名前を呼ぶ通信
避難船『暁環』の客室で、岡倉絵里は娘に靴紐を結ばせていた。
まだ九歳の娘は、結び目を二度ほどいてやり直した。時間は十分にあった。出航時刻が遅れ、乗客たちは窓の外の補給艇を数えるしかなかったからだ。
「お父さんの船、いつ来るの」
「連絡が着いたら迎えに行く約束よ」
絵里はそう答えた。夫の乗る調査艦から最後の通信が届いたのは十一日前。『予定通り移動する』という短い文字だけだった。
客室の共用端末には、家族照会の番号札が山ほど並ぶ。人々は一日に何度も同じ名前を検索した。新しい結果が出ないことを承知で。
夜、船内放送が名前を読み上げた。医療優先の移動対象者、忘れ物の届け出、別の客室へ移った親子。絵里は毎回顔を上げた。
娘も同じだった。父親の名がないと分かると、また靴紐を結ぶ練習を始める。
隣の席の老人が、余った糸で小さな星形を編んで渡してくれた。
「結べるようになったら、これを鞄につけなさい」
娘は礼を言って笑った。老人は故郷の話をしなかった。絵里も聞かなかった。
出航前、絵里は娘を連れて船内の伝言受付へ行った。父親の調査艦宛てに新しい連絡先を残すためだ。受付係は、宛先に通信が届かない場合でも記録を保持すると説明した。娘は紙の端に小さな星を描いた。絵里はそれを消さず、封筒へ入れた。文字だけより、父親がすぐ娘のものだと分かる気がした。
娘が眠ってから、絵里は返事のない通信欄を開いた。送信済みの印だけが静かに並んでいた。
出航のため客室灯が落とされたとき、娘の靴はきれいな二重結びになっていた。絵里はその小さな完成を褒めた。外の星がどれほど遠くても、今ここで教えられることはまだあった。




