第17話 夏の昼下がり
土手から帰ると、ばあちゃんが縁側で団扇を扇いでいた。
俺と美月が並んで戻ってきたのを見て、特に何も言わなかった。ただ、目が少しだけ細くなった。長年人を見てきた目というのは、余計な言葉を使わない。
「朝ごはん、温めてあるよ」
「ありがとう」
「美月ちゃんも食べていきなさい」
「ありがとうございます」
美月はぺこりと頭を下げて、ばあちゃんの隣に座った。
自然な動作だった。まるで昔からそうしていたみたいに。
もしかしたら、六年間そうしていたのかもしれない。
俺がいない間も、美月はばあちゃんのところに来ていたのかもしれない。その可能性に気づいた瞬間、何かが胸に刺さった。痛くはないが、抜けない種類の何かが。
※ ※ ※
昼前に、凛花と小春が来た。
凛花は開口一番「なんで二人で朝から」と言い、美月が「散歩」と答え、凛花が「どこを」と言い、美月が「川の土手」と答え、凛花がしばらく黙った。
その沈黙の重さは、俺には測れなかった。
小春は黙って俺の首元を確認して、「異常なし」と言った。
「何が異常なしだ」
「巾着の位置が正常です」
「お前は衛星か」
「観測は重要です」
昼食はばあちゃんが作った素麺だった。薬味が多い。生姜、ミョウガ、大葉、刻みネギ。田舎の素麺というのは、薬味の量で決まると思う。
四人で食べて、また真ん中に配置された。
もう言わない。どうせそうなる。
午後になると、気温が上がった。
本格的な夏の昼下がりというやつで、日差しが地面を白く灼いている。風もぬるくて、吹いても涼しくない。外を歩く気にはなれない温度だ。
「プール行こうよ」
美月が言った。
「プールか」
「町の端に、小さいけど屋外プールがあるの。六年前はなかったんだけど」
「歩いて行けるか」
「自転車で十分くらい」
凛花が即座に立ち上がった。
「行く」
「お前は乗り気だな」
「暑いもの」
小春は少し考えてから、静かに頷いた。
「水着、持っていません」
「私のを貸すよ」
美月が言って、小春を連れて奥の部屋に行った。
凛花が俺の隣に座って、腕を組んだ。
「悠真は水着持ってる?」
「帰省の荷物に一応入れてきた」
「なんで」
「川に来ると思ったから」
「用意がいいじゃない」
「お前よりはな」
「うるさい」
凛花はふいっと顔を逸らした。
しばらくして、美月と小春が戻ってきた。
美月は紙袋を持っていた。
「悠真兄ちゃん、これ」
「何だ」
「六年前に来た時の忘れ物」
紙袋の中には、ビーチサンダルが入っていた。
俺が六年前に置いていったものだ。
「捨てればよかっただろ」
「捨てられなかった」
美月は笑った。
俺は黙ってサンダルを受け取った。
※ ※ ※
プールは、田んぼの向こうの小さな施設だった。
屋外で、五十メートルプールと子供用の浅いプールが並んでいる。平日の午後とあって、人は少なかった。家族連れが数組と、地元の中学生らしいグループ。静かな昼下がりだ。
更衣室で着替えて、プールサイドに出た。
日差しが強い。コンクリートが熱い。塩素の匂いが鼻をつく。
三人が先に出てきていた。
俺は三人を見た。
見て、一瞬だけ呼吸が詰まった。
美月は白いビキニだった。
シンプルな二枚の布という表現が正確で、それ以上でもそれ以下でもない。肩紐が細くて、首の後ろで結ばれている。トップスの白い布が、陽光の中でほんの少し透けていた。腰のラインから伸びる足が、プールサイドのコンクリートの上に真っ直ぐ立っている。朝の土手で見た時より、何倍も輪郭がはっきりしている。
美月は俺に気づいて、笑った。
「どうかした?」
「いや」
「見てたよ」
「日差しが眩しかった」
「そっか」
信じていない顔だった。
凛花は黒のビキニだった。
スポーティな形だが、布の面積が少ない。健康的な肩と腕が剥き出しになっていて、腰骨の上に細い紐が一本かかっている。川で濡れたTシャツ越しに見えた輪郭が、今は何も隔てずにそのまま目の前にある。
凛花は俺の視線に気づいて、腕を組んだ。
「……何よ」
「何でもない」
「見ないでよ」
「見てない」
「見てた」
「見てなかった」
「嘘つき」
声が、いつもより低かった。
腕を組んでいるのは、隠しているのか、寒いのか。プールサイドだから寒いはずはない。
小春は、美月から借りた水着を着ていた。
淡いブルーのワンピース型で、美月より露出は少ない。しかし美月の水着が小春の体型に合っていなかった。肩の部分が少し緩くて、ストラップがずり落ちそうになっていた。それを小春は気にする様子もなく、真顔で立っている。
「小春、肩」
「はい」
「ずれてる」
「知っています」
「直せ」
「直し方がわかりません」
俺は額に手を当てた。
美月が小春の肩紐を直してあげた。
その間、小春は微動だにしなかった。
人形みたいだった。人形みたいなのに、直された後で俺をちらりと見た目が、やけに鮮明だった。
プールに入ると、水が冷たかった。
夏の昼下がりに感じる冷たさは、少し暴力的で、でも気持ちいい。じりじりと焼けていた体が、一気に冷やされる。
美月は浅いところで水をすくって、俺にかけてきた。
「冷たい」
「涼しいでしょ」
「かけてくるな」
「悠真兄ちゃんが鈍そうな顔してたから」
「鈍い顔って何だ」
美月はくすくすと笑って、また水をかけてきた。
俺は反撃した。
美月が逃げた。
水を踏む音が、プールに響いた。
追いかける格好になって、美月の腕を掴んだ。
その瞬間、美月が振り返った。
距離が、近かった。
濡れた美月の髪が頬に張り付いていた。腕が俺の手の中にある。白いビキニのトップスが水を含んで、重さを持っていた。水滴が肩から鎖骨を伝って、落ちていく。
その軌跡を、俺の目が無意識に追った。
追ってから、気づいた。
視線を上げると、美月と目が合った。
美月の耳が、水に濡れているのに赤かった。
「……悠真兄ちゃん」
「ああ」
「手」
「あ」
俺は美月の腕を放した。
美月はそのまま一歩引いて、プールの水面を見た。水の揺れが二人の間で広がっていく。
「……追いかけてくれると思わなかった」
「お前がかけてきたんだろ」
「そうだけど」
「そうだけど、何だ」
「……なんでもない」
美月は水面を指でなぞった。
その仕草が、なぜか目に焼き付いた。
凛花は思ったより泳げた。
クロールで五十メートルをすいすい泳いで、プールの端で俺を待っていた。
「遅い」
「俺はそんなに速くない」
「六年前は速かったじゃない」
「六年経ったんだよ」
「退化してる」
「人間は退化もする」
凛花はプールの縁に肘をついて、俺を見た。
濡れた黒いビキニが、体の線を余すところなく見せていた。水が滴っている。鎖骨の下に水が溜まって、また落ちる。
俺は反対側の壁を見た。
「なんで見ないの」
「さっきも言っただろ」
「さっきとは別の理由があるでしょ」
「ない」
「嘘つき」
凛花は水をひとすくい、俺の顔にかけた。
「おい」
「顔、赤かったから」
「プールだぞ」
「関係ない赤さだったから」
俺は黙った。
凛花も黙った。
水面が揺れる音だけが続いた。
「……ねえ」
「何」
「今、何考えてる」
「何も」
「嘘つき」
「三回目だぞ」
「三回とも嘘だったから」
凛花は俺の隣に浮かんで、プールの天井の空を見上げた。
夏の青空が、水面に揺れている。
「悠真って、昔から顔に出ないよね」
「そうか」
「でも私には少しわかる」
「何がわかる」
「困ってる顔と、困ってない顔」
「今はどっちだ」
凛花はちらりと俺を見た。
「両方」
それだけ言って、また空を見た。
俺も空を見た。
二人で並んで、夏の空を水の中から見ていた。
小春はプールの浅いところで、じっとしていた。
泳いでいない。立っているだけだ。
「泳がないのか」
「泳ぎは得意ではありません」
「じゃあ何しに来た」
「悠真お兄さんを見に来ました」
「それだけか」
「それだけです」
俺は小春の隣に立った。
水が腰のあたりまである。小春の借り物の水着が、水の中で揺れていた。青い布が体に纏わりついて、ストラップがまた肩から落ちかけていた。
「また肩」
「わかっています」
「直さないのか」
「悠真お兄さんが直してくれますか」
「……自分でやれ」
「できません」
「さっき美月がやってたろ」
「美月さんではなく」
小春は言いかけて、止まった。
俺はしばらく黙ってから、小春の肩に手を伸ばした。
ストラップを指でつまんで、肩の上に戻す。それだけの動作だ。三秒もかからない。
でも小春が息を止めているのが、水の静けさの中でわかった。
直し終えて手を引こうとした瞬間、小春が俺の手首を軽く掴んだ。
掴んだまま、水面を見ていた。
「小春」
「少し」
「少し、何だ」
「少しだけ」
手首を離さなかった。
俺も動かなかった。
水が腰の高さで揺れている。
夏の昼下がりの光が、プール全体を白く染めていた。
小春の横顔が、その光の中に浮かんでいた。
濡れた前髪の隙間から、真っ直ぐな目が遠くを見ている。
いつもより、柔らかい顔だった。
水の中だからか。光のせいか。あるいは今この瞬間だけの表情か。
しばらくして、小春は静かに手を離した。
「ありがとうございました」
「……ああ」
「肩紐の件」
「そうだな」
小春はまた水面を見た。
俺も水面を見た。
二人の周りで、水が静かに揺れていた。
※ ※ ※
帰り道、夕暮れの中を四人で自転車を漕いだ。
美月が前を走って、凛花が並走して、小春が後ろで、俺がその隣にいた。
風が気持ちよかった。
濡れた髪が乾いていく感触がした。
美月が振り返って、夕光の中で笑った。
凛花が前を向いたまま、腕を一度だけ俺の方に伸ばして、すぐに引いた。
何かを言おうとして、やめたみたいだった。
小春が俺の隣に並んで、静かに漕いでいた。
何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
夕暮れの田んぼ道を、四人で走った。
橙の光が全部を染めて、影が長く伸びた。
夏がまだ、たくさん残っていた。
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