第14話 雨上がりの橙
雨が完全に止んだのは、それから十分ほど後だった。
小屋の外に出ると、世界が洗われたように光っていた。田んぼの緑が濃く、水路がきらきらと鳴いている。夕暮れの橙が雲の切れ間から差し込んで、濡れた草の一本一本を金色に染めていた。
「きれい」
美月がつぶやいた。
俺も同じことを思ったが、なぜか美月の横顔を見ていた。
濡れた髪が半乾きで頬にかかって、夕光を横から受けている。ワンピースはまだ少し湿っていて、歩くたびに裾が脚に纏わりついた。それを気にする様子もなく、ただ空を見上げている。
「悠真兄ちゃん」
「何」
「見てた?」
「……空を」
「そっか」
美月は微笑んだ。信じていない顔だった。
帰り道は、来た道より遠く感じた。
濡れた砂利道を四人で歩く。長靴を履いていたのは小春だけで、あとの三人は靴がぐちょぐちょだった。
「最悪」
凛花が足元を見ながら言った。
「言ったろ、雨が来そうだって」
「言ってない」
「空見て黙ってたのはそういう意味だ」
「なにそれ、以心伝心は成立してないわよ」
「今後は言語化する」
「当たり前でしょ」
凛花はぷいっとしながらも、足元の水たまりを慎重によけていた。その横顔が、夕光の中で柔らかく見えた。
怒っている時でも、こいつはどこか甘い。
気づいてから、俺は前を向いた。
小春が俺の半歩後ろで、ぺたりぺたりと長靴を鳴らしながら歩いていた。
「小春、一人だけ賢い」
「準備は正義です」
「なんで長靴持ってきた」
「悠真お兄さんが川に来ると聞いた時点で、夕立の可能性を計算しました」
「六年前のデータか」
「はい」
恐ろしいアーカイブだ。
美月が笑いながら俺を見た。
「悠真兄ちゃん、靴気持ち悪くない?」
「最悪だ」
「うち、寄っていく?」
さらっと言った。
凛花の歩幅が、一瞬だけ乱れた。
小春の長靴の音が、半拍止まった。
「……いいのか」
「ダメじゃないよ。お母さんも、この前悠真兄ちゃんが来たって喜んでたし」
「なるほど!?」
「それに、みんな悠真兄ちゃんが帰ってきたことを嬉しく思ってるの」
美月は嬉しそうに言った。
※ ※ ※
美月の家に着けば、六年前と変わらない白い壁の家が見えた。縁側の向こうに庭があって、柿の木が一本だけ立っている。その木に、六年前に俺が傷をつけた場所がある。落ちた時に爪が引っかかったのだ。
「あの木、まだあるんだな」
「うん。お父さんが切ろうとしたら、私が泣いて止めた」
「なんで」
「悠真兄ちゃんの傷があるから」
俺は柿の木を見た。
言葉が出なかった。
縁側に腰を下ろして、濡れた靴を脱いだ。凛花も隣に座って、靴下まで脱いで縁側に足を投げ出した。
「靴、乾かさないと」
「並べとけ。日が当たるから」
凛花は素直に靴を並べた。
その横に、俺のも置いた。
二つが並んでいる。
凛花はそれを一瞬見て、それから視線を庭に逃がした。耳が、夕暮れより赤かった。
美月が縁側に麦茶を持ってきた。四人分。
「はい、悠真兄ちゃん」
「ありがとう」
冷たいグラスが手に渡る。その時、美月の指先が俺の手の甲に触れた。
一秒くらい。
意図的かどうか、わからない。
美月はそのまま何事もなく隣に座った。俺の右肩に、さりげなく寄りかかるような距離で。
体温が伝わってくる。
まだ少し濡れた髪の毛が、俺の肩口にかかった。
「……重い?」
美月が小声で聞いた。
「重くない」
そう答えると、美月は少しだけ体重を預けてきた。
ほんのわずかだ。気づかなければ気づかない程度の重さ。
でも俺は気づいた。
凛花が横目でそれを見ていた。
何か言いたそうに口を開いて、閉じた。
小春は縁側の端に座って、グラスを両手で持ったまま庭を見ていた。
「小春」
「はい」
「何か言え」
「何をですか」
「何でも」
小春は少し考えてから、俺を見た。
「悠真お兄さんの靴、明日も濡れています」
「それだけか」
「泊まっていきますか」
美月が顔を上げた。
凛花が麦茶を吹きそうになった。
「小春!?」
「合理的な提案です」
「合理的じゃない!」
「靴が乾かない事実は残ります」
「それとこれとは話が別でしょ!」
凛花の声が上ずっていた。
俺は麦茶を一口飲んだ。
「泊まらないぞ」
「残念です」
「残念って言うな」
「事実です」
美月が俺の肩口から、くすくすと笑った。
その笑い声が肩を通して伝わってくる。
夕暮れが庭を染めていく。柿の木が橙の中に立っている。
六年前と同じ縁側で、六年後の俺たちが並んでいた。
凛花が、ぽつりと言った。
「……ねえ」
「何」
「また来る? ここに」
「川の約束したろ」
「川じゃなくて、ここに」
俺は凛花の横顔を見た。
庭を向いたまま、耳が赤い。
「来る」
「……そ」
「凛花」
「何よ」
「顔、こっちに向けろ」
「嫌」
「なんで」
「……見られたくないから」
俺は何も言わなかった。
凛花は結局、最後まで顔をこちらに向けなかった。
でも、肩と肩の距離が、さっきより近くなっていた。
美月がそっと俺の袖を引いた。
「悠真兄ちゃん」
「何」
「明日も来る?」
「来る」
「明後日も?」
「来る」
「ずっと?」
俺は少しだけ黙った。
「……夏の間は」
「夏の間、全部?」
「全部」
美月の肩が、小さく震えた。
笑っているのか、泣いているのか、暗くなってきた縁側では判別できなかった。
小春が静かに立ち上がって、俺の前に来た。
手を、そっと差し出した。
「巾着、確認させてください」
「ここでするか」
「習慣です」
俺は首元の巾着を小春の手のひらの上に乗せた。
小春はビー玉の硬さを指先で確かめて、それから静かに返した。
その時、小春の手が一瞬だけ俺の手を包んだ。
すぐに離れた。
でも確かに、あった。
「外していませんでした」
「ああ」
「よかった」
小春は元の場所に戻って、また庭を見た。
夕暮れが、完全に落ちきろうとしていた。
庭に虫の声が満ちはじめる。
美月が俺の肩に少し深く寄りかかって、目を閉じた。
凛花が膝を抱えて、俺の肩に顎を乗せそうな距離で黙っていた。
小春が静かに、俺の袖の端を指先で持っていた。
三人が、それぞれのやり方で、俺のそばにいた。
夏の夜が始まろうとしていた。
首元のビー玉が、微かに揺れた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




