第十七話 マッカンダル~近世の米州~
「エスパニョラ島すなわちサント・ドミンゴ市から馬・武器・大弓ならびに火薬を持ち帰るようにしております」(コルテス「報告書翰」)
紀元後十八世紀中期、奴隷マッカンダルは妻子や一族と別れさせられてアフリカ大陸の西海岸からゴレ島に送られ、奴隷船の船底に積み込まれてサン=ドマング(ハイチ)に運ばれた。
カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島は、東半分がスペイン領のサント・ドミンゴ(ドミニカ共和国)に、西半分がフランス領のサン=ドマングに分割されていた。
緑豊かなサン=ドマングはコーヒーやカカオ、砂糖などの産物によりフランス王国の海外貿易において三分の二を占め、「フランスの誇り」とまで言わしめたけれどもその労働力は強制労働だった。
当初は先住民が農園での労働に従事させられたが、植民者の大農園主による殺傷や過酷な重労働で人口が激減し、アフリカの西海岸から連れてきた奴隷で補充された。
フランス人の農園主は現地で奴隷を育てるよりも成人のアフリカ人をアラブ人の商人から購入する方が安上がりであると考えたのだ。
奴隷たちはキリスト教を強制されたが、夜陰に紛れて集まり、密かにヴードゥー教の儀式を行った。
ヴードゥー教はアフリカ大陸のアニミズムとキリスト教が融合した宗教で、キリスト教徒を装う奴隷たちにとって心の拠り所になっていた。
マッカンダルもヴードゥー教の祭司となって人々を勇気付けた。
儀式においてマッカンダルは骸骨の扮装をし、気の利いた冗談で仲間を慰めたが、その諧謔は本人にとっても監督たちの残酷な仕打ちに耐える精神的な武器だった。
奴隷たちは些細な違反行為で性器を切断されたり肛門に火薬を詰められて火を点けられたりし、女性は強姦されて自ら堕胎した。
そのように過酷な作業の中でマッカンダルは圧搾機に腕を挟まれた。
片腕となった彼は、農園で働けなくなったので、家畜番をすることとなった。
おかげで農園にいる時のように監督されることは無くなり、マッカンダルは山中の洞穴に足繁く通った。
そこは逃亡奴隷が何人も身を潜めている避難所で、彼らとマッカンダルは植民者に復讐する計画を練った。
奴隷たちには武器となるものが乏しかったので、マッカンダルは毒薬を用いることを提案して賛成された。
家畜番の合間に彼は山の中を歩き、毒薬作りに必要な材料を探し求め、アフリカにて親しんでいた薬草や毒草に似たものを少しずつ集めていった。
材料の準備が整うと、マッカンダルは先住民の長老が暮らす洞窟に行った。
そこには毒の調合に必要な道具も揃っていた。
先住民たちは奴隷たちの良き理解者で、長老は毒薬作りにおけるマッカンダルの師になった。
そうしてマッカンダルは強力な毒薬を大量に作った。
その毒には呪術的な要素も多分に含まれており、毒殺はマッカンダルたちにとってブードゥー教の呪いを掛けるという行為でもあった。
マッカンダルは出来た毒薬を避難所に持ち帰って仲間たちに配った。
そして、毒を家畜や井戸の水、パン、ビールの樽などあらゆるところに仕込むよう指示した。
逃亡奴隷たちは台所で下働きをしている少年や馭者ら信用できる農園の仲間に毒を渡した。
毒は植民者たちの生活に音もなく、しかし、確実に浸透していった。
それは目に見えない呪いが広がっていくかのようだった。
植民地行政の当局は恐怖した。
農園では奴隷の数が植民者を上回っていた。
逃亡奴隷も植民者が単独で山中を彷徨けないほど増えていた。
逃亡者は発見されれば連れ戻されて銃殺されるだけではなく、その身は犬に食われ、逃亡を幇助した者も公開処刑となったが、逃亡奴隷の数は減らなかった。
反乱を直ぐさま鎮めるため、当局は毒殺犯と疑われた奴隷を片っ端から捕らえ、見せしめに生きたまま皮を剥いだり焚刑に処したりし、主犯の名を白状させようとした。
そうして火炙りとなった一人の少女が神に救いを求めるようにマッカンダルの名を呟いた。
それによってマッカンダルは捕らえられ、彼もまた火刑に処せられた。
だが、毒殺と反乱が止むことはなく、奴隷たちは幾度も新たな指導者を得て立ち上がった。
指導者の一人トゥーサンは反徒を革命の戦士に変貌させた。
サン=ドマングは奴隷たちから最大限に搾取するため、工場を極限まで合理化しており、そのようなところで作業に従事する労働者には啓蒙主義の制度をも受け入れる下地があった。
トゥーサンは啓蒙主義に依拠した共和国を建設しようと企て、そのために兵士たちをヴードゥー教で結束させた。
彼らは鍬や鋤などの農具を武器にフランス兵たちへ立ち向かった。
恐れを知らぬ兵士たちはフランス兵を退去させたばかりか、植民地支配を狙うスペイン王国やイギリス王国の遠征隊をも撃破した。
フランス軍の奸計によりトゥーサンは捕らえられて獄死させられたが、彼の後継者デサリーヌが独立を宣言し、国名をハイチと改めた。
独立を果たしたハイチは、その後も苦難の道を歩んだが、ハイチの独立が快挙たることに変わりはなかった。
中南米ではボリバルやサン・マルティンのような現地人の解放者たちはハイチの独立などから大きな影響を受け、ヨーロッパ人の征服者たちが建設した植民地をスペイン帝国などの宗主国から解放していった。
また、諸教混淆が反乱を助けることも無くならず、時代や地域を超えて同様のことが起こった。
インド亜大陸ではヒンドゥー教とイスラム教を習合したシク教がムガル帝国と抗争し、パンジャーブ地方にシク王国を築いた。
シク教徒は聖典である『グル・グラント・サーヒブ』を法主とし、大英帝国によるインドの支配にも反抗した。
イラン高原ではイスラム教にグノーシス主義などを結合させたバーブ教が社会改革を唱え、ペルシア帝国のカージャール朝に弾圧された。
バーブ教から派生したバハーイー教もオスマン帝国などから迫害された。
ユダヤ教やキリスト教ばかりかゾロアスター教も受け入れるバハーイー教徒は、イスラエル国に本部を持ち、イスラエルと対立するイラン・イスラム共和国では邪教の信者と見なされた。
中土においては一貫道が東洋の宗教に南洋の「ヴェーダの宗教」や西洋の「アブラハムの宗教」を合わせ、大清国で教勢を拡大するも中華人民共和国に抑圧された。
朝鮮半島では李氏朝鮮において東学が儒教・仏教・道教の三教を折衷し、大清帝国や大日本帝国とも対決した。
インドシナ半島では阮朝にてカオダイ教が三教やキリスト教を融合させ、フランス植民地帝国に反対する立場を取った。




