人へ、根拠のない約束を残して去った。


 今日は違う。


 四人は泣いているだけではない。


 美月は笑っている。


 凛花は悔しそうに俺を睨んでいる。


 小春は時刻表と俺を交互に確認している。


 千尋は小さく手を振っている。


 彼女たちは、もう置いていかれるだけの存在ではなかった。


 俺が逃げれば追いかけてくる。


 黙れば問い詰める。


 忘れれば思い出させる。


 そんな四人だ。


「行ってくる」


 俺は言った。


 さよならではなく。


 美月が答える。


「行ってらっしゃい、悠真」


 今度は「兄ちゃん」をつけなかった。


 凛花が腕を組んだまま言う。


「早く帰ってきなさいよ」


 小春は胸元の巾着を指差す。


「なくさないでください」


 千尋は手を振りながら笑う。


「次は私たちが会いに行くから」


 俺は頷き、バスへ乗った。


 窓際の席へ座る。


 バスがゆっくり動き出す。


 四人が遠ざかる。


 六年前の俺なら、見ていられずに目を逸らしていただろう。


 今日は違った。


 姿が見えなくなるまで、ずっと窓の外を見ていた。



 一年後。


 俺は再び、同じバス停へ降り立った。


 真夏の日差し。


 青い田んぼ。


 山から吹いてくる、少し湿った風。


 首元には、青いビー玉。


 鞄の中には、何度も読み返した千尋の手紙。


 大学生活の一年は、思った以上に騒がしかった。


 美月からは毎朝のように写真が届いた。


 朝食、空、川、作った弁当。


 時々、本人の写真も混ざっていた。


 凛花からは通話がかかってきた。


 用事などないと言いながら、一時間近く話すこともあった。


 小春からは、三日以上返信を空けると短い文章が届いた。


『生存確認を要求します』


 怖かったので、連絡は二日に一度を守った。


 千尋は何度か都会へ来た。


 俺の大学を見て、一人暮らしの部屋の近くを歩き、昔と同じように自然に話した。


 美月たちも一度来た。


 俺の狭い部屋を見た小春が、本気で隣室への引っ越しを検討し始めたので、全力で止めた。


 一年経っても、俺はまだ一人を選べていない。


 けれど、何も進んでいないわけではなかった。


 四人の好きなものを知った。


 苦手なことを知った。


 将来の夢を知った。


 六年前の記憶だけではなく、今の彼女たちを少しずつ知った。


 そして、自分の中にある感情も。


 誰か一人へ傾き始めている心を、今度は誤魔化していない。


 ただ、その答えを口にするのは、もう少し先だ。


 今日ではない。


 この夏が終わる頃には、きっと。


「悠真!」


 声がした。


 凛花が真っ先に走ってくる。


「最初に見つけた!」


「バスの到着時刻を知ってただろ」


「それでも最初は最初!」


 凛花が俺の腕へ飛びつく。


 そのすぐ後ろから、美月が駆け寄った。


「おかえり、悠真」


「ああ。ただいま」


 美月が反対側の腕を取る。


 柔らかな感触が触れたが、一年前ほど慌てなくなった。


 慣れたわけではない。


 顔に出さない技術が上がっただけだ。


「心拍数が上昇しています」


 小春が俺の胸元へ手を当てた。


「測るな」


「成長していません」


「余計なお世話だ」


 小春は旅行鞄を当然のように奪った。


 最後に、千尋がゆっくり歩いてくる。


「おかえり、佐伯」


「ただいま、千尋」


 四人がいる。


 去年と同じ。


 でも、去年とは違う。


 俺たちはもう、六年前の別れに縛られているだけではない。


 離れた一年の中にも、共有した時間がある。


 これから先の記憶がある。


「それで、今日はどこへ行く?」


 俺が聞くと、美月が微笑む。


「川」


 凛花が即座に反対する。


「先に夏祭りの浴衣を選ぶ」


「祭りはまだ先だろ」


「先に予約するの!」


 小春は静かに言う。


「秘密基地の点検が必要です」


 千尋は笑った。


「学校にも行きたいな」


 四人が一斉に話し始める。


 俺の意見は、今年もあまり尊重されそうにない。


 けれど、それでいい。


 六年前。


 感動の別れをしたガキンチョたちは、綺麗な女性になった。


 それだけなら、まだよかった。


 彼女たちは、六年分の想いを抱えたまま、甘く、重く、少し面倒に成長していた。


 俺はそんな子に育てた覚えはない。


 たぶん。


 ほんの少しも。


 まったくないと言い切りたい。


 けれど俺の左右で腕を抱き、背後と正面から逃げ道を塞ぐ四人を見ていると、責任がないとも言い切れなかった。


「悠真、早く」


 凛花が手を引く。


「置いていくよ」


「それは困る」


 俺は笑い、四人と一緒に歩き出した。


 もう、置いていかない。


 置いていかれもしない。


 夏の日差しの向こうに、祖父母の家が見える。


 縁側では、ばあちゃんが団扇を扇ぎながら待っていた。


 俺には帰る場所がある。


 そして今度は、その場所を忘れない。


 青いビー玉が胸元で揺れた。


 夏は、また始まった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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