返せない部屋
霧生四の仮設居住棟で、堀江絹は一つの部屋を空けるよう求められた。冷域九からの次便を受け入れるため、医療設備に近い区画が必要だという。そこには、ようやく落ち着き始めた家族が住んでいた。
「また引っ越すんですか」
父親が低い声で聞いた。絹は命令書をそのまま読み上げなかった。別の場所へ移る理由と、拒否した場合の調整方法を説明した。
家族はすぐには頷かなかった。娘は壁に描いた小さな絵を消したくないと言った。絹は職員へ相談し、壁板の一部を交換できないか尋ねた。傷んだ板なら取り外せるという。
移転先は少し狭くなる。それでも窓と給湯がある。父親は図面を見て、娘の机が置けるかを確かめた。
翌日、引っ越しが始まった。絹は娘と一緒に壁板を運ぶ。絵には、霧生四の給水塔と、まだ見たことのない赤い星が描かれていた。
机を置く場所が決まると、娘は移してきた絵のそばへ鉛筆を並べた。絹はその背中を見てから扉を閉めた。新しい部屋の暮らしが始まった。
部屋を替えた家族は、新しい通路から給水所までの道を覚えなければならなかった。絹は父親へ図を渡し、娘には学校へ通う経路を一緒に歩いて見せた。曲がり角には大きな文字の案内があるが、小さな子には読みにくい。絹は管理者へ相談し、絵の印を付け足してもらった。引っ越しは鍵を渡して終わるものではない。人がそこで暮らし始められるようにして、ようやく落ち着く。
部屋を明け渡した家族へ、絹は新しい鍵を渡した。立派な感謝の言葉では足りないことを知っている。ただ少なくとも、次の場所でも同じ絵を飾れるようにしたかった。




