ミス・アンソンの誇り【後編】
「――ねえ、アンソン」
レディ・メラヴェルの寝室で、主の身支度の準備をしていたミス・アンソンは、未だベッドで朝食をとっている主の方を振り返った。
彼女は先ほどまで読んでいた手紙を畳んで、新聞を読み始めていた。
「昨日、お母様が今のうちに子供部屋の壁紙を貼り替えるべきだなんておっしゃっていたのだけど、少し気が早くないかしら?」
彼女の視線は新聞の経済記事に向けられていたが、その口元には少し笑みが浮かんでいた。
「お母様」とはレディ・メラヴェルの実母ミセス・グレンロスのことだ。
ミセス・グレンロスは、娘が結婚するまでこの屋敷に暮らしていたが、娘の結婚以降はすぐ近くの寡婦用邸宅に移っていた。
娘夫妻が一刻も早く男爵家の後継者を確保することを望んでいるミセス・グレンロスは、新婚夫婦の邪魔をしないことを第一に考えているようだが、週何度かはこの屋敷でディナーをとっていて、昨夜もそうだった。
娘夫妻が上手くいっていることを確認したいのだろう。
「ええ、さようでございますわね、奥様」
侍女として微笑みで応じたミス・アンソンだが、頬が僅かに引き攣ったのを感じた。
皆がメラヴェル男爵家に良い知らせがもたらされることを心待ちにしている。
しかし、ミス・アンソンは良い知らせが幸せの始まりであることもあれば、そうでないこともあると知っていた――。
***
1906年、次女ミス・シルヴィアが家を出て半年ほど経った頃、彼女の姉である子爵家の長女が結婚した。
結婚相手は侯爵家の若き子息で、跡取りである彼は伯爵を名乗っていた。
ミス・アンソンもまたその伯爵の夫人となる令嬢の侍女として、婚家にお供することになった。
その結婚は典型的な家同士が決めた結婚だったが――新婚生活はドラマの連続だった。
しかし、幸いにして幸せな結末のドラマであるように思われた。
誤解やすれ違い、ぶつかり合いを経て、歩み寄り、理解し合うようになった伯爵夫妻は、いつしか深く愛し合うようになっていた。
ミス・アンソンは、ある夜、伯爵夫妻が観劇から帰宅したときのことをありありと思い出せる。
伯爵夫人は玄関で待っていたミス・アンソンに目配せをして、キモノ風のオペラ・コートを預けると、伯爵と手を取り合いながら階段を駆け上がっていった。
玄関ホールには彼らの笑い声が響き、伯爵夫人のアイスブルーのイブニングドレスがシャンデリアに照らされて輝いていた。
あのとき、彼らに遅れて階段を上りながら、伯爵夫人が落としたサテンの靴、ダイヤモンドのネックレス、白鷺の羽の髪飾り、白い長手袋を拾い集めたのはミス・アンソンだった。
伯爵夫人の懐妊がわかったのはその翌月だった。
それからはあっという間だった。
ミス・アンソンも、伯爵夫人が赤子を迎える準備をするのを手伝った。
二人で産着に刺繍を入れ、靴下や帽子を編みながら過ごした午後の明るい応接間は微笑みで溢れていた。
幸せな時間だった。
しかし、幸せな結末は訪れなかった。
出産予定日の一か月前、伯爵夫人は出産したが、産声は上がらなかった。
そして、伯爵夫人自身も高熱に苛まれ、数週間後に亡くなった。
伯爵は深く悲しんだが、両親である侯爵夫妻や親族はそれを許さなかった。
一年後、喪が明けるとすぐに、別のレディが伯爵夫人として迎えられた。
夫を亡くしたレディは二年以上喪に服すことを求められるが、妻を亡くした紳士は寧ろ早く再婚しなければならない。
伯爵の未婚の妹の侍女として引き続き仕えていたミス・アンソンは、新しい夫人を見る前に退職した。
その後、ミス・アンソンは年老いた男爵未亡人の侍女となった。
その未亡人は、静かな暮らしを好むレディだったので、暫くは穏やかな日々が続いた。
しかし、ある日、ミス・アンソンの母が倒れたとの電報が届いた。
幸い母は回復したが、ミス・アンソンはいつまた倒れるとも知れない母を置いて遠方に働きに出る気にもなれず、侍女の職を辞して地元の仕立て屋で熟練のお針子として働くことにした。
そして、1908年、母の世話をしながら働く生活にもすっかり慣れたある日、ミス・アンソンに思わぬ知らせが舞い込んだ。
ロンドンに働きに出ていた兄が結婚するというのだ。
しかも、母を引き取って世話をしたいとのことだった。
ミス・アンソンは突然のことに戸惑ったが、母のためを思えば兄夫妻に任せるべきだと思われた。
兄は熟練の製本業者として安定した収入があり、結婚を機に広い家に引っ越すらしい。
しかも、兄の妻は在宅仕事ができる家具の艶出し職人なので、仕事をしながら母の面倒を見てくれる。
それを母に伝えると、母は安心したように微笑んだ。
「じゃあ、お前は侍女に戻れるわけだね?私のせいで退職させて悪いと思っていたんだよ」
「母さん、私はもう侍女にはならないわ」
ミス・アンソンは苦笑した。
彼女にとって、侍女として働いていた頃の生活はもう随分遠くなっていた。
しかし、彼女の言葉を聞いた母は目を吊り上げた。
「馬鹿言うんじゃないよ。お前は侍女をするのが一番さ。だって、退職する度にご丁寧なお礼状をもらっていただろう?」
母の言葉にミス・アンソンは僅かに目を見開いた。
そして、寝室の棚の引き出しの缶の中にしまっているこれまで仕えた家族からもらったお礼状のことを思い返した。
最初に仕えた地主の奥方――ミス・アンソンがアメリカに付いて来ないことを嘆いていた。
家を出た子爵家の次女ミス・シルヴィア――絶望の中で静かに寄り添ってくれたことは忘れないと書いていた。
夫人を亡くした伯爵――最後まで夫人の看病を続けたことへの感謝が綴られていた。
最後に仕えた男爵未亡人――信頼できる侍女の早い退職を残念がっていた。
そして、別れを告げる間もなく亡くなった伯爵夫人の記憶――亡くなる数日前にミス・アンソンの手を握り「ありがとう」と言った。
これまで仕えた主やその家族のことを思うと、ミス・アンソンの心は揺れた。
侍女としてレディに仕えることにはやりがいを感じる。
しかし、一方で、侍女はレディの人生に踏み込み過ぎる。
それが良いことなのかミス・アンソンにはわからなかった。
しかし、巡り合わせというのは不思議なもので、元雇い主の男爵未亡人からミス・アンソンに手紙が届いたのは、ちょうどそんな折のことだった。
未亡人は手紙の中で、ロンドンの知り合い――上流中産階級のグレンロス家――が令嬢に仕える侍女を探していると書いていた。
そして、ミス・アンソンの家庭の事情が変わっていれば是非信頼できる侍女として推薦したいというのだ。
ミス・アンソンは手紙の中の「信頼できる侍女」という文字を指でなぞった。
迷った末に、彼女は、元雇い主の未亡人の顔を立てるためだと自分に言い聞かせながら、推薦をお受けするとの返事を書いた。
数週後、ミス・アンソンはグレンロス家の奥方と家政婦長との面談に臨んだが、驚くことに既に採用される前提で話が進んだ。
しかも、条件もミス・アンソンにとって都合が良いことこの上なかった。
給金はもちろんだが、グレンロス家はロンドンのケンジントンに屋敷を構えており、母と兄夫妻が暮らすシェパーズ・ブッシュともほど近い。
ミス・アンソンが仕える令嬢は准男爵家の子息と婚約が内定しているため、翌年には侍女として婚家にお供しなければならない点は心配だったが、よくよく話を聞いてみたところ、その准男爵家の地所もロンドンから列車であっという間の距離にあるという。
そうして、その翌月、ミス・アンソンは、新しい職場となるグレンロス家の屋敷を訪れた。
「こちらがミス・アンソンでございます、お嬢様」
令嬢の寝室に通され、家政婦長に紹介されたミス・アンソンは深くお辞儀をしたまま顔を伏せていた。
ドレッサーの前に座っている令嬢が何か言う前に、同席していた令嬢の母である奥方が口を開いた。
「伯爵夫人の侍女を務めたこともあるそうよ。彼女なら准男爵夫人になるあなたに不足はないでしょう、アメリア」
「アメリア」と呼ばれたこの家の一人娘が、ミス・アンソンが仕えるべき令嬢ミス・グレンロスだった。
「顔を上げてちょうだい」
令嬢の言葉に、ミス・アンソンは顔を上げた。
午前用の白いブラウスとネイビーのスカートに身を包んだ彼女は優雅に微笑んでいた。
濃い栗色の髪は流行のまとめ髪に整えられており、ヘーゼルの瞳には知的な煌めきがあった。
「これからよろしくね、アンソン」
「以後、何なりと私にお申し付けください、お嬢様」
ミス・グレンロスはミス・アンソンと手短に挨拶を交わすと、さり気なく母と家政婦長を部屋から追い出した。
令嬢と二人きりになったミス・アンソンは、自分に都合よく事が運び過ぎている気がして、些か警戒していた。
条件にぴったりの求人。
特に問題もなさそうな家。
理知的で穏やかそうな令嬢。
――なにか、とんでもないことが起きるのではないかしら?
ミス・アンソンがそう考えていると、ミス・グレンロスは意外なことを言った。
「早速で悪いけど、アンソン。……助けてちょうだい」
***
「これは……」
ミス・グレンロスがメイドに持ってこさせた明るい黄色のドレスを見たミス・アンソンは言葉を失った。
ミス・グレンロスもドレスを体に当てながら顔を顰めていた。
そのドレスは、彼女に絶望的に似合わなかった。
暗い髪と明るすぎる黄色のコントラストで肌がひどくくすんで見えるのだ。
ミス・グレンロスは、これを数日後の婚約者一家との正餐会で着なければならないという。
未来の義祖母になる准男爵未亡人が何故か「若いレディには黄色が一番」と決めつけているからだ。
「お母様は、今後婚家で上手くやるために耐えなさいとおっしゃるのだけど……これはあんまりではないかしら?」
ミス・グレンロスは深くため息をついた。
彼女は18歳の若い令嬢だ。
未来の義祖母や自分の母に従わなければならない義務感と、自分にまるで似合わない服を受け付けない正直な感情の間で板挟みになっていた。
しかし、経験豊富な侍女であるミス・アンソンには考えがあった。
「ご心配なさらないでください、お嬢様。何とかなりますわ」
ミス・アンソンはドレッサーの上に置かれていた白いレースのハンカチを手に取った。
それをミス・グレンロスが体に当てている黄色のドレスの胸元に添えると、彼女の肌は本来の透明感を取り戻した。
「このように、胸元に白いレースをつけましょう。材料さえあれば、一日で縫い付けられます」
ミス・アンソンが確かな口調で言うと、ミス・グレンロスは微笑んだ。
先ほどまでの令嬢らしい抑制的な笑みとは違う花のように明るい笑顔だった。
それを見たミス・アンソンにはいくつもの直感的な閃きが走った。
「それから、もしお持ちであれば黒いリボンを首にお付けになってはいかがでしょう?そうすれば、より全体の色合いの収まりがよくなるかと。もし、お時間をいただけるようであれば、同系色の落ち着いた色で刺繍を施してもよいかもしれません。濃淡をつけることでより馴染ませることができます。あとは、最終手段ではありますが――」
次々とアイデアを語っていたミス・アンソンは、ふと我に返った。
お仕えする令嬢との初対面だというのに、つい語り過ぎてしまった。
慌てて侍女らしい無表情を顔に貼り付け直すと、ミス・グレンロスはふっと微笑んだ。
「あらあら、思いついたことがあれば何でも言ってくれて構わないのよ、アンソン?」
「いえ……」
ミス・アンソンは恐縮して固く唇を引き結んだ。
侍女はレディを影で支える存在。
決して前に出てはいけない。
職業柄レディの人生に踏み込むことになるが、決定的なことはしてはいけない。
そもそも、侍女一人の力では何もできない。
しかし、それでも、自分にも何かできたらと思ってしまう。
――やっぱりこんな私には、侍女は向いていないのよ……。
ミス・アンソンは俯いた。
しかし、ミス・グレンロスは穏やかに言った。
「アンソン、あなたは仕事に誇りを持っているのね。そういうあなたに来てもらえた私は幸せだわ」
***
そして、1912年の夏――。
<メラヴェリー・マナー>の2階の廊下を歩いていたミス・アンソンはため息をついた。
思い出に浸っている場合ではなかった。
今、レディ・メラヴェルは午後の散歩に出ているが、今夜はメラヴェル女男爵夫妻が地元の名士たちを招いて小規模な正餐会を催すことになっている。
今のうちに今夜のドレスや靴に不備がないか再確認しなくてはならない。
ミス・アンソンが次の仕事に向かうべく顔を上げると、窓の外に屋敷の庭を歩くメラヴェル女男爵夫妻の姿が見えた。
屋敷の敷地から続く森へと向かっているようだ。
ミス・アンソンは徐々に遠ざかって行く彼らの背中をただ眺めていた。
二人は普段と変わらず貴族らしく弁えた様子で寄り添っていたが、ミス・アンソンの目に彼らの姿がぼやけそうになった地点で――急に立ち止まった。
――あら?
ミス・アンソンは反射的に首を傾げ、少し目を細めた。
すると、彼らは暫し互いに見つめ合ったかと思うと、どちらからともなく腕を解いて手を繋ぎ、森の方へと駆け出した。
それを見たミス・アンソンは一瞬目を見開いた後、思わず微笑んでしまった。
――「あなたは仕事に誇りを持っているのね」。
あの日の18歳のミス・グレンロスの言葉は完全に当たっていたわけではなかった。
お仕えするレディの人生に踏み込んでいながら、何もしてはいけない、何もできない無力な侍女。
誇りになんて思えるはずがないと思っていた。
しかし、主の幸せを願い、侍女としての最善を尽くすことはできる。
あの言葉のお蔭で気づくことができた。
そして、そういう侍女であろうとすることこそ、今のミス・アンソンの誇りなのだ。
遠ざかって行く夫妻の背中を見つめるミス・アンソンの心には、見えるはずのない夫妻の屈託のない笑顔が浮かび、聞こえるはずのない楽しげな笑い声が響いていた。
もし、二人の婚約〜ハネムーンのエピソードが気になる方がいらっしゃれば、是非ロマンス番外編をお読みください!




