第15話 夜風と星と、名前を呼ぶ声
虫の声が庭に満ちて、空が完全に藍色になる頃、美月の母親が縁側に顔を出した。
「悠真くん、夕飯食べていきなさい」
有無を言わせない声だった。
六年前から変わっていない。この家の女性は、みんなそういう顔をする。
「お邪魔します」
「邪魔じゃないわよ。むしろ来て欲しいくらい」
美月の母親は笑って、それからちらりと凛花と小春を見た。
「二人とも食べていくでしょ?」
「はい」
二人が揃って答えた。
息が合いすぎている。
夕飯は賑やかだった。
美月の家の食卓は丸くて、六年前も俺はここで何度か飯を食べた。あの頃と違うのは、三人が全員背が伸びていることと、箸の置き方が丁寧になっていることくらいだ。
美月の母親は料理を次々と出しながら、俺に六年分の近況を聞いた。大学のこと、一人暮らしのこと、将来のこと。
「将来は、こっちに戻ってくるの?」
「まだわかりません」
「そう」
それだけ言って、美月の母親は台所に戻った。
美月が俺をちらりと見た。
聞かなかった。
凛花も、小春も、聞かなかった。
その沈黙が、さっきの縁側の会話と繋がっていた。
俺はご飯を一口食べた。
うまかった。
うますぎて、少し困った。
食後。
美月の母親が「後片付けは美月に任せるから」と言って、奥に引っ込んだ。
俺は手伝おうとしたが、美月に「座ってて」と言われた。
「手伝う」
「いい」
「なんで」
「見られると緊張するから」
素直すぎる理由だった。
俺は大人しく座った。
凛花が台所に立つ美月を見て、それから俺を見た。
「……私も手伝う」
「凛花ちゃんはいい」
「なんで私はいいの」
「緊張しないから」
「それはそれで複雑なんだけど」
凛花は結局立ち上がって、台所に入った。文句を言いながら皿を拭いている。
小春は俺の向かいに座って、お茶を飲んでいた。
静かだった。
台所から美月と凛花の声が聞こえてくる。たまに笑い声が混ざる。六年前も、こういう夜があった気がした。
「小春」
「はい」
「今日、楽しかったか」
小春は少し間を置いた。
「はい」
「そうか」
「悠真お兄さんは」
「俺も」
小春はお茶を一口飲んで、テーブルの木目を見た。
「六年間」
「うん」
「長かったです」
声は平坦だった。でもその平坦さの中に、何か重いものが沈んでいるのが、今日一日でわかるようになった。
「そうだな」
「でも」
「でも?」
小春は顔を上げた。
「今日が、あったので」
それだけ言って、またお茶を飲んだ。
俺は何も言えなかった。
言葉を返すより先に、胸の奥が重くなった。
※ ※ ※
片付けが終わって、四人で縁側に出た。
夜の庭は昼間とは別の顔をしていた。虫の声が重なり合って、草の匂いが濃い。空を見上げると、星が出ていた。
都会では見えない数の星が、頭の上にある。
「すごい」
凛花が小さく言った。
凛花が素直に驚く顔を、俺は初めて見た気がした。
「田舎だからな」
「悠真は慣れてるの?」
「六年ぶりだ。俺も忘れてた」
四人で並んで空を見上げた。
自然にそうなった。誰かが促したわけじゃない。
美月が俺の袖を軽く引いた。
「あれ、わかる?」
「何が」
「あの星の並び」
美月が指をさす。俺は目を細めた。
「さそり座か」
「正解。悠真兄ちゃん、覚えてたんだ」
「教えたのは俺じゃなくてじいちゃんだぞ」
「でも一緒に聞いてたよ。六年前の夏、ここで」
「……そうだったかもな」
美月はそっと俺に寄りかかった。縁側の時と同じ、ほんの少しの重さで。
凛花が逆側から、腕を軽く俺に当てながら空を見ていた。
「ねえ」
「何」
「星って、何年も前の光なんでしょ」
「そうらしいな」
「じゃあ、六年前のこの星と、今の星って」
「同じかもしれないし、違うかもしれない」
「……なんか、そういうのって」
凛花は言いかけて、止まった。
「そういうのって?」
「……ずるいと思う」
「星が?」
「時間が」
凛花は腕を俺にもう少し押し当てて、それ以上は言わなかった。
俺もそれ以上は聞かなかった。
小春が俺の後ろに立って、静かに空を見ていた。
「小春、前に来いよ」
「後ろでいいです」
「見えないだろ」
「見えています」
「強情だな」
「悠真お兄さんが見えているので」
三人の笑い声が重なった。
小春だけが真顔だった。
でも、耳が赤かった。
※ ※ ※
帰る、と俺が言ったのは、夜が深くなってからだった。
美月が玄関まで送ってきた。凛花と小春もついてきた。
全員でついてくる必要はないが、もう突っ込む気力もない。
乾いた靴を履いて、振り返ると三人が並んでいた。
玄関の灯りが三人を照らしている。
美月が笑った。
「明日も来る?」
「来るよ」
「うん」
「約束は守る」
「知ってる」
美月は一歩前に出て、俺に手を差し出した。
握手、でもなかった。
ただ手のひらを上に向けて、差し出している。
「何だ」
「おやすみ」
俺はその手を一瞬見て、それから軽く握った。
温かかった。
すぐに離した。
凛花は腕を組んで、少し顎を上げた。
「……おやすみ」
「おやすみ」
「ちゃんと帰れるでしょうね」
「六年前も一人で帰れた」
「六年前も怪しかったわよ」
「いつの話してる」
凛花はふいっと視線を逸らして、でも口元が緩んでいた。
小春が一歩前に出た。
俺の首元の巾着を、そっと指先で持った。
確認というより、ただ触れている感じだった。
「小春」
「はい」
「今日、ありがとう」
小春の手が止まった。
「タオルとか、長靴とか、いろいろ」
「……どういたしまして」
声が、いつもより少しだけ低かった。
小春は指を離して、一歩引いた。
「悠真お兄さん」
「何」
「また明日」
「ああ」
俺は歩き出した。
振り返らなかった。
でも、三人が玄関の灯りの中でずっとこちらを見ているのが、背中でわかった。
夜道を歩く。
虫の声が続いている。
首元のビー玉が、歩くたびに揺れた。
今日だけで、受け取り直したものがまたひとつ増えた気がした。
名前を、心の中で三つ呼んだ。
どれも、六年分の重さがあった。
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