第16話 朝霧の中の美月
翌朝、俺は夢を見た。
内容は覚えていない。ただ、目が覚めた時に胸の奥がじんわりと温かくて、それが何かの残滓だとわかった。布団の中で天井を見上げながら、その温かさが何に由来するものかを考えようとして、やめた。考えたら負ける気がした。
障子の外が白い。
いつもより早い時間だ。鳥の声がまだ遠く、台所からばあちゃんの音もしない。俺だけが起きている静けさの中で、布団の上に半身を起こした。
首元のビー玉が、ころりと胸の上を滑った。
昨日も外さなかった。外す理由が、見当たらなかった。
※ ※ ※
縁側に出ると、庭が朝霧に包まれていた。
田舎の朝霧は分厚い。隣の田んぼの向こうが白く滲んで、柿の木が幽霊みたいに浮かんでいる。空気が冷たくて、肺の奥まで刺さるような清潔さがあった。こういう朝が、田舎には確かにある。都会では一生出会えない種類の静けさだ。
縁側に腰を下ろして、膝を抱えた。
昨日の夜のことを、整理しようとしていた。
整理できるわけがなかった。
美月の手のひらの温かさ、凛花の「時間がずるい」という言葉、小春の指先が巾着に触れた感覚。それらが順番に浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。脳というのは本当に社会的に不誠実な器官で、忘れるべきものを精密に保存して、忘れていいものはさっさと捨てる。
俺は息を吐いた。
霧の中に、白い煙みたいに溶けた。
そこへ。
「悠真兄ちゃん」
声がした。
俺は振り返った。
霧の向こうから、美月が歩いてきた。
淡い黄色のワンピース。昨日の水色より落ち着いた色で、朝霧の白と混ざって、まるで光が歩いているみたいだった。両手には何かを抱えている。
「何時だと思ってる」
「六時ちょっと前」
「なんで来てる」
「悠真兄ちゃんが起きてる気がしたから」
俺は言葉に詰まった。
「……勘か」
「うん」
「当たってるな」
「いつも当たるよ」
美月はそう言って、縁側の隣に腰を下ろした。
自然な動作だった。迷いが一切なかった。
手に持っていたのは、小さな水筒だった。
「お茶、持ってきた」
「朝から気が利くな」
「霧の日は冷えるから」
美月は水筒を開けて、俺に渡した。
温かいお茶だった。一口飲むと、胃の奥から体が解れていく感じがした。
「うまい」
「よかった」
美月は膝の上で手を組んで、霧の庭を見た。
並んで座る。
二人だけの朝。こんな状況に、いつの間に慣れてしまったのかと思う。三日前の俺なら、もう少し動揺していたはずだ。
いや、動揺はしている。
ただ、隠すのが上手くなっただけだ。
「霧、好き?」
美月が聞いた。
「嫌いじゃない」
「私は好き」
「なんで」
「全部が曖昧になるから」
俺は美月の横顔を見た。
「曖昧になると、何がいい」
「はっきりしなくていいから」
美月は微笑んだ。いつもの柔らかい笑顔だったが、その裏に何かが透けていた。
「悠真兄ちゃんって、はっきりしてるよね」
「そうか?」
「帰る時も、来る時も、ちゃんと言う」
「当たり前のことだろ」
「当たり前じゃない人もいるよ」
美月はそっと俺を見た。
「六年前、急にいなくなったのに」
声に、刺はなかった。
ただ事実として、静かに落とした。
「……それは」
「怒ってないよ」
「美月」
「本当に。ただ、びっくりしたって話」
俺は霧の向こうを見た。
「急だったのは確かだ」
「うん」
「ちゃんと言えばよかった」
「言ってほしかったけど」
美月は一度止まって、また続けた。
「早めに言ってくれても、たぶん泣いたから。言えなかったのかなって、今は思う」
俺の胸の奥が、じくりと痛んだ。
美月は泣く子だった。昆虫でも泣いた。転んでも泣いた。俺はそれを知っていた。知っていたから、早めに言えなかった。
「……賢い言い訳だな」
「言い訳じゃないよ」
「俺の言い訳だ」
「うん、知ってる」
美月はそれでも笑っていた。
しばらく、二人で霧を見ていた。
言葉がなくても、妙に落ち着く沈黙だった。昔もこういう時間があった。何かをしているわけじゃない、ただそこにいるだけの時間。子供の頃はその価値がわからなかった。今は少しだけわかる。
「散歩、しない?」
美月が言った。
「霧の中を?」
「うん。霧が晴れる前に」
断る理由がなかった。
俺は縁側から立ち上がった。
※ ※ ※
霧の朝の田んぼ道は、静かを通り越して無音に近かった。
遠くの山が白い輪郭だけで浮かんでいる。田んぼの稲が朝露を帯びて、光の粒をそれぞれ一個ずつ持っていた。踏み出すたびに砂利が湿った音を立てる。それ以外は、俺たちの足音だけだ。
美月は俺の半歩横を歩いていた。
腕が時々触れる距離。
どちらも避けなかった。
「昨日、星を見てた時に思ったんだけど」
美月が言った。
「何を」
「悠真兄ちゃんって、星に似てるなって」
「どういう意味だ」
「遠いのに、見える」
俺は歩きながら美月を見た。
美月は前を向いたまま、ふわりと続けた。
「届かないかもしれないけど、あるってわかる。それだけで、なんか安心する」
「安心か」
「うん」
「都合のいい星だな」
「悠真兄ちゃんだから」
それだけ言って、美月は少し笑った。
俺は答えなかった。答えようとしたが、言葉が形にならなかった。胸の奥に沈んだまま、言語になる前に消えた。
田んぼ道の先に、小さな祠があった。
六年前から変わらず、苔の生えた石の祠。その前に小さな花が供えてある。誰かが今朝も来たのだろう。
「お参りしていく?」
「するか」
二人で祠の前に立って、手を合わせた。
何を願うか、一瞬だけ考えた。
何も浮かばなかった。
浮かんだものを、願っていいのかわからなかった。
美月は目を閉じて、真剣な顔で手を合わせていた。
その横顔を、俺はじっと見た。
朝の光の中で、美月の顔は妙に鮮明だった。まつ毛が長い。鼻筋が細い。唇が少し開いて、小声で何かを言っている。願いの言葉だろう。聞こえない。聞こえないが、それでいい気がした。
美月が目を開けた。
俺と目が合った。
「見てた?」
「ああ」
「何で」
「きれいだったから」
言ってから、気づいた。
しまった、と思う間もなく、美月の顔が変わった。
驚いた、というより、固まった。呼吸を忘れたみたいな一瞬があって、それからゆっくりと耳に赤が差してきた。首元まで、じわじわと。
「……悠真兄ちゃん」
「無意識だった。忘れろ」
「忘れない」
「忘れてくれ」
「絶対忘れない」
美月は照れを隠すように前を向いて、でも口元がどうしても緩むのを隠しきれていなかった。
俺は自分の失言を呪った。
※ ※ ※
霧が薄くなる頃、二人は川の手前の土手に出た。
草が朝露に濡れていて、座ると湿る。それでも美月が「ここがいい」と言ったので、俺は隣に腰を下ろした。
川が朝の光を受けて、細かく光っていた。昨日と同じ川だが、朝の顔は違う。静かで、冷たくて、でもどこか優しい。
美月が膝を抱えて川を見ていた。
風が吹いた。
美月の髪が揺れた。
黒い髪がほどけて、頬にかかる。美月はそれを手で払おうとしたが、風がまた吹いて、また乱れた。
諦めたのか、そのままにした。
頬に張り付いた髪が、朝の光の中で柔らかく光っていた。ワンピースの薄い生地が風に押されて、体の輪郭をふわりと描く。
俺は川を見ることにした。
「悠真兄ちゃん」
「何」
「夏が終わったら、どうするの」
俺は川面を見たまま答えた。
「都会に戻る」
「そっか」
「それだけだ」
「うん」
美月の声は、穏やかだった。
穏やかすぎて、逆に何かが滲んでいた。
「怒ってないか」
「怒ってないよ」
「本当に」
「……少しだけ」
美月は膝に顔を埋めて、くぐもった声で言った。
「少しだけ、嫌だなって思う」
「そうか」
「でもそれだけ」
「そうか」
「悠真兄ちゃんが戻るのは当たり前だもん。私がどうこう言う話じゃない」
俺は美月を見た。
膝に顔を埋めたまま、こちらを見ていた。
土手の草の匂いと、川の冷たい空気と、美月のいつかのシャンプーの香りが混ざっていた。
「美月」
「何」
「夏の間は、ここにいる」
「うん、知ってる」
「全部、一緒にいる」
美月が顔を上げた。
目が、朝の光を受けて少し潤んでいた。
泣いているわけじゃない。ただ、光の加減だ。そう思いたかった。
「約束?」
「ああ」
「破ったら」
「小春に記録してもらえ」
美月が笑った。
それは本当に柔らかくて、朝の川みたいに清潔な笑い方で、俺の胸の奥がまた重くなった。
風が吹いた。
今度は強い風で、美月のワンピースの裾がふわりと舞い上がった。
美月が慌てて裾を押さえた。
その動作の中で、美月の体が俺の方に傾いた。
肩と肩がぶつかった。
そのまま、美月は起き上がれなかった。俺の肩に頭が乗った格好になって、二人ともしばらく動かなかった。
動けなかった。
美月の髪が俺の首元に触れていた。その重さが、ビー玉より少しだけ重くて、でも同じくらい確かだった。
呼吸が、聞こえた。
美月の、落ち着いた呼吸。
それから、少しだけ速い呼吸。
「……悠真兄ちゃん」
「何」
「動かないで」
「動いてない」
「もう少し」
「ああ」
川が光った。
霧が完全に晴れて、夏の朝が始まっていた。
土手の草が風に揺れる。
美月の頭が、俺の肩の上にあった。
俺は川を見ていた。川を見ながら、肩の重さだけを感じていた。
それ以上のことは何もなかった。
何もなかったのに、それだけで胸の奥が痛いくらいに満ちていた。
夏の朝が、二人を橙と金で包んでいた。
美月は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
ただ川が流れて、風が草を揺らして、時間だけが静かに過ぎていた。
夏の間は、ここにいる。
さっきの言葉が、川の音に混ざって消えた。
消えたのに、胸の中にだけ、はっきりと残っていた。
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