旋律の下の退避
避難船『暁環』でも、同じ音楽が聞こえていた。
稲城結衣は最初、客室の誰かが昔の録音を再生したのだと思った。しかし主配電盤の音声出力を切っても旋律は途切れない。通路にいた乗客が、一人また一人と立ち止まる。
子どもたちは窓へ走った。結衣は通路灯を落とさせ、転倒を防ぐため壁際に立つよう放送した。窓の外では、見慣れない真珠色の光が遠くで列をなしている。護衛艦『芦月』からは接近禁止の指示が来た。
「助けに来てくれたんですか」
副航海士が尋ねた。結衣は首を振った。
「何も分からない。船を進めて」
前方の航路には、先ほどまで赤い観測点が複数あった。いまは赤い反応も、真珠色の反応も、計器上で距離を定められない。近くにいるのか遠くにいるのか、それさえ不確かだ。
食堂では老人が楽曲名を探していた。失われた地球の古い音楽かもしれないと話す者もいる。誰にも確かめる手段はなかった。
結衣は床を伝わる機関の振動を意識した。推進器は正常に動いている。避難船ができることは、まだ航海を続けることだけだ。
客室の清掃員は、通路に落ちた荷物を拾い集めていた。窓を見ようとして離席した人々が、慌てて手放したものだ。薬の入った袋もあれば、家族写真もある。結衣は拾得物を運航台帳へ登録させ、すぐ返せる品だけをその場で渡した。見慣れない光景のさなかでも、足元の小さな事故を減らす仕事は止まらなかった。
結衣は乗務員へ、窓の前で座り込んだ人の動線を確保するよう伝えた。緊急時に担架を運ぶ道だけは残しておかなければならない。
音楽が静かに重なり、低い弦の響きが客室を満たす。結衣は航路から目を離さなかった。美しいものが現れたことと、安全になったことは、別の話だった。




