第十九話 マリア一世~近代の西洋~
「ブラガンサ王家の誰かが、三百年の植民地支配の間にブラジルの土を踏むためには、世界的な動乱が必要だったが、王家一門で最初に土を踏んだのは国王自身だった」(ツヴァイク『未来の国ブラジル』)
紀元後十八世紀中葉、ポルトガル王国の王太女マリアは父王であるジョゼ一世の末弟ドン・ペドロと結婚し、父の死後にマリア一世として即位すると、夫をペドロ三世として共同統治を行った。
マリア一世はまず独裁的な宰相ポンバルを解任したが、彼の政策はほぼそのまま継承した。
ポンバルの独裁政治が王権の強化を目指すものであることはマリア一世も分かっていたが、彼は国王を暗殺する陰謀に関与したカトリックを弾圧してもおり、彼女はその熱心な信徒だった。
カトリックはラテン文化の世界に生まれたキリスト教で、そこでは西ローマ帝国が滅びたていた。
それゆえ、オーソドクスの教会のごとく東ローマ帝国やビザンツ帝国から手厚く保護されることもなく、信仰を自力で護らなければならなかった。
そのためにローマ教皇庁が組織され、ローマ帝国から受け継いだ統治の技術を提供し、フランク帝国や神聖ローマ帝国など国家機構が未発達であった西ヨーロッパの俗権に影響力を及ぼした。
もっとも、俗権とていつまでも教権の言いなりになるつもりはなく、君主の下に中央集権体制を打ち立てようとする動きがイスラム教徒と相対していたスペインで始まり、諸身分に協力を求め、身分別に編成された身分制議会を招集して協議した。
そうして官僚制や常備軍の整備により絶対王政が確立されると、王権は中間団体に特権を与えて諸身分を手懐け、議会は機能しなくなっていった。
ただ、絶対王政の確立に失敗した国家もあった。
そのようなところでは絶対王政のように特権団体と提携するのではなく、君主が人間社会を合理化しようとする啓蒙主義に基づいて彼らから特権を剥奪し、上からの改革を専制的に推し進める啓蒙専制主義も見られた。
ポルトガルも絶対王政を確立できておらず、ポンバルは一種の啓蒙専制君主と言え、震災に遭った王都のリスボン市も彼によって復興された。
マリア一世もポルトガル王国には改革が必要であると認識していた。
ポルトガルでは啓蒙主義の新しい教育法がポンバルにより導入されており、彼女もそれによる教育を受けて知的な刺激を大いに与えられた。
しかし、カトリックを信仰する王家の嫡女として儀式や神学についても教わり、向学心に火が点いていたマリア一世は、祈りと礼拝に長い時間を費やすようになった。
それは即位してからも変わらず、彼女は敬虔女王と呼ばれたが、熱心すぎる信仰は激しい躁鬱を伴った。
それでも、ペドロ三世も非常に信心深かったので、大きな年齢差があったのにも拘わらず、結婚生活は円満であってマリア一世の症状を落ち着けさせた。
二人は一日に何度も行われるミサへいつも幸福そうに連れ立って出席した。
優美な若妻をペドロ一世はこよなく愛した。
マリア一世は背が高く、艶めいた白金の長髪は左側の耳上で結い上げられ、切れ長の碧眼やすっと通った鼻は鋭かったが、髪と同じ色の長い睫毛は神秘的な影を落とし、赤い唇には暖かみのある微笑みが浮かんでいた。
丸い乳房は石榴のように張り切っており、腰には括れがあって腿は太く、手足は長くてしなやかだった。
体は聖母のような青色の衣に覆い包まれていた。
実際、マリア一世は修道生活のように平穏な日常を望んでいた。
ポルトガル王国はマリア一世がポンバルの政策を継承したことで著しい経済発展を見ていたので、あながち不可能ではないように思われたが、時代がそれを許さなかった。
フランス王国で革命が勃発したのだ。
フランスは絶対王政の確立に成功したが、特権団体が特権に胡座を掻いて腐敗していたので、それに諸身分が怒り、同胞は平等に自由であるべきであるという理念を掲げて立ち上がったのだ。
政権を握った革命家たちは、啓蒙主義を極端にまで推し進め、共和政を樹立してフランス王のルイ十六世らを断頭台で処刑し、封建的な特権を廃止して教会を迫害した。
パウロ「ローマの信徒への手紙」を読むなどして王権の神聖さを信じていたマリア一世は、フランス人による革命に大きな衝撃を受けた。
これまでもヨーロッパではヴェネツィア共和国やノヴゴロド共和国、ポーランド・リトアニア共和国、ネーデルラント連邦共和国などで共和政が見られたし、教皇庁でも公会議が開かれ、イングランド共和国のように国王が処刑されたこともあった。
だが、それらの共和政は特権的な身分によるもので、教会も完全に否定されることはなかった。
マリア一世は宗教儀式の後に激しい興奮状態に陥り、背負われて自室に戻った。
そして、ペドロ一世が亡くなって長男と娘も相次いで死亡し、長年の贖罪司祭すら死去すると、彼女は完全な狂気に追い遣られた。
閣僚たちは会議で王子ジョアンを摂政王太子とした。
宮殿に幽閉されたマリア一世は廊下を彷徨い歩きながら、神に対して泣き叫び、亡くなった夫や子供たちに向かって呼び掛けた。
諸外国の干渉を撥ね除けたフランス軍が逆にポルトガルなど周辺諸国へ侵攻するようになると、ジョアンは同盟していたイギリス王国の支援を受け、王族と閣僚を連れてブラジル公国に渡り、マリア一世もリオ・デ・ジャネイロ市の修道院に入れられた。
ブラジルはポルトガル海上帝国の植民地であったけれども宮廷が移転されたので、本国と同格のブラジル王国となり、マリア一世がブラジル女王を兼ねた。
だが、狂女ドナ・マリアと呼ばれるようになっていたマリア一世は病気に悩まされ、やがて寝たきりの状態に陥った。
家族が見舞いに来ても彼女は死なせてくれと叫ぶばかりで、精神の異常に苦しめられながら世を去り、ジョアンがジョアン六世として即位した。
それでも、ポルトガル人はマリア一世を愛した。
狂気を募らせてもマリア一世はポルトガル王国のことを想い、ブラジル公国に落ち延びる際にも臣民を見捨てるのに最後まで反対した。
また、マリア一世はブラジル人からも称賛された。
王国に昇格して弾みが付いたブラジルは、ジョアン六世の王太子ペドロをペドロ一世として即位させ、ポルトガルとの同君連合を解消し、ブラジル帝国として独立した。
ブラジルにおいてマリア一世は独立の切っ掛けを作ったと見なされた。
そこでは私兵を備えた地主らによる独裁政治がなされた。
その体制は有力者が国民を代表する王として統治し、軍部によって帝政が廃止された後でも変わらなかった。
それは中南米におけるスペイン帝国などの植民地でも成立し、宗主国から独立したハイチ帝国やメキシコ帝国は、指導者は独立後の政治的な混乱を軍事力で収め、個人的な魅力や金銭で大衆から多くの追随者を獲得していた。




