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第2話:消えないアプリと洗礼


「ここがおじさまのおうち? うわぁ、狭いし、なんか湿気くさいね!」

夜12時過ぎ。

俺の城である築四十年のボロアパート『木造荘』の一室に、土足同然の勢いで上がり込んだヨモヒラは、六畳一間の室内を物珍しそうに見回していた。

「人の家を湿気くさい言うな。それと、頼むからとっとと帰ってくれ。俺はシャワーを浴びて、明日の出勤に備えて寝たいんだよ」

「やーだ。言ったでしょ? 一緒におうちに行こっかーって。今日からここが私の拠点だから!」

ヨモヒラは悪びれもせず、薄手のワンピースの裾をふわりとなびかせながら、勝手に俺の薄い万年床の上へダイブした。

そのままゴロゴロと転がり、肩口から白い肌を覗かせながら、上目遣いで俺を煽るように微笑む。

「ねえ、おじさま。狭いベッドだけど、一緒に寝る?」

「万年床だ。あと、美人に誘われても俺の脳内に浮かぶのは明日のタイムカードの打刻音だけなんだよ。退いてくれ」

「相変わらず心が死んでるなぁ」

心底呆れたように溜息をつくヨモヒラを無視し、俺はスーツのジャケットをハンガーに掛けた。

その時、ポケットの中でスマホがブブッと短く震えた。帰り道で届いた、あの不気味な通知の余韻が残っている。

「そういえば、さっきの通知は何だったんだ?」

俺がスマホを取り出して画面を点灯させようとした、その瞬間。

万年床からぬるりと起き上がったヨモヒラが、猫のような素早さで俺の手元からスマホを奪い取った。

「あ、それね! 便利にしてあげるから貸して!」

「おい、勝手に触るな――」

「えっへん、神与える!」

ヨモヒラが自慢気な顔で、スマホの画面に細い指先をちょんと当てた。

ピカッ!

スマホの画面が眩しい真っ赤な光を放ち、次の瞬間、見たこともない禍々しいアイコンがホーム画面の真ん中に鎮座していた。

「『神与える』ってなんだよ。日本語としておかしいだろ。あと勝手に変なアプリ入れるな。アンインストールさせろ」

「無理だよ〜! だってこれ、神様のアプリだもん。消せませーん!」

ヨモヒラはニカッと悪戯っぽく笑うと、画面を俺の目の前に突き出してきた。

アプリのタイトル欄には、真っ赤な文字で大きくこう書かれている。

『神界序列戦』

画面をタップすると、洗練された、だがどこか不気味なUIが表示された。


・現在の戦績:1勝0敗

・現在の順位:最下層クラス(ランク変動あり)

・ターゲット情報:反応あり(距離不明) / 属性:濁流系


「1勝してまだ最下層なのかよ。手に負えねえな……」

「まだまだ上は遠いけど、一歩ずつ上がっていけば大丈夫! 私を1位にしてくれたら、約束通り『二度と残業しなくていい生活』を神与えるからね♡」

「だから、文法がおかしいんだよ」

突っ込む気力すら失った俺は、スマホを放り投げ、そのまま万年床の端に転がった。

「あ、逃げた! おじさま、ちゃんとお布団半分こしてよー!」

「寄るな。明日も朝8時半からタイムカードなんだよ……」

押し入ってきた自称・神様との不条理な同居生活と、画面の中で冷たく光る『神界序列戦』のアプリ。

俺の静かな夜は、こうして跡形もなく打ち砕かれたのだった。


◇


翌朝6時30分。

目覚まし時計の無機質なアラーム音で目を覚ますと、俺の胸の上にはずっしりとした重みがあった。

「……おい」

見下ろすと、ヨモヒラが俺のスーツのジャケットを勝手に羽織り、すやすやと心地よさそうな寝息を立てていた。無防備に乱れた髪と、はだけた胸元から覗く白い肌。眼福のはずが、俺の頭に浮かぶのは今日の午前中に控えた会議資料のことだけだった。俺の心はつくづく社畜である。

「ん……おじさまぁ、まだ早〜い……」

「起きろ。俺は仕事に行く」

ぐにゃぐにゃと身を捩るヨモヒラを引っ張り起こし、洗面所で顔を洗う。

鏡に映る自分の首筋を撫でてみたが、昨夜ナイフで切り落とされた痕跡など欠片もない。首の傷だけでなく、世界規模の大惨事すら綺麗さっぱり巻き戻る。狂っているが、後始末の残業が発生しないことだけは素直にありがたかった。

ボロアパートを出て駅へ向かう道中も、超満員電車の中でも、ヨモヒラは俺のすぐ隣にぴったりと張り付いていた。周囲の人間は誰ひとりとして彼女に気づかず、すれ違うサラリーマンたちは当然のようにヨモヒラを通り抜けていく。神様という存在は、契約者以外の一般人には不可視らしい。

「ねえおじさま、神様と人間は離れられないんだからね。私がどこへ行くにもセットなの!」

「……仕事場までついてくる気かよ。他人に変な目で見られたらどうするんだ。誰も見えてねえけどさ」

通勤ラッシュを抜け、毎朝見慣れた自社のオフィスビルへと辿り着き、無事にタイムカードを押した。まずはひと安心だ。


ーー午前中の業務をひと段落させ、俺はオフィス階の男子トイレへと向かった。

用を足し、洗面所で手を洗っていた、その時だ。

俺のすぐ横に浮いていたヨモヒラが、突然ハッと息を飲んで俺の肩を掴んだ。

「おじさま、敵! 近くに敵がいるよ!」

「は……?」

ヨモヒラが強引に俺のポケットからスマホを引っ張り出し、真っ赤に光る画面を目の前に突き出してきた。

『【ターゲット接近】属性:濁流系』

『距離:0m』

「距離ゼロって、どういう――」

ガチャリ、と男子トイレのドアが開いた。

鏡越しに視線をやると、そこに入ってきたのは黒髪おかっぱに丸メガネをかけた小柄な女性――取引先の新卒社員、井織(いおり)ちゃんだった。

週に一度はうちのオフィスに書類を届けに来る顔馴染みで、気さくで丁寧な真面目っ子だ。いつも各地の出張土産を給湯室に差し入れてくれる、うちの会社でも人気の癒やし系である。

「……えっ、井織ちゃん? なんで男子トイレに――」

俺が思わず突っ込もうとした瞬間、彼女は俺の動揺を完全に無視し、手に持っていた紙袋から可愛らしくラッピングされた箱を取り出した。

「あ、坂口さん! お疲れ様です〜。これ、先週出張行ったときのお土産の焼き菓子です!」

「お土産はありがたいけど、ここ男子トイレ」

「ふふ、神様の気配を追ってきたら坂口さんだったんですけど……まさか、坂口さんも『神憑き』になっちゃったんですね」

井織ちゃんは、いつもの柔らかい接客スマイルを一切崩さないまま、冷ややかな声でそう呟いた。

その瞬間、井織ちゃんの背後から、ぬるりと湿った巨大な影が立ち上った。濡れた長い髪で顔を覆い、無数の腕をくねらせる不気味な水の神――『濁流の神』だ。

神憑き同士だからか、彼女の背後に憑く神の姿がはっきり見えた。間違いなく、アプリの示すターゲットだった。

井織ちゃんがペコリと丁寧に頭を下げた、その瞬間。

ゴオオオオオッ…………!!!!!

男子トイレの洗面所から、不気味な重低音が響いた。

次の瞬間、空間そのものが濡れた雑巾みたいに絞り上げられる感覚と共に、黒く濁った超高圧の水柱が爆発的に逆流した。

「ぐっ……!?」

叫ぶ隙すらない。

狭いトイレ内に凝縮されたのは、単なる水じゃなかった。水深数千メートルの深海に叩き落とされたかのような、容赦のない、桁違いの質量と水圧。

骨が粉々に砕ける嫌な音が頭の中で響き、呼吸をする暇もなく視界が血の赤と濁流の黒に染まった。

……あーあ。

首チョンパの次は、トイレの濁流でペチャンコかよ。

せっかくもらったお土産も、どこかへ流されちまったな。

視界が真っ暗になり、俺の意識はすうっと上空へ浮き上がっていった。

くそが。トイレで死ぬとか、どんな嫌がらせだよ。

天井付近から下を見おろすと、男子トイレの床は原型を留めていなかった。抉り取られたコンクリートのクレーターの中で、井織ちゃんは冷徹な目で念入りに水圧を叩き込み続けている。

「いや、死体損壊のレベル超えてないか……? あんなに普段礼儀正しくて優しい子が、なんでこんな……」

俺が本気でドン引きしながら呟くと、隣で宙に浮いていたヨモヒラが、呆れたように鼻を鳴らした。

「ほら、前に言ったでしょ。神様に選ばれる神憑きなんて、心が透き通るくらい澄んでる聖人か、逆にヘドロみたいに狂って汚れてる奴のどっちか極端な人間しかいないって」

「……あの子はどっちなんだよ」

「あんな笑顔で人を押し潰せるんだから、当然『後者』に決まってるでしょ。あの小娘、見た目以上に中身がどす黒く汚れてるよ〜」

そう言ってヨモヒラは、不快そうに肩をすくめた。

井織ちゃんの背後に漂う、底知れない気配をまとった水の神も、ヨモヒラの視線に気づいたのか、警戒するように無数の腕を狂おしく蠢かせている。

「リセットされるのは前に聞いたから知ってるが、実際に目の前の惨状を見ると会社の損害賠償が恐ろしいんだが……」

「そうそう、前に言ったとおり! 終われば全部きれいに巻き戻るんだから気にしなくていいの!」

「マジか。それなら遠慮なくぶっ壊せるな……!」

「そうだよ! 早く『リザレクション』して吹き飛ばしちゃってよ!」

「言われなくてもやってやるよ……!」

俺は宙に浮いたまま、水浸しのクレーターで井織ちゃんの真背後――ゼロ距離へとすうっと移動した。

生きている人間には見えない、神憑き同士のデッドゾーン。

腹の底に力を込める。……まあ、腹はもうクレーターの底で潰れているが。

「『リザレクション』」

次の瞬間、音すら消し去る一点集中の衝撃波が炸裂した。


ドォンッ……!!!!


音すら置き去りにする超高圧の衝撃波が、井織ちゃんの真背後から無慈悲に炸裂した。

自分が一度受けた『死』のエネルギーをそのまま還元・増幅して叩きつける、俺の唯一にして最強の反撃『リザレクション』。

「……え?」

井織ちゃんが驚愕に目を剥き、振り返る隙すらなかった。

水圧で削り取られたクレーターごと、空間そのものが激しく歪む。背後に控えていた『濁流の神』は悲鳴を上げる暇もなく、衝撃波の直撃を受けて形を保てなくなり、水泡となって弾け飛んだ。

「きゃああっ!?」

神との接続を強制的に断ち切られた井織ちゃんは、そのままコンクリートの壁際まで激しく吹き飛ばされ、ぐったりと床に倒れ伏した。

その瞬間、ポケットの中でスマホが甲高い電子音を鳴らした。

ピコン――。

画面を覗き込むと、禍々しいUIに鮮やかな文字が躍っている。


・TARGET CLEAR

・現在の戦績:2勝0敗

・ランク:最下層クラス(昇格戦解放まであとわずか)


「よしっ! 2勝目! やったねおじさま!」

隣で見ていたヨモヒラが、宙でくるりと一回転して歓声を上げた。井織ちゃんの背中からは、どす黒く渦巻いていた水の気配が綺麗さっぱり消え去っている。どうやら無事に『神』だけが抜け落ちたらしい。

そして次の瞬間、世界が目まぐるしく巻き戻り始めた。

ひび割れた壁が吸い寄せられるように塞がり、抉れ飛んだコンクリートの床が元の綺麗なタイルへと修復されていく。破裂した配管、散らばった血痕、溢れかえっていた濁流の残骸に至るまで、あらゆる破壊がまるで映像を逆再生するように一瞬で消え去っていった。

ほんの数秒後。

そこには、いつも通りの静かで清潔な男子トイレが広がっていた。

「……ふぅ。マジで元通りになるんだな」

俺は自分の身体を見下ろした。血まみれで潰れていたはずの肉体は完璧に復元されており、スーツにもシワひとつ付いていない。水圧の苦しみも嘘みたいに消えていた。

ふと床に目をやると、壁際に丸メガネを掛け直した井織ちゃんが、ぽかんとした顔で座り込んでいた。

「……あれ? 私……なんで男子トイレに……? 坂口さん……?」

「あ、井織ちゃん。大丈夫か? 急に立ちくらみでもしたみたいに倒れたぞ」

「え……? 私、お土産を渡しに……あれ……?」

頭を押さえながら首をかしげる井織ちゃん。どうやら『神』が抜けたことで、戦闘中の記憶やどす黒い殺意もきれいにさっぱり消えているらしい。

「あ、これ! お土産の焼き菓子です! なんだか変な感じになっちゃってすみません……!」

そう言って、いつもの花が咲くような可愛らしい笑顔で丁寧に箱を差し出してくる井織ちゃん。

だが、その無邪気で完璧な営業スマイルを見つめながら、俺の背筋にはスーッと冷たい汗が伝った。

いや、待てよ。神が抜けたからって、ヨモヒラが言ってた『本性』まで消えたわけじゃないんだよな。

さっきまで、この愛くるしい笑顔のまま、一切の躊躇なく俺を濁流でペチャンコにして念入りに踏み潰していたのだ。

普段はあんなに気配り上手で社内でも人気の癒やし系女子が、その皮一枚下には「人を笑顔で殺せるほどのどす黒い狂気」を秘めている。

人の内面ほど恐ろしいものはない。もう二度と、彼女から差し出される出張土産を素直な気持ちで受け取れそうにないな……と、俺は密かに腹の底で戦慄していた。

「あ、ありがとう。給湯室でみんなでいただくよ」

「はいっ! それでは失礼します〜!」

深々と頭を下げ、どこまでも愛想よく爽やかに男子トイレを出ていく井織ちゃんの背中を見送り、俺は深く重い溜息をついた。

「……ふぅ。命がいくつあっても足りねえな、この街」

「ちょっとおじさま! 一瞬で一殺した余韻とかないの!? もっと『俺の力……凄すぎる……!』みたいなリアクションしてよ!」

「あるわけねえだろ。俺はこれから午後の会議の資料を作らなきゃいけないんだよ」

ヨモヒラの理不尽なツッコミを適当にいなしながら、俺は洗面所で手洗いを済ませ、整腸剤を一口飲み込んだ。

社畜の日常は、神様の殴り合いごときに邪魔されてたまるか。

俺はハンカチで手を拭くと、午後のサビ残に向かって、静かに男子トイレのドアを開けたのだった。


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