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ミス・アンソンの誇り【前編】

本編第32話で「今の主人メラヴェル女男爵様にお仕えする前から十年以上、侍女としてレディ方の衣服を取り扱っています」と言っていたミス・アンソンの職業人生です。

※無事結婚したレディ・メラヴェルとアルバート卿の新婚生活描写(甘い……)が含まれます。

 1912年、夏のある日――。

 ミス・アンソンは、彼女が仕えるメラヴェル男爵家のカントリーハウス<メラヴェリー・マナー>に与えられた自室で朝7時に目を覚ました。

 いつも通りすぐにベッドから出た彼女は、屋敷の下級使用人たちが既に働き始めている気配を感じつつ、身支度を整えた。

 侍女用の黒いドレスに袖を通した彼女が裏階段を使って地下の使用人ホールに下りて行くと、執事にお茶を運ぶ途中の第二フットマンのロニーとすれ違った。


「おはよう、ロニー」

「おはようございます、ミス・アンソン」


 侍女として使用人の中でも上級の地位にあるミス・アンソンは主人一家以外からは「ミス」という敬称をつけて呼ばれる。

 

 メラヴェル男爵家含め、貴族の屋敷に仕える使用人には厳格な序列がある。

 頂点には、屋敷全体の家政を統括する執事が君臨し、主に男性使用人を束ねている。

 執事と並び立つのが家政婦長で、女性使用人は基本的には彼女の配下に置かれる。

 その他、キッチンを差配する料理人や子供がいる家の場合は子供部屋を管轄する乳母の地位も高いが、ミス・アンソンのように主に直に仕えて身の回りの世話をする使用人も上級に分類される。

 主人や女主人と個人的な結びつきを持つ彼らは、使用人の中でも特別な立ち位置にある。

 このメラヴェル男爵家で、侍女であるミス・アンソンと対になる地位にあるのは、レディ・メラヴェルの新婚の夫アルバート卿の従者ミスター・エドガーだ。

 彼は、数か月前にメラヴェル女男爵夫妻が結婚したのを機に、アルバート卿の実家から付いて来た従者だった。


「おはようございます、ミス・アンソン」


 使用人ホールで朝の紅茶を飲んでいたミス・アンソンは、彼女の横を通り過ぎながら挨拶をしたその男性の声を聞き分けて一瞬だけ顔を顰めた。


「おはようございます、ミスター・エドガー」


 ミスター・エドガーが彼女の挨拶を受けながら向かいの席に座ると、ちょうどお代わりのティーポットを運んできたキッチンメイドのミリーが手際よく彼のカップに紅茶を注いだ。

 上級使用人の二人がお茶を飲む間も、下級使用人たちは忙しなく動いている。

 

 ミス・アンソンは、ミスター・エドガーがいつもよりやけにのんびりしていることに気がついた。

 彼が仕えるアルバート卿の方が彼女が仕えるレディ・メラヴェルより早起きなので、通常彼はもっと早く階上の主人の部屋に向かうはずだった。

 しかし、彼女はそのことについて何も言わなかったし、ミスター・エドガーも何も言わなかった。

 彼らが会話をすると碌なことにならないのだ。

 その原因は明らかだった。

 ミス・アンソンはメラヴェル男爵家の家長は、当代のメラヴェル女男爵として自らの権利で爵位を保持するレディ・メラヴェルだと考えていた。

 しかし、ミスター・エドガーは異なる見解を持っていた。

 彼の考えでは、侯爵家の三男に生まれた高貴な紳士であり、レディ・メラヴェルの夫であるアルバート卿こそが当家の家長であるということになるらしい。

 

 とはいえ、ミス・アンソンは、ミスター・エドガーの仕事ぶりには敬意を払っていた。

 アルバート卿は高貴な生まれのせいか、知的過ぎる人柄のせいか、傍から見ていても要求水準が非常に高いことがわかるが、ミスター・エドガーはその水準を十分に満たしていた。

 

 そうして、自分の紅茶を飲み終えたミス・アンソンは、主人用の紅茶のトレイを持って、2階のレディ・メラヴェルの寝室へと向かった。

 周囲の部屋では既にハウスメイドたちが朝の掃除を始めているが、女主人の私室はまだ静かだった。

 ミス・アンソンはできるだけ静かに薄暗い寝室に入室し、音を立てないよう細心の注意を払いながらサイドテーブルにトレイを置いた。

 彼女の主は驚くほど朝に弱く、一秒でも長く寝ていたいのだ。

 まずは、静かにカーテンを開けて朝日を部屋に取り入れることで徐々に起床を促すのが、決まったやり方だった。

 彼女がいつも通りそっとカーテンを開けたとき、背後のベッドで誰かが身じろぎする気配がした。

 レディ・メラヴェルであるはずがない――レディ・メラヴェルはカーテンを開けたくらいでは微動だにしないのだ。

 ミス・アンソンは反射的に目を見開いた。

 

 ――旦那様がいらっしゃる。


 ミス・アンソンは失礼のないようにゆっくりと振り返った。

 すると、ベッドの片側にアッシュブロンドの髪が見えた。

 やはり寝返りを打ったのは、間違いなくこの家の主人アルバート卿だ。

 レディ・メラヴェルとアルバート卿がこの屋敷で暮らし始めてから数か月になるが、ミス・アンソンが彼の姿を女主人のベッドで見たのは初めてだった。

 女男爵夫妻は貴族らしくそれぞれ別の寝室を持っていて、少なくとも建前ではそれぞれ自分の寝室で寝起きすることになっている。

 ミス・アンソンには貴族の考えはよくわからないが、彼らの価値観では夫が妻のベッドに朝まで残っているのは無作法にあたるらしい。

 そのため、通常であれば、アルバート卿は使用人が動き出す以前に自室のベッドに戻っている。

 婚姻関係にない恋人であればいざ知らず、正式な夫婦なのにそんなことを気にしなければならないとは、貴族とは何とも不自由だとミス・アンソンはつい思ってしまう。


 ――どうりでミスター・エドガーが階下でのんびりしていたわけだわ。

 

 ミスター・エドガーは、今朝は彼の主が珍しく寝過ごしていることに気がついていたに違いない。

 

 いずれにしても、今朝のような例外に遭遇してもミス・アンソンは少しも驚かなかった。

 彼女が以前仕えていた家では、旧来の慣習は気にせず夫婦で寝室を共有している例もあったし、それ以上の「事件」に遭遇したこともある。

 ミス・アンソンがつい昔の「事件」のことを思い出しそうになっていると――。


「おはよう、アンソン」


 ベッドの上で身を起こしたアルバート卿が言った。

 すっかり目を覚まし、平静そのものだった。

  

 ミス・アンソンはこのような貴族特有の沈着さにはいつも首を傾げたくなる。

 貴族の紳士としての矜持を重んじる卿が朝まで妻のベッドにいるところを他人に見られたくないと思っているのは明らかなのに、いざそうなっても平然としているのだ。

 高貴な紳士にとって使用人など家具のようなものなのかもしれないが、それにしたって動揺の一片さえ見せないなんてなかなかできることではない。


「おはようございます、旦那様」


 真面目な顔で挨拶したミス・アンソンに、アルバート卿は一度頷いた。

 それを合図にミス・アンソンはカーテンを開ける作業に戻った。

 その間にアルバート卿は悠然と身支度を整え、最後に椅子に掛けていたシルクのガウンを羽織ると、ゆったりとした足取りで部屋を出て行った。

 ただ、その直前に彼がまだベッドにいる妻の髪をそっと撫でた気配があった。

 ミス・アンソンは思わず内心で微笑んだ。

 それと同時に、先ほど思い出しかけていた昔の「事件」の記憶が蘇った。


 ――あのときの紳士は、今の旦那様とは大違いだったわ。

 ――やはりお二人が正式な夫婦だからなのかしら?

 ――それとも旦那様が生まれも育ちも本物の貴族様でいらっしゃるせい?


 ミス・アンソンは未だベッドに潜ったままのレディ・メラヴェルを起こす準備を進めながら、初めて奉公に出た家での「事件」を思い返した。


 ***


 1899年、18歳のレイチェル・アンソンは地元の地主の家のハウスメイドとして働いていた。

 彼女は数年前にトゥイーニーからハウスメイドに昇格し、つい先日、前任の退職に伴い第一ハウスメイドになっていた。

 

 その家でハウスパーティーが催されたある冬の朝、その家の奥方のために朝の紅茶を運んできたレイチェルは思わず飛び上がった。

 奥方のベッドの中に赤毛の男がいたからだ。

 もちろん、奥方の夫であるこの家の主人ではない。

 奥方より20歳ほど年上のその家の旦那様の髪はすっかり白髪になっているし、先週からロンドンの親戚の家に行っていて今は不在のはずだ。

 だとすると、赤毛の男は、ハウスパーティーの招待客としてこの屋敷に滞在している紳士の一人に違いない。

 レイチェルは辛うじて零さずに済んだ紅茶のトレイをサイドテーブルに置くと、ただ立ち尽くした。

 こういう場合にどうすれば良いのか前任の第一ハウスメイドは教えてくれなかった。

 すると、幸か不幸か奥方が先に目を覚ました。


「おはよう、レイチェル」

「……おはようございます、奥様」


 奥方はレイチェルの戸惑いの表情の理由を暫し考えていたが、彼女の視線がベッドの片側にあるのを見て納得したように頷いた。


「ああ、大丈夫よ。サー・ジョンはもう帰るから」


 レイチェルが思った通り、赤毛の男はハウスパーティーの招待客の一人、若き准男爵サー・ジョンだった。

 奥方はサー・ジョンを容赦なく揺り動かした。

 ようやく目覚めたサー・ジョンは自分が寝過ごしたことに気が付き、暖炉の炎よりも真っ赤な顔になったかと思うと、震える手で身支度を整えて逃げるように去って行った。

 その慌てようを見て、かえって冷静さを取り戻したレイチェルはサー・ジョンに少し同情した。

 朝まで恋人のベッドに残って使用人に恥を晒すようでは、奥方との仲もこれっきりかもしれない。


「全く、呆れた男ね……」


 奥方はため息交じりに呟き、レイチェルが用意した朝の紅茶を飲み始めた。

 その間に、レイチェルは通常通りの仕事に戻り、奥方が午前中に着るクリーム色のゆったりとしたドレスを用意した。

 レイチェルは、この「事件」のことは誰にも話さなかった。

 それが奥方の意に適ったのか、レイチェルはいつの間にか奥方の侍女ということになっていた。

 もっとも、給金は据え置きだったが。


 ***


 ミス・アンソンがそんな10年以上前の「事件」のことを思い返している内に、彼女の現在の主レディ・メラヴェルは時間をかけて徐々に目を覚ましていた。

 とはいえ、彼女はまだベッドの中にいる。

 この後、髪型を整えて、午前用のブラウスとスカートに着替えて朝食室に下りて行くのが彼女の日課だ。

 レディ・メラヴェルは少々変わったレディで、貴族の奥方であるにもかかわらず、普段は夫のアルバート卿と共に仲睦まじく朝食をとることを好む。

 しかし、今朝はどうにも眠いようで、ベッドから出られないようだった。

 ミス・アンソンはそんな彼女のために、先ほどキッチンから朝食を運び、脚付きのベッド用朝食トレイの上にセットしていた。


「ありがとう、アンソン」


 ようやく身を起こしたレディ・メラヴェルは紅茶を飲みつつ礼を言った。

 彼女は昨夜寝支度をした際にミス・アンソンが編んだやや暗い栗色の髪を背中に避けてから、朝食をとり始めた。

 朝食トレイの上には、手紙が広げられていて、レディ・メラヴェルは朝食よりもそちらに気を取られているようだった。

 その手紙は前日にロンドン警視庁の警部から届いたもので、彼女はそれを昨日から何度も読み返している。

 それこそがレディ・メラヴェルの「変わった」部分の最たるところだった――彼女はおそらく当代の英国で唯一探偵業を生きがいにしているレディだ。

 数年前に男爵位を継承して以来、レディ・メラヴェルが何度も犯罪事件に巻き込まれ、その度に探偵としての才能を発揮して事件を解決していることは、ミス・アンソンもよく知っている。

 とはいえ、探偵業には危険が伴う。

 一度などは殺人犯に拉致監禁されてしまい、ミス・アンソンも例の赤毛のサー・ジョンに遭遇した事件以上に肝を潰したが、最終的には無事にミス・アンソンの待つ屋敷に帰って来た。

 レディ・メラヴェルは自分の命が助かったのはミス・アンソンの助けがあったからだと言ってくれたが、ミス・アンソンの方では、それはレディ・メラヴェル自身の類まれな聡明さのためだと考えていた。


 ――そういえば、同じように聡明でいらっしゃったあのお嬢様は今どうなさっているのかしら……。


 ミス・アンソンの脳裏には彼女が最初に出会った「聡明なお嬢様」が零した涙のことが浮かんでいた。


 ***


 1903年、22歳になったレイチェル・アンソンは子爵家の侍女として採用された。

 

 その前まで勤めていた例の「赤毛の男事件」の地主の家では、2年と少し前に主人が亡くなった。

 彼と奥方との間には子供がおらず、家の屋敷と土地は主人の弟が継いだため、奥方は家を出た。

 未亡人になった奥方だが、幸いにして裕福な実家から相当の援助を受けており、引き続きミス・アンソンを侍女として雇い続けていた。

 しかし、2年の喪の期間が明けると、奥方はそれまで密かに恋愛関係にあったアメリカ人の大富豪と結婚してアメリカに渡ることとなった。

 ミス・アンソンもアメリカに誘われたが、どうもかの地に馴染める気がしなかった彼女は辞退して、英国内で新しい職場を探すことにした。

 暫くして、ミス・アンソンは、アメリカの富豪と結婚した女性として新聞の挿絵に描かれた彼女の姿を見た。

 彼女の頭には、ミス・アンソンが退職間際に補修した大きな羽根飾りのついた帽子が載っていた。

 

 奥方に別れを告げたミス・アンソンが向かった新しい職場は地方にカントリーハウスを構える子爵家だった。

 そこでミス・アンソンは二人の令嬢の共有の侍女となった。

 貴族の家に仕えるのは初めてだったミス・アンソンは最初こそ緊張していたが、意外にも令嬢方とはすぐに打ち解けた。

 礼儀作法に厳しい家庭教師(ガヴァネス)が支配する勉強部屋をようやく卒業した彼女たちは、もっと気楽に話せる女性使用人を求めていたらしい。

 

 令嬢方のうち、次女のミス・シルヴィアは際立って頭の良いレディだった。

 ミス・アンソンは、彼女がレディには珍しくいつも数学の本を読んでいるのにすぐに気が付いた。

 彼女は、時々子爵家に客人として訪れる学者の紳士と対等に議論を交わすことさえあった。

 

 そして、1904年、19歳になったミス・シルヴィアはケンブリッジ大学に行きたいと主張した。

 ミス・アンソンが大学進学を希望するレディを見たのは初めてだったが、ミス・シルヴィアの人柄を知っていれば当然のことのようにも思えた。

 しかし、当然、両親である子爵夫妻は猛反対した。

 当時既に女性が大学に通うこともあり得なくはなかったが、今も昔も上流階級のレディが大学に進学するなど例外中の例外だ。

 

 ある夜、遂に家族でのディナーの最中に、ミス・シルヴィアと父である子爵の間で激しい口論が繰り広げられた。

 自室に戻って来たミス・シルヴィアは、パールのチョーカーを引きちぎるように外し、深いブルーのタフタのドレスのままベッドに身を投げ出した。

 ミス・アンソンは、ただ立ち尽くした。

 彼女にできたのは、ミス・シルヴィアが涙を拭って起き上がるまで、ナイトガウンを用意して待っていることだけだった。

 

 結局、ミス・シルヴィアは21歳になってすぐに家を出ていった。

 子爵夫妻はあらゆる手を使って娘を連れ戻そうとしたが、法律は成人した彼女に自由を与えた。

 それ以降、ミス・アンソンがミス・シルヴィアに会うことはなかった。

 どこかで幸せに暮らしていれば良いのだが――。

もし、二人の婚約〜ハネムーンのエピソードが気になる方がいらっしゃれば、是非ロマンス番外編をお読みください!

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