第十八話 ジョセフ・ブラント~近代の北米~
「朝食を共にした人たちの中に、一人の柔和な老紳士がいた。彼はインディアンたちとの交渉を行うために長年合衆国政府に雇われていたのだが、今しもちょうど彼らとある契約、つまり、年に何がしかの額のお金と引き換えに、政府から供給された土地──ミシシッピ川の西でセント・ルイスを少し行った所──に翌年移らなければならないという契約を結んだばかりだった」(ディケンズ『アメリカ紀行』)
紀元後十八世紀中盤、モホーク族の族長ブラント・カナガラドゥンカの義子ジョセフ・ブラントは義父のおかげでムーアズ・インディアン・チャリティ・スクールに入学した。
ブラント・カナガラドゥンカはイロコイ連邦におけるイギリス王国の代理人ウィリアム・ジョンソンと知り合いだった。
モホーク族も加盟するイロコイ連邦は、インディアンと呼ばれる先住民の部族が連合した北アメリカの国家で、北米に十三植民地を有しているイギリスとも国交があった。
ただし、両者の関係は対等なものではなく、イロコイ連邦はイギリス王国に従属させられており、それはジョセフ・ブラントがイギリス人の名を付けられ、イギリスの教育を受けていることからも明らかだった。
もっとも、ムーアズ・インディアン・チャリティ・スクールでの教育はジョセフ・ブラントに部族では得られない知識を授けた。
それ故に部族の中にはジョセフ・ブラントをインディアンではなくなった人間と見なす者もいた。
しかし、ジョセフ・ブラントはムーアズ・インディアン・チャリティ・スクールでの教育で却ってインディアンとしての自覚を強めた。
イギリス人は北アメリカに文明をもたらしたと誇ったが、彼らはインディアンを仲間内で争わせ、入植者のためにインディアンを土地から追い出し、イギリス人に同化させようとした。
それらの行為はイギリス人が語る文明の理念に反していた。
そうした反感は、ヌーベルフランスとの戦争に従軍して更に強まった。
北米におけるフランス王国の植民地であるヌーベルフランスと戦った時、ジョセフ・ブラントはまだ子供だった。
彼は肌が赤く、尾っぽのように括った蒼髪に羽根飾りを付け、蒼い瞳を濡れたように輝かせており、動作は踊るようにしなやかであって中々に艶めかしかった。
ヌーベルフランスとの戦争でジョセフ・ブラントはインディアンとも殺し合った。
北アメリカの領有権を巡って争ったイギリス人とフランス人は、インディアンを味方に付けようとしつつ、彼らに天然痘の病原体が付いた毛布を送るなどの非道を働いた。
戦争はイギリス王国が勝利し、フランスは北米の植民地を失ったが、イギリスも戦費が嵩んで財政が苦しくなった。
そこで、イギリス王国は十三植民地に重税を課した。
それまでイギリスは十三植民地を放任していた。
そのために十三植民地においては南部における郡の議会制度や北部における町の立法機関が発達し、西洋を模した自治を行っていた。
それによってイギリス王国も手間要らずに植民地から収益を上げられていたのだが、軍事費の増大による財政難で政策を変更して入植も制限した。
これに十三植民地は怒った。
本国の態度は生活を苦しめるばかりか、イギリス人として戦った植民地人の想いを踏みにじるものだった。
しかも、イギリス王国は十三植民地が本国へ代表を送ることを認めておらず、課税への反発に対抗する措置すら講じた。
そうして十三植民地はイギリスから独立するために戦争を起こした。
イロコイ連邦は十三植民地とイギリス王国の戦争に中立の姿勢を取った。
だが、イギリスの王都であるロンドン市に渡っていたジョセフ・ブラントは、イギリス王たるジョージ三世とも会見してイギリス人が有する大きな力を目の当たりにし、彼らと手を組むべきであると考え、北アメリカに戻ってイギリス軍に入った。
また、イロコイ連邦をイギリス王国の側に着かせもした。
彼はイロコイ連邦の実質的な族長となり、インディアンとイギリス人の部隊を指揮した。
十三植民地の軍はジョセフ・ブラントに打ち破られることもあったが、インディアンたちを敗退させてイギリス軍も降伏させた。
イギリス軍は植民地人を虐殺するようインディアンに命令していたが、十三植民地はその責任をイギリス人には負わせず、それに関与していないジョセフ・ブラントを主犯に仕立て上げて非難した。
イギリスもジョセフ・ブラントを弁護せず、それどころかイロコイ連邦の功績を無視し、インディアンがいた土地を十三植民地に割譲した。
ジョセフ・ブラントはアメリカ合衆国として独立した十三植民地に抵抗するよう同胞へ呼び掛けたが、インディアンの部族を全て統合する試みも失敗に終わった。
そして、統一がなされぬままインディアンはアメリカと戦争し、ジョセフ・ブラントはアメリカ合衆国大統領ワシントンと交渉して和平を成立させようとするも果たせなかった。
アメリカ軍はインディアンを敗北させ、彼らを居留地へと強制移住させていった。
イギリス王国の縛りも無くなって移住者は増加し、アメリカ合衆国は入植地を増加させてインディアンを民族浄化した。
それでも、インディアンは必死に生き延び、アメリカにもその痕跡を刻み付けた。
独立したアメリカ合衆国は憲法を制定したが、それにはイロコイ連邦が影響を与えてもいた。
インディアンの部族が連合したイロコイ連邦は、十三植民地の連邦であるアメリカの模範となった。
「大いなる法」なる伝説によればデガナウィダおよびハイアワサという英雄が部族間の平和を目的としてイロコイ連邦を結成した。
そこでは自治権を持つ各部族の協議会から代表が選ばれて大協議会を構成し、各部族の代表から提案された司法や立法、軍事上の諸問題を討議して全会一致で議決した。
アメリカの政治家ジェファーソンや思想家トマス・ペインはイロコイ連邦の会議に参加し、インディアンの長老たちから外交などについて授業を受けた。カナダでも先住民とヨーロッパ人の混血たるメティの狩人たちが自主独立の社会を形作っていた。けれども、アメリカ合衆国はイロコイ連邦との協定を一方的に破り、ジョセフ・ブラントは挫折の内に亡くなった。
ワシントンはヌーベルフランスとの戦争でインディアンに疫病を流行らせ、ジェファーソンはアフリカから強制連行した奴隷を虐待しており、インディアンの政治的な経験も資源と同様に収奪の対象でしかなかった。
それでも、イロコイ連邦はアメリカが押し付ける首長制や部族会議を拒否し、調停者による合議制を維持した。
アメリカ合衆国はイロコイ連邦の治外法権を認め、イロコイ連邦が独自の旅券を発行するのも受け入れた。




