第13話 雨宿りの中で
川から帰る途中で、空が割れた。
前触れはあった。昼過ぎから雲の色が変わっていたし、風の湿り気も増していた。だが、美月の弁当が美味すぎたせいで、俺の警戒心は完全に溶けていた。
「走って!」
凛花が叫んだ瞬間、堰を切ったように雨が落ちてきた。
田舎の夕立は本気だ。都会のそれとは密度が違う。傘など意味をなさない量の水が、真上から叩きつけるように降ってくる。
四人で走った。
一番近い建物は、川沿いの古い農機具小屋だった。錠はかかっていない。昔から、雨宿りに使っていた場所だ。
扉を引いて、全員で滑り込む。
中は薄暗かった。小さな窓から灰色の光が差し込んでいる。木の匂いと土の匂いが混ざった、懐かしい密度の空気。
俺は息を整えて、振り返った。
そして、視線の置き場を完全に見失った。
美月の水色のワンピースは、雨を吸って体に貼り付いていた。肩から腕の曲線が、濡れた布越しにそのまま見えている。薄い生地の下に透けた白が、俺の視界に入った瞬間、俺は天井を見た。
「ひゃあ、冷たい」
美月は両腕で自分を抱いて、くすっと笑った。その笑顔のまま俺を見る。
「悠真兄ちゃんも濡れてる」
「お互い様だ」
声が少しだけ掠れた。自覚したのは言った後だった。
凛花はTシャツの裾を絞っていた。
絞ると、ろくなことにならない。
俺は壁の方を見た。
「なんで見ないのよ」
「見ると困る」
「……何が困るの」
「いろいろと」
沈黙が落ちた。
凛花の息を呑む音が、雨音の合間に聞こえた気がした。
「…………見てもいいわよ、別に」
声が、低かった。
俺は壁から目を離せなかった。離したら終わる気がした。
小春は荷物の中からタオルを三枚取り出していた。
「準備がいいな」
「実績があります」
「今回だけは感謝する」
小春は無言でタオルを一枚、俺の頭にかぶせた。
そのまま、少しだけ髪を拭いてくれた。
手が、耳のすぐそばに来る。
小春の体から、雨の匂いと混ざった何かが漂った。石鹸か、あるいは彼女自身の匂いか。近い距離でないとわからない種類のそれが、密閉された小屋の中で俺の鼻をついた。
「自分でやる」
「非効率です」
「俺が非効率でいいんだ」
「なぜ」
「近すぎる」
小春の手が止まった。
俺はタオルを奪い取って、自分で頭を拭いた。小春は一歩引いて、自分の濡れた前髪をさらりと払った。その仕草が、なぜか目に刺さった。
美月がタオルを受け取って、髪を押さえながら俺を見る。
「悠真兄ちゃん、顔赤い」
「熱いんだろ」
「雨で冷えたのに?」
「うるさい」
美月はくすくすと笑った。濡れた髪が頬に張り付いていて、いつもより輪郭がはっきりしている。ワンピースの肩口が透けているのが視界の端に入る。入ってしまう。
俺は窓の外の雨を見ることにした。
凛花がタオルで髪を拭きながら、俺の隣に来た。
気配で分かる。
「……ねえ」
「何」
「見てもいいって言ったのに」
「聞こえてた」
「だったら」
「だったら、なんだ」
凛花は黙った。
俺も黙った。
雨が小屋の屋根を叩く音だけが続く。
凛花の肩が、俺の腕にそっと触れた。意図的かどうか、今回もわからなかった。でも離れなかった。
「……寒い」
それだけ言った。
「そうだな」
俺もそれだけ答えた。
どちらも動かなかった。
小春が窓の近くで外を見ていた。その横顔に雨の光が当たっている。濡れたカーディガンが肩に張り付いて、普段より細く見える背中が、薄暗い小屋の中でやけに鮮明だった。
「小春」
「はい」
「寒くないか」
「寒いです」
「タオル使え」
「使っています」
小春はタオルを肩にかけたまま、こちらを振り返った。
濡れた前髪の隙間から、真っ直ぐな目が俺を見た。
「悠真お兄さん」
「何」
「六年前、この小屋で雨宿りしたことを覚えていますか」
俺は少し黙った。
「……覚えてる」
「あの時も、今と同じ布陣でした」
「布陣って言うな」
「事実です」
小春は静かに俺の方へ歩いてきた。
そして俺の隣、凛花とは逆側に立った。
何も言わない。ただ立っている。
右に凛花。左に小春。少し前に美月。
六年前と、同じ。
美月が俺を見て、微笑んだ。
「あの時、悠真兄ちゃんが言ったんだよ」
「何を」
「『晴れたら、また来よう』って」
俺は覚えていなかった。
でも、言いそうだった。当時の俺なら言う。
「言ったな、たぶん」
「また来たね」
「……雨だけど」
「うん」
美月はそれだけで嬉しそうに目を細めた。
濡れた三人が、薄暗い小屋の中で俺を見ている。
俺の心臓が、静かに、でも確実に音を立てた。
雨の音が、少しずつ遠くなっていく。
止みかけている。
「晴れたら、また川に来る?」
美月が聞いた。
「………来る」
「約束ね」
「破ったら小春に記録される」
「記録します」
「だから言うな」
凛花が小さく噴き出した。
その笑い声が、雨音の隙間に溶けた。
俺は窓の外を見た。
雲の端が、橙に滲み始めていた。
六年前に置いていったものを、俺は少しずつ、受け取り直している気がした。
形のないそれは、ビー玉よりずっと重くて、でも首元の巾着と同じくらい、外せなかった。
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