第1話:サビ残帰りの夜道に首チョンパ
「――以上、陸上界に突如現れた新星、弱冠17歳の女子高生が見せた異次元の記録更新は、いまや科学的・医学的なアプローチすら置き去りにして世界中で議論を呼んでいます」
夜11時過ぎ。
駅前のロータリーに設置された大型街頭ビジョンが、放映終了間際の眩しい光と共に、夜のニュース番組を垂れ流していた。
画面の向こうでは、満面の笑顔でインタビューに応える女子高生の姿。
続いて画面が切り替わり、専門家と名乗る医師やスポーツ科学者たちが「ドーピング検査は完全にクリーン」「それどころか筋肉のつき方や骨格は、どこにでもいる普通の高校生と何ら変わりない」と、揃って首をひねる映像が映し出される。
そういえば先週は、「1か月間、一度も目を閉じずに一睡もせず過ごしている少年」なんてのがテレビで密着取材されていた。
医学でも科学でも解明できない、特定分野に異常なまでに特化した天才少年少女たち。
SNSやニュースは連日、彼らの存在を『人類の進化』だの『現代の奇跡』だのと囃し立て、お祭り騒ぎを続けている。
「……ハッ。奇跡だの天才だの、お目出度いことで」
俺は手に持った缶コーヒーのプルタブを指で弾きながら、吐き捨てるように低く呟いた。
30代半ば。俺の名前は坂口仁。しがない中小企業の平社員だ。
今夜もクソ上司が犯したミスの尻拭いという名の無償残業を終えて終電で帰る途中である。
靴底のすり減った革靴が、固いアスファルトを力なく叩く。
世間がどれだけ奇跡に沸こうが、どこかの高校生が世界記録を塗り替えようが、明日の朝8時半にはタイムカードを押さなきゃいけない俺の泥のような日常には、1ミリの恩恵もありやしない。
むしろ、画面の向こうで無邪気に希望を振りまく若い奴らを見ていると、胸の奥から黒い不快感が込み上げてくる。
全員、まとめて破滅すればいいのに。
そんな思考を冷めた心で噛み締めながら、俺は24時間営業の店舗が並ぶ大通り沿いへと歩みを進めていた。
◇
通り沿いの人通りは疎らで、深夜独特の湿った静けさが広がっている。缶コーヒーを最後の一口まで飲み干し、ゴミ箱に放り投げようとした、その時だった。
「うわあ……すごい。真っ黒」
闇の底から、鈴を転がすような、あまりにも浮世離れした声が響いた。
びくりと肩を揺らして振り向くと、電柱の影からひょっこり一人の若い女性が姿を現した。
夜風にふわりと揺れる長い髪と薄手のワンピースの裾。暗がりの中でも奇妙な存在感を放つ、星を閉じ込めたような澄んだ瞳。どこかのモデルと言われても納得しそうな容貌だった。肩口まで落ちた白い襟元から、夜の闇に浮くような鎖骨が覗いている。薄い唇の端だけが、やけに艶っぽく持ち上がっていた。だが、その口から飛び出したのは到底正気とは思えない言葉だった。
「ねえ、おじさま。君の心、まるでドブ川みたいにドロドロで腐ってるね! 私みたいな神様には、すっごく心地よさそうな場所だよ」
「……は?」
おじさま? 神様? 何言ってるこいつ。
不審者だ。間違いなくヤバい電波系だ。どこで俺の名前を知ったのかは知らんが、関わったらロクなことにならないと直感がアラートを鳴らす。俺は無視を決め込み、視線を逸らして足早に通り過ぎようとした。
だが、女性はあははと楽しそうに笑いながら、軽い足取りで俺の隣に並んで歩き始めた。
「現代人は神様を信じなくなっちゃったからね。おかげで神様たちの力はみんな横並びのドングリの背比べ。このままだと神様の世界が壊れちゃうから、こうやって人間のカラダを借りて『順位決め』をしてるんだよ。テレビで騒がれてる天才少年少女も、みーんな神様が憑いた子たち」
「……あのさ、お姉さん。俺はサビ残帰りで死ぬほど疲れて」
「でもね、他の神様はピチピチした若い子を選ぶのに、君を器に選ぶなんて物好きだと思わない? こんなに心が死んでるおじさまを見つけるなんてさ」
「褒められてる気がまったくしないんだが?」
女性の口から溢れ出る意味不明な話。
「あ、そろそろ近いよ」
「なにが?」
言葉の意味を脳が理解する前に、大通りの空気が一変した。
肌が泡立つような、生物としての本能が警鐘を鳴らす凶暴な気配が、街灯の影から滲み出てくる。
「――同類かと思ったら、冴えないおっさんかよ」
頭上から、低い嘲笑が降ってきた。
街路樹の横にあるブロック塀の上に、20代前半ほどの男がしゃがみ込んでいた。安っぽいスウェットを着た一見どこにでもいそうな若者だが、その双眸は異様な全能感と攻撃性で爛々とギラついていた。
「知ってるか?この力があれば、俺はこの街の王になれる……! 邪魔なヤツらは片ッ端から刻んでやる!」
男が懐から取り出したのは、ごく普通の折りたたみ式ナイフだった。
だが次の瞬間、男の表情が露骨に引きつり、驚愕と戦慄で凍りついた。
「な、なんだその背中の気配は……!? 不吉で、重苦しくて……気味が悪い!」
男は俺の背後を凝視しながら、がたがたと膝を震わせている。
何が見えてんのか知らんが、本気で怯えているようだ。今夜はとことんついてない。どいつもこいつも頭のネジが飛んだ奴らしかいないじゃないか。関わらないのが正解だと、俺はそっと後ずさりした。
だが、男はその恐怖を振り払うように狂乱の叫びを上げた。
「死ねやぁッ!!」
ヒュッ――!!
「うおッ!?」
必死で後ろに飛び退く。
次の瞬間、俺の目の前のアスファルトにバツンと一筋の奇妙な亀裂が走っていた。な、なんだ今の……!?
「ちッ、外しやがったか!」
男が不機嫌そうに舌打ちをする。
その直後だった。
すぐ横にある24時間営業の家電量販店のショーウィンドウから、禍々しい警報音が漏れ聞こえてきた。ズラリと並んだ展示用テレビの画面が、一斉に真っ赤な緊急速報に切り替わる。
『【速報】地球の反対側にあたる南米大陸にて、原因不明の巨大な直線状の断層が発生』
へえ、地球の反対側でえらい地震でも起きたのかね。まあ俺の出勤時間が変わるわけでもないし、そこまで興味はない。
海外の惨状を他人事のようにチラ見する俺を余所に、男の姿が掻き消えた。次の瞬間には、もう目の前にいた。避ける余裕など最初からなかった。
スッ――。
二太刀目。
首筋にひんやりとした感触が走り、次の瞬間、俺の視界はぐるりと天地が逆転した。
あ、コレ……俺の首、飛んだわ。
アスファルトに転がる俺の頭部。少し遅れて膝から崩れ落ちる胴体。
首の切断面から勢いよく血が吹き出し、歩道を赤く染めていく。
あまりにもあっけなく、俺の30数年の冴えない人生は幕を閉じた。
「ハッハハハ! 口ほどにもねえ! 人間なら首を刎ねりゃ即死なんだよ!」
血の海を前に、高らかに大笑いする男。
幽体になっても声は聞こえるらしい。
……あーあ。殺されちゃったよ。
でもまあ、これで明日会社に行かなくて済むんだな。サビ残も、上司の嫌味も、全部おさらばだ。
気づけば、俺の体はすうっと上空へ浮き上がっていた。幽体、ってやつか。自分の血まみれの死体を見下ろしても、湧いてくるのは安堵だけだった。このまま光の差す方へ進めば、成仏とやらに辿り着くのだろうか。さらば、クソみたいな俺の日常。
そう思って意識を遠のかせようとした、その時だった。
ガシッ!!!!
「ちょっと待ったぁぁぁッ!!」
「ぐえっ!?」
成仏しかけた俺の襟首を、猛烈な力で誰かが掴んで引き戻した。
驚いて振り返ると、そこにはふわふわと宙に浮いた例の変な女が、涙目になりながら俺をがっちりホールドしていた。
「勝手に成仏しないでよおじさま! 困るの! やっと見つけた最高の器なんだから!」
「……離せよお姉さん。俺はもう死んだんだよ。やっと会社も休めるんだ」
「休ませないよ! ねぇおじさま、私と契約して!」
女は真面目な顔になり、俺の肩を両手で掴んで距離を詰めてきた。
吐息がかかる距離まで顔を寄せられる。甘い香りがした気がしたが、幽体に鼻があるのかは知らない。
「私はヨモヒラ。今から君に宿る『復活の神様』だよ! 私を神様の序列で『一番』にして! そうしてくれたら、おじさまの望むもの、なーんでも叶えてあげるから!」
「何でも……?」
「そう、何でも! 札束の山でも、遊んで暮らせる遊休地でも、何だって!」
「……じゃあ、二度と残業しなくていい、平和で静かな生活をくれ」
「ええめっちゃ地味! でも全然オッケー!交渉成立!!」
ヨモヒラがニカッと悪戯っぽく笑った瞬間、俺の魂の奥底に、どろりと熱く重い何かが流れ込んできた。
『いい、おじさま? 死んで魂になった状態で、蘇りたい場所まで移動して――「リザレクション」って唱えるの!』
脳内に直接、ヨモヒラの楽しげな声が響き渡る。
同時に、自分の体がどうやって再構築されるかという狂った映像が、頭の中に叩き込まれた。
「ぐっ……!? なんだ、頭に直接変な映像が……!?」
『そうすればその地点で完全復活! ついでに蘇る瞬間のエネルギーで、周囲の物を全部吹き飛ばす衝撃波のおまけ付き♡』
衝撃波ってお前……少年漫画の見すぎかよ!?
訳が分からない。死んで魂だけになってるだけでも狂いそうなのに、復活? 衝撃波? 夢か幻覚でも見てるのか?
『普通は1回死んだら終わりだけど、君は何回でも死ねるからね。そうじゃないと、この序列戦は生き残れないよ』
死ぬことすら許されずにまた戦わされるのかよ。……クソが。
だが、目の前では男が俺の死体を蹴飛ばしながら高笑いしている。ふざけやがって。
『さあおじさま、お返しタイムだよ! アイツの背後に回って、あれ唱えて!』
……ハッ。もう一回死んでんだ、どうにでもなれ。
半信半疑のまま、すうっと移動した。
俺の死体を見下ろしている男の、真背後――ゼロ距離へ。
俺は宙に浮く自称神様から教わった言葉を、男の耳元で冷ややかに呟いた。
「『リザレクション』」
ドォン!!!!
言葉を口にした瞬間、男の真後ろで爆発的な衝撃が炸裂し、凄まじい煙が噴き上がった。
背後からゼロ距離で直撃を受けた男は、悲鳴を上げる暇すらない。
「ぎゃあああああああっ!?」
頑丈そうなスウェット男の身体が、紙くずみたいに遥か先のブロック塀まで吹き飛ばされて激突した。
白い煙の中で、足元に確かな地面の感触が戻る。
首に手をやると、ちゃんと繋がっていた。傷一つない。スーツまで元通りだ。
俺は煙をかき分けて歩き出した。
「……仕事終わりに疲れさせやがって、このクソガキ」
俺は無表情のまま、泡を吹いて転がる男を見下ろした。
その男の背後から、刃物のような鋭い気配がふっと抜け出て、夜空へ消えていくのが見えた。
「……うん、ちゃんと繋がってる」
ふわりと近づいてきたヨモヒラの指先が、俺の首筋をつうっと撫でた。ついさっき刎ねられた場所だ。ぞくりとしたのは色気のせいか、それとも死の記憶のせいか。こんな美人に迫られておきながら、俺の頭に浮かぶのは明日の朝8時半のタイムカードのことだけだった。俺の心はつくづく死んでいる。
「ふふっ、これでまず1勝! あの子、あんなに情けない倒れ方しちゃったから、神様に見限られて出ていっちゃったね」
「……見限られると、どうなるんだ?」
「神様が去ると怪我も元通り治って、変な事件を起こした記憶も全部消えちゃうの!もちろん戦いで生まれた被害とかも元通り! ほら、あのテレビ見て。速報で出てた南米の断層の件もなくなってる!だから後始末の心配もゼロ! ね、便利でしょ?」
「便利とかそういう問題じゃねえだろ……」
「さてと! それじゃあおじさま、さっそくおうちに行こっか♡」
ヨモヒラは俺の耳元にそっと唇を寄せ、くすりと妖しく笑った。
「ねえ、おじさま。今夜は、寝かせてあげないかも」
「……いや、寝かせてくれ。明日も普通に仕事なんだよ」
「冷たッ!? 命の恩人に対する態度じゃないよそれ!」
その時、ポケットの中で不意にスマホが短く震えた。
見慣れない非通知の着信画面。そこには真っ赤な文字で、ただ一言だけメッセージが表示されていた。
『【神界序列戦】参加を確認。次のターゲットを捕捉しました』
画面から目を上げると、街頭の闇の奥から、無数の「異質な気配」がこちらを伺うように揺らめいていた。
こうして、俺の「二度と残業しなくていい平和な生活」とはほど遠い、最悪で最高なサバイバル生活が幕を開けたのだった。




