1-2
「ルクシリア? いったいどうしたの!? ああ、ドクター。あの子にいったいなにが……」
呆然と鏡を覗き込む僕の背後で、仮装女性が半泣きで医者に縋りつく。
「奥様、どうか落ち着かれて。外傷はありませんでしたので、一時的な混乱かと存じます。とても恐ろしい思いをされたでしょうから……」
「一時的ってことは、治るんですか!?」
「そ、それはまだ……なんとも……」
「それじゃあ困るのよ! あの子はラヴァリエ公爵家の一人娘なのよ!? こ、こんな……!」
「も、もちろん、最善は尽くしますが……」
思考が混迷を極めてゆく。
仮装女性と医者の声を背中で聞きながら、僕はずるずるとその場にへたり込んだ。
「いったい……なにがどうなってるんだ……」
◇*◇
「……マジか……」
僕は羽ペンを置き、深いため息をついて天井を仰いだ。
「……詰んだー……」
あれから一週間が経っていた。起き上がれるようになってからは、三日。その間、ひたすら頭の中を整理し、注意深く周りを観察して、現状把握に努めた結果――僕は一つの事実に行きついた。
どうやら僕は、乙女ゲームの世界に来てしまったらしい。
そして、とあるキャラクターに転生――あるいは憑依してしまったようだ。
なにを言っているのかわからないと思うが、大丈夫だ、安心してくれ。僕もわからない。それが普通だ。こんなのあっさりと理解できるほうが、あまつさえ受け入れられるほうがおかしいんだ。
とにかく僕は、乙女ゲーム『黎明のアストリア』の悪役令嬢、ルクシリア・ディ・ラヴァリエになってしまった。
ルクシリア・ディ・ラヴァリエ――ラヴァリエ公爵家の娘で、現在十八歳。十歳のころに、王太子――ローレンツ・シュテファン・ジェス・アストリアと婚約しており、将来は王妃となる身だ。
『黎明のアストリア』は、平凡な男爵令嬢のヒロインが社交界でさまざまなイケメンたちと出会い、
恋をすることで、内なる聖なる力が目覚め――そこからの展開は攻略対象によって変わるけれど、だいたい唯一無二の尊い力に目覚め、世界や国を救い、多くの人々に愛されて幸せに暮らすという内容になっている。
その中で、悪役令嬢のルクシリアは、どのルートでも必ず破滅か死を迎える運命だ。
「たしか真理ちゃん情報によると、王太子ルートでは婚約破棄されたうえで公爵家からも勘当され、国境近くの修道院に幽閉されるはず。騎士ルートでは、魔物に襲われて死亡、魔法使いルートでも、クーデターに巻き込まれて騒乱の中で死亡するはず……」
僕はそう呟いて、思い出せるかぎりの設定を書き散らした紙に視線を落とした。
「いやいや、どのルートも悲惨すぎないか!? そりゃ、虐めはよくないことだけども!」
やり直す機会も与えてあげてくれよ! 人間は反省できる生きものだから!
しかもその虐めだって、真理ちゃん曰く、ルクシリア自身は一切してないって話じゃないか。
ヒロインに嫉妬した令嬢たちが『ルクシリアのため』を大義名分として――つまりは言い訳っていうか、そう正当化したっていうか、とにかく全責任をルクシリアに被せつつやっていたらしい。
ルクシリアがしたことといえば、身分関係なく好き勝手に振る舞うヒロインを厳しく叱責し、貴族社会での礼儀と貴族の令嬢としての礼節を守るよう再三に渡って要求した――ぐらいだとか。
ときには衆目のある場で声を荒げることも、パーティー会場から追い出したこともあったけれど、どれもそもそもヒロインが礼儀や礼節を守っていれば起こらなかったことだと聞いている。
「それなのに、これはないよなぁ……」
すべてのツケを一人で払わされるなんて、あんまりにもあんまりだ。
そうは言っても、それがこのゲームにおいての彼女の役割なんだから仕方がないんだけど。
「問題は、その『ルクシリアさま』に僕が宿っちゃったってことだよ……」
正直、三日経った今もいったいなにが起きたのか、起きているのか、まったくと言っていいほど判明していない。わかったことといえば、どうやらこれは夢ではないらしいってことだけだ。
僕は死んだのか、それとも生死の境にいる状態なのか、ただ寝ていたら魂がお出かけしちゃっただけなのか、そのあたりの記憶がまったくなくてわからない。
ルクシリアに宿ったのも、ゲームのキャラクター相手にそんなことがありえるのかわからないけれど、死んだ僕がルクシリアに転生したのか、僕の魂が憑依しただけなのかもわからない。
今、ルクシリアの意識がどうなっているのかもわからないし、今後どうなるのかもわからない。僕は僕の身体に戻れるのか、それとももう戻る身体なんて存在しないのかすら。
とりあえずはっきりしていることは、さっきも言ったけどどうやらこれは夢ではないし、だから待っていても目が覚めることはなく、僕は少なくともしばらくの間は、ルクシリアとしてやっていかなくちゃいけないってことだけだ。
「十八歳の女の子の身体にアラサーの男が入ってるとか……もはや犯罪だろ……」
ルクシリアにとって、これはもはや若くして死か破滅を迎える運命よりもキツいことなんじゃないか?
どうかこの世界の神さまは、僕がルクシリアの身体を離れたとき、彼女に身体を使われていた間の記憶を残さないであげてほしいと切実に思う。
風呂とか着替えについては、そこは公爵令嬢だからお付きの方々がすべてお世話してくれるから、目隠しをして心を無にすることでなんとかやれている。やれているけどさぁ……。
「ゲーム自体はどうやらもうはじまってるっぽいんだけど……」
これからどうすればいいんだろう?
そもそも僕は、現在の状況がほとんどわかってない。なにせゲームは未プレイだから。グッズの監修をするためにいただいた設定資料を読み込んだのと、ゲームとルクシリアさまの大ファンの真理ちゃんの熱の入った萌え語りを聞いただけなんだよね。
もちろんヒロインを虐めることはしないけど、そもそもラヴァリエ公爵令嬢として社交界の花をやること自体、僕には無理だぞ? 繰り返すけど、中身アラサーの男だから。
ご令嬢たちとのマウントの取り合いとか、イケメンたちとの恋の駆け引きとかも、全部無理!
でも、なにもしないでいたらゲームの展開どおりになって一年後には死か破滅を迎えるんだろ?はい、詰んだ! 完全に詰みました!
「……どうするんだよ……」
頭を抱えたそのとき――ノックの音が室内に響く。
返事をすると同時にドアが開き、ワゴンを押したメイドさんが「失礼します」と入ってくる。
「あ……真理ちゃ……マリさ……ええと、マ、マリ……」
彼女はルクシリアの専属メイドらしい。公爵令嬢の専属なら侍女じゃないのかって思ったけど、どうやらこの世界に侍女って概念はないらしい。なんでだろう? 侍女よりメイドのほうがキャラ立ちするからかな? まぁ、わかる。クラシカルなメイド服っていいよね。
「はい、マリですよ~。……まだお加減がよろしくないようですねぇ、お嬢さま」
しどろもどろな僕に、真理ちゃ……ええと、マリが心配そうに眉を下げる。
鮮やかなストロベリーブロンドに琥珀色の大きな瞳の美人さんだ。
僕――水城純也のアシスタントをしてくれていた佐々木真理ちゃんを彷彿とさせる明るさと笑顔。天真爛漫さ。名前も同じ『マリ』だし、ついつい『真理ちゃん』と呼びそうになってしまう。
「ショコラとナッツを用意しました。元気出してくださいね」
日当たりのいい窓辺のテーブルに、ほかほかと湯気が上がるショコラ――ホットチョコレートを置いてくれる。僕は小さく肩をすくめた。
ルクシリアはショコラが好きだったのかな? この三日間、お茶の時間に出てくるのはずっとこれだけど。いや、美味しいよ? 美味しいんだけど……僕には甘すぎるんだよなぁ……。
「あの……さ、よければお茶が飲みたいんだけど……」
用意してもらったものにケチをつけているようで心苦しさを感じながらおずおずと申し出ると、マリが意外そうにパチパチと目を瞬かせ、さらに心配そうに顔を曇らせた。
「お茶……ですか? お嬢さま、やっぱりお加減が悪いんですか?」
「え? なんで?」
「だって、お薬を飲みたいだなんて……」
「あー……」
――なるほど。この世界ではまだお茶を薬として飲んでるのか。
『黎明のアストリア』の世界観は、十九世紀後半あたりのヨーロッパがモデルとなっている。
そうは言っても魔物が存在するような異世界で、科学の代わりに魔法が発達している設定のうえ、ゲームの進行においてノイズになるようなところは調整していたりするから、その時代にあるべきものがなかったり、逆にあるはずのないものがあったり――そのあたりはわりとゴチャゴチャだ。
たとえば、光の魔法があるから、ボタン一つで部屋の照明をつけられるし、水の魔法があるから、蛇口をひねるだけで水が出せる。お風呂は自動給湯こそ、トイレはウォシュレットこそないものの、どちらもほとんど僕の知っているそれと変わらない。
だけど、その時代にはすでにあったはずの鉄道や初期の自動車なんかはない。きっと、それらは近代的過ぎて、世界観に合わないって判断されたんだろうな。
僕は小さく肩をすくめた。
たしかにヨーロッパでは、お茶が薬として飲まれていた歴史がある。だけど、十八世紀初頭には貴族たちの間で嗜好品として飲まれるようになってきていたし、アフタヌーンティーも十九世紀の半ばにはじまったって話だから、すでにあると思ったんだけどなぁ……そうかぁ~……。
「とくに調子は悪くないよ。ただ、ええと……たまには気分を変えたいって言うか……」




