第3話:正義と理不尽な天秤
「……はぁ。やっと今日のサビ残が終わった……」
夜9時過ぎ。
疲労骨折しそうな身体を引きずり、俺は駅の改札へと向かう地下通路を歩いていた。
横には当然のようにふわふわと浮いているヨモヒラ。すれ違う誰一人として、この自称・神様の姿に気づく様子はない。
「おじさまー、ため息ばっかりついてると幸せが逃げちゃうよ〜?」
「幸せなんて最初から持っちゃいねえんだよ。それより明日の朝も8時半からタイムカードなんだ。頼むから静かに帰らせてくれ」
ポケットの中で、スマホがブブッと短く震えた。
首を刎ねられた夜、トイレで潰された昼――そして、3度目となるあの嫌な予感。俺は嫌々スマホを取り出し、画面を点灯させた。
『【ターゲット接近】属性:戒律系』
『距離:0m』
「……また距離ゼロかよ。このアプリ、エンカウント率が高すぎだろ」
足を止めた俺の目の前で、地下通路の空気がスッと凍りついた。
数歩先を、空き缶をポイ捨てしながら大声で笑って歩く茶髪の若者二人組がいた。さらにその横では、イヤホンを両耳につけて周囲も見ずにスマホの動画に夢中になっているサラリーマンが、ふらふらと歩いている。
「ったく、今日の仕事ムカついたわ……あ、邪魔だって!」
若者の一人が、前から歩いてきた高齢の女性の肩を乱暴に突き飛ばし、女性がその場にバランスを崩して転びかけた。だが、若者たちは謝るどころか「うわ、うぜぇ」と舌打ちして通り過ぎようとした、その時。
「そこまでです」
澄んだ、だが氷のように冷たい少女の声が地下通路に響いた。
通路の真ん中に佇んでいたのは、一寸の乱れもなく制服を着こなした女子高生だった。腕には「生徒会」の赤い腕章。
そして、彼女の背後には、冷厳な輝きを放つ巨大な黒銀の天秤――『天秤の神』が重々しく浮かび上がっていた。
「は? なんだよガキ、説教かよ?」
「ガキではありません。榎霧ヶ丘高校51期生生徒会長聖川瑠璃です」
「誰だよ!つか知らねーし」
若者の一人がヘラヘラと笑いながら近づいたが、聖川瑠璃は微動だにせず、冷たい瞳で見据えたまま淡々と告げた。
「ポイ捨て、騒音、歩行喫煙、暴行および不敬。校則ならびに社会道徳の第1条から第10条に違反しています」
「あ? なんだこいつ……」
瑠璃がわずかに指先を動かした、その瞬間――。
ドスッ! グシャッ……!!!
「がっ……あ……!?」
空き缶を投げ捨てた若者の頭上に、目に見えない巨大な錘が凄まじい勢いで叩きつけられた。
叫ぶ間すらない。一瞬でアスファルトの床に押し潰され、跳ね返った血飛沫がもう一人の若者の顔面にべっとりと降りかかる。
「ひっ……あ、あぁぁぁ……!?」
友人の変わり果てた姿を見て、残された若者が腰を抜かして這いつくばる。だが、瑠璃の冷酷な視線が容赦なく彼を捉えた。
ドスッ……!!
再び天秤が傾き、二人目の若者もまた、錘に押し潰されてその場で崩れ落ちる。
さらに、その隣で歩きスマホをしながら固まっていたサラリーマンも、別の錘に打ち据えられ、音もなく崩れ落ちる。
逃げ惑う人々の悲鳴が響き渡る中、瑠璃は顔色ひとつ変えず、機械のように冷淡に告げた。
「……規則違反者、すべて排除完了。次」
彼女の冷たい瞳が、俺の隣でふわりと浮かぶヨモヒラを捉え、そしてまっすぐに俺へと向けられた。
「そこのあなた。ふしだらな女を侍らせ、死んだような目で歩きスマホをする。社会の害悪です」
「いや、俺は今立ち止まってただけだし、この女は勝手に」
「言い訳は不要です。『絶対裁定』――不法者を処刑します」
空間全体が重苦しい鉄の圧迫感に包み込まれる。
絶句する俺の頭上に、目に見えない巨大な錘が叩きつけられた。
「ガッ……!?」
頭骨が砕け、背骨が一瞬で圧殺される嫌な音。
天秤がドスンと傾いた瞬間、俺の肉体は血まみれの床にペチャンコに叩き潰されていた。
……あーあ。
首チョンパ、水圧ペチャンコ、次は天秤の錘でペチャンコかよ。
リセットされると分かっていても、いきなりすり潰されるのは気分悪すぎるぜ。
視界が真っ暗になり、俺の意識はすうっと上空へ浮き上がっていった。
くそが。問答無用で殺すな、この冷酷生徒会長が!
天井付近から下を見おろすと、ペチャンコになった俺の肉体の前で、瑠璃は凛とした姿勢のまま立ち尽くしていた。
「いや、容赦なさすぎるだろあの生徒会長……! 歩きスマホ一回で即死とか、どんな暗殺国家の校則だよ!」
俺が宙で全力でキレると、隣に浮いていたヨモヒラが、呆れたように肩をすくめた。
「ほら、前に言ったでしょ。神様に選ばれる神憑きなんて、心が透き通るくらい澄んだ聖人か、ヘドロみたいに狂ってる奴のどっちかだって。あの子は純粋すぎて、ちょっと色々こじれちゃったパターンだね〜」
「純粋な狂気が一番手に負えねえんだよ! つーか、この通路の惨状、マジでエグすぎんだろ!」
「大丈夫だってば! 終われば全部きれいに巻き戻ってリセットされるんだから、気にせず吹き飛ばしちゃいなよ!」
「言われなくてもやってやるよ……!」
俺は宙に浮いたまま、立ち尽くす瑠璃の真背後へとすうっと移動した。
死んで幽体になった俺の姿は、神憑きにも見えない。
「――『リザレクション』」
次の瞬間、音すら消し去る一点集中の衝撃波が炸裂した。
ドォンッ……!!!!
衝撃波が瑠璃の背後を直撃する。
背後からの凄まじい爆破エネルギーを直接浴び、瑠璃の身体は壁際まで吹き飛ばされ、床へと崩れ落ちた。
呼吸もままならない様子で、意識が朦朧としているのが遠目にも分かる。
背後の『天秤の神』が苦悶するように光り、そのまま霧のように引き剥がされていった。
「あ、戦えなくなっちゃったから、神様も愛想を尽かして出ていっちゃったね」
煙の中で足元に地面の感触が戻る。首に手をやると、ちゃんと繋がっていた。
神の加護を失い、冷酷な絶対正義の面構えが崩れた瑠璃の目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「……なんで……私は……正しく……あろうとしたのに……」
絞り出すような声。それが、彼女の本当の本音だった。
「誰も……聞いてくれなかったんです……。生徒会に寄せられる理不尽な訴えも、先生たちの『揉み消せ』という保身も……全部、私が一人で背負わされて……。学校を、社会のルールを守らなきゃ、私みたいな人間は……押し潰されてしまうのに……っ!」
抱えきれない重圧と理不尽に潰されかけ、壊れてしまっていた小さな背中へ向けて、俺はゆっくりと歩み寄り、見下ろしながらやれやれと息を吐き出した。
「……お前なぁ。そんな綺麗に生きようとするから息が詰まるんだよ」
「……っ」
「ルールなんてのは、会社でも学校でも、要領よくサボるためにあるんだよ。誰も助けてくれないなら、お前が一番ずる賢く生きてやれよ。聖人君子ぶるより、ドブネズミみたいに這いずって生きるほうがよっぽど楽だぜ」
瑠璃は涙で濡れた瞳を大きく見開き、呆然と俺を見上げた。
そして、その泥臭すぎる言葉に、どこか肩の荷が下りたように、くすっと小さく、しかし今までで一番自然な笑みを零した。
「……ふふ。なんですか、それ……すっごく、救いのない大人ですね……」
その柔らかな笑顔と共に、彼女にまとわりついていたどす黒い余韻が完全に抜け落ちていった。
ピコン――。
・TARGET CLEAR
・現在の戦績:3勝0敗(※3連勝達成により昇格戦権を獲得)
「やったねおじさま!これで3勝!昇格戦権ゲットだよ!」
「昇格戦だかなんだか知らんが、まずはこの惨劇を早く戻してくれ」
ヨモヒラの歓声と同時に、世界が目まぐるしく巻き戻り始めた。
飛び散った血肉が吸い寄せられるように元に戻り、潰された人々も何事もなかったかのように歩き出していく。数秒後には、いつもの静かな地下通路へと完全に戻っていた。
床にペタンと座り込んでいた瑠璃はというと。
「……あれ? 私……なんでこんなところで……?」
と目をこすった。
神が抜け、記憶も巻き戻ったはずの彼女だったが。
ふと立ち上がり、改札へ向かう俺の背中に向かって、胸の奥から湧き上がるような声で呼びかけた。
「あの……! ありがとうございました……っ?」
振り返ると、彼女は自分でもなぜそんな言葉が出たのか分からないような、ぽかんとした顔をしていた。だがその表情は、どこか吹っ切れたようにすっきりと晴れやかだった。
「理由も分からんのに礼言うな。さっさと帰って寝ろ、女子高生」
「ねえおじさま。記憶は消えても、心の奥の引っかかりは少し残るんだねぇ」
「……知ったことか」
ヨモヒラの呑気な呟きを適当にいなし、俺は軽く手を振ると、重い足取りで改札を抜けた。
世界を救ったわけでも、正義の味方になったわけでもない。ただ目の前の理不尽をぶっ飛ばして、自分の平穏を取り戻しただけだ。
◇
翌朝、午前7時半。
俺は、すし詰め状態の満員電車のつり革に捕まりながら、死んだ魚のような目で車内の路線図を見つめていた。
昨夜、地下通路で女子高生に言った自分の台詞が、脳内で虚しくリフレインする。
『誰も助けてくれないなら、お前が一番ずる賢く生きてやれよ』
『聖人君子ぶるより、ドブネズミみたいに這いずって生きるほうがよっぽど楽だぜ』
偉そうなことを言ったものだ。
じゃあ、その大口を叩いた当の本人は今どうしているか?
毎朝同じ時間に起き、同じ電車に乗り、8時半のタイムカードに間に合わせるために胃をキリキリさせながら会社へ向かっている。
はぁ。頭痛い。胃も痛い。マジで会社行きたくねえ。
体調不良で……いや、身内に不幸が……などと、会社へ電話してサボる言い訳が脳裏をよぎる。
「熱が38度出まして」と嘘をついて一日中布団の中でゴロゴロする妄想は、もう何千回、何万回と繰り返してきた。
だが結局、俺にはその一通の電話をかける度胸すらない。
「本当に熱があるのか病院の領収書を出せ」と言われたらどうしよう、だの、「急な欠勤で周囲に嫌味を言われたら気まずい」だの、小心者ゆえの余計な心配が勝ってしまい、結局いつも通り重い足を引きずって家を出てしまう。
ズルく生きろ? サボるのが大人のスキル?
笑わせるぜ。一番そのスキルが足りてないのは、この俺だ。
「――ねえねえ、おじさま〜?」
耳元で、甘ったるい声が囁いた。
もちろん、通勤客でぎゅうぎゅう詰めの車内で、ふわふわと浮いているヨモヒラだ。
「なにかね、自称・神様」
「昨日の夜、あの制服の女の子に『ずる賢く生きろ〜』とか『サボるのも大人のスキル〜』とか、すっごく格好いいこと言ってたよねぇ?」
ニコニコと性悪な笑みを浮かべながら、ヨモヒラが顔を近づけてくる。
「だったらさ、おじさんも今日のお仕事、仮病でパパッと休んじゃえばいいじゃん? 『胃腸炎になっちゃいました〜』って会社に電話して、そのまま私とお家でゴロゴロしよ? ほら、大人のスキル発動しちゃいなよ〜」
うっとうしいくらいに煽ってくるヨモヒラ。
俺はピクリと眉をひそめ、声に出さずに心の中で舌打ちした。
うるせえよ。言われなくても、さっきから脳内で30パターンくらい仮病の言い訳をシミュレーションしてんだよ。
頭の中に直接声を響かせるように、ヨモヒラがくすくすと意地悪く笑った。
「でもね、おじさま? シミュレーションしても、結局タイムカード押しに行くんでしょ〜? ダッサ〜い!」
「黙れ。俺には守るべき『毎月の給料』と『事なかれ主義』があるんだよ。仮病つかって後から精神的ダメージを負うくらいなら、死んだ目で出社するほうがマシなんだよ」
「あはは! 汚い考えはいーっぱい持ってるのに、ビビリだから一個も実行できないんだ! 口だけ達者な社畜おじさんだ〜!」
ゲラゲラと腹を抱えて宙で転がるヨモヒラ。
俺は深いため息を吐きながら、ポケットの中でスマホを握りしめた。
生徒会長には格好つけて「ドブネズミみたいに生きろ」なんて言ったが、現実はドブネズミ以下のビビり社畜。
まあいい。これが俺のリアルだ。
……っと、スマホが短く震える。
『【昇格戦権適用】ターゲット探索中――』
嫌な予感しかしないが、明日世界が滅ぼうが知ったこっちゃねえ。俺は朝8時半にタイムカードを押すため、重い足取りで満員電車を降りるのだった。




