第18話 プールと水着
家に戻るころには、プールで濡れた髪もほとんど乾いていた。
ただ、完全に元通りというわけではない。
首筋に残る塩素の匂い。
肌に残る日差しの熱。
水着姿の三人を見た時の、あの一瞬の呼吸の詰まり。
それらは、乾いた服に着替えたあとも、俺の中にしつこく残っていた。
夕暮れの縁側には、ぬるい風が流れている。
ばあちゃんは台所で夕飯の準備をしていて、じいちゃんは畑に出ていた。つまり、居間には俺たち四人だけだった。
昨日までなら、ここで三人が左右と背後に陣取るのはいつものことだと諦めていた。
だが、今日の俺はいつもより落ち着かなかった。
理由は明確だ。
プールで見た水着姿が、脳内から消えてくれない。
美月の白いビキニ。
凛花の黒いビキニ。
小春の淡いブルーのワンピース水着。
目を逸らしたはずなのに、細部だけやたら鮮明に残っている。人間の記憶というのは、どうしてこう余計なところで高性能なのか。受験勉強の英単語はあれほど抜け落ちたくせに、こういう場面だけは妙に保存状態がいい。
俺は畳に座って、麦茶のグラスを握った。
冷たいはずのグラスが、手の中で少しずつ温くなっていく。
右隣には美月がいた。
風呂上がりではないのに、なぜか風呂上がりみたいな雰囲気があった。プールのあとに髪を結び直したらしく、黒髪がゆるく肩に落ちている。白い薄手のカーディガンを羽織っていて、その下のワンピースは柔らかい桃色だった。
水着より露出は少ない。
少ないはずなのに、逆に意識する。
布があるからこそ、その奥にある形を思い出してしまう。これはもう俺が悪いというより、昼のプール回が悪い。
「悠真兄ちゃん」
「はい」
「さっきから、麦茶ずっと持ってるよ」
「ああ、飲む」
俺は慌ててグラスを傾けた。
その時、美月が身を寄せてきた。
距離が近い。
近いと思った瞬間、彼女の胸の柔らかな膨らみが、俺の腕にふわりと当たった。
俺の動きが止まった。
麦茶が喉の途中で行方不明になりかけた。
美月は気づいているのか、気づいていないのか、俺の腕に触れたまま、上目遣いでこちらを覗き込む。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「本当に?」
「本当に」
「顔、赤いよ」
「夕日だ」
「部屋の中だよ」
逃げ道を塞がれた。
美月はくすっと笑って、さらにほんの少しだけ身を寄せる。
胸元の柔らかさが、さっきよりはっきり伝わってきた。
まずい。
これはかなりまずい。
水着姿を見た直後の男子大学生に、この距離は危険物取扱免許が必要なレベルである。
「美月、近い」
「六年ぶりだから」
「万能の言い訳にするな」
「六年分、近くにいたいの」
甘い声だった。
責めるでもなく、拗ねるでもなく、ただ当然のように甘えてくる声。
俺は何も言い返せなくなった。
その沈黙を、凛花が見逃すはずもない。
「美月、くっつきすぎ」
左側から声がした。
凛花は壁にもたれながら腕を組んでいた。プール帰りに着替えたTシャツとショートパンツ。普段なら動きやすそうで健康的だと思うだけの格好なのに、さっき黒いビキニ姿を見てしまったせいで、布の向こうにある輪郭を勝手に思い出してしまう。
俺は視線を逸らした。
凛花の眉がぴくりと動く。
「また逸らした」
「逸らしてない」
「逸らした。今、完全に逸らした」
「気のせいだ」
「嘘つき」
何度目かわからない嘘つき判定を受けた。
凛花はすたすたとこちらへ歩いてきて、俺の左隣に腰を下ろした。
そして、なぜか俺の腕を掴む。
「じゃあ、こっちはあたし」
「何が?」
「美月だけずるいから」
「だから何が?」
「腕」
凛花は言いながら、俺の左腕を抱え込んだ。
その瞬間、今度は凛花の胸の感触が腕に当たった。
美月とは違う。
柔らかいのに、どこか弾むような存在感がある。凛花本人は平然を装っているが、耳が赤い。つまり、自分でもわかっている。
「凛花さん?」
「何よ」
「これはどういう」
「町案内の延長」
「腕を抱える町案内がどこにある」
「ここにある」
「新制度を作るな」
凛花はそっぽを向いたまま、俺の腕を離さない。
その横顔は怒っているようで、照れているようで、少しだけ嬉しそうでもあった。
たぶん、凛花は素直に甘えるのが下手なのだ。
だからこうして、張り合う形でしか近づけない。
六年前もそうだった。美月が俺の手を握ると、凛花は「ずるい」と怒って、俺のリュックを掴んだ。手を繋ぎたいとは言わなかった。ただ、置いていかれない場所だけは確保していた。
今もそれは変わらない。
変わらないのに、身体だけは大人になっているから、俺の理性がひどい目に遭っている。
その時、小春が正面に座った。
茶色い髪はまだ少し湿っていて、毛先が頬にかかっている。彼女は俺の右腕と左腕を順番に見た。
「両腕、使用中です」
「見ればわかる」
「私はどこを使えばいいですか」
「使う前提なのか」
「はい」
小春は真顔だった。
美月が俺の右腕に頬を寄せたまま、にこりと笑う。
「小春ちゃんは正面じゃない?」
「正面」
小春は少し考えた。
それから、畳の上を膝立ちで近づいてきた。
俺の真正面に。
「近い近い」
「正面です」
「そうだけど」
「悠真お兄さん」
「何だ」
「昼のプールで、私の肩紐を直しました」
「そうだな」
「あれは、私の記憶に残りました」
「消してくれ」
「無理です」
小春は静かに首を振った。
そして、俺の首元に手を伸ばす。
巾着の紐を整えるためだとわかったが、その指先が鎖骨の近くに触れて、俺は思わず肩を揺らした。
小春の目が少しだけ細くなる。
「反応しました」
「するだろ」
「では、もう一度」
「するな」
小春はほんの少しだけ残念そうに手を引いた。
その仕草が可愛くて、俺はまた困る。
右腕には美月。
左腕には凛花。
正面には小春。
逃げ場がない。
いや、物理的には逃げられる。立ち上がって廊下へ出ればいい。だが、そうしようとした瞬間、三人の手がわずかに強くなるのがわかった。
美月の指が俺の袖をつまむ。
凛花が腕を抱える力を強める。
小春が巾着の紐をそっと押さえる。
まるで、言葉にしないで言われているみたいだった。
行かないで、と。
俺は立ち上がれなかった。
「……今日、楽しかったな」
逃げる代わりに、そんなことを言った。
三人が少しだけ黙る。
美月が最初に微笑んだ。
「うん。悠真兄ちゃんが見てくれたから」
「見てないって言っただろ」
「見てたよ」
凛花が小さく鼻を鳴らす。
「見てたわね」
「お前まで」
「別に、嫌じゃなかったし」
凛花は最後だけ小声で言った。
小春も静かに頷く。
「見られるために、選びました」
「水着を?」
「はい」
即答だった。
俺は言葉を失った。
美月が俺の腕に頬を寄せたまま、ぽつりと言う。
「六年前は、見てほしくても、子どもだったから」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
甘かった空気の底に、別のものが沈む。
凛花は黙って目を伏せた。
小春は巾着に触れたまま、何も言わない。
六年前。
俺の後ろを走っていた三人。
俺に花冠を作ってもらって喜んだ三人。
俺がいなくなると聞いて、泣いて、怒って、黙った三人。
彼女たちは、俺のいない六年間で大人になった。
俺に見てほしいと思うくらいに。
俺に触れてほしいと思うくらいに。
その時間の重さに気づいた瞬間、腕に触れる柔らかさが、ただの甘い接触ではなくなった。
俺はゆっくり息を吐いた。
「……見てたよ」
三人の視線が、一斉に俺へ向いた。
「ちゃんと見てた。今日の三人は、その……綺麗だった」
言ってから、顔が熱くなる。
これはかなり恥ずかしい。
だが、言わなければいけない気がした。
美月の目が潤んだ。
凛花の耳が真っ赤になった。
小春が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「もう一回」
美月が言った。
「言わない」
「悠真兄ちゃん」
「無理」
「じゃあ、明日また聞くね」
「明日も聞くのか」
凛花が俺の腕に額を軽く当てた。
「……一回だけなら、許してあげる」
「何を?」
「見てたこと」
「許可制だったのか」
小春は巾着を指で押さえながら、静かに言う。
「記録しました」
「消してくれ」
「大切なので」
俺は天井を見上げた。
夏の夕方。
畳の匂い。
麦茶の冷たさ。
腕に触れる二人の温度。
正面から向けられる小春の静かな視線。
甘すぎる。
苦しいくらいに甘い。
でも、その甘さの奥に、六年間ずっと待っていた彼女たちの時間がある。
だから俺は、もう軽く笑って流せなかった。
美月が俺の腕を抱きしめる。
凛花が反対側で、離すまいとするみたいに指を絡める。
小春が巾着を整えて、俺の胸元を見た。
青いビー玉が、小さく揺れている。
こつん、と胸に当たる。
それはまるで、忘れるなと言われているみたいだった。
俺は目を閉じて、短く息を吐いた。
この夏は、まだ終わらない。
そして俺はたぶん、もうただの兄貴分には戻れない。
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